幕府山事件
幕府山事件 資料集


 「幕府山事件」について、ネットでは見ることのできない、珍しい資料を集めました。あくまで「資料の紹介」であり、個々の資料の正確性を保証するものではありませんので、引用の際は、慎重にお使いいただくようお願いします。

 

●新聞記事

「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日


未聞の大捕虜群  ”殺さぬ”に狂喜し拍手喝采

句容敗戦が致命傷 沈参謀なげく


南京にて横田特派員 十六日発

  両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地にて捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は、なにしろ前代未聞の大捕虜群とて捕へた部隊の方が聊かあきれ気味で、こちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、まづ銃剣をすてさせ附近の兵営に押しこんだ。

 一ケ師以上兵隊とて寿司づめに押しこんでも二十二棟の大兵舎があふれるばかりの大盛況、○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ」とやさしい仁慈の言葉を投げると、手をあげてをがむ、しまひには拍手かつさいして狂喜する始末で、あまりに激変する支那国民性のだらしなさにこんどは皇軍の方で顔まけの態だ それがみな蒋介石の親衛隊で、軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、

 一番弱つたのは食事で、同隊でさへ現地で求めてゐるところへ、これだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので第一夜だけはたうとう食はせることが出来なかった、部隊では早速大小行李の全駄馬をかり集めて食物をかき集めてゐる

 捕虜のうち判明した将校は今までに十名ゐるが筆頭は教導総隊参謀沈博施だ、記者は同兵営保護の部隊田山隊長の紹介で捕はれの沈参謀と対面した、

 兵営からまる腰で出て来た沈参謀は長躯白眥、年齢わづか三十歳の好男子で、外套の襟のらつこといひ、軍服の立派さといひ、みるからに中央軍中有数な青年将校とみうけられた。南京戦に面やつれした姿も淋しく
勝敗は時の運で仕方がありません、日本軍は私らの想像以上に強かつたのです、私は紫金山要塞の参謀を努めてをり、南京戦の全戦局を語る資格を持ちませんが、句容の一線が防げなかったのがそもそも失敗でした。私は奉天省生れで奉天中学の出身中国十五年(昭和七年)奉天の陸軍大学を卒業しましたが、満州事変には参加してをりません、後でいろいろ申上げます、私の心が静まるまでこれ以上きいて下さいますな

となかなかしつかりしたものだ、最後の記者が「今夜は食事を与へられるさうですよ」とつけ加へると

深謝します、私に自動車と護衛さへつけて下されば、富貴山砲台の地下室に何百俵と米を蓄へてあるところにご案内します、そしたらここにゐるみなの者はもとより日本軍にも給与されることが出来ませう

と頭を低くたれた


(「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日 二面 中下の三段見出し、二段記事)

*「ゆう」注  よく引用される記事ですが、私の知る限り全文を紹介したものはありませんので、ここに取りあげました。元記事は、沈参謀の言葉以外には改行が全くなく、読みにくいものです。ここでは読みやすくするために、随時改行を入れました。


 

 

●第五中隊

福島民友新聞社『 ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』より
 
 若松連隊に投降兵

 南京の城内には、すでに日本軍が次々になだれ込んでいた。守るべき首都を失った中国軍は、まだ日本軍の包囲網の手が届いていない幕府山方面へと、なだれを打つように敗走した。おそらく揚子江を渡って対岸へ逃げるつもりだったらしい。ところが、そこへ若松歩兵六十五連隊が進出していた。

 昭和十二年十二月十四日未明、兵力二千二百余(山砲兵十九連隊など配属)の若松連隊は、その中国兵の大軍のウズのなかにはまり込んでいた。

 彼らはすでに統率を失い、武装はしていても戦意はないようだった。最初のうちは一人ずつ捕えてはみたが、それをしていると捕虜だけで自分の連隊の二倍から三倍もの数になってしまうに違いない。結局は「武器を捨てなさい」という形で彼ら自身に川などに小銃を捨てさせ、その大軍のなかを進む形となった。

 このころ幕府山砲台の攻略に向かった角田栄一中尉(郡山市富久山町小泉)の第五中隊は、砲台の入り口にある鳩三鎮付近から、やはり思いがけない中国兵の大軍のなかにはまり込んでいた。 角田中尉は次のように回想する。
 
「あの日のことは忘れられない。私たちは百二十人で幕府山へ向かったが、細い月が出ており、その月明のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。

 私はすぐ ”戦闘になったら全滅だな” と感じた。どうせ死ぬのなら・・・と度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。近づいたら大あばれするだけだと思ったからです。クソ度胸というものでしょう。

