「ピース・フィーラー」たちが知った 「南京事件」 |
1938年当時、日中戦争が泥沼化する中、「ピース・フィーラー」(和平工作者)たちは、「和平」を求める活動を続けていました。 彼らは民間人が中心で、自ら培った中国側とのコネクションを生かしつつ、日中和平交渉の土壌作りに努力していました。 「情報」に接する機会が多かった彼らは、当時日本国内では厳重な報道規制下に置かれ秘匿されていた「南京事件」について、かなりの情報を得ています。ここでは、彼らが伝え聞いた「南京事件」に関する記述を紹介します。 必ずしも正確な記述ばかりとは言い難いのですが、少なくとも、「戦後になるまで日本人は誰も南京事件を知らなかった」というのがとんでもない誤りであることがわかります。 <目 次>
まずは、西義顕です。陸軍大将・西義一の弟で、日中戦争開戦時には、満鉄南京事務所長の地位にありました。のちに汪兆銘工作に関わったことで知られています。 西は、松岡洋右満鉄総裁の支援の下、早い時期から和平運動に携わっていました。しかし和平のパートナーとして頼りにしていた呉震修が、「南京事件」に大きな衝撃を受け、和平への意欲を失ってしまいます。 以下の記述は、南京事件直後、1938年1月のものです。
なお同じ回想録の中で、西は、新聞売り子やホテルのボーイから「広東爆撃」に対する怒りを訴えられたことを語っています。 1938年7月、蒋介石は「世界の友邦に告げる書」などで、日本軍の暴虐を語る材料として「広東爆撃」を大きく取り上げました。 今日では、「広東爆撃」はほとんど忘れられた事件です。そのため、蒋介石がなぜこんな無名の事件を重視したのか、違和感を覚える方もいるかもしれません。 しかし西の体験談を見ると、「広東爆撃」が当時の中国人たちに与えた衝撃の大きさをはっきりと伺うことができます。
犬養健は、元首相犬養毅の三男。初めは白樺派の作家として活躍、その後政友会より衆議院に出馬、当選しました。 のちに「汪兆銘工作」に合流しましたが、日本側の汪に対する要求が過酷なまでにエスカレートしていくのに心を痛め、少しでも条件を緩和しようと努力します。 戦後は吉田内閣の下で法務大臣を務めています。余談ですが犬養氏は、当時自由党幹事長の佐藤栄作が造船疑獄で検挙されそうになった時、検事総長に対して「指揮権発動」を行い、佐藤の検挙を阻止したことでも知られています。
これは、犬養が「開戦以来折にふれて書き留めておいたメモ」の一部です(原文カタカナ)。犬養が、ほぼリアルタイムで「南京事件」を知っていたことを窺わせます。
神尾茂は、朝日新聞の記者。主筆・緒方竹虎の意を受けて、1938年7月から12月まで、特派員として香港に滞在しました。 香港赴任当時は、宇垣一成外相が、さまざまなルートから中国との和平交渉を行おうとしていた時期でした。香港で神尾は、情報収集を中心として和平工作に加わります。 この時期、神尾は、『大公報』主筆・張季鸞らと接触しています。張ら中国側は、こんなことを語りました。
現代の目から見ると「数」は過大なものになっている嫌いがありますが、当時の中国側の認識がうかがえて、興味深いものがあります。
田尻愛義は、終戦時に大東亜次官の地位にあった外交官です。戦後は、岩谷産業取締役顧問などを務めています。 1938年11月、汪兆銘の重慶脱出が目前に迫った時期、田尻は、汪兆銘側の高宗武の要望により、香港総領事に任命されます。 しかし田尻は実際には、「汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合して自分がその長になろうというのは一体何と解釈していいのか」と、汪に対して強い批判を持っていました。 南京事件の時期、田尻は大使館一等書記官として上海にいました。
参考までに、上に登場する岡崎勝男は、極東国際軍事裁判に際しての「宣誓口供書」において次のような証言を残しています。(検察側書証、不提出)
(2008.2.21)
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