安全区  敗残兵狩りの実相


 実際に、安全区内において「民間人と元兵士の選別」がどのように行われたのか、という資料を、いくつか紹介します。 
*なおここでは、12月14日から16日にかけて歩兵第七連隊によって行われた「敗残兵狩り」にテーマを絞りました。 この他、12月下旬からの「良民登録」に絡んで第十六師団によって行われた「兵民分離」がありますが、これについては、また別の機会に譲ります。 


●日本軍兵士の記録

「井家又一日記」(歩兵第七連隊第二中隊上等兵)

◇拾弐月拾六日

 拾弐月も中を過ぎ去ってしまった。金沢召集を受けて満三ケ月に成ってしまった。只無の世界の様である。午前拾時から残敵掃蕩に出ける。高射砲一門を捕獲す。午後又出ける。 若い奴を三百三十五名を捕えて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全く此の中には家族も居るであろうに。 全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。

 新聞記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来るのに日本の大人と想ってから十重二重にまき来る支那人の為、流石の新聞記者もつひに逃げ去る。はしる自動車にすがり引づられて行く。 本日新聞記者に自分は支那売店に立っている時、一葉を取って行く。

 巡察に行くと夕方拾四日の月が空高く渡っている。外人家屋の中を歩きながらしみじみと眺めらされるのである。

 揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った。

 此の寒月拾四日皎々と光る中に永久の族に出ずる者そ何かの縁なのであろう。皇道宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである。
 
 憲兵隊が独逸人家屋に侵入を禁ずと筆太く書かれている。市街の何処に行けど日ノ丸の旗は掲げられている。肩に荷いて歩く物でさえ旗を手に持って歩く奴も居るし、又腕に巻きつけている奴も多数あるのである。

(『南京戦史資料集機截丕械沓亜
 



 井家氏は、「12月22日」にも「敗残兵殺害」の記録を残しています。必ずしも「民間人誤認殺害」の資料ではなく、また時期も「12月14日〜16日」のものではありませんが、 「殺害方法」を見る上でひとつの参考となる資料ですので、合わせて紹介します。


「井家又一日記」(歩兵第七連隊第二中隊上等兵)

◇拾弐月弐拾弐日

 満月の月は日々に近づくのかかけて行く、夜の寒さは一入身に泌みる。

 メリケン粉を固めて団子にして葱の汁に入れて雑煮を祝った様な者である。全くお正月を迎えた様な者である。襦袢や袴下を衣替をやる。晴々した、精神的に小春日和の様になる。

 畠に行き通行の支那人拾五名を徴発して葱の掃除をやる。

 夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。

 百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。日はすで西山に没してすでに人の変動が分るのみである。

 家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。 うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。 中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。 いくら呼べど下りてこぬ為ガソリソで家具を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す。

 暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しバンバンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。 終りて並べた死体の中にガソリソをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。

 向うの竹薮の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。

(『南京戦史資料集機截丕械沓魁
 


 
「水谷荘日記 戦塵」(歩兵第七連隊第 一中隊一等兵)

 十二月十四日

 朝、第一公園近くに、我軍の空襲で屋根をおとされている家屋が、宿舎に充てられた。

 昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当り、若い男子の殆んどの、大勢の人員が狩り出されて来る。 靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、日付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の二十一名と共に射殺する。

(後略)



 十二月十六日

 午前、中隊長と二人だけで、宿舎北方の山寺へ行く。由緒ある古寺らしく、その規模の壮大さに先づ圧倒させられた。

 此処は敵の憲兵第二団が置かれた跡である事が、遺留された書類や物品で判明した憲兵隊らしからぬ、戦闘部隊用の兵器、弾薬等が移しく集積されていて、水冷式重機関銃一挺を発見する。 其の他被服類の梱包等数えきれない物資が、年輪を経た巨木の繁みの陰に積み上げられていた。

 午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。

 目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四方を着剣した兵隊が取り巻いて連行して来る。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。

 市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。

 酒井曹長が中隊に到着

(『南京戦史資料集機截丕械坑機■丕械坑供
 



 「選別方法」がいかにアバウトなものであるかを示す資料を、当時の新聞記事から発見しましたので、紹介します。


『大阪朝日新聞』 昭和一三年一月九日

兵隊さんの赤毛布座談会  南京にて 近藤特派員 (一部抜粋)

