「宜昌戦」における「きい」使用



 「宜昌」は、南京、武漢よりもさらに揚子江を遡ったところにある、蒋介石が臨時首都とした「重慶」の表玄関にあたる、要衝です。

 1940年(昭和15年)6月、日本軍は「宜昌」を占領しました。以降、中国軍の 反撃を受けながらも、日本軍は終戦時までこの地の占領を維持します。

 この「宜昌」をめぐる1941年10月初めの攻防戦で、日本軍は大量の「きい」弾(イペリット、ルイサイトのびらん性ガス)を使用した、と見られています。以下、日本側資料、中国側資料、そして外国人のルポルタージュの、三つの資料を紹介しましょう。




 まずは、陸軍習志野学校『支那事変に於ける化学戦例証集』からです。

 
陸軍習志野学校『支那事変に於ける化学戦例証集』より

四〇 きい弾及あか弾を稍々大規模に使用し優勢なる敵の包囲攻撃を頓挫せしめたる例

附近戦闘経過要図 於十月七、十一日(図略)


一般の状況

 蒋介石は長沙作戦間我が宜昌地区一帯の警備兵力が著しく減少しあるを知るや第六戦区長官陳誠に対し宜昌奪還を厳命せり


戦闘経過の概要

一、気象 七八九日 晴 北西風 約一米
       十十一日 曇 北東風 一.五米

二、使用資材 きい弾 約一、〇〇〇発
         あか弾 約一、五〇〇発

三、効果 敵の攻撃企図を挫折意したるのみならず密偵報其の他諸情報を総合するに瓦斯の効果は極めて大なりしものの如し


教訓

一、支那軍に対しては砲兵の瓦斯弾による迅速なる火力機動に依り広正面に亙り制圧効力を収め敵の企図を挫折せしむることを得

二、あか弾及きい弾を併用する場合は遠距離にきい弾を近距離にあか弾を使用するを可とすること多し

(『毒ガス戦資料』P476)  


 続いて、中国側の資料を紹介します。

中国側資料『中国における日本軍の毒ガス使用』より

4.一九四一年一〇月中国軍が宜昌の日本軍に攻撃をかけた時、日本軍は最も大規模なガス戦を展開した。

 すなわち同月八日中国守備隊は宜昌郊外の二つの戦略的高地に前進していたが、この時三〇発のガス弾を浴びせられた。翌九日中国軍が宜昌郊外の拠点を奪取した時、一〇発以上のガス弾の攻撃を受けた。

 引続き同月一〇日中国軍が宜昌市内に突入した時、日本軍は四時間にわたってガス弾を打ち込んできた。この間日本軍機は、三機ないし五機で替るがわるやって釆て、三〇〇発以上のガス弾を投下した。

 ガス弾の投下された地域には、中国の民間人が沢山住んでいたが、中国守備隊が日本軍に反攻し始めた時、彼らは白本軍によってこのガスが充満した地域から撤退することを禁じられた。この時使用されたガスは催涙性、くしゃみ性およびマスタートガス(イペリット)であり、致命的事例を多く引きおこした。

 ここには約三〇〇〇人の中国軍が奥行一五〇〇メートル、幅二〇〇〇メートルにわたって展開しており、このうち一六〇〇人が影響を受け、うち六〇〇余名が死亡した。致命的事例は低地ないし平坦部で生じた。


5.一九四一年一〇月の中国軍スポークスマンの報ずるところによれば、宜昌地区の戦闘に使用されたガス弾は二〇から五〇ポンドの重量があった。爆発力は通常の爆弾よりも弱かった。

 爆発後一〇分もすると黒っぼい液体が流れ出し、そこから灰白色の煙が立ち上り、それは黄色そしてオレンジ色に変化した。この蒸気は皮膚と粘膜を侵し、赤とうがらしのようにしてしまい、花のような芳香を放ち、あるものは腐敗した果実のにおいを放った。

 日本軍のガス攻撃の時の風速は秒速一ないし三メートルで、気温は摂氏二〇度程度であった。この毒ガスに見舞われた兵およぴ民間人は即座に失神し、ある者は数分ないし三〇分以内に死亡し、他は火ぶくれになり数時間後に死亡した。また目がふくれ上り、くしゃみを発し、鼻血を出す者もいた。

 死者の皮膚は黒と青色に変じた。最も軽いものでもある程度回復するには一〇ないし一一時間かかり、完全にもと通りになるためには更に一〇時間を必要とした。ある中国軍師団のガス弾による死傷者は総兵力の三分の一にも達した。

