なぜ「証言」しないのか

「加害証言」を拒む土壌―



 「南京事件」の実態を調べる時大きな壁になるのが、「加害証言」を世に出す困難さです。

 この点は、多くの研究者が共通して語る「常識」なのですが、掲示板等ではこれを理解せず、明らかに事実に反する「タテマエ証言」だけをタテに「日本軍の軍紀は正しかった」と主張する方が存在します。

 このコンテンツでは、「加害証言を拒む土壌」をテーマに、各研究者の調査体験、また実名証言を行った方々に対する圧力について見ていきます。




 まずは、各研究者の記述から、「聞き取り調査」の困難さに触れた部分を紹介します。

笠原十九司 『南京虐殺の記憶と歴史学』より

 しかし、現実には大きな障害があるのは、前述した兵士に南京虐殺の記憶を語らせない旧日本軍の特質と構造が現在でも機能しているからである。

 私はこれまで、南京戦に従軍した兵士の陣中日記の実物を見たり、存在を確認したりしたことが何回かあったが、いずれも本人あるいは家族が、 公刊すれば予想される戦友会、旧軍関係者、南京大虐殺否定論者さらには右翼団体等から、脅迫まがいの圧力や嫌がらせがあるのを恐れて、公開や出版に反対された。

 公刊した場合「面倒なことが起こる」「厄介なことになる」「騒がれることになる」「まわりに迷惑がおよぶ」という拒絶の理由が、 日本社会に厳然として存在する南京虐殺の記憶を「忘却」させるための構造を物語っている。

 南京虐殺の記憶を公刊したり、証言した場合、部隊の「身内の恥」を世間に漏らした、部隊仲間の逸脱行為を「内部告発」したとして、 旧軍兵士たちの精神的な共同体である戦友会から排除され、村八分的な制裁を受けることが、公開、公刊を拒絶させる最大の要因として厳存した。

(『現代歴史学と南京事件』P32)



秦郁彦 『南京事件(増補版)』より

 秦の経験では、将校は概して口が堅く、報道、外交関係者は現場に立ち会う例は稀で、クロの状況を語ったり日記やメモを提供したりするのは、応召の兵士が多かった。その兵士たちも郷土の戦友会組織に属し、口止め指令が行きわたっている場合は、言いよどむ傾向があった。

 一九三七年十二月十五、十六日に実施された難民区の便衣狩作戦(第九師団の戦闘詳報には「七千余ノ敗残兵ヲ殲滅セリ」とある)を調査するため、 実行に加わった金沢歩兵第七連隊の生存者に面談したときも、戦友会長経由だったせいか、なかなか率直な証言がとれず困った。(P281)



板倉由明『南京事件 虐殺の責任論』より

「歩兵第六十五聯隊 幕府山事件」より


 南京戦には限らないが、参戦者から情報を集める際に厚い壁を感じる「部隊」がある。その多くが、 将校会や戦友会が「厚いカーテン」を下ろして情報を秘匿し、会員に圧力を加え、甚だしきは「妨害」をする。

 歩六五の場合がそうだという訳ではないが、筆者もその堅いガードには全く歯が立たず、平林貞治氏のように旧聯隊のスポークスマン的存在の人か、 箝口令を憚りながら漏出する情報の断片を分析・総合せねばならなかった。

(『日中戦争の諸相』所収 P190)



2016.2.14追記

 「南京」に関するものではありませんが、ジャーナリスト・保阪正康氏が、「戦友会」の「暗黙の強要」について述べている一文がありましたので、併せて紹介します。


保阪正康『戦場体験者 沈黙の記録』より

 このような一般兵士の体験を記録として残さない日本社会、その理由について私は、昭和史の「真実」を追いかけながらも不思議でならなかった

 その疑問が解けたのは、前述の第四期(「ゆう」注 1995年前後)のころからになるのだが、戦友会の取材、そしてその内部に入っていくつかの事実を知り、いくつもの光景を目撃してからであった。

