火野葦平の手紙
 

●昭和十二年十二月十五日、南京にて

火野葦平の手紙

 其の後皆様御変りなき事と思ひます。

 出征以来、匆忙の間、詳しい便りもせず、すみませんでした。色々と、留守中にかけた迷惑や御心配のことを考へ、申訳なく、思つて居ります。僕自身の生活に対する考へ方、人生観、さういふものが、この、生きるか死ぬるかの境の中で、思ふ存分、叩かれ、練られ、僕自身として、真に自分の生きる道を発見したやうにも思へます。

 出征以来、もとより、生還を期せず、何時、弾丸の鞭の下に、支那の広野に屍をさらすとも止むを得ないと覚悟して居ました。不思議に、敵弾の雨あられと降る中を走破する時も恐しいと思はず、平気でした。

 十八師団が上陸以来、南京までに戦つた戦闘の中で、最も激烈であつた嘉善の戦で、我々百十四聯隊(片岡部隊)は三日間攻撃したのでしたが、その間、我ながら、平気な気持で弾丸の前に立つて居りました。南京までの進軍の中、嘉善の激戦ほど、無数なトーチカのあつたところはありません。

 嘉善の激戦は十一月十一日から十三日まででした。道路をはさんで、無数のトーチカから、すさまじい弾丸が引つきりなしに飛んで来るのです。南沙に上陸してから金山まで、雨降りの中を、進軍したのですが、 道がないため、田圃の中を通り、泥沼に埋もれ、それでも歩兵だけは漸く通つたけれども、馬や車輌のある砲兵部隊はなかなか進めないのです。それを工兵隊の淹(ママ)護で、どうやらこうやら通る、 馬は根がつきて、たほれる、仕方がないので、砲身を兵隊がかついで行く、膝まで泥濘にうまる、そんな有様なので、嘉善の攻撃の時には、砲兵が間に合はないのです。

ただ、山砲だけが淹(ママ)護射撃をやつたのですが、山砲弾がトーチカに命中しても、なんのことはないのです。それもその筈、トーチカの壁は鉄筋コンクリートで、二尺近くもあり、 その上を、土でおほひ、幾つかの銃眼をつくつて、そこから、小銃や、機関銃で射つのです。こつちから打つ弾は、小銃はもとより、機関銃、山砲まで、なんの役にも立たんのです。

ところが、おかしいのは、日本の飛行機が来る爆音がすると、射撃をやめてしまふのです。飛行機がよつほと好かんと見えるのです。飛行機はトーチカをめがけて盛に爆弾投下をやるのですが、なかなか当らん様子です。たまに当つても、トーチカの中はどうにもなつてないらしく、命中したトーチカから相かはらず、弾丸がとんで来る。 これはどうしても、歩兵で、トーチカを片端から占領して行くより外ないのです。十一日はとうとう、前進が出来ず、十二日も対陣のまま暮れました。

十一日の晩は、大隊本部の護衛で、一晩、散兵濠の中で暮らし、十二日も、少し出たところに散兵濠を掘つて夜を徹しました。十一日の晩はよい月が出て居ました。すぐ、百米位先にはいくつもトーチカがあつて、ひつきりなしにタマが飛んで来る。日本軍は、夜は射撃しないといふ立て前ですが、支那兵は、一晩中、打ちつづけます。

夜があけて、濠から前進し、竹林の中に入つて、トーチカに向つて、攻撃することになりました。竹林から、前方に一軒家があつて、距離が約八百米位あるのです。その前は、クリークらしく、石の太鼓橋が見えます。川向ふのトーチカから竹林にあられのごとくタマが来ます。 支那のタマはこちらに来てから、パチツと破裂するので、すぐ眼の前で、打つて居るやうです。二三名ばたばたと殪れました。

 前方の一軒家まで前進しなければならないのですが、まん中辺に、一寸した堆土があるきりで、あとは田で、何にもかくれるものがない、先頭はそこを走り出して、一軒家まで、やうやく辿りつきました。 続いて、我々(第一小隊)が飛び出して、まん中の堆土まで行きついた、ピユンピユンとタマが来て、我々が身体をかくして居る堆土に、プツ、プツ、とつきささる。

