731部隊 ノモンハンの戦場にて
 ハルハ河チフス菌投入事件(資料)


※本コンテンツは、1939年ノモンハン事件時に生じた「ハルハ河チフス菌投入事件」について、関連資料をまとめたものです。(厳密には「ハルハ河の支流ホルステイン川)

 この事件については、1949年ハバロフスク軍事裁判での言及はありましたが、それ以上の具体的資料はなく、従来は「いずれも伝聞や風説の範囲を出な」(秦郁彦、後述)い、と見られていました。

 しかし1989年、菌を撒いた当事者ら3名の「決定的証言」(秦郁彦、同)が出るに至り(朝日新聞記事、後述)、今日では研究者の間で「事実」と認識されています。





 ハバロフスク軍事裁判


被告西俊英の尋問調書

 私は又、日本軍が第七三一部隊部隊によって製造された細菌戦用兵器を実地に使用した二つの事実を知って居ます。

 一、一九三九年ハルハ河附近にて日本軍のソ・蒙軍に対する戦闘が行われた時細菌兵器が使用され、戦地のハルハ河に腸チブス菌、パラチブス菌、赤痢菌が投入されました

 二、一九四〇年五月−六月中国中部の寧波地区に於て、第七三一部隊派遣隊は石井中将の指導の下に、ペスト蚤撒布の方法により中国軍に対しペスト菌を使用しました。

 私は此の事実をば、私自身が教育部の金庫内に発見した書類、即ち殺人細菌使用の任務を帯びて派遣隊に参加した決死隊員の誓約書によって知ったのであります。夫れ以外に私は、戦地の細菌使用現場に於て撮影された映画、即ち使用された細菌戦用兵器の効果を証明する映画を閲覧しました。(P86)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 細菌兵器の使用に関して未だ貴方の知っていることがあるか?

(答) ハルハ川方面事件の際、石井部隊が細菌兵器を実用したことを知っています。(P352)

 一九四四年七月、私は孫呉の支部から平房駅の第七三一部隊教育部長に転任せしめられました。私は前任者サノダ中佐から事務を引継ぎました。同日、サノダ中佐は日本に向けて出発しました。私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、即ち、ハルハ河畔の事件で、細菌兵器を使用したことについての書類を発見しました。

 其処には当時の写真の原版、此の作戦に参加した決死隊員の名簿、碇少佐の命令がありました。決死隊は将校が二人、下士官、兵約二〇名から成っていましたが、此の名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。

(問) 第一番目は誰の署名があったか?

(答) 隊長碇の署名です。ついで碇の一連の詳細な命令、即ち如何に自動車に分乗し、如何にガソリン瓶を利用するか等、更に如何に帰還するかについての指示が若干有りました。

 之等二つの文書から二〇人乃至三〇人から成る決死隊が河 ― 私はハルハ河と思いますが ― を汚染したことが明らかになりました。

 翌日私は、之等の書類を碇少佐に手渡しました。私が之等の書類を碇に手渡した時、さて此の結果がどうであったかと興味を持ちました。碇は黙ったまま書類を引取りました。(P353)

 此の作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、その結果については、私は何も知りません。(P354)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  




 新聞記事


朝日新聞 1989年8月24日(木)

ノモンハン事件に「細菌戦」の証言 石井部隊の関係者3人

 水源の川へチフス菌 夜道を走り、次々20缶も

 生水飲まぬソ連軍 効き目はなかった?

(リード)

 「ノモンハン事件の戦場の川に、私たちの手で大量の腸チフス菌を流しました」。昭和十四年に旧満州とモンゴルの国境で日満軍とソ連軍が戦ったノモンハン事件から五十年―― 。関東軍直属の細菌戦部隊だった石井部隊(別称七三一部隊)が、当時、病原菌をばらまいた事実を、このほど三人の関係者が証言した。ノモンハン事件は、日本軍の細菌戦の初舞台だった。(石川 巌 記者

(本文)

 ノモンハン事件では、水不足の砂漠の戦場で、満州・ハルビン市外に本拠があった石井部隊の給水班が活躍した。部隊長の石井四郎大佐(後に中将)も、しばしば前線へ姿を現した。

 細菌戦の研究部門からは、昆虫班が前線へ派遣されていた。昆虫や小動物を採集して、防疫対策や病原菌の散布方法を調査するためだった。

 今回、腸チフス菌の投入を初めて証言したのは、千葉県野栄(のさか)町、元保守系町議の千葉和雄さん(六八)、佐賀県唐津市、無職鶴田兼敏さん(六八)、静岡県熱海市、無職石橋直方さん(六九)の三人だ。

