南京軍事法廷判決



 終戦直後の時期の中国国民政府側の認識を示す資料として、「南京軍事法廷判決」を紹介します。

 今日の目で見ると事実誤認・誇張が目立つのは事実ですが、ネット上では「中国側がどのような認識を持っていたか」を正確に紹介する資料が少なく、掲示板等でもしばしば混乱した議論が見られることから、ここに全文を掲載してみました。
*中国側の認識は、この時点で「被害者三十万人以上」です。掲示板等ではよく、「(中国側見解の)被害者数が年々増えている」という表現を見かけますが、これが明確な誤りであることがわかります。

**言うまでもありませんが、これはあくまで「資料」としての紹介であり、「ゆう」が以下の事実認識を共有するものではありません。



国防部戦犯裁判軍事法廷の戦犯谷壽夫に対する判決書

一九四七年三月十日

国防部戦犯裁判軍事法廷判決三十六年度審字第一号

  公訴人    本法廷検察官
  被告      谷壽夫  男  六六歳、日本人、
                 住所 東京都中野区富士見町五三号
                 日本陸軍中将師団長
  指定弁護人 梅祖芳弁護士
           張仁徳弁護士

右被告の戦犯事件につき、本法廷検察官の起訴を受け、本法廷は左の如く判決を下す。



主 文

谷壽夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す。




事 実

 谷壽夫は日本軍閥のなかの剽悍善戦の軍事指導者であり、はるか日露戦争においてはやくも従軍し戦績をあげている。

 民国二十六年、中日戦争が起こるにおよんで第六師団長に任ぜられ、同年八月部隊を率いて侵略戦争に参加した。まず河北省の永定河および保定・石家荘などを転戦した。

 同年十一月末、中国側は南京上海沿線の戦況がしきりに不利を告げたので、陣地を移して南京の防衛をかためた。日本軍閥は首都を抗戦の中心とみなして、その精鋭にして残虐な第六師団谷壽夫部隊・第一六師団中島部隊・ 第一八師団牛島部隊・第一一四師団末松部隊などを糾合し、松井石根大将の指揮のもと力をあわせて攻撃してきた。

 中国軍の強力な抵抗にであったので、その恨みを晴らそうと入城後計画的な虐殺をおこない報復したのである。

 谷壽夫が率いる第六師団は先鋒部隊をつとめ、二十六年十二月十二日 ( 旧暦の十一月十日 ) 日暮方、中華門を攻略し先頭部隊が縄梯子をのぼってなかに入った。これがすなわち虐殺の始まりであった。翌朝また大軍を率いて入城し、 中島・牛島・末松などの部隊と南京市各地区に分かれて押し入り大規模な虐殺を展開し、放火・強姦・略奪をおこなった。

 調査によれば虐殺が最もひどかった時期はこの二十六年十二月十二日から同月の二十一日までであり、それはまた谷壽夫部隊の南京駐留の期間内である。中華門外の花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などの箇所を合計すると、 捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など一九万人余りに達する。このほか個別の虐殺で、遺体を慈善団体が埋葬したものが一五万体余りある。被害者総数は三〇万人以上に達する。死体が大地をおおいつくし、悲惨きわまりないものであった。

 その残酷な状況はとても筆紙に形容しがたいのであった。

 たとえば十二月十五日午後一時、中国の軍人警察官二千人余りは日本軍に捕えられてから漢中門外に連行され、機関銃で密集射撃をあびせられ弾丸を受けてそろって落命した。負傷して息のあった者はことごとく焼き殺された。

 同月十六日午後六時、華僑招待所に集まっていた難民五千人余りは、日本兵に中山埠頭に連行され機関銃で射殺された。死体は長江に捨てられたが、白増栄・梁廷芳の二人だけが弾丸で負傷しながら水中に飛び込み、 漂っている死体とともに流されて幸運にも生きながらえた。

 また同月十八日夜、幕府山に捕らえられていた中国の軍人・民間人五万七四一八人は、針金で縛られ下関の草蛙峡に駆り集められ、これまた機関銃で射殺された。倒れながらもなお血だまりのなかで必死にもがいている者をめった斬りで殺し、 遺体はすべて石油をかけて焼却した。