 ところが、竹林の方から、大きな声で、山砲をうつのに邪魔になるから、下つて来いといふのです。山砲で威嚇(イカク)射撃をしてから、歩兵が前進しようといふわけらしいのです。仕方がないから、また竹やぷまで引つ返した、 ところが、聯隊長がすぐやつて来て、どうして引つかへしたか、早く前の一軒家まで行けといふのです。すぐ、竹林を飛び出して、今度は、ひといきに、一軒家まで走り出した。

 誰かがたほれた。恰度、稲が刈りとつてないので、歩きにくい。タマはすごいほど来る。走るときついので、のそのそ歩いて行きました。

 また横で誰か、たほれた。トーチカのこちらの土手で軽機関銃を打つてゐた兵隊が、やられて、機関銃を持つたまま、ひつくりかへつたのが見えました。山砲はもうどんどん打つて居る、やつと一軒家に辿り着きました。

 前方のトーチカからは一軒家を目がけて集中射撃です。どこから来るかわからんタマが横からも来る、これこそ正に十字火を浴せられて居るのです。それが、昼頃でしたが、とうとうそこで五時頃まで、出られずに、家のかげに、中隊はかたまつて居ました。

 一軒家の前に太鼓橋があつて、そのすぐ前にトーチカがある、それをとりあへず占領しようといふことで、評定してゐると、そのトーチカから、どういふわけか敵兵が三名ほど出て来た。それを第二小隊の兵隊が打つとうまくあたつて、たほれました。第二小隊が先づ、発煙筒で煙幕をつくつて、太鼓橋をわたつた。実に壮烈な瞬間でした。

ところが、前方のトーチカにはもう、敵兵は居なかつたらしく、トーチカに入つて、その前方に、ぐるりと、散兵線をつくつた。そして、こちらからは見えなかつたけれども、すぐ散兵濠を掘つたらしい。それから、三十分位すると、逆襲といふ声がしたのです。 そら出ろ、といふので、我々の一小隊が、一軒家を飛び出して、太鼓橋をわたつたのですが、今考へると、あの時タマの当らなかつたのが、不思議な位です。

 太鼓橋の下まで来て見ると、橋の上に二三人たほれてゐる、見ると、焼けた支那兵の屍体です、一気に太鼓橋をおどりこえた、石に当つて、タマが、パチパチと火花が出てゐる、誰かが、ペたりと橋の上に伏せて、黒こげの支那兵に抱きついた、橋を下りて、すぐ、前のクリイクに飛びこんだ、膝まで、つかつた。 二分隊の兵隊が皆渡つてから、すぐ、どんどん散兵濠を掘らせた。雨模様で、土はぬれて居る、中に居ると、ぢくぢく水気が身体に泌んで寒いのです。敵は来たかと思つたが、さうではないらしい。 二小隊が、一個小隊だけではさぴしいので、逆襲と云つて、我々の小隊を呼んだらしいのです。が、タマだけは引つきりなしに来る。

 日暮れ頃、小しゃくにも、敵兵は濠をつたつて逆襲して来ました。図に青い鉛筆で線を引いたのが散兵濠です。濠の中をしやがんで来るのですが、頭が見える、近いので、 何か、チイヤ、チイヤ、とか妙なかけ声で、銃を上げたり下げたりして、だいぷ、来る、こつちはぢつと待つて居つて、敵が濠の曲り角のところに来た時に、一斉に射撃しました。だいぷ倒れた様子で、そのまま逃げました。

いつたい、敵から、夜襲をうけた場合には、三十米位まで近づけておいて、打つといふのが、日本軍の立て前ですが、やはりこわいと見えて、敵襲といふと、どこに敵が居るか、わからんのにめくら滅法にタマを打つ、黒い影を見さへすれば打つ兵があります。それで、たぴたぴ同志打をやつたこともあります。

