「偕行」の「お詫び」
「偕行」の「お詫び」

ー「証言による南京戦史」(番外)よりー



 「犠牲者数をめぐる緒論」で紹介した「偕行」編集部加登川氏の「お詫び」に対して、田中正明氏はこんな論難を加えています。

 
田中正明氏「南京事件の総括」より

(略)

 しかし加登川氏の総括的考察を読むかぎりにおいては、巷間言われているものと同じであり、個人的推測の虐殺数をあげ、「中国から何と告発、非難されようと非はわれわれの側にある」「中国人民に深く詫びるしかない、まことに相すまぬ、むごいことであった」と詫びたのである。つまり虐殺派同様、数は少いが虐殺肯定の総括をしたのである。

 当然のことながらこの加登川史観に対して、全国の偕行社会員からきびしい反論があったが、「偕行」編集部は「詫びたのは加登川個人である」と言いのがれた。

(「南京事件の総括」P56)


 これを読むと、「偕行」編集部は、「詫びた」責任を加登川氏一人に押し付けて逃げてしまったかのように見えます。しかし実際の「偕行」編集部の記述を見ると、田中氏がいかにいいかげんな「印象操作」を行っているか、はっきりとわかります。

 以下、「偕行」編集部が、『「証言による南京戦史」(番外) <会員投稿に答える>』(『偕行』1985年5月号)でどのような発言をしているのか、見ていきます。


「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」より


「偕行」編集担当常務理事  高橋登志郎


 加登川サンが総括したこと

(略)

 3月号の加登川論文は突然出て来たのではないのである。そしてこの論文は、加登川サンの原案を、1月12日丸々一日かけて、畝本サン、戦史部の森松サン、原サン、及び私と細木君とで十二分に検討し、畝本サンの全面的同意を得て出来上がったものである。

 そもそも59年4月号より連載された畝本論文は、それまでに得られた証言・資料をもとにして、言わば見切り発車した論文であった。しかも畝本サンは当然であるが、シロとあれかしと願う心が強かったので ― もちろんこれが畝本サンのエネルギーの源泉であったが ―ハイ色やクロの証言は証拠不充分として、没にしていたものもあったのである。

 逐次戦闘加入した畝本論文も、一次資料にもクロが出だすと、クロ証言も取り上げざるを得なくなった。正に軌道修正である。 

 従来のシロ主張論は通らなくなったのである。8月号以降をもう一度読んで戴ければ解る。畝本サンはいろいろな面でお困りになったと思う。「困った、困った」と苦渋に満ちた顔は忘れられない。

 畝本サンがたとえ3千でも、クロの結論を書くことは非常な決心が要ることであった。140名を超すシロ主張の各部隊の方々の名前や顔が浮かんでくるであろう。クロやハイ色の結論を書けるわけがない。

 「不確定要素はあるが、不法処理の疑いのあるものは3千乃至6千」とご自分の頭にありながら、畝本論文の2月号における最終回論文においても、畝本サンはもろもろのクロ、ハイ色証言を殆ど否定されておられるのである。

 こういう畝本サンの心情を察知された加登川サンが「俺が書こう」と言いだされたのである。

 正月休みに非常な決心をもって締めくくりの原稿を書かれた加登川サンには、今年の正月の酒は極めて苦い酒であったと思う。

 この原稿が活字になるまでは前述した。

 畝本サンはいやいや加登川サンに譲ったのではない。「加登川サンが書いてくれてホッとした」という私に洩らされた畝本サンの一言がすべてを物語っていると思う。(P10)


 加登川氏は、畝本氏の「心情を察知」して、畝本氏に代わり「お詫び」を書いた、ということだったようです。

 田中氏の引用部分は、この文の最後のところに登場します。

「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」より

 中国国民に詫びたこと

  前述の通り加登川論文は畝本サンを含めて我々の同意のもとに活字になったのであるが、この「中国国民に深く詫びる」の12行の文字だけは送稿直前に入れられたもので、我々は後にこれを追認したのである。

1月12日の会合で出た我々の修正意見を入れて、3月号原稿を書かれた加登川サンとしては、これだけのことを書いて、中国国民に何の会釈もしないで、通り過ぎることはできなかったのである。