 またたとえば十二月十二日、農村婦人王徐夫人は中華門外下埠頭で日本軍にさらし首にされ遺体を焼かれた。

 同月十三日、村人魏小山は谷壽夫部隊が中華門堆草巷で放火していたので、救助しようと駆けつけたところ斬殺されてしまった。

 同日、僧侶隆敬・隆慧、および尼僧真行・灯高・灯元などは中華門外の僧庵で全員殺害された。

 十四日、市民姚加隆が家族を連れて中華門斬龍橋に避難していたところ、日本軍に出会い妻は強姦のうえ殺害された。八歳の子どもと三歳の幼女がそばで泣いていると、銃剣で突き刺して火中に投入れ生きたまま焼き殺した。

 同月十三日から十七日、厳寒の時期にもかかわらず中華門外に駐屯していた日本軍は、村人三十人余りに水に入って魚を捕ることを強いた。したがえば凍死し、拒否すれば殺された。

 またある老人を木の枝に縛って吊し、銃で狙いを定め射撃練習をした。最後に命中すると縄が切られくずれおちて絶命した。

 また日本軍の将校二人が殺人競争をおこない、ひとりは一〇五人を殺したがもうひとりが一〇六人を殺して勝利した。

 同月十九日、六〇歳を越えた農村婦人謝善真は、日本軍に中華門外の東岳廟で刀を使って刺殺された。そのうえ竹ざおを陰部に挿入され、いずれも残酷非道このうえないものであった。

 十二月十二日から同月二十一日までで、首都の無辜の軍人と民間人が日本軍に惨殺された事件で調査できたものは八八六回に達している ( 付属文書甲一号から二八号、乙一号から八五八号までを見られたい ) 。そのうち中華門一帯での被害は上記のほかに、なお王福和・柯大才・卓呂同・沈有功・劉広松・曾文党・余必福・陳蕭夫人など三七八件の事件がある ( 詳しくは付属文書甲九・一三・一八・一九・二〇 ・二四・二六・二八号、乙一号から三七〇号を見られたい) 。

 日本軍は入城後、四方に強姦に出かけひとえに淫欲を逞しくくした。外国人の組織した国際委員会の統計によれば、二十六年十二月十六日・十七日の両日、中国の女性で日本軍に蹂躙された者は千人を越えている。そのうえ方法の猟奇的で残虐なこと、 実に前代未開である。

 たとえば十二月十三日、民間の婦人陶湯夫人は中華門東仁厚里五号で日本軍に輪姦されてから腹部を切り開かれ遺体を焼かれた。

 妊娠九か月の妊婦蕭余夫人、一六歳の少女黄桂英、陳姉妹、および六三歳の農村婦人まで中華門地区で残酷に汚された。

 農村の少女丁さんは中華門堆草巷で、日本軍兵士一三人に輪姦されてから狂暴さにたえられず助けを求める声をあげたので、刀で下腹部を刺されて殺された。

 同月十三日から十七日までに日本軍は中華門外で少女を強姦してから、通りかかった僧侶に続いて強姦をおこなうように迫った。僧が拒絶して従わないと、ついには宮刑に処して死に致らしめた。

 また中華門外土城頭で三人の少女が日本軍に強姦され、差恥と憤怒のあまり川にとびこみ自らいのちを絶った。

 南京に留まった中国女性で身に危険がなかった者はおらず、そこで国際委員会の画定した安全区に相継いで避難した。日本軍は国際正義を顧みるどころか、ついにはその獣欲を存分に発揮し、夜ごと闇に乗じて塀をこえて侵入し、老若を問わずやみくもに強姦した。

 外国人は国際団体の名義でくりかえし日本軍当局に厳重抗議をおこなったが、日本軍指導者の谷壽夫らは聞かなかったかのように放置し、部下に以前どおりほしいままの暴虐をしたい放題にさせておいた。

 さらに日本軍のほこさきが向かうところ、放火と虐殺がつねに同時におこなわれた。わが首都はその恐怖実行政策の対象となったため、火災の激烈残忍なことも比類がないものであった。陥落の直後、中華門ぞいから下関の川岸までいたるところ火災となり、 炎は天がこがすいきおいで南京の半ばはほとんど灰塵に帰してしまった。

