郷土部隊戦史に見る「南京事件」


 「南京攻略」に参加した師団・連隊につき、「戦友会」により、かなりの数の「部隊史」が編纂されています。また、地元の新聞社により、「部隊史」が書かれることも珍しくありません。

 これらの記録はいわば部隊の「公式見解」に近いものであるだけに、自分の部隊が「南京事件」に関係したことを認めることは、非常に稀です。しかしその中でも、「南京事件」の「影」を伺わせる記述は、随所に登場します。

 このコンテンツでは、その「影」の記録をまとめてみました。なお、記述に公平を期するため、筆者が「大虐殺がなかった」と主張している場合には、該当部分を、そのまま省略することなく紹介しています。

*ここでは、「南京戦」に参加した部隊の性格を掴むため、「南京事件」のみにこだわることなく、その前後の出来事を含めた、幅広い紹介を行っています。
 

<目次>

第六師団(熊本)

第九師団歩兵第三十六連隊(鯖江)

第十三師団歩兵第六十五連隊(会津若松)

第十三師団歩兵第一〇四連隊(仙台)

第十六師団歩兵第三三連隊(久居)

第十六師団第二〇連隊第三中隊(福知山)

第三師団歩兵第三十四連隊(静岡)




●第六師団(熊本)

「熊本兵団戦史」(熊本日日新聞社)より

 それではわが郷土の第六師団はこの南京事件にどんな役割を果たしたのだろうか。

 中国側軍事裁判の資料によれば虐殺された者は四十三万人、うち第六師団によると推定される者二十三万人。第十六師団十四万人、その他六万人という数字をあげている。

 しかし実際には前述のように四十三万人の中には正規の戦闘行為による戦死者が大部分を占めていると推定される。もし戦闘行為を含むものであれば、第六師団は中国軍にとって最大の加害者であることに間違いはない。北支の戦場において、また直前の湖東会戦において、熊本兵団が敵に加えた打撃はきわめて大で、余山鎮、三家村付近だけでも死屍るいるいの損害を与えていた。

 のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。

 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。

(「熊本師団戦史」P128〜P129)
*この事例については、筆者は「正規の戦闘行為によるものである」と認識しています。しかし、「民」が存在している可能性を認識した上で、客観情勢から必ずしも必要とはいえない「銃撃」を加えることは、私には「虐殺」と呼ばれても仕方のない行為であるように思われます。このあたりは意見の分かれるところかもしれませんので、読者の判断にお任せすることにしましょう。

**なおこの本に対しては、高崎隆治氏がこのようなコメントを残しています。これは、以下で取りあげる数々の「部隊戦史」もの一般にも通じる話であると思われます。

高崎隆治氏『戦争文学通信』より

「戦争文学通信」 No24  74.6.1

南京戦の周辺(上) ― 南京への道


 戦後に書かれた戦史類のほとんどすべては信ずるに足りない、というのが私の持論だが、南京大虐殺に関与した部隊と考えられる熊本兵団の『戦史』(熊本日日新聞社)を検討してみて、その感をますます深くしないわけにはいかなかった。

 もちろん、そこには虐殺について何も語られていないし、むしろそれを必死になって否定しているのだが、いずれの「戦史」「連隊史」も例外なくそうであるように、この書も職業軍人の目で戦場を捉え指揮官の頭で戦争を考える無反省な姿勢に貰かれている。

 したがって、そこに表現されているものはけっして兵隊の真の姿ではないし、彼等の心情でも感想でもないのだ。むしろそれは幹部たちの用兵史とでも名づくべき性質の回想記録なのである。

 もともと「連隊史」や「戦史」はそういうものなのだが、しかしそれが、ひとたび「史」と銘うって公刊されると、そこに記録されていることがらのすべては真実であり、また同時に書かれざる部分は、もともとそういう情況は存在しなかったものとして受取られるような危険が生じてくるのだ。

 したがって、たとえばこの「熊本兵団」は、一名の弱兵もなければ一名の無能指揮官も存在せず、全員が勇戦奮闘した忠勇無比の精鋭ということになり、掠奪・強姦・暴行・抗命・逃亡などという「不詳事」はまったく存在しなかったという、世界一の模範的軍隊ができあがるわけである。