記者 いま市内の避難民区には約八万の避難民が生活してゐるさうですが、これの治安維持や取締上の苦心談をどうぞ

清水上等兵 入城して直に市内掃蕩に着手したとき、よくまあこれだけの避難民たちがあの激烈なる攻撃中、逃げもしないでじつと市内に固まつてゐたものだとつくづく驚いたり感心させられましたね、

 入城した十三日などは敗残兵が出没するほかは良民らしいものの姿は一つとして見えなかつたのにもう翌日の十四日にはどこに潜んでゐたものかゾロゾロと群をなして現はれ気の利いた支那人のうちでは早くも靴修理や理髪屋をはじめ出したものまであつた、

 それも千や二千といふ数ならいいが七万も八万もといふ大勢なのでこの中から逃げ隠れた便衣の敗残兵を捜し出すのはなかなか骨のかかる仕事でしたよ

 北支でも経験を積んだので、手に銃瘤のやうなものがある男、頭に帽子を被つてゐたらしい條の残つてゐるもの、それから下着に夏服を着てゐるやうな奴は大概敗残兵と見当はつくのですが、なかには巧く化けてなかなか判別のつかないのがゐる。

 われわれも良民を引張つては可哀さうだと思ひ避難民中から数名の巡警を連れてきて敗残兵か良民かの判別をさせることにしたが、これがまた実に頼りない

 ちよつとこちらで臭いなと思ふ奴を巡警の方で「良民だ」といふので「出鱈目いふと承知せんぞ、敗残兵に違ひないと思ふが、どうだ?」と念を押すと「はあ、この男は兵隊でした」と他愛なく答へる

(『大阪朝日新聞』昭和十三年一月九日 第五面)
 




●ジャーナリストの記録


佐藤振壽『従軍とは歩くこと』


 そんな時、連絡員の一人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせて来た。何事かよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。

 行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。

 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には五メートル平方、深さ三メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。
 
 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。

 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。

 たまたま穴の方へ歩かされていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた日本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。

 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだつた。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人聞を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。

 後で仲間にこの時のことを話すと、「カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか」と反問された。「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。

 写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の哨舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが「棚 OO 、捕虜収容所、歯獲品集積所」という文字が読める。

 「駐軍八十八師司令部」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。

 ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海戦で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七聯隊第三大隊の通称である。

(中略)

 八十八師の営門を入り営庭を過ぎてソ連製の飛行機があったのだから、あそこは城内の故宮飛行場ではなかったろうかと思っている。


第十六師団だけの入城式

 十二月十五日中山門占領から二日たった。南京城内には、まだ敗残兵がいるらしい。それでも難民区に沿った中山北路を行くと、難民区の中から牧師らしい服装をした中国人が出て来た。軍人とは違った服を着ていたせいか、筆者に英語で話しかけて来た。その言うところは、「ここは紅卍会の難民区だから、日本兵は立ち入らぬように・・・・」と言うのだった。

 難民区の周辺には、生活力のたくましい中国人たちが、もう露店を出している。白地に梅干しを書いたような日の丸の腕章を左腕につけて、筆者の撮影にも無関心だった。自分の畑で収穫したらしい野菜を売る者、中古の衣類を売る者、鮫子入りのスープを売る者など。

 通りかかった日本兵に「兵隊さん、鮫子を食べないか、食べたらお金を払ってね」と声をかける。この兵隊は気安く歩兵銃を肩に負い直して、中国人の女が差し出したドンブリを手にした。私は箸を持って水鮫子を食べだしたところを写真に撮った。

 このあたりでは、子供も日本兵を恐れる様子は見せなかった。


中国の女に泣きつかれる

 十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武湖の風景写真を撮ったりした帰途、 難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。

 車を止めると助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。

 彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。

(「南京戦史資料集供P610)


 
今井正剛『南京城内の大量殺人』


 虐殺を眺める女子供

 以前の支局へ入ってゆくと、ここも二、三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。

 「おう無事だったか」

 二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持ちの昼寝だった。

 「先生、大変です、来て下さい」

 血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。 アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員と私はあわてふためいて飛び出した。