 公有私有の財産の損失は数字で計算できないほどである。

 中華門循相里の家屋数十棟はすべて火災にあい、住民何慶森・夏鴻貴・畢張夫人など数百人が家屋を失って住む場所もなくなってしまった。

 中華門釣魚巷・湖北路・長楽路・又閘鎮各所の住民曾有年・常許夫人・馮兆英などの家屋数百棟も火災にあい全焼してしまった。

 十二月二十日まで全市で計画的な放火行為がおこなわれ、市中心地区の太平路は一面炎につつまれ、夜になってもやむことがなかった。

 そのうえすべての消火設備がことごとく略奪にあい、市民であえて救済しようとした者は容赦なく殺された。

 さらに日本軍は貧欲さが性になっており、食糧・家畜・食器・骨董品などなんでも略奪しないものはなかった。

 たとえば石壩街五〇号で漢方医石莜軒の貴重な書籍四箱・書画骨董二千幅余り・家具四百個・衣服三十箱余りを略奪した。

 また集慶路・任管巷などで民間の家畜・食糧・金銭を強奪したが、それは計算できないほどである。

 すなわち国際赤十字病院内で看護婦の財物、病人の布団、難民の食糧もすべて略奪された。

 アメリカ大使館職員ダグラス・ジェンキン(Douglas Jenking)、アメリカ国籍の女性宣教師グレイス・パウアー(Miss Grace Bauer) 、ドイツ人のラーベ(Rabe)、バーチャード(Barchardt)、ポブロ (Poblo)、ジェイムセン(Jeimssen) などの住宅も前後して略奪をうけ、損失は甚大である。

 数々の非法行為は数えあげることができないほどである。日本の降伏後、谷壽夫は東京で逮捕、中国駐日代表団を通じて南京に護送され、本法廷検察官の取調べにより起訴された。



理 由


 調査によれば本事件被告谷壽夫は民国二十六年、日本から部隊を率いて中国に来て侵略戦争に参与した。

 中島・牛島・末松の各部隊と南京を攻略したが、中国軍の頑強な抵抗にあったため血戦は四昼夜に及んだ。ようやくこの年十二月十二日夕刻、中華門から縄梯子を登って城内に入った。

 翌朝大隊を率いて入城し駐留すること一〇日間、同月二十一日に転戦して蕪湖を攻略したことはすでに自供によって明らかである(調査書類六六ページ、裁判書類のファイル七、十六ページ・二三ページを見られたい) 。

 南京を陥落させて以後、共同攻撃した各部隊と南京市内各地区に分かれて侵入し大規模な虐殺をおこなった。 捕らわれた中国の軍人と民間人で、中華門・花神廟・石観音・小心橋・掃箒巷・正覚寺・方家山・宝塔橋・下関草蛙峡などの場所で、残酷にも集団殺害され死体を焼却された者は一九万以上に達する。 中華門・下埠頭・東岳廟・堆草巷・斬龍橋などの場所で分散的に殺され、遺体が慈善団体によって埋葬された者は一五万以上に達する。被害総数は合計三十万人余りである。

 これらの事実は身をもってこれを体験した証人である殷有余・梁廷芳・白増栄・単張夫人・魯甦・殷南岡・芮方縁・畢正清・張玉発・柯栄福・潘大貴・毛呉夫人・郭岐・范実甫・姚加隆・万劉夫人・徐承鑄・僧侶の隆海・蓮華・尼僧の慧定など一二五〇人余り、 および当時遺体埋葬の責任者であった許伝音・周一漁・劉徳才・盛世徴などの調書で証明されているばかりでなく (詳しくは付属文書甲一号から二八号、付属文書乙一号から八五八号、京字九号から一二号の各証拠書類、ならびに本法廷調査および裁判記録を見られたい)、 紅白字会の埋葬した四万三〇七一体の遺体、崇善堂の収容埋葬した一一万二二六六体の遺体の統計表、傀儡南京督辨であった高冠吾が霊谷寺の無縁仏三千体余りを合葬したときに建てた碑文に明らかである ( 京字三号・一六号・一七号の各証拠書類を見られたい ) 。

 また当法廷が中華門外雨花台・万人坑など合葬地点について墓地五か所を発掘したところ、被害者の死骸・頭蓋骨数千体が出てきた。司法医師潘英才・検屍官宋士豪などが遺骨を調べたところ、その多くに刀で切られたあと、 銃弾の命中したあと、あるいは鈍器で殴られた損傷などがあり、書類中の記入済みの鑑定書は信頼できるものである (本法廷の調査記録および京字一四号証拠書類を見られたい) 。

 ならびに当時日本軍が武功を誇示するために自ら撮影した虐殺の写真一五枚および現地製作の南京虐殺の映画があり、中国軍の手で抗戦勝利後に押収・入手されたものであるが、これも裏付けになるものである ( 京字一号・二号および一五号証拠書類を見られたい ) 。