 戦後の日本社会は、一般兵士がその戦場体験を語ることを許さない暗黙の諒解をつくってきたのである。一般兵士たちに、「おまえたちが体験したことは銃後の国民に語ってはならない」という暗黙の強要が、とくに戦友会を通じて行われてたといってもよかった

 そのために一般兵士たちは、単に語るのをやめただけでなく、語らないということで、従軍とは別の形で国家に忠誠を誓うことになったのである。(P12)

 




 そして、実際に実名で「加害証言」を行うとどういうことになるのか。二つの事例を紹介します。
*念のためですが、あくまで、「実名証言」を阻害する社会風土の存在を説明することが目的ですので、個々の証言内容の「信憑性」についてはここでは問題にしません。
 1987年7月6日、京都府峰山町にて、元二十聯隊兵士3名(増田六助氏、東史郎氏、上羽武一郎氏)が共同記者会見を行い、それぞれ自分の陣中資料を提出しました。それに対する反応です。

「隠された聯隊史」より

 元二十聯隊関係兵士による記者会見は、大きな反響をまき起こした。

(中略)

 と同時に、記者会見にのぞんだ元兵士宅めがけて、奔流のようにいやがらせ電話、脅迫状が殺到した。 電話番号はNTTに問い合わせたものだろう。脅迫状のあて先は「京都府丹後町」とだけあり、番地のないものが多かった。あらかじめ予想されてはいたが、それはすさまじいものであった。

 リ、リーン。受話器を取ると「おんどれら、軍人恩給もろてるやろ。国に仇をなすようなことを、しくさって・・・恩給を国に返せ!」。 耳元にがんがんひびく大声で怒声をあびせ、五〜十分間をしゃべり続け、悪口雑言のかぎりをつくして一方的にがちゃんと電話を切る。名前をたずねても名乗らない。

 増田、東、上羽三氏宅の電話は、深夜まで鳴りっぱなしとなった。なかでも、膨大な手記・手紙類を公開した東史郎宅へ、

「おれは赤報隊のヤマザキや。首を洗うて待っとれ!」

など、口汚い脅迫電話は午前二時すぎまで続いた。赤報隊といえば、『朝日』支局襲撃事件で、犯行声明をマスコミに送りつけたことで知られる団体名である。 七十台半ばの老夫婦は、まんじりともしないで一夜を明かした。

 増田六助氏宅には「地元の報国同志社やけどな・・・全国の同志からようけ問い合わせが来とる。いったいどんな考えで記者会見なんかしたんや。聞かせてもらおか」 とドスの利いた声で右翼団体らしき団体名を名乗ってのいやがらせ。

「お前らみたいな兵隊ばっかしやから、日本は負けたんや・・・このアホめが」。 「七月二十八日(「平和のための京都の戦争展」開幕日)まで、身辺によう気ィつけておれ」のおどしもあった。

 そしていやがらせ、脅迫の手紙。―

「あんた方は日本人ですか。それとも支那人(中共人)ですか・・・寝言をいっては極楽へ行ケマセンヨ。あんた方、日本人を売る売国奴の犬ですよ」(奈良・香芝町、大坪春香名)。

「としの70歳にもなって、もっと考えて死にぎわを迎えよ!!  バカヤロウ!! それでもお前は日本人か!! ・・・日本中の笑い者で、死にやがれ!!」

「英霊を冒?した罪は万死にあたいする。死ね!」など、その数はざっと五十通。

「お前の家に放火してやる」「見知らぬ者が近寄れば注意肝要、家族も皆同じ」等々、直接行動をにおわせる通信も、あいついだ。ここにはとうてい紹介できない、下劣ひわいな文言を書きつけた投書もあった。

 東史郎氏は、その一々に返事を書き、投かんした。返書の多くは、一週間後に戻ってきた。脅迫状差出人のほとんどは、偽名であり、その住所はニセだったのである。

(「隠された聯隊史」P161-P162)




 次は、「幕府山事件」についての体験を語った、栗原伍長への中傷です。

毎日新聞1984年9月27日 『記者の目』より

  歴史の発掘報道に思う

  
 勇気ある当事者証言 匿名の中傷 卑劣だ 

    反論 堂々と姿現して

福永平和(社会部)