その夜は五回ほど、朝までに夜襲して来ました。支那軍もなかなか勇敢です。

夜がほのぽのと明けると同時に、濠を飛び出して、攻撃前進を開始しましたが、トーチカがあつて、どうにも前進されない。殊に右手の方から、機関銃で打つので、出られない。そこは銭家浜(ゼンカヒン)といふ所です。

大隊長から、トーチカ占領の命令が中隊に下り、僕の分隊に命令きれた。一種の決死隊です。今度はやられるかも知れんと思ひました。十一時頃でした。分隊の兵隊を七名つれて、タマの中を、トーチカに忍びよりました。目の前にプツプツタマが土にささる、一発、耳をかすめました。(今でも右の耳がいたいです)

しかし、自分でも不思議に思ふのは、大して恐しいと思はず、胸でもどきどきするかと思つたのに、わり合平気であつたことです。 兵隊を見ると、まつ青な顔をして、緊張してゐる、幸、だれも怪我しない様子です、なかなかタマは当らんものです。トーチカは銃眼から打つのだから、それをうまく避けて、卜−チカにとりつきさへすれば、こつちのものです。 「タマは当らやせん、一気に卜−チカにとりつけ」とどなつて、まつ先にかけ出しました。兵隊もすぐ後からつづいて来る。

トーチカにかけのぽることに成功した。横が五間位の大きなトーチカです。土をもつた上に空気抜きか、煙突らしいパイプが三ケ所に出てゐる、そこから手榴弾を投げこむことにしたのです。入口が両側にある、そこを兵隊に張番させた。あれだけの底力を見せたトーチカも、かうやつて乗り上つて見ると、まるきり、袋の鼠です。

たしかに支那兵が五六人は居るにちがひないと思ひ、持つて来た手榴弾を発火させて投りこまうとしたが、とういふものか、手榴弾が発火しないのです。手榴弾は初めて使用するのだし、後で、中隊で教へた使用法がちがつてゐたことがわかつたのです。その時はちよつとあはてたです。二発だめにしました。 三発目に自分で工夫すると、発火したので、その煙突見たいな穴から、ころがしこんだ。手榴弾は発火してから、七秒半で爆発するのです。どかんと破裂した。七発、そこから、投げこみました。

それから、戸口の方へ廻ると、中でがやがや声がして居ます。戸を破らうとしたが、頑丈で破れない。コンクリイトの厚さは二尺近くもあります。見ると、扉の横から電話線が通じてある、これは相当な奴が居ると思つたです。 戸口を銃剣でつついて、「ライライ」とどなりました。支那語は知らんし、来い来い、といふ言葉で、出て来いといふ意味を云ふ外なかつたのです。

ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。
抵抗しないといふ意味でせう。それから、次々に銃を出し初めましたが、何と、十鋌(ママ)、十五、二十、と、意外にも三十以上も出しました。 それから四人最初出て来ましたが、一人は頬べたが半面千断れてゐました。分隊の兵がそこへ坐れといふと、一人逃げ出したので、すぐ、その兵隊が射つと、たほれました。

ライライといふと、次々に出て来るのが、皆、若い兵隊ばかりです。これは所謂精鋭なる正規兵です。手榴弾にやられたらしく、アゴのないのや、眼のつぶれたのや、息たえだえのやが、出て来て、手をあはせて、ぺこぺこしながら、二十四五人も出て来ました。 あんまりたくさん居るので、応援をよぴにやつたら、山崎少尉はじめ、一小隊の兵隊が十人ばかり来ました。手伝つて貰つて、ジユズつなぎにしました。

まだ居るらしいのが、出て来ないので、危いから入らんがよいと兵隊がいひましたが、拳銃をもつて中に入りました。それから五人ほど出て来た。すると、奥の方で大声でわめく声がする。