(竹前栄治氏『資料紹介 やはり毒ガス・細菌兵器は使われていた −中国側からの告発−』=『世界』1985年9月号 P87)

*「ゆう」注 1942年7月3日付。「駐英中国大使顧維鈞」により、7月14日、ロンドンで開かれた太平洋戦争協議会に提出された文書です。資料の性格上、一定の「誇張」が含まれている可能性は否定できませんが、「中国側から見た「宜昌毒ガス戦」の記録」として、ここに紹介します。
 



 アメリカ人ジャーナリスト、ジャック・ベルデンも、「宜昌戦」で従軍取材を行っていました。ベルデン報告「宜昌附近における日本軍の毒ガス使用説について」の、吉見義明氏による要約を紹介します。

 
吉見義明氏『毒ガス戦と日本軍』より

 ベルデンは、一九四六年以降の中国革命のルポルタージュ、『中国は世界をゆるがす』で知られるアメリカ人ジャーナリストだが、一九三三年から中国に暮らしていて、一九四一年当時は中国語に熟達していた。

 以前はUPの通信員を務めていたが、この頃はINS(インターナショナル・ニュース・サービス)の特派員で、しばしば中国軍の作戦に同行して取材していた。その報告「宜昌附近における日本軍の毒ガス使用説について」は、つぎのようにとても生まなましいものだった。

 一〇日に毒ガスが使用された時、ベルデンは、現場から直線で四マイル(宜昌から六マイル)離れた中国第二軍団司令部にいた。ガスが使用されたことを伝える第九師長からの無電を正午に聞いた。欧米に正確な情報を伝えることが重要だと第二軍団司令部を説得して、ようやく助手のエリザベス・グラハムとともに第九師司令部に行く許可を取り付けた。

 まず、彼は、ガスで死亡したという死体二体を一三日に野戦病院で観察した。前日に前線から運ばれてきた時はまだ生きていたが、野戦病院に到着して数分後に死んだという。死体は、身体中に大きな茶・赤・黒色の斑点があった。皮膚組織は破れていたが、他に死に至るような傷はなかった。

 ついで、師長・参謀長・参謀処長・化学将校を含む第九師の将校たちにインタビューしたが、その情報はつぎの通りだった。

 毒ガスの使用時間は、八日が午後九時三〇分から二〇分間、九日が午後二時から三〇分間、一〇日が朝四時から一〇時までだった。最後の日は、六時間休むことなく発射され、蜂子嶺・東山寺など郊外だけでなく、城壁内のカトリック教会の近くでも使用された。被害を受けたのは、中国の第九師二五・二六・二七団(聯隊)だった。

 毒ガス弾は野砲から発射され、飛行機から投下された。ガスの種類は、嘔吐性のジフェニールアミンクロロアルシン(アダムサイト)、窒息性のホスゲン、糜爛性のルイサイト、それに催涙性のクロロビクリンとクロロアセトフェノンのようだと聞いている。

 被毒者の症状は、軽症の場合、戦場を離れて三時間後に眼が開けられなくなり、ノドの痛みと筋肉痛が生じた。嘔吐性ガスを多く吸いこんだ場合、一〇ないし一二時間後にめまいと震えが起き、衰弱した。しかし、二〇時間後には回復した。

 ルイサイトの被害者の場合、急速に糜爛し、水疱はテニスボール大になった。多くはヒジや腰の周りにできた。

 八日に後送・救助された者のうち、一七名が麻痺し、失語状態となり、呆けていた。三〇名は戦闘能力を失っていた。九日には、二〇名が麻痺し、一〇名以上が糜爛し、四〇名以上が戦闘能力を失っていた。一〇日には、麻痺していた者は一〇名で、七〇名が戦闘能力を失っていた。

 これらは、救助された者だが、第九師の死傷者中、四分の一は被毒者で、約七五〇名に達すると見積もられていた。

 帰還した被毒者たちは、外国人の専門家に見せるために、第六戦区軍の陳誠長官の命令で巴東や重慶に送られた。また、多くの被毒者が戦場に放置されたままになっていた。このため、第九師にはほとんど被毒者がいなくて、ベルデンが会えたのは二名だけだった。

 この二人には、とてもひどい水疱の症状がでており、
グラハムが写真を撮った。彼の一三日の観察とインタビューの記録はつぎの通りである。
 
 水疱のいくつかは指のツメぐらいの大きさで、他のいくつかはテニスボール大だった。いくつかは皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは身体からグニャリと垂れ下がって、身体が動く度にある種の液体が水疱の内側で動きまわっていた。水疱のできた部分の皮膚はとても白くなっており、ふちは黄みがかりしわがよっていた。腕・脚・腹部にできた水疱はより深刻で、背中の水疱がもっとも悪質だった。顔の水疱が破れたところは、赤・黒・茶色に変色していた。