 いずれも、当時は石井部隊が細菌戦の技術者を養成するために編成していた少年隊に所属する未成年軍属だった。千葉さんと鶴田さんは昆虫班の班員として前線へ来ていた。

 三人の話を総合すると、石井部隊が腸チフス菌の投入に踏み切ったのは、ソ連軍の大攻勢が始まり、日満軍の敗北が決定的になった八月下旬。関東軍から石井部隊に参謀として配属されていた山本吉郎中佐(当時)が指揮をとった。

 自動車の運転ができたため山本中佐と行動を共にした千葉さんの話によると、「日本軍の陣地に近いホルステン川の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる」というのが山本中佐の計画だった。

 前線に来た山本中佐とトラックに乗って、投入地点を調査して回った。腸チフス菌を入れた一八汎りの石油缶が、ハルビンから石井部隊の軽爆撃機で前線へ運ばれてきた。

 前線にいた昆虫班の班員を集めて特殊作業班が編成され、深夜、二台のトラックに分乗して三回にわたって投入地点へ出かけた。一、二回目はソ連軍の砲撃が激しかったり、トラックが湿地にはまりこんだりして失敗した。ようやく投入に成功したのは三回目だった。

 二回目の帰り道に、戦場から敗走してくる途中の二十三師団長・小松原中将の一行と出会い、トラックに収容した。これが八月三十一日の朝のことなので、三回目はおそらく九月初めではなかったか、という。

 このときもトラックのライトを消して、ホルステン川上流の投入地点近くまで行った。車で一、二時間の場所だった。積んで行った腸チフス菌入りの石油缶は二十二、三個。山本中佐以下、十四、五人だった。

 荒縄でからげた石油缶を左右の手にさげて湿地を渡り、川岸まで行った。対岸でソ連軍が打ち上げる信号弾を仰ぎながら、ふたをあけて、腸チフス菌を培養したカンテンを川水にぶちまけた。ゼリー状の感じのものだったという。証拠を残さぬように、石油缶は放置しないで持ち帰った。

 軍手をした程度で、特に防疫対策はとらなかった。帰ってから石灰酸水で消毒しただけだったという。

 この投入作業に加わった鶴田さんの証言もほぼ同じだ。彼の場合は、投入した病原菌がチフス菌とは知らなかった。その後、特殊作業班の一人がハイラルの病院で腸チフスで死亡したので、それと思い当たった、という。

 石橋さんは、当時、ハルビン市外の石井部隊にいて、生体実験用の捕虜の世話をしていたが、腸チフス菌の培養作業の応援に駆り出された。

 ノモンハン事件が始まって以来、石井部隊は腸チフス菌の生産におおわらわだった。培養基のカンテンや、培養缶を運ぶ仕事を手伝わされた。

 後になって千葉さんは、「あのときの腸チフス菌投入作戦は成功したのか」とある人に質問した。「なんの効果もなかったよ。ソ連の将兵は生水は飲まないからさ」という返事に拍子抜けしたという。

 山本吉郎中佐(故人)と、戦後、交際があった三木秀雄・防衛大教授(歴史学)も、「ノモンハン事件の細菌戦の功績で金鵄(きんし)勲章をもらったという話を、生前、本人から聞いた」と話している。


軍事裁判にも記録

 「消えた細菌戦部隊」の著書がある常石敬一・神奈川大教授の話

 ノモンハン事件で石井部隊が細菌戦をやったことは、昭和二十四年にハバロフスクで行われたソ連の軍事裁判でも記録による証言がある。

 しかし、腸チフス菌は川に投入しても、一辰睥れれば効き目がなくなる。それは、当然、石井部隊も知っていたはずだ。本気で細菌戦をやったというよりは、訓練を兼ねた宣伝だったような感じもする。

 ノモンハン事件が日本軍が細菌をばらまいた最初の戦争だったことは間違いない。翌年から石井部隊は中国戦線で細菌戦をやっているが、もっと効力の強いコレラ菌やペスト菌を使った。中国側より日本軍の方が感染者が多かった。太平洋戦争でも末期に実施しかけたが、未遂に終わっている。

(三面、5段記事)





