事 実
谷壽夫は日本軍閥のなかの剽悍善戦の軍事指導者であり、はるか日露戦争においてはやくも従軍し戦績をあげている。
民国二十六年、中日戦争が起こるにおよんで第六師団長に任ぜられ、同年八月部隊を率いて侵略戦争に参加した。まず河北省の永定河および保定・石家荘などを転戦した。
同年十一月末、中国側は南京上海沿線の戦況がしきりに不利を告げたので、陣地を移して南京の防衛をかためた。日本軍閥は首都を抗戦の中心とみなして、その精鋭にして残虐な第六師団谷壽夫部隊・第一六師団中島部隊・
第一八師団牛島部隊・第一一四師団末松部隊などを糾合し、松井石根大将の指揮のもと力をあわせて攻撃してきた。
中国軍の強力な抵抗にであったので、その恨みを晴らそうと入城後計画的な虐殺をおこない報復したのである。
谷壽夫が率いる第六師団は先鋒部隊をつとめ、二十六年十二月十二日 ( 旧暦の十一月十日 ) 日暮方、中華門を攻略し先頭部隊が縄梯子をのぼってなかに入った。これがすなわち虐殺の始まりであった。翌朝また大軍を率いて入城し、
中島・牛島・末松などの部隊と南京市各地区に分かれて押し入り大規模な虐殺を展開し、放火・強姦・略奪をおこなった。
調査によれば虐殺が最もひどかった時期はこの二十六年十二月十二日から同月の二十一日までであり、それはまた谷壽夫部隊の南京駐留の期間内である。中華門外の花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などの箇所を合計すると、
捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など一九万人余りに達する。このほか個別の虐殺で、遺体を慈善団体が埋葬したものが一五万体余りある。被害者総数は三〇万人以上に達する。死体が大地をおおいつくし、悲惨きわまりないものであった。
その残酷な状況はとても筆紙に形容しがたいのであった。
たとえば十二月十五日午後一時、中国の軍人警察官二千人余りは日本軍に捕えられてから漢中門外に連行され、機関銃で密集射撃をあびせられ弾丸を受けてそろって落命した。負傷して息のあった者はことごとく焼き殺された。
同月十六日午後六時、華僑招待所に集まっていた難民五千人余りは、日本兵に中山埠頭に連行され機関銃で射殺された。死体は長江に捨てられたが、白増栄・梁廷芳の二人だけが弾丸で負傷しながら水中に飛び込み、
漂っている死体とともに流されて幸運にも生きながらえた。
また同月十八日夜、幕府山に捕らえられていた中国の軍人・民間人五万七四一八人は、針金で縛られ下関の草蛙峡に駆り集められ、これまた機関銃で射殺された。倒れながらもなお血だまりのなかで必死にもがいている者をめった斬りで殺し、
遺体はすべて石油をかけて焼却した。
またたとえば十二月十二日、農村婦人王徐夫人は中華門外下埠頭で日本軍にさらし首にされ遺体を焼かれた。
同月十三日、村人魏小山は谷壽夫部隊が中華門堆草巷で放火していたので、救助しようと駆けつけたところ斬殺されてしまった。
同日、僧侶隆敬・隆慧、および尼僧真行・灯高・灯元などは中華門外の僧庵で全員殺害された。
十四日、市民姚加隆が家族を連れて中華門斬龍橋に避難していたところ、日本軍に出会い妻は強姦のうえ殺害された。八歳の子どもと三歳の幼女がそばで泣いていると、銃剣で突き刺して火中に投入れ生きたまま焼き殺した。
同月十三日から十七日、厳寒の時期にもかかわらず中華門外に駐屯していた日本軍は、村人三十人余りに水に入って魚を捕ることを強いた。したがえば凍死し、拒否すれば殺された。
またある老人を木の枝に縛って吊し、銃で狙いを定め射撃練習をした。最後に命中すると縄が切られくずれおちて絶命した。
また日本軍の将校二人が殺人競争をおこない、ひとりは一〇五人を殺したがもうひとりが一〇六人を殺して勝利した。
同月十九日、六〇歳を越えた農村婦人謝善真は、日本軍に中華門外の東岳廟で刀を使って刺殺された。そのうえ竹ざおを陰部に挿入され、いずれも残酷非道このうえないものであった。
