昭和12年12月16日(第11面)
空襲下の南京生活 金陵大学・米人教授に聴く
◇高物価と税金の挟撃 ”足”を奪はれた市民 宋美齢・噂の前線慰問
(リード)
【南京にて若梅、村上両特派員】
記者等は十五日朝鼓楼にある有名な金陵大学を訪れた、屋上に星条旗を掲げたミツシヨン・スクールだ、ここはすでに教授・学生とも漢口へ移転して英、米、独、デンマークの四ケ国で組織された避難民救護所本部に充てられてゐる、
刺を通ずると出て来たのは教授エム・エス・ベーツ氏でスマートな米国の青年学徒だ、ベーツ教授は『東日さんですか、私の子供東京にゐます、河井逍(みち)子さん、その他代議士などにも友人が沢山あります、秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです』と記者の手を握つた、
そのすぐあとから支那服の老人が出て来た 『東日さんですか、私は日本に留学したものです』と流暢な日本語で語り出した。教授陳■氏だ、陳教授は明治三十八年札幌の北大農学部第一期卒業生だ、当時の学長佐藤男爵の話などそのころの日本留学生生活を懐しみつつ語つた、記者は両氏と次の如く一問一答を試みた
(本文)
「戦争はどこが一番ひどかつたですか」
「中山門、光華門、通済門の各城門や故宮、大校場飛行場目がけて日本軍の空爆や砲弾の集中は物すごかつた、ここは幸ひに空襲砲撃から隔離され安全地帯だつたので夜など二階から見物したが実に荘厳でした」
「城内守備の支那軍はどの位だつたですか」
「五万乃至十万といはれ四川、広東、広西、福建の全国から集まつた兵隊です、総指揮官は唐生智です」
「蒋介石が戦線を視察したといふがその姿は見なかつたですか」
「新聞にはさう書いてありましたが日本の南京総攻撃がはじまつてからは恐らく南京にはゐなかつたでせう。宋美齢女史はなかなか活発な婦人ですから幾度も前線に慰問に出たといふ話です」
「上海と連絡を断たれてからの南京の市民の生活はどうでしたか」
「南京は戦争前は百万の人口があつたのですが、上海が陥落して連絡がなくなつてから最近一ケ月間に三分の一に減り、今避難民はざつと十万ばかり残つてゐます、何しろ南京は生産都市でないため製造品の入荷がバツタリ消えてからは物価は気狂ひのやうに騰つてしまひました、マツチ、煙草、砂糖、衣服の類は二倍の騰貴、砂糖一片四十銭もする、それでも実際は品物がないから市民の手にはなかなか渡りません。石炭は五割、しかし米と野菜、塩は揚子江沿岸から出るので食ふだけは不自由しませんでした」
「戦争にバスが徴発されたので乗物は困つたでせう」
「もう二タ月も前から市内のバスは殆ど運転されず二週間前からは一台もありません、唯一の交通機関がないので市民の多くは歩くよりほか仕方がありませんでした、自家用の車を持つてゐるものでもガソリンは一日一台五ガロン以内の消費を制限されました」
「軍費のため大分税金が上つたでせう」
「戦争がはじまつてから財政部で取る所得税は月収三十円が毎月五十銭、百円が二円五十銭の割合で取つてゐます、飯店(料理屋)で食事をしても一円につき五銭の税がかかり映画を見ても入場料の一割が税金、何もかも税金づくめでした」
「支那兵は塹壕や陣地構築に土民を使ふやうだがその制度は」
「概して南京市民はあまり使はれなかつたが郊外の人々は軍から命令があると百姓達は田畑からすぐ戦場に送られ使はれてゐたさうです」
*説明の要もないでしょうが、当時の日本のマスコミの状況を考えると、記事中のベイツの発言は、日本に好意的な方向でかなりの程度歪められている、と見るべきでしょう。
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