 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四、五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二、三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめき声が夕陽の丘いっばいにひぴき渡る。次、また六人である。

 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみこんだ四、五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。そのまわりをいっばいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。 しかし、私の耳には何もきこえなかった。パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳いっばいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだった。

 傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていった。

 「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」

 硬直した軍曹の顔は私をにらみつけた。

 「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
 「どいつだかわかりますか」
 「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」

 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。群集の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳くらいの青年が飛び出して来た。

 「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」

 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群集を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群集が殺到した。

 「まだやりますか。向こうを見たまえ、女たちがいっばい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」

 私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。

 大量殺人の現場に立ち、二人の男の命を救ったにもかかわらず、私の頭の中には何の感慨も湧いて来なかった。これも戦場の行きずりにふと眼にとまった兵士の行動の一コマにすぎないのか。いうならば、私自身さえもが異常心理にとらわれていたのだ。

(『目撃者が語る日中戦争』P53〜P55)

*以上、十二月十五日の出来事、とのことです。


 


以上、「兵民分離」の選別方法がかなりいい加減なものであり、少なからぬ数の「民間人誤認連行」が行われた可能性が大きいことを、見てきました。 その「数」を論じることは今日では困難ですが、一応、「数」を推定する手がかりとなる資料を、いくつか提示します。



 まず、「12月14日から16日」までの「敗残兵狩り」の犠牲者の全体数については、下記の資料があります。

*なおこの数字は、12月14日〜16日の3日間のみのものであり、12月下旬から1月初めにかけての第十六師団によるものなどを含めれば、全体では1万人程度となる可能性があります。

 
『伊佐一男日記』  (歩兵第七連隊長・歩兵大佐)

◇十二月十四日

 朝来掃蕩を行ふ。地区内に難民区あり。避難民約十万と算せらる。


◇十二月十五日

 朝来担任地域内の掃蕩を行ふ。午前九時半より旅団長閣下と共に地区内を巡視す。

 午後三時頃大谷光照伯<筆者一高配属将校時の生徒>慰問に来訪せらる。

 入浴す。
 

◇十二月十六日

 赤壁路の民家に宿舎を転す。

 三日間に亙る掃蕩にて約六五〇〇を厳重処分す。

(『南京戦史資料集機截丕械械粥
 


 
歩兵第七連隊『戦闘詳報』 

自十二月十三日 至十二月二十四日 南京城内掃蕩成果表 歩兵第七連隊


一、射耗弾 小銃      五,〇〇〇発
        重機関銃   二、〇〇〇発

二、刺射殺数(敗残兵)   六、六七○

三、鹵獲品 (略)

(『南京戦史資料集機截丕毅横粥
 


 


 このうちどの程度が「民間人誤認殺害」であったのかは、今となっては知る方法はありません。 「数字」の手がかりとなる資料は、「南京地区における戦闘被害」(いわゆる「スマイス調査」と、ヴォートリン日記のふたつでしょう。

 
南京地区における戦争被害


 
以上に報告された死傷者に加えて、四二〇〇人が日本軍に拉致された。臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発されたものについては、ほとんどその事実を報告していない。六月にいたるまでこのようにして拉致されたものについては、消息のあったものはほとんどない。 これらの人びとの運命については、大半がこの時期の初期に殺されたものと考えられる理由がある。 (1)
(1)「拉致」がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっきりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・選択婦・売春婦として連行された。しかし、彼女らのうち誰一人としてリストされてはいない。
 拉致された者の数字が不完全なものであることは疑いない。実際に、最初の調査表には、これらの人びとは死傷者のうち一項目「事情により」というところに書きこまれており、調査の計画段階では必要とされもせず、予想もされなかったのである。 こうして、これらの人びとは並なみならぬ重要性をもつものとなり、単にその数字が示す以上に重要なものとなっている。こうして、拉致された四二〇〇人は、日本兵によって殺された者の数をかなり増加させるに違いないのである。 (1)
(1)市内および城壁附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、一万二〇〇〇人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない。 三月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた一万三五三〇家族のうち、拉致された男子は、十六歳から五十歳にいたる男子全部の二〇パーセントにも達するものであった。これは全市人口からすれば一万八六〇人となる。救済をもとめてやってきた家族の言によるのであるから、誇張されているところもあろう。 しかし、この数字と当調査で報告された四二〇〇人という数字の差の大部分は、おそらく男子が拉致されても、拘留あるいは強制労働をさせられて、生存した場合を含むことによるものであろう。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」P223)