 副小隊長だというこの兵士は、大変な痛みを訴え、背中の大きな水疱をベルデンに見せるために、慎重に背中を上げて座る姿勢をとらなければならなかった。食欲はまったくなく、頭痛と発熱を訴えた。

 この兵士の語るところによれば、部隊は宜昌市外の飛行場を見渡せる東山寺の陣地を攻撃していたが、日本軍の激しい機関銃射撃で前進を止められ、ここを死守せよと大隊長にいわれて、一昼夜留まった。

 そして、八日に日本軍は毒ガス弾を撃ってきた。ガスにより多くの兵士の眼が見えなくなり、ある者は嘔吐し、ある者はしゃべれなくなった。副小隊長自身は、最初は大したことはないと思っていたのだが、やがて眼がずきずき痛みだし、傷つき、少し泣いた。

 約一時間半後、皮膚がかゆくなりはじめ、さらに一五分後には水疱ができはじめ、激痛がおそった。その二時間後には、半分麻痺し、意識が朦朧する状態となったが、半ば意識があった。手足は、約六時間動かすことができなかった、という。

 ベルデンは、この兵士の証言について、中国人、特に農民層の時間の観念は西欧のそれと違ってあいまいであり、ここでいっている時間は非常に大雑把なものと考えるべきだとしている。また、背中・脚・腹部の水疱が露出している部分よりもひどく糜爛している理由の一つは、ガスが衣服の中で滞留したからだろうと推測している。これはまったく正しかった。

 もっとも激しい痛みをもたらすのは水疱内の液体が動くことだ、とこの被毒者はいった。ガス攻撃に対して何ができたかとベルデンが問うと、彼は「そこに留まって死ぬことしかできなかった」と答えた。

 その後、ベルデンとグラハムは、第九師の司令部で、中国陸軍病院付きのポーランド人赤十字医師に会った。彼はつぎのように語った。

 自分は約一五名の被毒者を診察した。ガスが水疱内の液体にまだ含まれており、それが皮膚を冒し、内部に浸入しているので、液体を水疱から抜き出した。この医師と助手たちは、この処置をした後、自分たちの手がかゆくなったことに気づいたが、水疱はできなかった。

 医師は、このガスを第一次世界大戦時にイープル周辺で使用されたのと同じ「イペリット」であり、これは肺をも冒し、そこに水疱をつくるといった。

 国民党軍のはとんどの兵士はガスマスクを持っていなかったが、第九師は装備がややましだったので、ある程度ガスマスクを持っていた。しかし、糜爛性ガスに汚染された兵士に対する治療はほとんどなされなかった。衛生隊がやったのは、兵士の衣服を脱がすことぐらいで、激しい苦しみの中で、衣服を自分で脱ぐ兵士もいた。 (P137〜P141)


 ベルデンの取材は、主として被害兵士からの聴取であり、細部については正確でない部分があるかもしれません。しかし、被害兵士の症状に関する記述は極めて具体的であり、「きい」が使用された事実まで否定することは困難でしょう。

(2005.10.19)



2012.5.4追記

 第二次世界大戦当時の陸軍長官、ヘンリー・L・スチムソンの日記の中に、「宜昌」における毒ガス使用についての記述を見ることができます。ベルデンの報道が、広く世界に知られていたことを伺わせます。

ヘンリー・L・スチムソンの日記


一九四一年一一月二一日 金曜日

 私は大統領に向って、フィリピンでの危険な毒ガスの問題を語った。われわれは日本が宜昌で中国人に対して毒ガスを使い、約七百名の中国人を殺害したり不具にしたということを知った。フィリピンでは毒ガスを準備しておく必要がある。

 しかし、われわれはこの交渉の途中でそのことがもれて誤解を招く恐れがあるため、それを送ることは心配であった。しかし、そのうち、もはや遅延を許さない時が来ると思う。私は会議のあと大統領に迅速でしがも個人的にそのように申しいれ、大統領と見解が一致した。

 私は帰ってがらゼロー将軍のところにちょっと立ち寄ったが、マーシャル将軍は不在であった。私はゼロー将軍に、すべての事実を調べ、新聞に出ないように配慮してひそがに積荷の手配を完了することを命じた。

(「現代史資料34 太平洋戦争(一)」所収)




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