 陥落後、日本軍各部隊は各地区に分かれて侵入し、婦女暴行をほしいままにおこなった。

 たとえば村の婦人陶湯夫人は強姦されてから腹を切り開いて遺体を焼かれ、少女の丁さんは輪姦されてから刺殺された。妊婦も老女も同じく汚された。

 また民家への放火、財物の強奪、および安全区内への侵入と婦女強姦、外国人財産の略奪などの行為は、それぞれの生存被害者と目撃証人である 蕭余夫人・陳姉妹・柯栄福・方鶴年・張孫夫人・范実甫・張万夫人・周一漁・何慶林・夏鴻貴・畢張夫人・倪春富・曾有年・常許夫人・馮兆英・石筱軒・徐兆彬など百人余りが調書で述べているところからしても間違いのないものである。

 国際委員会の組織した南京安全区内の档案が列記している日本軍の暴行、および外国籍記者ティンパレー が著した『日本軍暴行紀実』 、スマイスの書いた『南京戦禍の真相』、 ならびに当時南京戦役に参加した中国軍大隊長郭岐の編による「南京陥落後の悲劇』(『陥都血涙録』) に記述された各節はことごとくあい符合している ( 詳しくは付属文書丙・丁・戊・己、京字九号から一二号の各証拠書類、ならびに当法廷調査・裁判記録を見られたい ) 。

 また当時南京に滞在していたアメリカ国籍の教授ベイツとスマイス両氏が実際状況の目撃に基づいて本法廷で宣誓のうえ証言した内容、調書での証言と異なるところがない。



 南京を共同攻撃した日本軍の各軍事指導者が共同で兵を放ち、手分けして虐殺・強姦・略奪・財産の破壊をおこなった事実は、すでに多くの証言によって確実であり、覆い隠すことができないものである。弁明によれば

一)二被告の部隊は入城後、中華門一帯に駐屯し、十二月二十一日にすべて蕪湖に移動した。当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。 そのうえ被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。ゆえに虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。犯罪行為調査表にも「中島」の字句が多く載せられているのは、被告と関係がないことを示している。

( 二 ) 被告の所属部隊は軍規厳正でいまだ一人も殺害していないことを保証できる。すでに小笠原清が法廷で証言した以外に、被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などの召喚訊問を要請したい。 そうすれば明瞭となろう。

( 三 ) 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪を論ずる根拠となすには不十分である

などと言って、責任を逃れようとする弁解をおこなっている。


 しかし、第一点について言えば、犯罪行為を共同で実行した者は、共同意志の範囲内で各自が犯罪行為の一部を分担し、互いに他人の行為を利用しもってその犯罪目的を達成しようとしたのであるから、 発生したすべての結果に対して共同で責任を負わなければならない ( 最高裁判所二十八年上字第三一一O号・二十六年渝上字第一七四四号の各判例を参照されたい ) 。

 被告は南京を共同で攻撃した高級将校であり、防衛軍の猛烈な抵抗にあった ( 裁判書類のファイル七、一六ページを見られたい ) 。そこで南京陥落後、中島・牛島・末松などの部隊と合流して各地区に分かれて侵入、大虐殺および強姦略奪、放火などの暴行をおこない、 捕らわれた中国の軍人・民間人で殺害された者、三十万余りの多きに達したのである。

 それは監督不行届きによる偶発事件とは明らかに異なるものである。まして当時南京に滞在していた外国人は、国際団体の名義で二十六年十二月十四日から二十一日まで、 すなわち被告の部隊の南京駐留期間に前後一二回、日本軍当局と日本大使館にそれぞれ厳重な抗議をおこなっているのである。

 そのうえ覚書のなかで日本軍の放火・殺人・強姦・略奪といった暴行、合計一一三件を付録につけ、日本軍が注意して部下を取り締まり、暴行の拡大を防止するように要請している (南京安全区档案の原文一から四九ページ、および付属文書己・京字一〇・一一号の各証拠書類を見られたい ) 。

 しかるに被告等各軍事指導者は見ないふりをして、従来どおり兵を放任、暴虐をほしいままにさせておき、そのうえこともあろうにこの悲惨な虐殺都市の状況を映画フィルムや写真に撮り、戦績の表彰に利用しようとした。

 それによって共同攻撃した各軍事指導者が契約した意図に基づき、共同で兵を放ち、手分けして撹乱し、計画的で大規模な虐殺・放火・強姦・略奪をおこなったことは明白である。