 ところが、近づいてきた彼らに、機関銃を発射したとたん、みんなが手をあげて降参してしまったのです。武装はしていたものの、すでに戦意を失っていた彼らだったのです」

「武装解除をして次々に捕える。一人で五人も六人も捕えてしまい、とても手に負えなくなった。

 こんなに捕虜を連れて歩いては幕府山砲台の攻略どころではない。次々にぶつかる中国兵に対し、私たちは彼らに武器を石だたみの道に強く投げさせ、また川に投げさせて進むほかはなくなった。

 とまあ、こんな形で午前十時ごろ、ともかく幕府山の頂上にある砲台にたどり着いた。さすが砲台に残っていた中国兵は戦意があり、私たちは激しい撃ち合いのすえ、ついに砲台の監視所を占領し、友軍に占領を知らせるため日の丸の旗をたてたのです」
 

 同じ中隊で幕府山の攻撃隊に加わっていた樋口藤吉上等兵(保原町二丁目)も次のように回想する。
「私たちは百二十人しかいない。それなのに中国兵がうようよするなかを前進する。それは非常に心細いことでした。

 彼らは武装している。抵抗する気配はみせていないが、なにかあればどう暴発するかわからない。最初は捕虜として何人かずつを捕え、それらを連れて前進していたが、どんどん捕虜がふえてくるため "解放しよう″と彼らを自由にしてやった。

 そして新しい中国兵にぷつかると "武器だけは投げさせろ″ということで武装解除をしながら進んだ。それにしても、あれだけの中国兵の大軍のなかを進むのは、ほんとに勇気のいる幕府山進撃でした」
 結局は第五中隊は「幕府山だけで約三千人の武装解除はしただろう」と関係者は回想する。

(P113〜P114)

*以下、両角連隊長の回想ノートが続きますが、省略します。


 

  ●第十二中隊

八巻竹雄氏『南京攻略戦』

 連隊は山田旅団長の下に、山砲一ケ大隊、工兵一ケ中隊と共に山田支隊を編成して、南京攻略戦に参加することになった。仝十二日大なる戦斗もなく南京城外にせまった。

 途中沿道各所より敗残兵が群がり、武器を捨てて投降して来る。中隊だけでも千数百名の捕虜を得た。隊の後方を続行させた。

 我が軍も余り早い進撃で補給がなかった。したがって敵の捕虜に対しては、三日も四日も食糧がなく、餓死寸前の状態だった。食事時になると我れ勝に残飯を奪い合っている。

 その中にいた人品骨柄いやしからず、柔し皮の外套を着た将校らしい者がいた。残飯を兵隊の前で与へ様とすると、鄭重に辞退された。

 考えてみると支那人は面子を重んずる国民と聞く、多数の兵の前では、残飯は貰へないのだと思い、人前を避けて家屋の後ろで与えた処、結構喰べ終った。

 彼は我々が持つている倍もの大きさの名刺を差し出した。見た処、中央軍軍官教導総隊参謀少佐劉某と印刷してあった。

 彼れは既に覚悟をしていたものか、それとも単に恩義を感じたものか、着て居た立派な外套を脱いで、私に呉れようとしたが、自分は官給品ではあるが、着ているのでいらないと断った。

 連隊だけでも投降した捕虜は、一万数千名位いあったろう。

 これらは南京城外の上元門と云う敵の兵舎に収容した、収容はしたが食糧がない、我々だけでも容易でない状態だったのは、後方の道路が破壊されていたので、車輌の運行ができないためであった。

 そのうち要塞の洞窟の中に食糧倉庫が発見されて、何んとか給与することができた。十四日敵の首都南京は陥落した。

 
 (「歩兵第六十五連隊第十二中隊史」P42〜P43)
 




●所属不明

野崎渡氏『父の戦死・母の死 南京事件』 

  父の書簡や手帳には、それらをうかがわせるようなものは勿論何一つない。しかし、父の死後一年半程して、冒頭に記した従兵Aさんが、帰還後第一にせねばならぬこととして父の基参りに来てくれた。

 美味しい「会津実知らず」と、驚く程大きい「百匁柿」の入った箱を両手に重そうにぶら下げての来訪だったのでよく覚えているのだが、母はこのAさんから父の戦死の模様と共に、次のような驚くべき事実を開かされたのである。一泊してAさんが帰ったあと母は私にそれを聞かせてくれた。

