「ピース・フィーラー」たちが知った
「南京事件」


 1938年当時、日中戦争が泥沼化する中、「ピース・フィーラー」(和平工作者)たちは、「和平」を求める活動を続けていました。

 彼らは民間人が中心で、自ら培った中国側とのコネクションを生かしつつ、日中和平交渉の土壌作りに努力していました。

 「情報」に接する機会が多かった彼らは、当時日本国内では厳重な報道規制下に置かれ秘匿されていた「南京事件」について、かなりの情報を得ています。ここでは、彼らが伝え聞いた「南京事件」に関する記述を紹介します。

 必ずしも正確な記述ばかりとは言い難いのですが、少なくとも、「戦後になるまで日本人は誰も南京事件を知らなかった」というのがとんでもない誤りであることがわかります。



<目 次>



 西義顕『悲劇の証人』

 まずは、西義顕です。陸軍大将・西義一の弟で、日中戦争開戦時には、満鉄南京事務所長の地位にありました。のちに汪兆銘工作に関わったことで知られています。

 西は、松岡洋右満鉄総裁の支援の下、早い時期から和平運動に携わっていました。しかし和平のパートナーとして頼りにしていた呉震修が、「南京事件」に大きな衝撃を受け、和平への意欲を失ってしまいます。

 以下の記述は、南京事件直後、1938年1月のものです。

西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より

4 呉震修との最後の会見


 ひと目で、呉震修が異常な心境にあることが、私にはわかった。精力的で、活動的で、東洋の精神を西洋的教養で包んだ、若々しい挙作に、六十近い老齢とはどうしても思われなかった、血色のよい温顔の呉震修だったはずなのに、その日の彼の面貌は、生色の薄れた灰白の老人の相に変じていた。明らかに、無漸な精神的苦悩の痕跡が印せられていた。
 
 寂しい微笑を浮べて、久振りの握手をかわしてから、彼はこう言った。

 西さん、もう駄目です。中日関係はおしまいです。私は、日本人には絶対に会いたくありません。日本は全く独力で、自分のやったことの始末をつけるより仕方がありません。

 なんと、わびしいことばであったことか。中日の協力を強く念じ、最後の最後まで、あれだけ積極的に、中日関係の調整再建に熱情を傾けていた呉震修が、いまは全く別人のように、この言をはいたのである。(P83)

 しかし、私は、このことばに打たれるよりも、絶対に日本人との面会を拒否して、所在さえこのように秘しておりながら、私にだけは使者をもって迎えによこした彼の心境がどれほどの苦痛をたたえるものであるかということ、さらにまた、その苦痛のなかにも私に示す彼の好意が変らない切実なものであるということに、痛く胸刺されたのである。(P83-P84)

 いずれにしても、呉震修は全く変っていた。私がいかに説こうとしても、一別以来の報告すら、政治の話には一切口を箝し、耳を塞ぎ、触れようとしないのである。これからは門を閉じ仏門に帰し、日本人には絶対に会わず、西義顕にだけは会っても、政治は絶対に談じない、という呉震修となっていたのである。(P84)


5 ああ、南京事件

 呉震修は、日華事変後、藍衣社一派に襲われ危うく難を免れて、かろうじて上海へ逃れたが、九月末には愛息を腸チフスで失い、しかも彼の夫人は、この相次ぐ不幸のために神経系統を痛めて重い病臥の人となってしまった。

 それにしても、天人ともに許さざる暴虐きわまりない南京事件がなかったならば、彼れ六十年の鍛練が、彼の悲嘆やる方ない心境をささえ、打撃を最小限度にとどめえたかもしれなかったのである。(P84)

 
昭和十二年(一九三七)十二月十三日、日本軍は南京を完全に占領、十七日、軍司令官松井石根大将以下の入城式が行なわれたが、その五日間、軍服を着た日本民族は、悪鬼羅刹・天魔鬼畜の大群となり、極悪非道、凶暴の限りをつくし、史上空前であろうところの残虐狂態を演じたのである。(P84-P85)

