百人斬日本刀切味の歌 |
「百人斬日本刀切味の歌」というものがあります。下記の新聞記事に登場するもので、野田毅少尉によれば、「戦友の六車部隊長」がつくってくれた、ということです。
この「六車部隊長」は、第九連隊第一大隊副官、六車政次郎少尉のことと見られます。 野田とは士官学校の同期であり、親しい関係にありました。 また野田は「第九連隊第三大隊副官」でしたので、野田と六車は、同じ連隊の、似たようなポジションにあったわけです。 当時の新聞記事を見ると、野田の六車に対する強いライバル意識を伺うことができます。
さて六車少尉は、「百人斬り競争」についてどの程度の認識を持っていたのか。以下、探っていくことにしましょう。 六車が「百人斬り競争」について自ら語った記録としては、以下のものがあります。
これだけを読むと、六車は、「百人斬り競争」についてほとんど知らなかったかのように見えます。 しかし以下に見るように、六車と野田との「接触」は、別にこの時に限ったことではありません。 六車は、野田への「追悼文」という性格に配慮して、あえて曖昧な記述をしているものと考えた方が無難でしょう。 なお、「南京攻略を目前にした一日」に何が起こったかは、秦郁彦氏のインタビューでより明確になります。
六車は、記者会見の現場に出くわしたようです。これは「句容」、正確には「丹陽戦後」の記者会見であると思われ、六車の手記と照合するとこれは「12月4日」の出来事であると推察されます。 この六車少尉、実は1月1日に、野田少尉と二人で30キロ離れた南京まで遊びに行っています。
余談ですが、この事実から、野田少尉の以下の弁明がウソであることがわかります。
しかし実際には、六車の手記を読む限り、別に「外出禁止」ではなく、また「南京に行く余裕」もあったようです。 さて六車は、「記者会見」の現場に出くわして、野田が「百人斬り競争」なるものを行っているらしい、との認識を持っていたはずです。 二人だけの時に、その話題が出た可能性は高いものと考えられます。 その結果、六車は同期のライバルの「健闘」を称えるべく、野田のために「百人斬りの歌」をつくってみせた。そう考えて、特段の無理はないでしょう。 なお六車に「歌心」があるらしいことは、回想録の中でもいくつかの「歌」を披露していることから、推察することができます。
既に書いたように、野田にとって六車は、「同期のライバル」でした。六車が新聞に載るような活躍をしている。自分も名を上げたい。その気持ちが、「百人斬り競争」という形に顕れた、と考えられます。 上の流れを見ると、野田が六車に「自慢話」をし、六車がそれに応えて「百人斬日本刀切味の歌」を作ってあげた、と推察することが十分に可能です 。 もしそうであれば、六車は「追悼文」の中では曖昧にしてみせましたが、少なくとも二人の間では「百人斬り競争」は「事実」として認識されていた、ということになるでしょう。 (2009.12.20)
|