 

 記者にとって読者からの反響は大変に気になるものだ。新聞社内でも、あれはこうだ、いやちがう、などと言い合うことがあるが、読者からとなると思いもよらぬ視点を開かれることがあるからだ。

  特に痛いところを問答無用でばっさりと切られ、歯がみすることもあるが、半面、一方的に中傷、誤解されることもある。そして困るのは、こういう人たちの多くは匿名であることだ。 しかも、いわれなく取材先の人たちまでが巻き込まれるとなると、記者としていたたまれない。


 今回、この「記者の目」でとりあげたのは、そのケースで、取材した記者としては、見過ごすべきではないと思い、ペンをとった。読者のみなさんと共に考えてみたいと思う。
 

 発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、 紙面にも名前の載った東京都小平市の退職警察官(七三)だった。 だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えていた。

 「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか」 記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。

 電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。

 「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」「貴様は日本人のクズだ!!」「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」

 思いつく限りの悪罵を投げつけていた。

 もちろん、証言者を勇気づける手紙も何通かあった。「事実を述べられたこと(教えて下さったこと)の勇気をすばらしいと思います」(三十六歳の主婦)。

 勇気ある証言は次の証言につながってもいく。八月十五日付朝刊の「南京大虐殺、私も加わった」という神戸市の元上等兵(七五)の証言である。 そして、この第二の証言者のところへも「お前はバカか、平和を乱すようなことはするな」という手紙や電話がきていた。

 こういった非難、中傷、脅迫の手紙は、新聞社にもよく来る。八月十五、十六日付朝刊の七三一部隊関連記事でも「資料はデッチ上げ」という投書があった。共通しているのは匿名ということ。



「子孫にウソを伝えぬために」 

元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証” 犠牲者は三十余万人」の記事。

 「殺したのには殺した。それは事実だけど、中国側が言う三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。 中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるには、日本の側も、やったことははっきりと認めなきゃいけない。 いつまでも”殺していない”とか”自衛のためだ”なんて言っているのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」(以下略)

(『毎日新聞』1984年9月27日朝刊第5面)


*この「栗原証言」の内容については、K-Kさんのページで詳しく紹介されています。 栗原氏の息子さんである「核心」さんによれば、「結論から言うと、父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。  両記事のあとは脅迫手紙や脅迫電話が相次ぎ、また戦友や上官の方からも証言を取り消すようにとか、矮小化するようにとかの干渉が長い間なされています。 ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです」とのことです。

 


 中傷者たちは、証言者の語ることが事実かどうかなどには全く関心を持たず、ただ、「日本の過去の悪行について発言した」というだけで、証言者たちを攻撃対象にしています。

 普通の生活を営む市民の方であれば、このような攻撃により生活が破壊されることを覚悟してまで「実名証言」を行なおうという気には、とてもなれないでしょう。 「実名証言でない」ことを批判する心無い方々には、ぜひ、以上のような状況を認識していただきたいものです。




 次は、「証言しない人々」の「ホンネ」をかいま見れる事例です。「圧力」を怖れて公式の場では「証言」を拒む人々も、実際にはかなりの「加害」事例を知っていることをうかがわせます。

下里正樹氏「続・隠された聯隊史」より

 こんなこともあった。

 京都府船井郡在住の元機関銃中隊員に電話した時―。

 私は北山日記にある武進攻撃の記述「戦友たちが残酷なことをした話をしている」をあげ、私の身分を明かしたうえで、「残酷なこと」とは何だったのか、とたずねた。

 とたんに、受話器の向こうから猛烈な勢いで返事がかえってきた。

「そら戦争やさかいな、ようけあったわ。武進でわしが見たンは、家の中に隠れとった母親と姑娘やな。娘やってまえ! と(兵士が)手ェかけたら、母親が(服の)前をはだけよンね・・・