 だが、私に言わせれば、そういうことを書くからおかしくなってしまうのだ。みえすいた虚構は用いない方がいいのである。

(同書 P182)



●第九師団歩兵第三十六連隊(鯖江)

「歩兵第三十六連隊戦友会誌」より 

 「南京は指呼の間」(脇坂部隊第三次補充の回想)  

  W・T(原文実名)

七、いわゆる「大虐殺」について

 最近、南京戦が話題に出て、その生き残りの一人と分かると「ではあの大虐殺に加わったのですか」と質問されることがある。

 三年位前、南京大学に留学中の日本の一青年から手紙を貰った。東京の大学を出て、ロンドンで二年間英語を身につけて帰国、一流商社マンになってから南京へ出かけた篤学の青年である。

 中国人学生と寮生活を共にしていた。

 手紙の中で問いかける。「本当に『大虐殺!?』はあったのでしょうか。」と。

 私の回答が、大学当局や同僚の学友達の目に触れることを意識して、緊張を覚えた。

「自信をもって答えられることは、私自身それに手を染めなかったばかりでなく、現場を目撃したこともない。

 当時の戦友たちと語り合っても同様の答が返ってくる。ある戦友は難民区を訪れて焼餅を買った思い出や、ささやかな加給品の菓子を子供に与えて喜ばれたことを懐かしげに語るのである。

 勿論戦場における彼我の死屍累々たる惨状は戦争故に避けるべくもなかった。

 光華門の例をとると戦場掃除の後、故伊藤善光部隊長以下の英霊を追悼する墓標が建てられ、少し離れたところに、中国戦士を悼む墓標も建てられていた。

 入城後の方が皮肉にも攻撃中よりひもじい思いをしたが、私の周囲では略奪でそれを補おうとはしなかった。

 帰国されたら「『南京大虐殺』のまぼろし」という本が、文芸春秋社から出ているので一読を、お勧めする」。

そんな要旨の返事を出した。

 脇坂部隊の戦友仲間で話し合う限り以上の通りなのだ。


 しかしながら、私は昭和十五年九月から十九年八月まで南京の支那派遣軍総司令部参謀部第二課に勤務する間に、当時の派遣軍の他の兵団出身の歴戦の戦友とも宿舎を共にした。

 敵脱出部隊の殲滅戦を担当した当時の現役中隊長の体験談には耳を覆わずにはおれない事実も聞かされた。

 要するに、「見なかった」「やらなかった」ということと「無かった」ということは別なのである。


 勿論、事実に伴う流説が膨大に増幅されたことも否めない。真に遺憾なことである。

(P107〜P108)



●第十三師団歩兵第六十五連隊(会津若松)

「若松聯隊回想録」より

徐州作戦に参加して失敗談

I・K(原文実名)

一、昭和十三年ハルピンに移駐して間もなく動員下令 徐州作戦に参加 五月二十二日初めて戦闘を帰徳の手前で味わった。

 二十四日頃宿営に入って間もなく捕えた便衣隊らしい一人大隊本部に連れて来た。見るからに頑丈な容相をしているが反面良民と判断されるところもあり軍医の蓬田さんと私は後者をとった。

 一晩衛兵所前の棗(なつめ)の木に縛りつけ様子を見ることになった。朝五時頃この男が縄をとき衛兵交代の隙をねらって歩兵銃一丁失敬して逃走したとのこと

 直ぐ非常呼集で探したがどうすることも出来なかった。

  以来疑わしきものは皆敵視する様になり、浙かん作戦の際倉庫に入った良民らしい者も敵視し宣撫工作に相反する処置をとったことは遺憾であった。

(「若松聯隊回想録」P292〜P293)



 ●第十三師団歩兵第一〇四連隊(仙台)

「歩一〇四物語」より

江陰無錫に向う追撃戦闘(自11・12〜27 −16日間)