 被告の部隊は一〇日間だけ南京市の一角で虐殺などの行為を分担しただけだとしても、会戦の指導者と事前に連絡をとりあうという犯意をもち、相互に利用してその報復の目的を達したのである。

 上述の説明により、発生したすべての結果は、松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者が共同で責任を負うべきものである。

 犯罪行為調査表に「中島」の字が載せられているとか、被害者が日本軍の部隊番号を指摘できていないなどの言辞を口実として、どうして責任のがれをもくろむことができるであろうか。まして南京市各地区の調査によれば、 虐殺・強姦・略奪などの事件はおおかた被告部隊の南京駐留期間内 ( すなわち十二月十二日から同月二十一日まで ) に発生しているのであり、被告自身が認めているその担当地域である中華門一帯で放火・殺人・強姦・略奪にあった住民について調査可能な事件はすでに四五九件に達している (詳しくは付属文書甲九・二一・一八・一九・二〇・二四・二六・二八号、乙一から三七〇号、丙一から二一号、丁一から五七号、戊一から三号の各調書、ならびに本法廷およぴ裁判記録を見られたい) 。


 そのなかには被害者の家族および証人で被告部隊の犯罪行為であると確実に指摘できるものが多くある。

 たとえば范文卿の子の范実甫は、
谷蕎壽夫の部下で殺人・放火・強姦をおこなわないものはおらず、もっとも残忍なのが谷壽夫の部隊と言うことができる。殺人はおよそ十数万人にもおよんだ。わが家の向い側の丁道台の孫娘は谷壽夫の部下一三人に強姦された。 この女の子はがまんできず悲鳴をあげたので、日本軍に一刀のもとに下腹部を切られて息が絶えた。私はまた、隣の魏小山が谷壽夫部隊が放火したので消火に行ったところ日本軍に一刀のもとに斬り殺されたのを目撃した」
と供述している。

 丁長栄は、
「私の子ども丁連宝は谷部隊(被告を指す)兵士に銃でなぐられ一撃で殺された。当時全部で七人がなぐり殺された。また中華門賽虹橋で、二人の女性が日本軍に強姦されたあと銃剣を陰部から腹部に突き刺され、 腹から腸がとびだして死んでいるのを見た」
と供述している。

 徐承鋳は、
 「私の実兄の徐承耀は谷壽夫部隊に徴発された。母親が哀願したが釈放されず、雨花台の下に引っぱって行かれ銃でなぐられて殺された」
と供述している。

 また証人欧陽都麟は、
「日本軍の谷壽夫部隊は南京攻略で中華門から真っさきに入城し、まず虐殺をおこなった。この二日間 ( 十二・十三の両日 ) で中華門内外は死体が散乱し、惨たらしくて目をそむけざるをえないほどであった。ある妊婦は銃剣で腹部を刺され、腹から胎児がとびだして死んでいた。ある女性は銃剣で陰部を刺され、剣の先が臀部にまで突きぬけて死んでいた。 また八〇歳の老婦人で強姦されて殺された人もいた」
と供述している。

 証人張鴻如は、
「日本軍は二十六年旧暦十一月十日の夜入城した。殺人・放火・強姦のもっともひどかったのは谷壽夫部隊だった」
と供述している (これらについては本法廷裁判書類ファイル一の三〇ページ、ファイル三の三五ページ・三九ページ・四三ページ、ファイル七の六〇ページ・六一ページを見られたい) 。

 とりわけ被告部隊が分担して暴行を実施した事実は明白であると見なすことができ、なお強弁する余地があるはずがない。

 第二点について、調査によれば被告の部隊ははるか保定、石家荘一帯で作戦していたとき、住民陳嗣哲所有の衣類・骨董品二八箱およぴマホガニーの家具など多くの物件を略奪し、 また淅江省徳清県県境で平民ト順金・ト玉山などの人を惨殺した(付属文書乙の八四六号、戊の四号の各調書を見られたい ) 。そこにその軍規の崩壊をおおむね見てとることができる。

 南京を攻撃して陥落させてから、さらに暴行は重なり凶悪残忍なことは比類がないほどであった。軍規が厳格で未だかつて一人も殺害したことがないなどとかえって反論しているのは、明らかな逃げ口上である。

 証人小笠原清にいたっては、被告部隊が南京を合同で攻撃しているときまで日本で在学中でありただ推測の説ではあったが、被告部隊が南京ではおろか決して暴行をはたらいたことがないというのは自ずから信ずることができなかったと述べている。