自分をナニして娘は助けてやってくれェと、まあこういうわけや。かまわん、二人ともいてこませ、いうて、真っ裸にして、五人(の兵)でかわりばんこにナニしてからに・・・

終わってからや、川のふちに連れていって、ニイコ(中国兵)の残していった手榴弾を二人の股倉に突っ込んで、ボン! いわせて、ほンならもう、へそから下がワヤになりまんが」


一気にここまでをまくし立て、

「ところであんた、どなたさん? 新聞関係の人? そらあかんワ。いまいうたこと、取り消しや。書かれたら、どもならん」。 あとは何をたずねても「取り消しや、もうかんべんして」のいってんばりであった。

(P49-P51)


高崎隆治『戦争と戦争文学と』より

 とはいえ、あの戦争下にそれが風聞として一部の国民の耳に入らなかったということはあり得ないわけで、当時中学生であり生活範囲の狭かった私でさえも、 横須賀に住む友人の口から友人の家に下宿している海軍の下士官の話として強姦について聞かれたことがある。

 もっともそれは、二、三人の下士官が酒を飲みながら話しているのを立聞きしたということで、 友人の憶測も入っているようであったが、しかしそれはまぎれもなく上海戦線での強姦―というよりは海軍の下士官・兵による輪姦であった。

 そしてどうやら女性は殺されたらしいのだが、驚いたことに被害者は一人ではなく三、四人またはそれ以上の複数であったことだ。 もちろん、アルコールが入っていたことで、下士官たちの誇張もあったのではないかと思われるが、正義を唯一の価値とする中学生にとってそれは言葉を失うほどの衝撃であった。


 ついでにもうひとつの話を手短かにつけ加えれば、戦争末期の学徒兵であった私は、ある夜下士官の一人と班内で話し込んでいたのだが、その時、少し離れた部屋の隅で 、応召の上等兵が初年兵を集めて日中戦争時代の自慢話をしていた。

 部隊の年配の応召兵のほとんどは二度または三度目の召集で、その多くは南京戦に参加していたのだが、次第に調子に乗った上等兵はやがて身振りを交えて強姦の話を始めた。

 すると突然、私と話していた下士官が、「T上等兵、つまらぬことをしゃべるな」と怒鳴った。その下士官とT上等兵はかつての戦友だったのだが、 上等兵が、「おまえだって同じじゃねえか」と斬り返すように言ったことで班内は騒然となった。

 上等兵は駆けつけた下士官たちに袋叩きにされ、その後まもなく転属になってしまったが、打ちのめされながらわめきつづけた上等兵の声はいまも私の耳に残っている。 彼は同じ中隊の何人かの伍長や兵長の名を挙げて「みんなやったじゃないか」と叫んだのだった。

 ようするに強姦は彼等のタブーだったわけだが、上等兵がそのタブーを知らないはずはなく、また上等兵に名前を挙げられた者たちも、遂に最後までそのことに関してはしゃぺらなかった。

 しかし、学徒兵であった私は、かつての中学生の時のように驚きはしなかったが、日本軍兵士の少なからざる部分が南京戦でなにをやったかほぼ推測することができた。

(P56-P58)

 


「「東京裁判」を読む」より


保阪(正康) くどいかもしれませんが、残虐行為があったのは事実だけれど、日本軍の全部じゃないということです。日本軍全体にすり替えちゃいけないと思うんです。 「私はやっていません。私たちの部隊はそういうことをしていない」という人にたくさん会ってきました。

 一方、やった人の中でも「やってない」という人の言葉に依拠して脆弁を使っている人がいるんですね。 ある部隊の隊長をやっていた人に取材したことがあるんですが、「君、絶対言うなよ、書くなら俺が死んでから何年か後に書け。名前は出さんでくれ。子供や孫がいるから」と言って、「やっぱりやった」と言っていました。

 やった事実を知っている人も表面上は「やってない」と言ってるんです。そのことが客観的な史実の検証を間違わせていると思うんです。 それだけに本当にやっていない人たちのこともきちんと調べて書き残さなければならないと思います。(P306)


(2007.11.17)


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