松井日記の改竄
松井石根大将「陣中日記」改竄の怪 より


 おなじみ、板倉由明氏が、田中正明氏の「松井日記」改竄を明らかにした論文より、一部を抜粋しました。(「歴史と人物」昭和60年冬の号)

十二月十九日

「城内二、三ケ所に尚兵火」

「城内数ケ所に尚兵燹」

松井大将はこの日市内を視察した。

(「ゆう」注 最初が田中氏の芙蓉社版、あとが日記原本。以下同じ)

十二月二十日

「(日本大使館建物)内容共完全に保存・・・感服に値すべきか。」

「内容共全く完全に保存・・・感服の値あり」



「尚聞く所、城内残留内外人は一時多少恐怖の色ありしが、我軍(による)治安漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれど洵に遺憾なり。」

「尚聞く所城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く多少は已むなき実情なり」

 この部分は芙蓉版と日記原本では意味が全く異なってくる

 まず芙蓉版では、残留内外人は多少恐怖していたが、日本軍が治安回復に努めた結果安心してきたように読める。ところが日記原本を素直に読むと日本軍が落ち着いてきたので内外人も安心したことになり、恐怖の原因が日本軍にあったことが判る。又、末尾の松井大将の感想は、日記原本の突っ放した感じが、田中氏の「洵に遺憾なり」という書き加えで同情的に変わっている。

 この改竄は弁解の余地なしというべきで、素人の筆者が何度眺めても「治安」とか「洵に遺憾」などの文字は見つからない。「多少」と「不少」の読みちがいは止むを得ぬと甘く見ても、編者が自己の主張に合わせて松井日記の記述を反対方向に曲げたことは否定できまい。
 
十二月二十一日、二十二日

「十二月二十一日」

「十二月二十日、二十一日」


「十二月二十二日」「二十二日」

日記原本に日付なし。


 芙蓉版の二十一日分(下関視察)は二十日の残り、二十二日の前半(鴻で出発)が二十一日の分、十三行目上海帰着以下が二十二日の記述と推定するが、日記原本に二十二日の日付は無い。

 下関を視察して「狼藉の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ、今後の整理を要するも」と、虐殺の暗示ともとれる記事があるのに、ここの編者注には「この記述をみても、南京に大虐殺のありたる風も、これを関知したる風も全然ない。」と的外れなことが加えてあり、このように躍起になって「南京大虐殺」を否定するのは、かえって逆効果になりはしないか。


 
十二月二十三日

「此日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外国記者団と会見す。最初南京占領と其国際的影響を知るため紐育タイムズのアベンド、倫敦タイムズのフレーザーを招致し、然る後上海の各国通信員と会見す。質問は主として、首都陥落後の日本の方針及パネー号に対する前後処置なり。」

日記原本になし。

 これも悪質な書き加えである。田中氏は「支那事変日記抜萃」(七三ページ)にある記者会見の記述をもとにしてこの部分を作ったのであろう。しかし、そもそも日記原本に無い「抜萃」などというのもおかしいが、書き加えた上に、「南京占領から十日を経た外人記者団との会見において、松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全く見られない点、注目すべきである。」という編者注まで付けているのはどういうことか。

  初めに述べたように、当然書かれていいことが日記に無いのは何か訳がある。十一月十一日、三十日の記者会見は自分のしゃべった内容まで書いているのに、この日の記者会見が日記原本にないのは不愉快なことがあったのだろうと推察される。

  同盟通信上海支局英文部長の堀口瑞典氏は、その名の通り外交官の父君の赴任先スエーデンで生まれ、英、仏、独、スペイン語を自在に駆使して報道部の発表や高官の記者会見に活躍した人である。この会見で通訳に当たった堀口氏の記憶では、外人記者たちから南京事件の質問が続出し、松井大将は「現在調査中」と苦しい答弁をしていた、という。

  厭な質問があったからこそ日記に書かなかったのである。「抜萃」の方は東京裁判に備えて自己に有利な記録、記憶(これは当然の権利である)を整理したものであろう。こうした事実関係を後世の人が正しく判断するためにも、原史料の改竄は許されないのである。

  米艦隊長訪問、米長官来訪、仏艦隊長官の招待など外交行事が重なった。このあとに「松井大将は米・英・仏の高官と会合を重ねているが、『南京事件』の話題など誰からも聞いていない。」との余計な編者注がつけてある。


(中略)

昭和十三年二月

二月六日
「支那人民の我軍に対する恐怖心、加へて寒気と家なきことが、帰来の遅るる主因となりをるものと思惟せらる。」

「支那人民の我軍に対する恐怖心去らす寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因となるも我軍に対する反抗と云ふよりも恐怖不安の念の去らるる事其重要なる原因なるへしと察せらる 即各地守備隊に付其心持を聞くに到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論本事件に付根本の理解と覚悟なきに因るもの多く一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至なり」

「慎むべき旨申入れたり」

「可慎も現状を保持する丈は異存なき旨申入れたり」

 ここは日記原本一頁に相当する大幅な脱落である。しかもその脱落部を「をるものと思惟せらる」と置き換えて文章をまとめているところから見て、編者は十分承知の上で脱落させたものと思う。

 日記原本で松井大将が言おうとしているのは、戦争目的を理解していない日本軍の中国民衆に接する態度が悪く、幹部をも含めた軍紀、風紀が弛緩していることに対する歎きである。しかも松井は軍直接の宣撫工作に絶望の声をあげているのだ。松井の苦い実感がよく出ている。それは主として中国畑を歩き、日記でも明らかなように戦略より政略、謀略を得意とした松井大将にとっては、深刻な「挫折」ではなかったろうか。

このような松井大将の心境を正直に記した重要部分を意識的にカットした田中氏の心理が私には理解出来ない。


二月七日

「南京占領後の軍紀風紀に対する不始末」

「南京占領後の軍の諸不始末」

 軍の軍紀、風紀に対する不始末より諸不始末という場合の方が対象が広い。


二月八日

兎に角支那人を慈しめ、懐かしめ、之を可愛がり、憐むこと、只其慈悲心の心だけにて足るを以って」

「兎に角支那人を懐かしめ之を可愛かり憐む丈にて足るを以て」

 これは田中氏の意見を書き加えたことなのだろうか。その上わざわざ「これが松井大将の本心なのである」という編者注までついている。
 
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