「北陸史学」高野源治氏論文


 「北陸史学」第49号に、高野源治氏の、『第九師団、南京大虐殺否定論批判―大戸宏氏『月刊アクタス』所載論稿に関連して―』(2000年2月13日記)と題する、大変興味深い論文が掲載されています。

 入手しにくい雑誌であり、ご覧になっている方もほとんどいないと思いますので、ここに紹介します。



 氏は、「第九師団第七聯隊による虐殺」の資料を4点をあげていますが、そのうち「3」と「4」です。

(「1」は井家又一日記、「2」は水谷荘日記で、いずれも「南京戦史資料集」に掲載されている通りですので、省略します)

その三、「初年兵の手記」(歩七、第一歩兵砲小隊)

  この人の日記が『初年兵の手記』としてガリ版印刷し製本されて戦友たちの間で愛読されている。ガリ版切りをした人が羽咋市の人なので、私も一冊頂いたし、体験者本人にも会った。その南京入城前後の部分は前掲『南京戦史資料集』にも収録されている。

  しかしその十二月十五日のそれと同様に詳細に記録された十六日の部分はたった五行となっている。それは戦友会の人たちが、これでは戦死した戦友たちに傷がつくということで削除させたからである。 そこには歩兵第七連隊の歩兵砲小隊が「残敵掃蕩」の名のもとに南京大虐殺に参加したか、それを目撃して描写してあったからと見るのが妥当である。

 中国人虐殺は歩兵中隊か機関銃中隊が中心の筈で歩兵砲小隊を使うのはどうかという気もするが、私は当人に会ったとき、削除されたと聞いてがっかりして、その矛盾に気付かず、 問うのを忘れたというより思い付かなかったのは不覚であったが、もう生存されていれば八十五歳ぐらいの筈で、私の町の同年兵の方はもう老衰化していて聞けないのだから、もう一度聞き取りに行く気も起こらないのだが。



これは、注目すべき指摘です。参考までに、「南京戦史資料集」によれば、『初年兵の手記』の十二月十六日の記述は、以下のとおりです。

初年兵の手記「硝煙の谷間にて」 

歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵


十二月十六日

 明日の入城式を控えて兵器の手入や被服の手入、洗濯、身の廻りをする。 馬も戦争中泥まみれになっていたのできれいに洗って幾月振りに馬体の手入する。上陸以来泥まみれ雨に打たれ只ひたすらに兵器や弾薬を駄載して黙々として兵隊の命ずるままに協力して呉れた馬が居たればこそである。

(「南京戦史資料集機廖。丕械坑)


 確かに、十五日までの記述と比較すると、あまりに簡単であり、内容もあたりさわりのないものになっています。





その四、「田中義信陣中日記」(歩七、第三機関銃中隊)

十二月十四日―南京城内の市街戦

一、午前八時整列、城内掃蕩の為出発、敵最後の陣地攻撃す。
一、首都南京も遂に我軍の手に入り、あわれ八十八師軍は西門の彼方で最期を消したので有る。
一、今日の戦闘は実に面白かった。
一、支那軍の野戦病院も見学した。
一、午後九時、真黒暗の城内市街を約二里半位帰隊行軍。
一、支那軍の屍は山を築き、血河をなして、兵器は皆捨て、馬はすて、道路上は実に無残なる近影で有る。
一、五百余名の支那軍捕虜兵を第八十八師の営庭で銃殺及び刺殺。


十二月十五日

一、午前七時半出発。
一、支那第八十八師軍兵舎の附近で第三大隊は駐警す。其の後警備隊形に有る。
一、午后十時起床、支那軍捕虜兵、千七百名余名銃殺す。
一、陸戦隊警備地付近にて、見る間に屍は山となり、揚子江は血河流屍の流失で(二字不明)寒さはぞット身にしむ?
一、血生ぐさき江流の絵巻は寒風深夜の風に何処の彼方に消え行く。


十二月十六日

一、真黒暗の支軍の銃殺終りて、帰舎時に午前六時。
一、西門城の屍を乗越え、拂暁に到着。
一、午前中は休養。



以下に、この日記の入手経路等についての説明があります。

 田中氏の陣中日記は私が古書店で見付けて購入したもので、田中氏本人については調査していないが、本人の手記であることは疑えず。

さらにその注記。なぜかこちらでは名前が「田上信彦」となっています。「田中」と「田上」のどちらが「誤記」なのかは、本稿の文章だけでは判然としません。


「田上義信陣中日記」は四分冊だが、後になるほど簡略になる。 出発時の小隊長は村本少尉、第六分隊長は湊一郎、分隊員は平藤作・田上義信・中島喜久雄・山本久雄・前本勝守・上山浄・和田練一・上元勇吉・菅田力吉・青木孝松の各氏。南京在住頃は伊佐部隊棚橋部隊伊勢隊に属していた筈。 一二月九日、一○日と戦死傷者続出で残る人は至って少なかった様子で、分隊員は次々に補充され、南京入城時の分隊員不詳。田上氏も一○月二五日に左眼を負傷したが分隊を離れなかった。

 「日記」は昭和一三年に入るとなぜか詳述され、五月一日で途切れている。私は田上氏には会っていないが、死亡されたものと推定している。もし右記の人々で生存者があるものなら教えて頂けると有難い。皆石川県人の筈で、生きておれば八五歳前後であろう。

 


なお、本論文の「あとがき」に、「百人斬り競争」についての記述がありますので、最後にこれも紹介しておきましょう。


 私の在所のS氏が南京中山門を目前にして負傷して帰り、老衰で去年死亡、 もう一人のH氏も、たしか輜重兵(金沢市野田)に属して出征し、有名な百人斬り競争の二少尉のどちらかが、中国人を迎えては斬るのを見ていた話を聞いたが、 そんならと聞き取りに行こうとしたら、家の評判が悪くなるとて息子に反対されたからと断られ、行かずにいたら去年亡くなった。雑談の中で彼のその話を聞いた者は私一人ではないのだが、今となっては取返しができない。



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