 関係者の証言


 
鶴田兼敏『昆虫班でのノミの増殖』

ノモンハンでの細菌撒布

 昭和一四年(一九三九年)五月に、ノモンハン事件が起こりました。八月になって、私はノモンハンの防疫給水班として従軍を命じられたのです。防疫給水班の仕事は、石井式濾水機という素晴らしい性能の機械を使って、どんな泥水でもきれいな水にすることでした。

 病原菌の中で一番小さいものを霊菌といいますが、腸管系の伝染病、腸チフス菌、コレラ菌、赤痢菌などは、霊菌よりも大きいわけです。濾過管の中で水圧をかけて水を出しますとそういう菌は濾過され、ゴミも取れるわけです。水道水よりもきれいな水になるのです。その水を、第一線の兵隊に給水するのが、野戦防疫給水班の役目でした。

 ところが、私たちは、そういった仕事は一度もしたことがありませんでした。時期が悪かったのですが、行ってまもなくソ連軍の総攻撃が始まりました。それはもう凄いものでした。とにかくあっちこっちの陣地を移り変わりながら、命からがら逃げてばかりだったわけです。ですから、防疫給水の仕事をしている状況ではなかったわけです。

 敵の総攻撃が一段落した八月末から停戦協定が結ばれましたが、その頃のことでした。私たち少年隊は、成年の軍属といっしょにハルハ河の支流のホルステイン川の北岸で露営していたのですが、夜中に、突然集合がかかったのです。そして「トラックに乗れ」と命令されました。真っ暗な闇の中を運転手の見事な運転で走り、ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。(P65-P66)

 「今からある容器を下ろすから、蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。私たちは、言われたままに作業をしました。そうしている間にも、対岸とおぼしきところから、赤や青の信号弾がポーン、ポーン、と上がっていました。

 基地に帰ってくると、石炭酸水という消毒薬を頭から足の先までかけられました。「何かやばいことをやったのかなあ。いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました。何を撒いたのかはわかりませんでしたが、余計なことは聞いちゃいかんということになっていたので、聞くこともできませんでした。

 そういう作戦は三回ありましたが、実行したのは一回だけです。一回目は時間が合わなくて、二回目はトラックがぬかるみにはまり込んで動けなくなり、中止になりました

 そうしているうちに、九月一六日の停戦になったわけです。部隊に帰ってきたのは、二〇日ぐらいでした。ところがいっしょに作業した私たちの内務班長だった衛生軍曹が、ちっとも帰ってきません。どうしたのだろうと思っていたのですが、そのうちハイラル陸軍病院の伝染病棟で、チフスで死んだということがわかりました。

 それで、あの時に河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです。チフス菌を撒くのが、私たちの主目的だったわけですね。防疫給水班というのは名前だけで、私たちは謀略的な作戦に従事させられていたのです。

 とにかく私たちは軍属であり、しかも未成年でしたから、何も知らされませんでした。軍隊には妙な身分差がありまして、一番偉いのは兵隊。次が軍馬、そして軍犬、軍鳩(いわゆる伝書鳩)、それから軍属になる。軍隊の中で軍属の地位というのは、動物以下だったわけです。

 その中でも少年隊員というのはヒラもいいとこなんです。ですから、肝心なことは何も知らされないでやらされる。後で気がついてびっくりするわけですよ。もしもあの時、班長がいっしょに帰っていたら、私たちは何を撒いたのかもわからないままでした。(P67-P68)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


石橋直方証言

 それからその前年の昭和一四年、ノモンハンでソ連軍と戦ったとき、細菌をまいたことがありました。私の友人でまだ生きている人が二人いますが、この人たちはそれにかかわっています。彼らの話ではハルハ河ではなく、その支流にまいたということです。腸チフス菌をまいたそうです。

 私は平房に残っていたのですが、幹部から下士官まで多数がノモンハンに行ったので、留守隊の業務として細菌生産に参加したことがあります。そこでつくったのは腸チフス菌でした。

 常石先生の話では、この菌は河に流せばすぐ伝染力がなくなってしまうということですが、だからソ連兵が感染したというのは聞かなかったです。石井隊長の日本人的な発想で大きな誤算だったんじゃないですか。われわれ日本人は生ものを食べ、生水を飲みますが、中国人もロシア人も沸騰したものでないと飲まないですから。(P243)

(ハル・ゴールド著『証言・731部隊の真相』所収)