 謝ったのは加登川サン個人である。文責は加登川幸太郎にあると明記している通りである。そして我々は追認した。それはこの非常な勇気(井本熊男談)をもって書かれた加登川サンの心情を思えば極めて当然の文章であったからである。会員の中で謝りたくない方は謝らねばよいと思う。しかし私のところには謝ったことを特に評価して、多くの会員から電話を戴いた。

 その電話の中に「長い間胸につかえていたものがスッと下りた気がする」と言ってきた人がいる、また「全く素晴らしい」という人、「人間として当たり前である」という人等さまざまである。繰り返して言うが謝るも自由、謝らないのも自由である。(P10-P11)


 田中氏は、「そして我々は追認した」以下の文をそっくりカットして、「お詫び」をあたかも加登川氏の独断であったかのように偽装したわけです。




「詫びる」ということについて、当の畝本氏も一文を寄せています。

畝本正己氏

 会員諸兄のなかには、「なぜ中国国民に詫びる必要があるか。事は戦争である。アメリカの原爆投下、東京の無差別爆撃、あるいはソ連軍の満州進入時の行為・・・など、日本に詫びた国があるか。卑屈になるな」という強い意見がある。

 戦後、「一億総懺悔」と称して、罪悪感を一方的に背負わされてきた我々日本人の怨念とも言うべき心情は私とて同様である。

 しかし、米ソがその非人道的行為を謝罪しないことはさておき、われわれが、率直に非は非として詫びることは、なんら卑屈な態度ではあるまい。彼らに勝る道徳感であると思うが、いかがなものであろうか。

 私は、まず陛下にお詫び申し上げなければならないと思っている。当時われわれは、天皇の軍隊として戦った。

 それが、数千人にも及ぶ不法殺害の疑いをかけられたとあれば、皇軍にあるまじきことである。当時、軍籍にあった者は、深く自省自戒すべきである。

 また、蒋介石総統は、終戦にあたり、「仇に報いるに徳をもってす」と、東洋道徳をもって我らを遇した。戦争という異常な事態とはいえ、その非違は、武士道に照らして、率直に中国国民に詫びるべきである。

 中国側の過大と思われる告発に対しては言うべきは言うが、われらの非は非とするのが隣人に対する紳士の態度であろう。私は、詫びられた加登川氏の心情を、このように理解するものである。

(同 P8)


 以上の発言を読むと、「偕行」編集部メンバーが、精一杯真摯な態度で「南京事件」と向き合おうとしていたことを感じさせます。



 しかし、連載「証言による南京戦史」もとに単行本に編纂された「南京戦史」では、このような「お詫び」のスタンスは陰をひそめました。秦郁彦氏によれば、何のことはない、それはこの田中正明氏の「工作」によるものであったようです。

秦郁彦氏「昭和史の謎を追う」(上)より

 全体のトーンから南京虐殺を確認した加登川は「この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と書いた。

 『歴史評論』(八六年四月号)で、この経過を紹介した君島和彦らは「極めて高度な政治的な判断」と皮肉ったが、宮崎繁樹明治大学教授(偕行社会員)は朝日新聞の「論壇」(八五年三月二十日付)で、旧軍人が日本軍の虐殺を認めて詫びたのは、真実追究の良識があるもの、として評価した。

 このように外部では加登川論文は好評だったが、会の内部から強烈な反発が起きた。とくに松井日記の改ざん事件を契機に遠ざけられた田中が、老将軍や地方偕行会幹部に「皇軍の名誉を傷つける本を偕行社が出してもよいのか」という趣旨の手紙をばらまき訴えた作戦がきいて、連載を単行本化する作業は頓挫した。やっと八八年十一月の総会で了解が取れ、八九年中には刊行できる見通しがつき、二年越しのゴタゴタは収拾に向かっているようである。

(注)偕行社編『南京戦史』は一九八九年十一月に刊行され、資料集として評価されている。

(同書 「第8章 論争史から見た南京虐殺事件」 P191〜P192)


(2004.9.12)


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