手榴弾でやられて、うなつてゐるのだらうと思つたのですが、とうも、よく聞くと、泣き声らしい。暗いので、すかして見ると、二人ほど居るのが、泣きわめいてゐるのです。 ライライとどなつても、しばらく出て来ませんでしたが、私が入つて行くと、立ち上つて、わんわん泣いてゐる、暗いので、戸口の近くまで引き出すと、十六七の可愛らしい少年兵です。 首の所に手をやつて、僕をおがむやうにし、命だけは助けてくれといふ意味でせう、しきりに、何かいふのかわからないけれども、田舎に、両親も居るし、日本に抵抗したのが悪かつた、親のところへかへりたい、といふ意味らしく感じました。眼を泣きはらして、僕の両肩へ、すがりながら表に出ました。

皆、兵隊がつないで、大隊本部の位置に引き上げました。トーチカの中から、書類や、弾薬をとつて、かへりました。トーチカの中は寝台もあり、天井に、傘がならべて、つるしてあつたのは支那式だと思ひました. 傘に、サツクをかぷせて、ちやんと青天白日のマークが入つてゐる。それを、支那兵は行軍の時はかついで行くらしいのです。大隊長も非常によろこんでゐました。

つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。 支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。

中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。

僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。すると、もう一人、ひきつりながら、 赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。

壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。

 


銭家浜(嘉善郊外)の戦斗のことばかりで思はず、長くなりました。敵前上陸の戦斗も、色々、面白いこともあり、その後も種々ありますが、またにします。地図を入れて、おきました通り、百数十里を突破して、十四日南京に入りました。正式の入城式は十七日に挙行されます。

内地では、南京陥落で、さぞかし、旗行列、提灯行列などで、賑はつたことと思ひます。今度の南京総攻撃まで、皇軍の損害も莫大なものでせう。我々の通つた(ママ)来た道でも、敵前上陸(五日)、それから、亭林鎮、金山、嘉善、嘉興、湖州(呉興)、長興、広徳、宜城、蕪湖、大平、ことごとく、相当の激戦が展開され、相当の死傷者を出しました。 清水隊(第七中隊) も、四十人近く減り、僕の分隊も、出発の時は、十四名だつたのが、南京に来たのは九名です。死んだのはありません。一人、戦傷で、あとの四名は行軍に落伍しました。

湖州までは皆来ましたが、何しろ、湖州を十二月一日に出発以来、毎日、一日も休みなしで、八里平均位の行軍です。十四日入城まで、いくら、強いと云つても、人間の身体です、相当の落伍者も出来ました。

僕が戦争に来て以来、不思議の第一は、到底行軍など出来ないと思つてゐたのに、意外にも、頑強であることです。無論気が立つてゐるからと思ひますが、よく、考へることは、日本にゐる、お父さんお母さん、妻や子供たち、皆が自分を守つてゐてくれるからだといふことです。

上陸以来、馬でさへ、数百頭たほれました。役に立たなくなると軍馬はすてられる、その屍骸が道ばたにいくらもたほれてゐる。動けなくなつた馬が、たほれたまま、じつと部隊の通つて行くのを見送つてゐる、みぞの中に半分うづまつたまま、じつとこつちを見てゐる馬もある、みんな、死んでしまふのですが、実に哀れに堪えません。 馬でさへ、一日八里平均の連日行軍にはやりきれんでせう。兵隊は足もからだもめちやめちやにして、たほれんばかりです。 我々の部隊(十八師団)は十七日入城式終了後、直ちに出発、広徳を経て、杭州へ攻略の進軍を初めることになつて居ります。もとより歩いて行くのです。うんざりします。

南京は相当の大激戦だつたやうです。城外には支那兵の屍骸が山をなしてゐます。市街戦も相当やつたらしく、大通りに、土嚢をつみ、機関銃の淹(ママ)濠がいくつもつくつてあります。支那の首都も今は廃墟です。これから、少し、市内でも見学してみようかと思つて居ります。

内地からも、いろいろ便りが来てゐることと思ひますが、まだ、九月十日出征以来、一回も手紙を受け取りません。軍の倉庫には、二十屯も手紙がたまつてゐるさうですが、いつ、我々の手にわたるものやら、わかりません。

こちらは十二月も半といふのに、まるで春の様な気候です。行軍の時などは、暑くて、やりきれんほどです。夜になると、急に冷えだして来ますが、寒くてたまらんといふほどではありません。内地は、蛭子祭頃から寒くなつてゐることでせう。