 戦塵余話

 徴発について ― 本追撃間悪路と急追のため糧秣の補給ができなかったので止むを得ず徴発を許した。この時の注意として
○私利、私欲のための徴発は之を絶対に禁ず。本追撃に於て戦況と補給の関係上止むを得ず徴発によりたるものにして、給養上特に必要なるもの以外は決して徴発せず、即ち掠奪行為にならざるよう特に注意を要す。

○徴発を実施する場合は将校一名、兵一〇名内外を以て、徴発すべき物品を指定して行うべし。将校なき場合は中隊長の証明書を所持せる下士官を長とすべし。

暴行、強姦はもっとも忌むべきことなり、皇軍の威信を汚損するが如き行為は毫も無き様最も注意を要す。

皇軍に於いて宣戦を布告せず戦闘行為を敢てするに至りたるは、支那民衆に対しては決して戦意あるものにあらず、蒋介石の軍閥に対する膺懲にありこの点に充分留意するを要す。
 二三日、師団が顧山鎮に一日滞在したとき、二二日夕刻、小雨の中で師団司令部でボヤがあった。各隊長はそれぞれ師団長に見舞いにいったが田代連隊長は見舞いにいかなかった。

 二四日午後七時、行軍途中夕食をとらせていたところ師団長が例の通りやって来て、(火事見舞にこない腹いせか?)

  「この兵の有様は何事だ、火つけ、どろぼう、人殺し、勝手しほうだい、この荻洲は仙台以来、お前を見そこなったぞ。お前は南京に行かれんぞ」

 連隊長は不動の姿勢で叱られた。

 自分だけの責任―あとで南京大虐殺―まことに皮肉。

(「歩一〇四物語」P46〜P47)

*本書は、1969年5月1日の発行です。主として、「歩一〇四物語刊行会事務長」の門馬桂氏が執筆を担当しています。愛知揆一外務大臣、山本壮一郎宮城県知事、佐藤民三郎宮城県議会議長、山田栴二旅団長らが「揮毫」や「推薦の言葉」を寄せています。無味乾燥な「部隊戦記」にとどまることなく、当時の日本軍の様子や中国の風習などについての興味深い記事もあり、読み物としても面白く読めるものです。

**「歩兵第一〇四連隊」は、第十三師団(荻洲師団長)の麾下、「第六十五連隊」とともに、「山田旅団」を構成していました。その後「六十五連隊」を中心とした「山田支隊」が結成され、これが「幕府山事件」の主役となったことは、読者の皆様がご存知の通りです。
これを見ると、「一〇四連隊」は連隊長が師団長から嫌われたため「南京攻略戦」から外され、その結果として「南京事件」に関わることを免れたようです。筆者はこれを「まことに皮肉」と表現しています。

***荻洲師団長が、この「一〇四連隊」に対して、「火つけ、どろぼう、人殺し、勝手しほうだい」との認識を持っていた様子であることが注目されます。先の「暴行、強姦はもっとも忌むべきことなり」との注意喚起は、その裏返しと見ることもできるでしょう。

「歩一〇四物語」より

 最後に南京大虐殺事件について

 戦後、間もなく秦豊助が「日本週報」に白虎部隊がやったと書いてから、この虚実についていろいろ論ぜられた。白虎部隊とはわれわれの仲間の歩六五のことである。

 ここでは、触れないが、こんな惨虐行為はあり得たことは確かである。

 この死がいを食うためにふか(鱶)が南京近くまでのぼってきたということである。

(P427)
*記述内容の細部はともかく、「第六十五連隊」と同じ師団に属する当連隊が「こんな惨虐行為はあり得たことは確かである」という認識を持っていたことは、注目されます。あるいは、「幕府山事件」が念頭にあったのかもしれません。

「歩一〇四物語」より

戦場心理

 戦場での惨虐行為についていろいろ論ぜられている。

 私も初めて敵兵の死体を見た時は、思わず目を掩い吐気を催したこともあった。

 死体の浮んでいるクリークで米をといだりしているのを見ると嫌気になり、火葬の煙で食欲を失ったこともある。

  それになれるというか、それが普通の生活になると、自分でも不思議なくらい不感性になった。

 敵味方の死体に手を合わせて通った頃が嘘のようになって、死体の傍で平気で食い、性談に興ずるようになった。

 また、捕虜や現地人に残酷な行為をするのを見て、飛び出して制止しようとした衝動も次第に麻痺して好奇心でながめるようになった。

 時には自分でも一度ぐらいはやってみたいという衝動にかられることもあった。

(P443)



