「宜昌戦」における「きい」使用 |
「宜昌」は、南京、武漢よりもさらに揚子江を遡ったところにある、蒋介石が臨時首都とした「重慶」の表玄関にあたる、要衝です。 1940年(昭和15年)6月、日本軍は「宜昌」を占領しました。以降、中国軍の 反撃を受けながらも、日本軍は終戦時までこの地の占領を維持します。 この「宜昌」をめぐる1941年10月初めの攻防戦で、日本軍は大量の「きい」弾(イペリット、ルイサイトのびらん性ガス)を使用した、と見られています。以下、日本側資料、中国側資料、そして外国人のルポルタージュの、三つの資料を紹介しましょう。 まずは、陸軍習志野学校『支那事変に於ける化学戦例証集』からです。
続いて、中国側の資料を紹介します。
アメリカ人ジャーナリスト、ジャック・ベルデンも、「宜昌戦」で従軍取材を行っていました。ベルデン報告「宜昌附近における日本軍の毒ガス使用説について」の、吉見義明氏による要約を紹介します。
ベルデンの取材は、主として被害兵士からの聴取であり、細部については正確でない部分があるかもしれません。しかし、被害兵士の症状に関する記述は極めて具体的であり、「きい」が使用された事実まで否定することは困難でしょう。 (2005.10.19) 2012.5.4追記 第二次世界大戦当時の陸軍長官、ヘンリー・L・スチムソンの日記の中に、「宜昌」における毒ガス使用についての記述を見ることができます。ベルデンの報道が、広く世界に知られていたことを伺わせます。
|