休憩室  ちょっと個人的な「おしゃべり」


 私が「南京」に関心を持ち始めてから、早くも十年が経過しました。当サイトを立ち上げてからも、まもなく八年になろうとしています。(2011年11月現在)

 その間、読者の方々から、さまざまなメールをいただきました。なかには「ただちにサイトを閉鎖しなさい」などというとんでもない「脅迫状」(笑)をいただくこともありますが、たいていは紳士的な内容です。

 その中で一番多いのが、私のサイト製作の動機を尋ねるものです。あるいは、どちらかといえば「保守派」の方々からですが、「中国側の三十万人説」に対してもっと「批判」のスタンスを明確にすべきではないか、 という意見も結構いただきます。

 また、掲示板などでの対話でも、上の質問をいただくことが多いように思います。

 この質問は、あるいは読者の方々の共通の関心なのかもしれません。この際、過去お答えした内容を、公開しておくことにしましょう。



 まずは、私と「南京」との関わり、そしてサイト製作の「動機」です。あまり立派なものではありませんので、そのつもりでお読みください。(笑)


私が「南京事件」に関心を持ったのは、2001年11月頃のこと。某掲示板で「チベット」の議論をしていて、「チベット 虐殺」で検索すると、なぜか大量の「南京虐殺」サイトがヒットする。

しばらくは「南京」は読み飛ばしていたのですが、何となく眺めるようになり、そのうち、疑問が湧いてきました。

「史実派」「否定派」の描く「南京事件」像が、あまりに違う。これではまるで、パラレルワールドの出来事だ。一体どっちが正しいんだ?


まずはネットのサイトの「読み比べ」から始めましたが、ほとんど何もわかりません。今にして思えば、当時は否定派サイト全盛期で、史実派サイトは、 一部を除けば中国側見解のコピーみたいなところが多かったので、どうも話が噛み合っていない、という事情があったのでしょう。


そこで今度は、本の読み比べを始めました。

ただ正直に言って、秦郁彦「南京事件」や笠原十九司「南京事件」は、知識ゼロだった当時の私にとって、むずかしくてよくわからない。

辛うじて面白く読めたのがラーベ日記「南京の真実」で、「何十万の民間人が機関銃で一斉に殺されるシーン」を想像していた私は、あれ、「南京事件」ってこの程度の事件だったの、 と思い切り「肩透かし」を食らわせられました。


一方『否定本」の東中野修道「南京虐殺の徹底検証」に、妙な説得力がある。ではひとつ、東中野本を徹底的に読み込んでみようか。

とりあえず、三大資料集、「南京事件資料集」「南京戦史資料集」「南京大残虐事件資料集」を揃えました。


私が使ったのは、左側に「徹底検証」の記述をひたすらキーボードを叩いて書き写し(当時はスキャナーがありませんでしたので)、右側にそれに対応する「南京戦史」等ネタ本の記述を並べてみる、という、単純な方法です。

結果。唖然としましたね。いくら何でも、ここまでひどい「捻じ曲げ」「トリミング」「曲解」をやるかあ。この本、ただのトンデモ本じゃないか。

そのささやかな「発見」を某掲示板に投稿してみたのが、私のスタートでした。



私のサイト製作の動機でしょうか。これ、結構聞かれることが多いのですね。

おそらく聞く方は、例えば南京の被害状況を正しく世の中に伝えたくて、とか、否定論の無謀さに怒りを感じて、とかいう答えを期待しているのではないか、と思います。 まあそういう面も皆無とは言いませんが、どうも私の「実感」にしっくりこない。

不謹慎を覚悟で言えば、単純に、面白いから、というのが一番ぴったりきます。

よくテレビで、なんとか王選手権、ってやつがありますよね。世の中には、こんなどうでもいいことにここまでディープに関心を持つ方もいるんだなあ、と思うのですが、私も似たようなものかもしれません。 家族には、よくそう言われます(^^;

誤解を恐れずにいえば、私は、ねえ、こんな話知ってる? 面白いでしょ? なんて軽いノリでサイトをつくっているような気もします(^^;

まあそのようなものとして、拙サイトをお楽しみいただければ幸いです。





 次に、サイト製作についての、私のスタンスです。


議論は「事実」から出発すること。

ネットにデビューしたての頃、私はある方から、このような教えを受けました。

今に至るも、これは私の一番の出発点になっています。


逆に言えば、「事実認識」さえ正しければ、「考え方」は人それぞれでいい、と私は考えています。

たとえば、戦後70年も経っているのだから中国に謝罪する必要はない。

これは一つの「考え方」として十分に成立しますので、私はこれを頭から否定するつもりはありません。


しかし、「日本の軍隊は軍紀がしっかりしていた。問題となる行為はほとんどない」となると、これははっきりと「ウソ」です。

私は、「ウソ」を前提とした議論には我慢がならない。

「事実派」の私としては、このような議論は、断固叩きたくなります(笑)


私は、自分から「肯定派」を名乗ることはありません。

私は、別に何かをむりやり「肯定」しよう、という考えはなく、自分なりに調べて自分なりに正しいと判断したことを書いているだけ、のつもりだからです。

だから通常は「事実派」を名乗ります。

(余談ですが、笠原氏らも「肯定派」の呼称を嫌い、「史実派」を自称しています。私と同じように感じているのかもしれません)