 主な概説書の記述


常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

(1989年6月 増補供

供\舒翩隊による細菌戦攻撃

 科学者と戦争を主なテーマとする本書では、石井部隊による細菌戦の実行についてはあまり述べていない。一九三九年のノモンハン事件での実行(本文六四−六六ページ) そして一九四〇−四二年にかけての中国に対する攻撃(一八七−一九五ページ)を、主にハバロフスクの裁判記録に基づいて述べているだけである。

 その後、証言や新しい資料の発掘によって、それら攻撃のもう少し詳しい内容や、その信憑性が明らかとなった。さらには中国やソ連に対する細菌戦攻撃だけにとどまらず、アメリカ軍に対してもその使用が試みられていたこともほぼ確実であることが分かった。これらの攻撃についてここでまとめておきたい。

 ノモンハンでの細菌の使用については、その攻撃に参加したという人の証言が得られた。証言をしてくださったのは、九州在住で、庸人(軍属)として石井部隊に三年ほど勤務した人である。ノモンハンには昆虫班員として参加した。(P258-P259)

 その証言によればノモンハンでの細菌の使用は一回ではなかったようだ。ハバロフスクの裁判記録では、攻撃部隊は誓約書を書き、決死隊として出かけたことになっている。証言者らの攻撃の時はそんなものものしいものではなかったという。

 八月下旬のある夜、集合がかけられ、トラックに乗せられ現場であるハルハ河の支流、ホルステイン河に出かけたという。トラックは全部で三台で、そのうち二台に兵隊約一〇人が乗り、残りの一台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。培養液はハルビンの石井部隊で培養し、ノモンハンまで運搬した腸チフス菌であったろうという。

 トラックが故障したり、ぬかるみに入り込んだりしてやっと三日目に目的地に到着した。しかしいま思えば、よくあの真っ暗な道を行って帰ってくることができたと恐ろしくなるという。基地に戻ると消毒班の手で頭から石炭酸の液をかけられた。濃度が高すぎ、多くの人が火傷をしてしまった。

 攻撃現場では、トラックから培養液の入ったガソリン缶を下ろし、岸に運びそして中身を川に流した。その作業の途中で、証言者の内務班の班長だった軍曹が培養液を浴びてしまった。彼は帰還後すぐに、ハイラルの陸軍病院に入院したが、間もなく腸チフスで死亡したという知らせが部隊に届けられた。

 証言者はこのことから、自分たちがホルステイン河にまいたのは腸チフス菌であったろうと、考えている。(P259)



常石敬一『七三一部隊』

 ノモンハンでの生物戦は、石井たちにとって最初の経験だった。

 ハバロフスク裁判判決準備書面によれば、一九四四年七月に七三一部隊教育部長に就任した西俊英は、前任の園田太郎中佐から引き継いだ書類に基づいて、ノモンハンへの派遣を次のように述べている。

「碇中佐指揮のもとに二十〜三十名の決死隊が差し出されたること……名簿は四つの欄に分れそれは階級、姓、名、第四番日の欄は血判の為の欄」で、血判があった。血判までしているのだから、決死の覚悟で出撃したのだろう。

 しかしまた、別の証言もある。七三一部隊に、軍属の中でランクが一番下の傭人として三年間勤務した鶴田兼敏は、自らの経験としてノモンハンでの生物戦の実行について次のように筆者に語ってくれた。(P138-P139)

八月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。別に血判などはつかなかった。トラックは三台で、二台にそれぞれ兵隊が十人ほど乗り、残りの一台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ」

 現場でトラックから細菌の培養液が入ったガソリン缶を下ろし、中身を河に流した。その作業中に鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を頭から浴びてしまった。内務班というのは軍隊内で一緒に生活するグループのことで、兵隊クラスは必ずいずれかの班に配属される。軍曹はすぐにハイラルの陸軍病院に入れられたが、腸チフスで死亡した。それで鶴田は、自分たちがまいたのは腸チフス菌だったのだろう、と考えた。

 しかし前述の田村は、それ以外にコレラ菌なども培養したと証言している。幾種類かの細菌が使用されたのだろう。

 この時の生物戦の実行は、具体的な成果を求めた作戦というようなものではなく、実行可能性を見る試行といったレベルのものだった。病原体の主力となった腸チフス菌は、水の中では急速に感染力を失うものであることは、石井機関の人間は知っていた。その意味ではノモンハンでの生物兵器攻撃は、部隊員の生物戦に対するためらいをなくす、さらにはその実行上のノウハウをつかませるための試行だった可能性が高い。(P139-P140)