 掠奪・強姦はいうもおろか、城外下関に収容された数万の捕虜は機関銃の斉射によって虐殺され、下関の街は石油を浴びせられ焼き尽されてしまった。阿鼻叫喚、大地をどよもす断末魔の号音、天をこがす紅蓮の焔と石油の黒煙、機関銃の咆哮、死屍の悪臭。名にしおう南京の古城壁は血にまみれ、揚子江の黄濁流も血となって流れた。

 この大地獄図の現実出現が、江南の広野をおおう怒りとなり、四億中国の民族心魂の旋風が大地をふるわしていったとき、呉震修は、日本民族とともに狂い、号泣した。天は地となってくずれ落ち、六十年の生涯は天地の鳴動とともに暗黒となり、灰白となり、轟然として崩れた。
日本民族との提携を信じ、人にも説き、愛息の反対も押切って、尽痒至らざるなかった長い半生の信念は、木っ葉微塵に粉砕された。

 やがて、中国民族の本能から発する勃然たる怒りが、やっと彼にも生気をとりもどさせた。とはいえ、すでに亡き愛息に対する痛惜きわまりない悔恨と哀愁が、氷のように冷たく厳しく彼を襲った。泣きに泣きあかして、一夜にして彼は六十才の老残骸と化した。

 だが、時とともに、彼は、寂然たる境涯に不動のものを見つめる人と移り変った。もう、憤怒も、憎悪も、過去の見果てぬ夢も消えて、生きながら寂光浄土を求める信仰の人として、彼は、私の前に対坐していたのである。(P85)

 呉震修は、政治を語らずして、宗教を語った。しかし、言わず語らずして、日本民族に対して宗教的建直しと救済を勧告することにおいて、呉震修は大なる政治を語ったのであった。日本民族の水準が、このような程度であっては、久しからずして大破局の来たるべきことを、彼は警告したのであった。(P85-P86)

 私は、呉震修に対してなお慰むべき立場にあるものと誤信し、しかもこれを表現するに言葉なく、そして、かかる恥ずべき日本民族の一員として謝すべきすべも知らずに、ただ厚く彼の健康を祈って辞去するのみであった。

 私にとって因縁の人―呉震修と、私は、このようにして別れた。呉震修から出でて呉震修に帰るべかりし大きな因縁は、南京事件が断ち切ってしまったのである。

 私はうつろな身を、上海南京路の雑踏の中におかなければならなかった。大都会の寂蓼というものを、このときはど骨身にしみて感じたことはなかった。国際都市上海の膨大・混沌・喧騒、そして無意味な輪郭が、圧するように身辺に迫った。私は、喪心虚脱者のように、重い足どりでパレスホテルへもどってきた。(P86)



 なお同じ回想録の中で、西は、新聞売り子やホテルのボーイから「広東爆撃」に対する怒りを訴えられたことを語っています。

 1938年7月、蒋介石は「世界の友邦に告げる書」などで、日本軍の暴虐を語る材料として「広東爆撃」を大きく取り上げました。

 今日では、「広東爆撃」はほとんど忘れられた事件です。そのため、蒋介石がなぜこんな無名の事件を重視したのか、違和感を覚える方もいるかもしれません。

 しかし西の体験談を見ると、「広東爆撃」が当時の中国人たちに与えた衝撃の大きさをはっきりと伺うことができます。

西義顕『悲劇の証人』より

 私は昭和十三年(一九三八)五〜六月、香港に滞在した。(P181)

(中略)

 九竜停車場の横に香港島と連絡するフェリーの発着場がある。ジョージ五世の肖像を刻んだ十セントの銀貨を投じて、ここから海峡渡船六、七分の涼を追うのが、香港・九竜の下町生活における一番の極楽であったが、私がこの渡船場へ入ると、私の口ひげを目がけて四方八方から新聞売子が蝟集して私を包囲してしまう。(P181)

 新聞を買えというのではない。この写真を見よと、デリーニュースの日曜版の付録を突付けるのである。(P181-P182)

 日本海軍機広東爆撃の惨憺たる破壊の場に子供の死骸が横たわり、大きく Why do you kill our children? と脚書してある。売子たちも口々に広東語で Why do you kill our children? とわめき合って、それを私の目の高さに突付ける始末。戦局の進捗とともに香港の空気は前回と一変していた。

 英国式によく訓練された、訓練されたというより飼いならされたホテルのボーイさえ、ときに私の口ひげをつかまえて、

 貴下は日本海軍士官にあらずや、広東爆撃は何の状ぞ!