「第4表 日付別による死傷者数および死傷原因」より(関連部分を抜粋)


日付(1937―1938) 拉致されたもの*
12月12日以前
12月12、13日   200
12月14日〜1月13日 3,700
1月14日〜3月15日   250
日付不明のもの    50
4,200


*これら拉致されたものについては大半がまったく消息不明である。
 
(同 P254)

*「ゆう」注 本テーマとは直接関係ありませんが、この数字は「市部調査」によるものであり、「農村」の数字は含まれていないことに注意して下さい。


 ただしこの数字は、必ずしも「安全区における誤認殺害」に対応したものではありません。「苦力」として連行された者も、相当程度含まれていると思われます。またその一方で、スマイスは「数字が不完全」であることにも言及しており、数字自体は上方修正される可能性もあります。


 
ヴォートリン日記「南京事件の日々」

 一九三八年四月  (翻訳者によるダイジェスト)

 国立中央大学の付近にある模範刑務所に元兵士の嫌疑を受けて多くの民間人が入獄しているという情報をもとに、ヴォートリンの救出活動は粘り強く続けられた。 南京市政府公署の顧問をつとめる許伝音博士から、収容されている民間人の釈放を求めるには新たな形式の嘆願書と名簿の提出が必要であるといわれたヴォートリンは、四日間をかけて新しい書類を作成させる。

(中略)

 夫や息子を拉致された女性たちが、同刑務所からの釈放嘆願書に名前を書けば、幾重不明のままの夫や息子が戻されるのではないかという一抹の望みを託して、新たな形式で開始された嘆願の署名に、一日に数百人の割合で女性が金陵女子文理学院を訪ねてくる。

(中略)

 六日の日までに、九三五名の釈放嘆願署名が集まったが、そのうち模範刑務所に収容されているのを確認できているのは一〇人にすぎなかった。嘆願者の受付時にスタッフが調査した結果では、 上記の嘆願者総数のうち、二四一名の女性が、一家の働き手の男性を失って収入もなく、何人かの子どもと老人を抱えたままで絶望的な生活状況にあることが判明した。

 その日の午後、たいへん美しい若い婦人が三人の子どもをつれて嘆願署名に訪れ、夫が拉致されて不明のまま、助けてくれる人もいないと悲しそうに話していった。この日で署名数は一〇三五名になった。その数字の一つ一つに夫や息子を失った女性の悲劇がこめられていた。 数日後には、三ヵ月前に三人の息子を拉致されたという初老の母親が、ヴォートリンたちに会えば、なんとかして息子たちを返してもらえる方法を知っているのでないだろうかと訪ねてきた。

(「南京事件の日々」P237〜P239)


 一九三八年五月〜六月初旬  (翻訳者によるダイジェスト)

 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らわれていた民間人のなかで、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、六月二日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会にくるようにとの連絡が入ったことである。

 そして翌日、 三〇名の男性市民が模範刑務所から釈放され 妻子、家族のもとへ帰って行った。ヴォートリンは、一月から始めた釈放嘆願署名の成功を喜ぶとともに、結局は夫や息子が戻らなかった圧倒的多数の釈放嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。
 
(「南京事件の日々」P243〜P244)



 約1000名の「行方不明者」が報告されています。

 こちらは、あくまでも「ヴォートリンの下に集まった釈放嘆願署名の数」であるに過ぎず、全体の「実数」をどの程度反映したものであるかはわかりません。また、農村部からの訴えも相当数あったようで、これは「安全区の敗残兵狩り」とはまた別の話でしょう。

 以上、スマイス調査もヴォートリン日記も、「誤認殺害数」を推定する資料としては不十分なものですが、おおまかに、「(千に近い)数百名から数千名の間」と見ることが可能かもしれません。

(2004.8.29記)

 
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