 鶴田は軍曹の死で、部隊にいることが怖くなり、まもなく部隊を離れた。辞める直前、鶴田は石井四郎にノミを体に押し付けられるという嫌がらせをされたという。

 このノモンハン事件によって七三一部隊は、表向きは浄水の供給の功で一九三九年十月一日付で、第二十三師団壊滅後編成された第六軍司令官の荻州立兵から感状を与えられた。しかしこの感状は実際には、生物兵器を実戦で使用する可能性を開いたことに対して与えられたものと思われる。(P140)



 
秦郁彦『日本の細菌戦』(上)

ホルステン川に流したチフス菌

 一九八九(平成元)年八月二十四日付の朝日新聞「ノモンハン事件の戦場の川に、私たちの手で大量の腸チフス菌を流しました」と告白した三人の関係者の証言を掲載した。証言者は一九三八年末、石井部隊に第一期少年隊員として入った千葉和雄、鶴田兼敏、石橋直方の三人である。これまでも、ノモンハン戦での細菌使用を推測させる情報は多かったが、いずれも伝聞や風説の範囲を出なかったところへ、やっと出現した決定的証言だった。(P556)

 三人の話を総合すると、石井部隊が腸チフス菌を投入したのは、第六軍が破滅の危機におちいっていた八月下旬、兵科出身の山本吾郎中佐が指揮をとった。

 山本と行動を共にした千葉によると、「ホルステン川の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる」というのが中佐の計画だった。あらかじめ下見をしておいたのち深夜、二台のトラックに分乗、三回にわたって投入地点へ出かけた。一、二回目は敵の砲撃が激しかったり、トラックが湿地にはまりこんだりして失敗した。

 二回目の帰り道に、脱出してくる途中の小松原師団長の一行と出会い、トラックに収容した。これが八月三十一日朝のことなので、三回目はおそらく九月初めではなかったかという。運んだのは腸チフス薗を入れた十八リットル入りのブリキ製石油缶約二〇個で、平房から石井部隊の軽爆撃機で輸送されてきた。

 山本中佐以下の十数人が、荒縄でしばった石油缶を両手にさげて足場の悪い草むらをよろめきながら川岸にたどりつき、ふたをあけて腸チフス薗を培養したゼリー状の寒天を川水に注いだ。帰ってから石炭酸水で体を消毒したが感染者が出て、柴山衛生軍曹はハイラル陸軍病院で亡くなった。(P557)



 さて、この原始的な細菌作戦で石井、山本などの幹部や一部の隊員は金鵄勲章をもらっているが、それにふさわしい効果をあげたかとなると怪しい。ソ蒙軍はどうや気づかずに終ったらしく、被害の報告はない

 一九八九年夏、モンゴルを訪問した私は、ウランバートルでノモンハン戦史を研究している日本研究センターのドゥンケルヤイチル所長に聞いてみたら、「調べてみると下痢する兵士が出て疑問を持ったが、マーゲンという薬を飲ませて回復した記録はある。しかし細菌戦のせいかどうかわからない」との返事だった。

 それに腸チフス菌は川に投入しても、一メートルも流れれば効き目がなくなるのは科学的常識であった。石井部隊も当然それを知っていたはずで、「本気で細菌戦をやったというよりは、訓練を兼ねた宣伝だったような感じもする」という常石敬一のコメントは妥当であろう。

(『正論』一九九〇年三月号)(P558)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)


『世界戦争犯罪事典』より

ペストノミを綿にまぶして

 石井機関による生物兵器の使用の実態は、「試用」と呼ぶべきものだった。

 その始まりはノモンハン事件にさかのぼる。ノモンハンでは戦闘末期の一九三九年八月にソ連軍の水源となっていたハルハ河の支流ホルステン川に胃腸系の病気を起こす病原体をまいた。ソ連軍にどの程度の被害が出たかは不明だが、ほとんど被害は出なかったはずだ。それは使用した病原体が主に腸チフス菌など水中で感染力を失ってしまうものだったからである。

 そのことを石井たちは十分に知っていた。それでも実行したのは、生物兵器の実戦試用をしたかったためと考えられる。ソ連軍にはほとんど被害はなかったはずだが、日本兵が少なくとも一人、病原体を多量に含んだ液をドラム缶から川に流している時、その液を浴びたのがもとで、ハイラル陸軍病院で腸チフスによって死亡している。(P97)

(常石敬一)


 

(2017.12.26)


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