と迫ってくるありさまだった。(P182)




 犬養健『揚子江は今も流れている』

 犬養健は、元首相犬養毅の三男。初めは白樺派の作家として活躍、その後政友会より衆議院に出馬、当選しました。

 のちに「汪兆銘工作」に合流しましたが、日本側の汪に対する要求が過酷なまでにエスカレートしていくのに心を痛め、少しでも条件を緩和しようと努力します。

 戦後は吉田内閣の下で法務大臣を務めています。余談ですが犬養氏は、当時自由党幹事長の佐藤栄作が造船疑獄で検挙されそうになった時、検事総長に対して「指揮権発動」を行い、佐藤の検挙を阻止したことでも知られています。

犬養健『揚子江は今も流れている』より

○十二月十三日。中華民国の首都南京陥落。これが実に妙なことになっている。

 こちらの総司令官の松井石根大将は、日本軍が南京の城外に到着したら、忽ち戦闘をやめ、防衛軍司令官の唐生智と話をつけて和平交渉に入る、と公言していた。

 ところが杭州湾から上陸した柳川兵団は一気に南京市に攻め込んで、松井総司令官も何も有ったものではない。(P39)

 市内には唐生智は愚か、中国兵は影も形もない。自然、日本兵の気はゆるむ。大掠奪、暴行の噂は本当らしい。松井大将はその話を聞いて、失神せんばかりに嘆き悲しんだ由。(P40)



○東京の「イギリス」大使館付武官の「ビゴット」少将が、上海の初期の戦況を視察に行って、或る日本兵の掠奪の話を聞いた時、「そんな筈はない。日本の兵隊は義和団事件の昔から、掠奪というものはした事がない」と頑張り、証拠を見せられて非常に悲しんだ由。

 これは日本国民にとっても二重の悲しみだ。永年の知己の心を傷つけた一挿話 ― 恥かしいという程度のものではない。日本民族全体の問題だ。(P40)

 これは、犬養が「開戦以来折にふれて書き留めておいたメモ」の一部です(原文カタカナ)。犬養が、ほぼリアルタイムで「南京事件」を知っていたことを窺わせます。



 神尾茂『香港日記』

 神尾茂は、朝日新聞の記者。主筆・緒方竹虎の意を受けて、1938年7月から12月まで、特派員として香港に滞在しました。

 香港赴任当時は、宇垣一成外相が、さまざまなルートから中国との和平交渉を行おうとしていた時期でした。香港で神尾は、情報収集を中心として和平工作に加わります。

  この時期、神尾は、『大公報』主筆・張季鸞らと接触しています。張ら中国側は、こんなことを語りました。

神尾茂『香港日記』より

   八月九日(火)

 八時十五分頃、張・胡君入り来る。

(略)

 これと関連して知つて置かねばならないのは、支那の兵隊から一般国民まで、また国民党も共産党も、日本の軍閥とは戦ふけれども一般民衆は味方と心得てゐることだ。

 従つて日本兵捕虜の優遇されてゐることは非常なもので、延安の共産党本部には十二名の捕虜がかくまはれてゐるが、それが赤の青年達が毎日慰問に出かけ、中日両国の関係を説き、互に戦ふの愚を語るので、捕虜もすっかり同化され、仕舞には起上つて演説するものがあるといふ有様で、日支親善はまづ延安からといふ事実がある。

 然るに日本軍はあらゆる暴虐を行ひ捕虜を悉く殺してゐる。南京の赤十字社の手で葬つた死体は無慮二十七万に及び、その中十万は兵隊と思はれるが、十七万は無辜の青年、市民であつたと報告されてゐる。

 何といつても一番激しいのは南京である。如何に戦争なればとて、一国の正規軍がかくも血に狂ひ、財物に眼がくれるとは常識では考へられない。これはどうしても将校のイデオロギーの堕落の結果に相違ない。

 しかしそれはいくらひどくとも序の口だ。このまま戦争が悪質化して行くならば、この上、どんなことが起るかわからない。後世の歴史に何が残されるか知れたものではない。今からでも遅くない。日本は支那民衆を敵としないといふことを、厳重に誓つて貰はねばならぬ。中日両国永遠の関係を活かすか殺すかの岐れ目である。今ならばまだ転換の余地があると思ふ。