皆さん、お母さんをはじめ、身体に気をつけるやうにお願ひします。正月は南京でと思つてゐましたが、南京陥落が意外に早く、十七日に南京を出発すれば、いつ何処で正月をするものやら、見当がつかなくなりました。

この頃、だいぷ痩せました。痩せたから、行軍が出来るやうになつたのかも知れません。小倉に居る時には、夏シャツー枚で、皮帯の一番最後の穴がやつとかかる位だつたのに、今は、夏シャツと冬シャツと重ね、チョッキを着、その上に千人針をまき、冬ズボン下を重ねてゐるのに、皮帯の二つ目の穴がかかり、どうかすると、三つ目がかかります。 腹がうんとへこんだやうです。風呂にも入らず、顔を洗ふ日も少い位、髭はぽうぽう、軍服は、どろまみれ、よこれほうだい、時々、鏡を見ると、おかしくて、笑ひ出したくなります。 今日はひとつ、髭でも剃り、水がめで湯をわかして、何ケ月振りかで、ゆつくり、風呂なと入らうかと、兵隊と話してゐます。

南京は大都会であるのに、食べ物のないのには閉口です。上陸以来急進軍のため、大行李が間に会(ママ)はず、一回も軍から食糧の給与を受けません。皆、土地土地で、色んなものを徴発しては、食べて来たのです。三日位食はんこともありました。

ところが、田舎では、豚とか、にはとりとかが居つて、思はぬ御馳走にありつくこともありますが、都会ではかへつて困ります。昨日は南京に入つて、何にもなく、ツケモノだけで飯を食ひました。今日も何にもおかずがない状態です。今日あたりは大行李が到着して、官給品がわたるといふことですが、あてになりません。

支那土民は妙な日本の旗をつくつて歓迎してゐます。土民を徴発して、使役につかふのですが、支那苦力ばかりで、それこそ一個師団も居つたでせうか、支那人はなかなか面白いです。兵隊も弱い兵隊は支那人に背嚢をかつがせたり、食糧品をはこばせる、何十里も、つれて歩く、また、ついて来るのです。支那兵がやられてもなんとも思つてゐない、日本軍の機嫌をとる。

下泗安から七八十里も僕たちも可愛いい支那少年を二人食糧品をかつがせて大平までつれて来ましたが、命令でクリーを全部すてよといふことになり、別れましたが、別れをおしんで、涙ぐんでゐました。

水の悪いのに閉口します。いたるところ、クリークぱかりですが、にごつた水ばかりで、なまで飲まれる水はめつたにない、然し、初めのうちこそ、飲まなかつたけれども、行軍でのどがかはけば、どんな水でもがぶがぷのみます。 水にはあたらないやうです。夜などクリークの水で飯をたいたり、お湯をわかしてのんだりした後で、朝見ると、黄い濁り水であつたり、その中に支那兵の屍骸があつたりすることがよくあります。 支那の風景は田舎など、日本と少しもかはりません。支那に居る気のしない時があります。支那人の顔立ちも、日本人と同じです。変な気持のすることがあります。では、今日はこれ位にします。

各方面にも便りしなければなりませんが、お会ひになつたら、よろしく申し伝へ下さい。

夜になると、子供のことばかり思ひ出します。とうぞ、気をつけるやうに、よし子によく申しつけて下さい。いつかへれるかわかりません。美絵子が学校に上つてからのことでせう。史太郎も、僕がかへる頃にはどんとん歩いてゐるでせう。

十二月十五日
                         勝則
父上様

(「国文学」2000年11月号 花田俊典「新資料 火野葦平の手紙」より)


*「ゆう」注 花田氏によれば、この手紙は、「玉井家および火野葦平資料館(北九州市若松区)のご好意によって閲覧できた手紙群」のうちのひとつ、とのことです。

**原文では段落はほとんどありませんでしたので、読みやすくするため、随時段落を分けました。なお、(ママ)やふりがなは、すべて花田氏によるものです。


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