 また調査によれば被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎および柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などはひとしく南京を合同で攻撃した高級将校および参謀であり、計画的に実行された南京大虐殺事件では本来共犯容疑者である。

 たとえそれら容疑者が法廷で被告のために期待する陳述をおこなったとしても私情からかばったものにほかならず、被告に有利な判決の根拠とするには難しい。いまなお被告がその容疑者らに法廷で証言するよう要請することに拘泥するのは、 それにかこつけて引き延ばしをもくろんだことにほかならない。

 第三点については、調査によれば本事件の証人千人余りはみな身をもってその状況を体験したのであり、当時目撃した日本軍の暴行についての痛切な陳述はまるで絵のようである。

 被害者の遺体・頭蓋骨数千体は本法廷により合葬地点から掘り出されている。霊谷寺の無縁仏三千余体の墓碑はいまも存在している。郭岐の編になる『南京陥落後の悲劇』(『陥都血涙録』) は、はるか民国二十七年に西安で書き上げられたものであり、 同年八月に『西京平報』に発表された ( 京字一二号証拠書類一ページを見られたい ) 。

 国際委員会が組織した南京安全区の档案、外国籍記者ティンパレーの著した『日本軍暴行紀実』、およびアメリカ国籍の教授スマイスの書いた『南京戦禍の真相』はどれも、 当時まだ参戦していなかったイギリス・アメリカ・ドイツの人々のために彼らが目撃した情景を記述した日本軍の暴行記録である。

 日本軍は殺人をゲームや娯楽にしていたのであり、それは被告本国の『東京朝日新聞』に掲載されている(京字一〇号証拠書類の二八四・二八五ページを見られたい) 。 虐殺の写真および虐殺都市の映画はともに日本軍が撮影したものであり、それによって武勲を誇示しようとしたのである。

 それらはひとしく被告および南京を共同で攻撃した各軍事指導者が共同で暴行をおこなった動かぬ証拠である。被告はついにでまかせで虐殺を抹殺しようとし、偽造であるなどと妄言を弄したが、全く理由にはならないと言うべきである。

 以上の各反論を総合すれば、どれも言い逃れをし責任を逃れようとしたものであって採用することはできない。

 調査によれば被告は作戦期間中凶暴残虐な手段をもって、兵を放任し捕虜および非戦闘員を虐殺し、ならびにほしいままに強姦・略奪・財産破壊などの暴行をおこなったことは、ハーグ陸戦法規および戦時捕虜待遇条約の各規定に違反し、 戦争犯罪および人道に反する罪を構成すべきものである。

 その問の方法と結果の関係については一回のものとして処断すべきである。また連続してほしいままにおこなった残虐行為は、犯罪意志の概括に基づき連続犯の例によって処罰を決めるべきである。

 按ずるに被告と合同攻撃の各軍事指導者は、率いた部隊が首都を陥れたのち、兵がほしいままに残虐行為をおこなうのをともに放任したので、殺戮にあった者は数十万に達することとなった。 さらに腹を割き、さらし首にし、輪姦し、生きたまま焼くといった残虐行為を徒手の民衆と無事の女性・子どもにはたらいたことは、その残虐極悪なことは比類がない。

 人類文明の重大な汚点となっただけでなく、その内心の陰険さ、手段の悪らつさ、被害の惨烈さを考えるとき、哀れむことはできない。極刑を与え、もってあきらかな戒めを示すべきである。



 上述によって結論を下せば、刑事訴訟法第二九一条前段、ハーグ陸戦法規第四条第二項、第二三条第三款・第七款、第二八条、第四六条、第四七条、戦時捕虜待遇条約第二条、第三条、戦争犯罪裁判条例第一条、 第二条第二款、第三条第一款・第四款・第二四款・第二七款、第十一条、刑法第二八条、第五五条、第五六条前段、第五七条によって、判決は主文のとおり。

 本件は本法廷検察官陳光虞が出廷して職務を執行した。

 

 中華民国三十六年三月十日

国防部戦犯裁判軍事法廷    

裁判長 石美瑜       

裁判官 宋書同

裁判官 李元慶

裁判官 葛召棠

裁判官 葉在増

右正本は原本と相違ないことを証明する。

               書記官 張体坤

中華民国三十六年三月十日

裁判官  孫建中

裁判官  龍鍾煌

裁判官  張体坤


〔井上久士訳〕

(『南京事件資料集 2中国関係資料編』P297〜P306)

 (2005.7.8記)



 
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