佐々木元勝『野戦郵便旗』より


 上海派遣軍野戦郵便長として従軍した、佐々木元勝の手記です。ここでは、陥落直後の南京を訪れた部分を紹介します。

佐々木元勝『野戦郵便旗』

南京陥落

 心ならずも一日延し、十二月十五日、暗い内に起きる。予定の五時より十五分遅れて出発、トラック三台である。 局員六名、兵隊九名、軍夫一名、外に梅森書記、それが寝具やら食糧水を積んだので郵便行嚢は割合少ない。

 トラックは順調、快晴。他部隊の往来は稀である。太倉からぽつぽつ死体がある。太倉を少し出たところで、犬が支那兵の死体を大分食い荒らしている。 你(ニー)が使役され道傍の乾いた溝で死体の数個に土を被せている。 攻略戦の途上、戦闘司令所があった古里村(こりそん)の道路はここだけ特に悪く、一里もないが馬の死体を数えてみると、思いのほか多く百二、三十ある。

 澄んだ水には支那兵の死体が冷たく浮いている。先夜月明の中をトラックで突っ走った寂しいところで、なかなかの水郷である。

 常熟の叉路で昼飯。道瑞に埃にまみれた支那の死体が二つ。一つは下半身が裸であり、一つは腐ってきたのか鼻や口から血が滲み出ている。二人とも二十歳くらいである。(P211-P214)

 無錫の街は依然として荒廃している。先日、街の橋のたもとに焦げて横たわっていた裸の死体は、犬に食われ脚は骨ばかりになっている。前行する

 運転手が道を誤り、蘇州の万へ大分進み引き返す。 途中兵隊が道端で体を使役し、黒くなった死体をいくつも焼いている。激戦であったためか、無錫市内外の住民が皆おどおどしている。 太陽を眩しむような手つきでちょいちょい敬礼する。

 多数の貧民が鍋釜、衣類等さかんに徴発にきている。子供に日の丸の旗を持たせたりし、徴発物を天秤にかつぎ郊外に列なして帰ってゆく。この風景は万々で見受けるが、無錫がひどいように思われる。

 無錫から江陰に向う途中死体が一つ、トラックが走る道より低い田圃の瑞に寄りかかっている。この辺だけに珍しくも水が澄んで青い一帯があるので、私はトラックを止め、ここで飯を炊く。 ほかのトラック二台は連絡を無視して、大分先に進んでしまいそこで飯を炊く。上海からの大切な水を使ったらしい。

 私のトラックがそこに追いついた時は、皆は葱や菜や仔豚を徴発してきていた。私のトラックだけ常州に先に行き、自動車廠でガソリンを小樽二個とドラム罐一個をもらう。かく段取りを済ませて私は夕飯を食う。 城門内の塹壕のような穴の中に、正規兵の死体が数名俯伏せている。一人は銃剣で横胸を突き刺されてある。

 月が蒼白に照る。トラック三台南京に向かうべく城外に出ると、森山運転手のトラックがひょっこり現われてくる。 南京郊外の軍司令部附近に、機銃を持った敗残兵が二千名を現われ、沿道は危険であるという。

 それで私は責任上夜行を中止する。初めは夜通し行く心算であったから、宿舎の用意がしてない。私は運転台で運転手といっしょに寝る。大きな食パンを入れた白行嚢を枕にしてうとうとする。 夜中膝が冷え、きりきり寒い。(P214-P215)


(「ゆう」注 以降、十二月十六日

 朝四時車の外に出、そのまま街角の警備兵の焚火にあたってしまう。火事の炎が赤い。六時ごろ月が落ちて真暗になる。

 未明出発、金壇に看いたのが七時五十分。十一時二十分丹陽に着く。丘に古びた塔を望み、死んだ鳥の浮いている黄色いクリークの水を汲み飯を炊く。ここから句容へがひどい悪路である。 農民が十数名道路に出て、自発的に煉瓦を敷いているところがある。やや曇り空である。風が強くなる。

 打合せた通り南京の支那郵便局は占領してある。元来支那の郵便局は外国権益に関係があるので、いっさい手を触れない方針でいたが、南京、敵首都においては逆に勢を転じ、敵の大建造物を占拠し、 大いに野戦郵便の存在を高揚せんと考えた。