●第十六師団第三十三連隊(久居)

「歩兵第33連隊史 栄光五十年の歩み」より

 十三日の夜を、この廃嘘にひとしい町中に露営した聯隊は、翌十四日から第二大隊をもって南京城内の西北角一帯を、第一、第三大隊をもって下関地区の掃蕩を開始した。

 南京城内外で防戦した支那軍は約十万人と称されていたが、その大半は辛くも揚子江を渡って対岸地区に逃走した。

 しかし、まだ相当数の敗残兵が、少数の武器を携帯して随処に潜伏しており、この掃蕩はまことに厄介なものであった。

 城内の西北隅には獅子山と呼ばれる永久堡塁があり、これに立て籠って最後まで抵抗した敵の一部は遂に逃げ遅れ、第二大隊の掃蕩開始とともに、武器を捨て、便衣を着用したりして投降してきたが、その数だけでも二、三百人に達した。

 城内に入った日本軍は各方面でこうした集団的投降に会い、一時はその処置に困ったのであったがこれらの投降兵の消息が不明となったことから、戦後南京の虐殺事件として世界中に喧伝され、わが.軍の伝統ある名誉を傷つけられることとなったのは遺憾であった。

*「ゆう」注 歩兵第33連隊の「戦闘詳報」には、「俘虜 三、〇九六」「俘虜は処断す」と記されています。


 上海から南京への作戦途上においては、気負いたった部隊の行動が、ややもすれば戦闘の域を逸脱し、常軌にはずれたような行動も決して少なくなかった。

 各部隊長は極力これが防止につとめていたが、とくに南京陥落前後における家屋の破壊、放火、掠奪などは戦場心理の赴くままに、度を越した面がないでもなく、深く反省を要すべきものがあった。


 終戦後支那側は、南京虐殺四十万と称して日本軍の非人道的行為を難詰したがこれはいわゆる支那式の誇大数字であって、南京防衛の総兵力に、南京市民を総計しでも、これにははるかに及ばぬ数字であることは明瞭てある。

 また正規の戦闘において戦死した兵をも、主要都市における攻防では、一律に虐殺と呼称している点も不当である。

(P411-P413)



●第十六師団第二十連隊第三中隊(福知山)

「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」より

 京都市北区 N・K (「ゆう」注 原文は実名で、住所も番地まで記載されていますが、プライバシーに配慮して、ここでは頭文字のみとしました) 

 三月十六日作戦終了、新郷地区警備に任する。細井第二小隊のみ潞王墳警備に着く。潞王墳は二百米平方土塀に包まれた寒村小さい田舎駅があった。

 着任早々鉄道開通式があり満洲鉄道の酒保品の販売車が来た。

 附近村落より村長や村役等、四、五名が日本軍歓迎の俄造り手製の日の丸小旗を振りながら鶏玉子など持参して、心にもない護身用の歓迎の意志表示に来た。

 三月○○日二時頃、歩哨の敵襲々々の声、パンパン、ドカンドカン手りゅう弾のさく烈音に夢破られ飛び起きた。

(以下、戦闘の詳細な様子が2ページにわたって記述されていますが、省略します)

 その時、新郷方面よりトラックの来る音が闇夜に聞えて来た。中隊の応援隊の到着であることが判断出来た。トラックは駅舎二百米地点に停車して、重機関銃をトラックより降している。

 静まり返った潞王墳の状況を偵察している様子が判断出来たので、自分はあまりの静寂は全滅と判断の不気味さであったのだろうと、走り寄り大声を張りあげ「敵は退却しました」「敵はどの方向に退却したか」「ハイこの道路を通って」指さして「あの前の村の方向であります」「よし判った」 重機が据え終るや照準を合して静まり返った中をドドドドドド重い射撃音が潞王墳一帯に響いていた。