 南京ではあまりに沢山の捕虜を捕え、始末に困った末、軍の命令で揚子江につながるクリークの傍で小銃や機関銃で全部殺してしまった。

 中には日本刀で首を打ち落したり、銃剱を付けた剣付銃で度胸試しに刺突させたりもした。

 中国兵もただ殺されてはおらず、勇気も腕力もある者がこれをひったくり、若い見習士官が逆に殺されたりした。その中国兵はその直後、よってたかってなぶり殺しに殺された。

 それ等の中国兵の屍体は皆そのクリークに投げ込まれた。屍体は一たんは水底に沈むが腐敗がすすむにつれてガスがたまり、浮き上がって来る。その屍体で水面が覆われ、見えなくなる程だった。」


いうのである。そして母は、それにつけ加えて

「いくら戦争だとは言つても、ひどいことをするもんたねえ」

と、誰にともなくつぶやいたのを思い出す。

(宮城県平和遺族会編「戦火の中の青春 戦没者遺族の手記」P11)


 
藤原審爾氏『みんなが知っている』より

私たちが南京市へあと一日行程という距離まで辿り着いたのは、上海上陸後まる二カ月、十二月八日前後のことで、南京城はすでに陥落し、城内居住一般民に対するあの悪名高い大虐殺が行われていた真唯中にあたっています。

*「ゆう」注 日付は原文通りですが、「南京陥落」は十二月十三日のことでしたので、おそらくこれ以降の日付の間違いであると思われます。

 ですから、私は幸いにも城内の惨禍に直接あずかることはなかったわけですが、そのかわり、南京城外北方の烏竜山麓における数万におよぶ虐殺死体の清掃を担当しなければなりませんでした。

 官立学校だと聞かされた校舎に宿営した翌朝、食事が終ると突然、

「昼食携行、全員軽装にて直ちに集合ツ」

の命令が出ました。

 行く先も、目的も全然知らされないまま二里ばかり歩かされ、十時頃着いたところが、烏竜山麓の殺戮現場でした。

 一方が烏竜山麓の高地で、山添の道路から傾斜地を下ると揚子江の水際までゆるい起伏を持った広い砂原でした。

 その広い砂原いっぱいに、前夜半行われた惨劇の地獄図絵が生々しくひろがっていたのでした。
それは戦場を歩き慣れて並大ていのことでは愕くことのない私たちでさえ、声をのんで立ちつくしたほどでした。

 ここで焼殺された人達は二万ともいい、一説には四万ともいわれています。被害者は南京市の周辺地区から戦禍に追われて城内へ蝟集してきた避難民だったとの事ですが、それを部隊はこの砂原地帯に集結させたまま、一週間あまり兵糧攻めにしたのです。ただ一回だって食を与えず、水さえ飲ませませんでした。

 その飢えた避難民の集団をその日の前夜、二個小隊の機関銃隊が上の道路から一斉射撃したのでした。

 しかし、水一滴飲まされなかった二万人の群衆の日本軍に対する憤怒のエネルギーがどれほど凄絶なものか、それを指令した軍高級官も、出動した二個小隊の兵たちも、まったく考慮することが出来なかったのです。

  夜陰に乗じて虐殺の銃火を点じた日本軍に対する怒りの爆発は、一週間の絶食で消耗しつくした二万の体力を再び復活させるのに役立ちました。

 異様な雄叫びを上げながら、彼等は道路上の機関銃隊へ向って逆に雪崩のように殺到したのです。

 二万の大群衆です。たとえば宮場前広場(ママ)を埋めつくすほどの人達が怒りに燃えたぎって殺到したのですから、二個小隊の機関銃隊は、あっという間に押し潰されてしまったのです。

 小高い道路上からこれを見物していた自動車隊が臨機の処置をとらざるを得なくなったのです。ぐずついている間はなかった。積み込んでいた全部のドラム罐のガソリンを傾斜地へ放流し、マッチをすって投げ込んだのです。

  この自動車隊の本来の任務は、機関銃隊が独力仕上げる筈の屍体の山に万遍なくガソリンをふりかけ、手際よく焼き尽くして、いくらかでも罪跡をくらます事にあったのでしょうが、それどころではなくなったものでした。

 しかし、この咄嗟の判断で、殺到する群衆を燃え足の早い猛火の垣でさえぎってしまいました。逃げ場を失った群衆は猛火のために焼殺されてしまったのですけれど、その代り、友軍の二個小隊もその道連れにされてしまったのです。

