花山信勝『平和の発見』より
松井石根
第四回、十二月九日(木)午後一時二十分から二時二十分まで。
松井さんは、この日もいつものように、米兵の着る作業衣の上に、紫のガウンを着て、下駄ばきで飄々と入ってこられた。いくらか中風気があると見えて、いつでも、少しふるえていられるようだ。私は礼拝を終って、向き直ってから、ふと気がついたことだったが、松井さんはガウンを脱いで坐っていられた。この寒いのにと、そのお気持を尊く感じた。
「御機嫌よろしう。新聞はいかがですか、ごらんになっていますか」
「昨日は新聞が入りました。アメリカの大審院でとりあげたというのですね。結局、同じことですよ。いっそ早ければ、よいと思いますがね」
「そうでしょうね」
「折角覚悟したところを・・・」
「あなたへのお手紙が一通来ておりますが、長州の善光寺の光永諦雄という方からです。御記憶がおありでしょうか」
「はい。それは、私の方の観音さまの分身をまつっておられる人ですが・・・」
「そうです、では読んで差上げましょう」
その手紙は、つぎのようなものだった。
別紙松井氏へと認めたる要点を、御本人存命中に御伝言下さるをえば、有難き至極の因縁と存じ上げます。かつて上海方面から帰還された松井氏が、興亜観音を、発願建立し、彼我の英霊を永久に供養せんとする悲願に感激し、その分身を勧請して、拙寺供養塔の本尊といたして居るものでございます。松井氏には、唯一度御面会申上げたのみ、真に一会一期とはこの事でございました。弥陀の誓願に乗托して、私共は此度浄土の彼岸にて倶会一処の果報に住せんのみ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
別紙には、親鸞御作の三首の和讃をかかげ、
松井様、愚僧の生命のある限りあの観音様を礼拝し、あなたの悲願を憶念し、世界の平和を祈ります。観世音即阿弥陀仏、阿弥陀仏即観世音、さらば真実報士にて御再会申上げましょう
「まことに、坊さんのお気持ちの通りでおるから、安心して下さいといってやって下さい」
「承知しました。なお、先日、あなたには特に関係の深い中山理々さんが、三七日間も断食して、斉戒沐浴をして三誓偈を極めて丹念に、大きな唐紙に立派な楷書で書き、それに長い手紙を添えて、七人の方に下さったが、渡されないとのことで、そのまま持ち帰り、御家族の方々へ差上げておきました」
「それはまた・・・。どうぞよろしく」
「全国から、いろいろの方々のお手紙も来ています」
「未知の方のお手紙も、三通みました」
「はあ? 手紙を入れてくれますか」
「はい。最近は差入れてくれてます。・・・処刑にあうのは、観音さまの御慈悲だと心得てるから。大審院で終身刑にでもなったら、まことに困る」
「そうでしょうね。一度覚悟なさった以上は・・・」
「ここの将校さんも大分同情的で、やさしく感ずるようになりました」
「そうでしょう」
「書いたものを、あなたに差上げることは、できないですかね。部屋の中に置いてあるが・・・」
オニロ大尉に頼むと、一枚の紙に、歌二首と詩を書いたのを持って来てくれた。
ここで松井さんは、めずらしく長く、中国を中心とするアジア諸国の性格、について論じられた。
それから、
「日本人の反省はむろんのことだが、こちらが少しやさしくいうと、媚びるというふうにとる向うの国民感情もよくない。お互いにお互いに反省しなければならぬ。張群という人は、旧友で、困っている時ずい分世話をしたことがあり、家内も、向うの夫人をよく知っているので、家内からこの間ぜひ興亜観音に詣ってくれといったが、なかなか明答はしなかった。しまいには行きますといい、私のことについて「御同情にたえない」とも・・・」
などと語られた。
宗教を通じての精神的つながりによらねば、十年、二十年の間は、ほんとうの親善はむずかしいともいわれた。
なお、法廷でものべておられたように、「こうなってみると、日本は大きな犠牲を払ったことになる」といい、また「私に生命があれば、仏印の安南へいってみたい」ともいわれた。
それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。
「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。
私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。
慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。
従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
「まことに、尊いお言葉ですね・・・」
「家内にもこの間、こうして往生できるのは、ほんとに観音さまのお慈悲だ、感謝せねばならんといっときました」
「あなたのお気持ちは、インド判事の気持と一しょですね」
「ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大へんよくいっておる。われわれのいわんとするところを、すっかりいっておる。さすがにインド人だけあって、哲学的見地から見ている。あの人たちは多年・・・経験しているので・・・」
「では、また来週・・・。風邪などめさぬようお気をつけ下さい」
松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向って礼をして、下駄をカラカラ曳きずって、いつもの通りそろそろと去られた。戸口を出られる時「ご機嫌よう」と声をかけると、振り向いてあいさつされた。
(P225-P230)
※「ゆう」注 太字部分が、「南京事件」に関する発言です。原文では改行はありませんが、ここでは、読みやすくするために、適宜改行を入れました。なおここに登場する「ある師団長」とは、一般には、第十六師団師団長・中島今朝吾中将のことである、と理解されています。 |