(P43-P44)

 現代の目から見ると「数」は過大なものになっている嫌いがありますが、当時の中国側の認識がうかがえて、興味深いものがあります。
 

 田尻愛義『田尻愛義回想録』

 田尻愛義は、終戦時に大東亜次官の地位にあった外交官です。戦後は、岩谷産業取締役顧問などを務めています。

 1938年11月、汪兆銘の重慶脱出が目前に迫った時期、田尻は、汪兆銘側の高宗武の要望により、香港総領事に任命されます。

 しかし田尻は実際には、「汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合して自分がその長になろうというのは一体何と解釈していいのか」と、汪に対して強い批判を持っていました。


 南京事件の時期、田尻は大使館一等書記官として上海にいました。

田尻愛義『田尻愛義回想録』より

 戦争の対手を平和交渉、講和の相手とすることを当初から否認してかかる非常識な戦争が一体あるものであろうか。どこかが狂っている。

 それでは外交活動が一切無用になるわけで、こんな無茶な声明はない。しかも外務省が起案したとは全く口が塞がらない驚きであった。(P61)

 さらにまた日本は占領地行政を成功させる自信があるのか。軍の内面指導下にある北支の実情、上海市新政府の樹立運営計画の頼りなさからみて、否定の答しか出ない。(P61-P62)

 もっと大切なことは、一体日本に戦争遂行の力があるのか。日本軍の士気は低調そのものであって中国軍の方がはるかに高い。捕虜をみても、どうも大和魂は先方に乗り移った感がする。

 南京入城のときの日本軍の略奪陵辱などの残虐行為は、松井石根大将に同行して、外国宣教師や教授と一緒にその防止に当った岡崎勝男君(後の外務大臣)の直話によっても聞くに忍びないものがあった。

 また蘇州河を引揚げてくる兵隊の首には女用の狐の襟巻、腕には金時計がキラついていた。


 私はときどき松井さんを上海の司令部に訪ねたが、世間話が好きな枯れた人物だが、政戦ともに統率力がなく、柳川兵団の過早な南京攻略を抑えられなかった。(P62)



 参考までに、上に登場する岡崎勝男は、極東国際軍事裁判に際しての「宣誓口供書」において次のような証言を残しています。(検察側書証、不提出)

岡崎勝男宣誓口供書(検証二一七一)より

 私が最初同地に到着した時は、事態はひどく悪化してゐました。軍隊は全く無統制でありました。

 「ジョン・エイチ・レブ」(「ゆう」注 ジョン・H・ラーベ)氏を委員長とし、「ルイス・エス・シ・スミズ」(「ゆう」注 ルイス・S・C・スマイス)博士を書記としていた南京安全地帯国際委員会は、同市内において行はれたと主張せられて居る暴行に関する報告を南京駐在の日本領事に行ひ、そして私が南京滞在中、同市内の事態について殆んど毎日私の所へ話しに来ました。

 福田トクヤス(福田篤泰)氏は当時、大使館付の外交官補でありました。又その当時の南京における総領事代理はゼ・福井(福井淳)氏でありました。

 大使館参事官エス・日高(日高信六郎)も亦屡々そこにゐました。彼はその後、伊太利駐剳(ママ)大使となりました。

 南京安全地帯国際委員会の報告書を南京の日本領事館で受取りました時、その報告書の概要は電報で東京に送られ、報告書其物も亦郵便で東京の外務省に送られました。

 昭和十二年(一九三七)十二月の後半に私が南京逗留中、毎日、又は殆んど毎日、これらの報告書を受取りました。南京の日本領事館は、受取る度に此等報告書に松井大将或はその麾下将校の注意を促した。

 私が南京に居た間、松井大将も亦そこにゐました。南京に起りつつあつた事について、その後、松井大将と会話した時、同大将は、「何等弁解の辞もない」と言はれました。

 この日本語の語句は此等兵隊のためなさるべき何等の弁解も辞さないと言ふ事かの意味になるのでせう。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻 極東国際軍事裁判関係資料編』 P383)

(2008.2.21)


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