十二月十二日から同月二十一日までで、首都の無辜の軍人と民間人が日本軍に惨殺された事件で調査できたものは八八六回に達している ( 付属文書甲一号から二八号、乙一号から八五八号までを見られたい
) 。そのうち中華門一帯での被害は上記のほかに、なお王福和・柯大才・卓呂同・沈有功・劉広松・曾文党・余必福・陳蕭夫人など三七八件の事件がある
( 詳しくは付属文書甲九・一三・一八・一九・二〇 ・二四・二六・二八号、乙一号から三七〇号を見られたい) 。
日本軍は入城後、四方に強姦に出かけひとえに淫欲を逞しくくした。外国人の組織した国際委員会の統計によれば、二十六年十二月十六日・十七日の両日、中国の女性で日本軍に蹂躙された者は千人を越えている。そのうえ方法の猟奇的で残虐なこと、
実に前代未開である。
たとえば十二月十三日、民間の婦人陶湯夫人は中華門東仁厚里五号で日本軍に輪姦されてから腹部を切り開かれ遺体を焼かれた。
妊娠九か月の妊婦蕭余夫人、一六歳の少女黄桂英、陳姉妹、および六三歳の農村婦人まで中華門地区で残酷に汚された。
農村の少女丁さんは中華門堆草巷で、日本軍兵士一三人に輪姦されてから狂暴さにたえられず助けを求める声をあげたので、刀で下腹部を刺されて殺された。
同月十三日から十七日までに日本軍は中華門外で少女を強姦してから、通りかかった僧侶に続いて強姦をおこなうように迫った。僧が拒絶して従わないと、ついには宮刑に処して死に致らしめた。
また中華門外土城頭で三人の少女が日本軍に強姦され、差恥と憤怒のあまり川にとびこみ自らいのちを絶った。
南京に留まった中国女性で身に危険がなかった者はおらず、そこで国際委員会の画定した安全区に相継いで避難した。日本軍は国際正義を顧みるどころか、ついにはその獣欲を存分に発揮し、夜ごと闇に乗じて塀をこえて侵入し、老若を問わずやみくもに強姦した。
外国人は国際団体の名義でくりかえし日本軍当局に厳重抗議をおこなったが、日本軍指導者の谷壽夫らは聞かなかったかのように放置し、部下に以前どおりほしいままの暴虐をしたい放題にさせておいた。
さらに日本軍のほこさきが向かうところ、放火と虐殺がつねに同時におこなわれた。わが首都はその恐怖実行政策の対象となったため、火災の激烈残忍なことも比類がないものであった。陥落の直後、中華門ぞいから下関の川岸までいたるところ火災となり、
炎は天がこがすいきおいで南京の半ばはほとんど灰塵に帰してしまった。
公有私有の財産の損失は数字で計算できないほどである。
中華門循相里の家屋数十棟はすべて火災にあい、住民何慶森・夏鴻貴・畢張夫人など数百人が家屋を失って住む場所もなくなってしまった。
中華門釣魚巷・湖北路・長楽路・又閘鎮各所の住民曾有年・常許夫人・馮兆英などの家屋数百棟も火災にあい全焼してしまった。
十二月二十日まで全市で計画的な放火行為がおこなわれ、市中心地区の太平路は一面炎につつまれ、夜になってもやむことがなかった。
そのうえすべての消火設備がことごとく略奪にあい、市民であえて救済しようとした者は容赦なく殺された。
さらに日本軍は貧欲さが性になっており、食糧・家畜・食器・骨董品などなんでも略奪しないものはなかった。
たとえば石壩街五〇号で漢方医石莜軒の貴重な書籍四箱・書画骨董二千幅余り・家具四百個・衣服三十箱余りを略奪した。
また集慶路・任管巷などで民間の家畜・食糧・金銭を強奪したが、それは計算できないほどである。
すなわち国際赤十字病院内で看護婦の財物、病人の布団、難民の食糧もすべて略奪された。
アメリカ大使館職員ダグラス・ジェンキン(Douglas Jenking)、アメリカ国籍の女性宣教師グレイス・パウアー(Miss Grace
Bauer) 、ドイツ人のラーベ(Rabe)、バーチャード(Barchardt)、ポブロ (Poblo)、ジェイムセン(Jeimssen) などの住宅も前後して略奪をうけ、損失は甚大である。
数々の非法行為は数えあげることができないほどである。日本の降伏後、谷壽夫は東京で逮捕、中国駐日代表団を通じて南京に護送され、本法廷検察官の取調べにより起訴された。
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