 これはその夜の自動車隊にいた一兵士から、その日きかされた話です。

 ― 何も知らずに山麓の道路から私たちは現場へ降りていったのですが、まず驚かされたのは、道路上のおびただしい銭です。

 銅貨あり、銀貨あり、また蒋介石政府がこの頃発行していた、円形のボール紙に銀紙を張りつけた玩具のような通貨、それらが数百メートルにわたり道路に帯のように敷かれている上を、私たちは異様な好奇心にかられながらザクザクと歩きました。

 犠牲者からいずれ取上げたのに違いありませんが、それがどうして道にまかれているのか、幾ら考えてもわかりません。懐ろの固いといわれる中国人も、広場に集結させられる途中ですでに覚悟して、自ら銭を捨てて行ったのでしょうか。

 さて、現場で、私たちは将校から屍体を揚子江へ投げ込む作業を命じられました。その時には誰しもが慌てて手拭で鼻と口を覆ったほど、名状しがたい悪臭がたちこめていて呼吸苦しいくらいでした。

「俺たちは、死んだ人間をいじりに、大陸まで来たんじゃねえぞ」
そんな呟きも聞こえました。実際こんな仕事にくらべれば、危険でも敵と戦闘している方がましでした。

 比較的仕事のやり易い川岸近くから、私たちは顔をしかめ、無口になってのろのろとはじめました。

 他の隊からもかなりの数の兵隊がかり出されていましたが、どんなに馬力をかけたところで、この厖大な焼死体を簡単に片づけられる筈はありません。

 私たちは、<作業終り>の命令が出るのを今か今かと待ちながら、緩慢に動いているだけが精一杯でした。

 将校も、平素の倣岸さを失い、妥協的な態度で、

「一人あたり十個も放り込めば休んでくれや」

などという始末です。

 冬とはいえ、生憎と天気がよかったので、気温が上昇するに従いますます手のつけられぬ有様になりました。

 夜中の寒気に凍っていたのがゆるみはじめると、悪臭はいよいよ烈しくなってきました。

 誰かが考えだして、川岸の楊柳を切り、先端を尖らすとそれを魚又のように使って屍体を二つ三つと櫛刺しにし、それを二人一組で水際までひきずって行きました。

 一番上の屍体は黒焦げになっていますが、一重二重、下になるほど生身に近く、体重をかけてウンショと突き刺すと群血が飛び散って、地下足袋、巻脚絆は血泥がしみこみ、ぐちょぐちょになりました。

「いくらやったって駄目だァ。同じじゃねえか」
「野郎ッ、嬶アに泣き目を見せて南京くんだりまで来てよ。チャンコロの隠坊たあ何だ」

鼻を突く腐臭と、焼ぶくれの屍の山を見て私たちはむしょうに腹が立ってきました。

 水際に捨てた屍体も、溜水に浮んだ塵芥のようにいたずらにその層を拡げていくばかりでした。ニ、三人の兵隊が小舟で屍体の溜りの中に漕ぎ入れ、水の流れに乗せようとかかりましたが、五つか六つ流れに押し出したきりで、あきらめてしまいました。

 午後三時頃までで私たちは勝手に作業を打ち切りました。将校も黙って知らん顔をしていました。

 「この後始末をどうしてつけるつもりだろう。もう一度あらためて焼きなをしでもするのだろうか」

 私は心の片隅でぼんやりとそんなことを考えていました。犠牲者の怨みが、日本軍の湮滅作業を許さないかのようにも思えてくるのでした。

(「藤原審爾作品集 みんなが見ている前で・みんなが知っている」P318〜P321)

 

*「ゆう」注 藤原審爾氏の小説、「みんなが知っている」(1957年) の一節です。

 この小説は、「幕府山事件」に題材をとっています。記述によれば、主人公は「昭和十二年九月二十日」に召集令状を受けとり、輜重兵として第十三師団に編入されたとのことです。小説のスタイルをとっていますが、内容は「山田支隊」の兵士から取材して書いたものであることは明らかであり、いわばルポ的なものと考えていいでしょう。

 「事件の経緯」は「伝聞」に基づくものであるだけに正確性の点に疑問があり、また随所に他の資料に見られない記述があるなど、 このまま「事実」として認定するのは困難だと思われますが、1957年の段階で、いわゆる「自衛発砲説」を正面から否定する記述があることは注目されてもいいと思います。


 後半は「幕府山事件」の死体処理作業についての記述ですが、こちらはこの兵士の直接体験であるだけに、比較的正確だと思われます。死体処理作業にここまで具体的に触れた資料は、なかなか貴重 なものです。 

(2004.8.29記  2005.5.6「ふくしま 戦争と人間」追加)


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