誰にでも、「こうあってほしい事実」というものはあります。

○○さんの場合、「日本人がそんなことをするはずがない」というのがそれでしょうか。

しかし、「こうあってほしい事実」を「客観的な事実」よりも優先することは、絶対にすべきではない、と思います。


一番効果的な方法は、自分とは反対の事実認識の本を片っ端から読んで、いったん自分を「こうあってほしくない事実」(笑)で「洗脳」してしまうことです。

その上で、「こうあってほしい」側の本を読み始める。

そうすると、「こうあってほしくない事実」側の間違いがあちこち見えてくる。最終的には、自分なりの確固たる「事実認識」が出来上がります。


でもこれは、なかなか苦しい作業です。

○○さんも、そのような意図で私のサイトをご覧いただいたのかもしれません。

だとしたら、大変勇気がいったことであろう、と思います。





 中国側見解へのスタンスについては、このようにお答えすることが多いです。
 

こんな例え話をしましょう。

ある人が、こんなことを言います。

「お前の祖父さんは、俺の祖父さんの家族5人を皆殺しにした。おかげで生き残った俺の親父は、大変な苦労をした」

これに対して、あなただったらこんな風に言い返しますか?

「ウソつくな。殺したのは1人だけだ。このウソつきめ、デタラメ言うな!」

まあ普通は、こうなりませんよね。普通の常識ある会話でしたら、こうなります。

「俺の祖父さんがお前の祖父さんを殺したのは事実だ。これは申し訳なく思う。でも、「5人」というのは間違いだ。それだけはわかってほしい」

でも悲しいことに、この「ウソつくな」が、ネットでの右派のトレンドなんですよね。



中国側は、明らかに数字を誇大に言い立てている。

それに対して、「日本は何も問題行動をしていない」という無茶な主張をする人がいる。

この状況で、私は中国側をまず批判する気にはなれないのです。


お前ら、そんなことを言って恥ずかしくないのか。まず一定の事実があったことは認める。中国側の誇張を批判するのは、それからの話だろ。

まあ逆に、こんな無茶な主張が存在せず、中国側の「誇張」だけが目立つ状況でしたら、私も「中国批判」に動くかもしれません(笑)



さらに不謹慎な言い方をすれば、「どちらがより面白いか」という問題もあります(^^; 「30万人説」に根拠がないことぐらい、みんな知っている。でも「アホ否定論」が出鱈目であることは、結構知らない方もいる。

であれば、「世間の常識」をひっくり返す方が、ずっと面白いのです(^^;


まあこれは「考え方の違い」ですので、「中国側がよりけしからん」と感じることを否定しようとは思いません。そして、「30万人説」を批判することも、また自由であると思います。

ただ、こちらが「加害者」の側であることを忘れなければ、という留保付きですが。



実は、中国の「南京」研究者の中に、「30万にこだわらない」という動きが出てきているのです。例えば、南京歴史学会会長の張憲文氏など、 こんなことを書いていますね。(『世界』2008年1月号)

被害者数が十数万人か二十数万人か、または三十数万かの結論はみな可能であり、根拠に基づいた研究であれば、自分の主張や研究の結論を続けてもよい。

しかし、南京でこの悲劇があったこと、日本軍国主義者が人類の道義と文明を踏みにじり、この大虐殺を引き起こしたことは、我々研究者は認めなければならないし、すべての研究の前提となる。

日本側「史実派」の代表論者である笠原十九司氏が、30万人説は「幻想に近い」とまで酷評していますので、それを意識したものかもしれません。

いわば「天動説」から「地動説」への転換ですので、「30万人説放棄」までは時間がかかると思います。しかしおそらく、10年ぐらいのタームで、中国も「地動説」に転換するのではないか、と私は期待しています。




ネットの「南京論議」については、こんな「感想」を持っています。


「南京」問題というのは、実は大変難しいのに、簡単だと錯覚して入り込む方が多いのではないか。そんな感想を持ちました。

例えば邪馬台国論争(「畿内」か「九州」か)に入り込もうとする方であれば、「原典」の魏志倭人伝を確認するのは当然として、まずは双方の主張を十分に学ぼうとするでしょう。 そして自分なりに、「どちらの根拠がより有力か」を検討するでしょう。

間違っても、「邪馬台国はフィリピンにあった」だの「邪馬台国はなかった」だの、キワモノめいた本「だけ」で議論に参加しようなどとは考えません(^^;


ところが「南京」の世界では、「フィリピンにあった」、あるいは「なかった」レベルのキワモノ本、そしてそれをまる写しにしたウエブサイト「のみ」を頼りにして、まともな本をほとんど読まずに「論争」に入ろうとする方が多い。

せめて、笠原本と秦本ぐらい読んでおけよ。ラーベを批判したいんだったら、「ラーベ日記」ぐらい見ておけ。ちょっとググればすぐに我々の「解説」サイトにたどり着けるのに、なんでしょーもない「アホ否定論」を垂れ流すの?


これだけ玉石混交の「情報」が錯綜している現在のネット状況では、「玉」と「石」を見分けるだけでも大変です。しかし、その大変さを知らない人は、「石」だけを見てこれを「玉」だと錯覚し、 その程度の知識で「論争」に参入しようとする。


それでも数年前に比べれば、「南京事件FAQ」サイトなどのおかげで、少なくともまともな「ネット論壇」の世界では、状況はかなり変化しているように思います。

例えば(2009年)5月末の(「はてな」での)議論状況を見ても、「史実派」対「否定論」という構図ではなく、 「史実派」対「(史実派も否定論も)どっちもどっち派」という構図になっていました(笑)。

まあ、「邪馬台国フィリッピン派」と「畿内or九州派」の論争で、「どっちもどっち」と言われても困るのですけれど(^^;



 以上、読者の方々のご期待には全く添えない「回答」ばかりであったかもしれませんが(笑)、どうぞご容赦ください。

(2011.11.20)


HOME