 翌朝附近一帯の村落を掃射した。二十才以上三十五才位の男子を連行した。山麓において処刑の際「我們不是富兵老百姓」(ウオメンプスタンピンラオパイシン) 「私達は兵隊ではない百姓だ」と「言っております」 「分隊長本当の兵隊なら今頃この村なんかには居りませんよ、とっくに逃げております。そう思いませんか」 「殺せの命令だから仕様がない」 初年兵の言葉など通る雰囲気ではなかった。

 我が小隊に多くの犠牲者が出たので、この善良な百姓達は敵視され犠牲になったのに、この若い百姓にも年老いた両親や妻子があっただろうに、戦争は正常なる精神の者を狂人にしてしまう。

 翌日の日暮に射殺された遺体をその家族が戸板を持って引取りに来た。年老いた父や母、妻に子供も悲しさを越えた恨に焼えた目で我々を睨んでいた。自分は思わず手を合して目をそらした。とても正視出来る情景ではなかった。

(P309)

*なお、「老百姓」は、中国語では「庶民」を意味します。従って「百姓」であるとは限りません。



●第三師団歩兵第三十四連隊(静岡)
*「南京事件」に関するものではありませんが、興味深い記述ですので、ここに紹介します。なお、取材は「サンケイ新聞静岡支社」です。

「ああ、静岡三十四連隊」(サンケイ新聞)より(1)

 強行軍のある日、佐野隊に六十人の捕虜銃殺が命ぜられた。

 
はじめ村上憲一さん=三島市、伊伝商店、石川さん=三島市、種子店=らに刺殺が下命されたが、きのう戦場にきた補充兵に、人はなかなか殺せるものではない。ついに銃火が浴びせられたが、翌朝行ってみるとなかには死にきれず苦もんする者もあった。

 一見将校とみえる捕虜は、「日本軍は宣伝文で投降者は殺さないといいながら殺すのか」と問いかけ、恨み、怒りに燃える目でみすえた。

 「われも人、かれも人・・・」・・・佐野少尉はただちに田上部隊長に事情をただした。

 この前日、上司にたいし「炎天下に一日米三合、兵はもう動けない」と報告した田上大佐は「わが将兵さえ養えない補給ではもう捕虜をどうすることもできない。といって野放しにもできない」と涙をふるって銃殺を命じた事情を明らかにした。

 ニワトリ一羽も手にはいらぬ焦土作戦が、日本兵を苦しめたのはもちろん、捕虜をさえ死に追いやってしまったのだ。

(同書 P246)

*1938年5月、「徐州作戦」の頃の記述です。
 

 
「ああ、静岡三十四連隊」(サンケイ新聞)より(2)

 中国軍は作戦で大挙して出動した時よりも、むしろゲリラ戦でしつように反攻して、少しも油断はできない。

 陰惨なだまし打ちにたいしてはわが将兵も激怒し、報復にでることもあった。

 徳田健一さん、水野富一さんは南京に近い部落で食糧集めにでかけた四中隊三小隊がひと晩で行くえ不明となり、報復のため部落民多数を殺傷した暗い記憶をもっている。

 ゲリラ隊に襲われた三小隊のうち山田軍曹、佐野梅吉上等兵=沼津市=の二人は命からがら逃げ帰った。

 残りの二十人は間もなく衣服を奪われ、裸に近い無惨な姿となり、クリークの土手に埋められているのが発見された。

 「戦友を殺りくされた怒りは経験しない人にはわからない」とは同じ中隊員だった堀江勇太郎さん=静岡市手越、青果商=のことばだが、こうした怒りに燃えた報復が行なわれたこともなかったわけではない。

 しかし平和な現代ではこうした記憶も悔恨にうずく。徳田さんたちは「いかに便衣隊でも農民の服装をしたものに銃口をさし向けるほどあと味の悪いものはない。戦争というものはどこまでいっても陰惨のかげがつきまとうものだ」と語っている。

(同書 P295〜P296)

*場所、時間は明記されていませんが、前後の記述から、1940年〜1941年の事件であるようです。
 

(2003.8.12記 2003.12.7「第一〇四連隊」追加  2004.2.8「第二十連隊第三中隊」追加  2005.4.24「若松聯隊回想録」追加 2007.8.7「三三連隊」追加)


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