 勇躍一番、トラックはめいめい突風のごとく走り出す。もうお互に連絡も何もない。一秒も速く南京に入城したいのである。

 麒麟門から少し先、右手の工路試験所の広場には、苦力みたいな青服の群がおぴただしくうずくまっている。武装解除された四千の支那兵である。道端にもうんといる。 ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか。弾薬集積場であった馬群鎮では、敗残兵二百名の掃湯が行なわれた。

 私は疾走するトラックからこの弾薬集積所に、二本の新しい墓標を見た。一本は特に憐れな抗日ジャンヌダルクのために建てられたものである。それには「支那女軍士之墓」と墨書されてある。(P215-P216)

 瞬く間に南京の大城壁、中山門にくる。日の丸の旗が神宮球場の入口みたいに数本翻っている。城壁の一角が砲撃されて崩れ、木材と土嚢を積み重ね、頑丈に閉された城門は、片側だけ開いている。

  南京陥落! 城門突破のこの感激の一瞬! だれが興奮し、感激しない者があったであろうか。 (上海出発以来、トラックの所要時間を到着場所ごとに、克明に記入していた私も湯山鎮から先はまったく忘れてしまっていた。)

 城内に入る。コンクリートの大道路の街路にも新しい日の丸の旗が掲げられてある。この大道路を兵馬が勇ましく続々と行進する。 中島部隊附の郵便局の旗が上海銀行の前にあるが、これを素通りして目抜きの街の道路を走る。国民政府は門廓は堂々としているが、内庭は古びた低い建物である 。

 南京は上海と違い、電車はなく、街一帯が落ちついている。このときの南京城内外での俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされていた。 街角に火事がまだ燃え残っており、夕方近くそれがだんだん赤くなる 。

 本通り、軍政部から海軍部にかけ数町の間は、真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる。 死体はすでに片ずけられたのか少ないが、小銃や鉄兜や衣服が狼籍を極め、ここで一、二万の支那兵が一時に掃射されたかと思われるばかりである。これは支那兵が軍服を脱ぎ捨て便衣に着替えたものらしくもあった。

 太陽が真赤に沈もうとする。焼けたトラックの残骸が散乱し、木材と土嚢でぎっしり固めた挹江門は、凄烈な殺戮戦を思わせる。この門を出て揚子江岸、停車場近くの 支那郵便局に向かう。江岸に支那兵の殺された無数の跡があり、江には駆逐艦が浮いている。城外の下関一帯は、上海閘北のごとく焼け荒されている。(P216)

 壮大な銀行と似た支那郵便局舎の前には支那兵の死体が、火が燃えている焼跡の中に脚から腹の方を焼かれ仰向けに倒れている。 それは将校らしく、骨相ががっちりし、両眼がカッと見開いている 。

 壊れた煉瓦の焼跡に、たった今殺されたらしい中老の死体がある。口と鼻から血を出して、風呂敷包が転っている。 トラックから降りて警乗兵が開けて見ると、下らぬ衣服類と空の蟇口(がまぐち)である。

 この郵便局の巨大な三階の建造物は、一階が郵便局の現業で二階からは江蘇郵政管理局である。ここに上海から連れて来た局員と警乗兵とを残し、私は中山門近く中島部隊附局へと引き返す。

 暗くなりかけた街路を続々とおびただしい苦力の大群が、銃剣をつけた兵隊に連れられ行列をなして行く。これは 俘虜である。連れて行く兵隊に、私がトラックの運転台から聞くと、これは便衣に変装していたものを、一網打尽にしたもので三組あるとかである。

 日の丸の腕章をつけた者が多い。鼠色の毛布を巻いて背負ったり、飯の鉢を腰にぶら下げているのがある。列に遅れまいといそいそ走って行くのや、中には三人肩を並べ腕を組み、遠足にでも行くように 噪(はしゃ)いでいるのもある。歩くのが少し遅れ、何やら、ちゃあ、ちゃあいうと兵隊に パチンと殴られる。十五、六の給仕みたいのもいる。月が蒼白く昇る。

 今宵一夜の俘虜の歴史的この大群よ! 亡国の悲しさよ! 

 中山門近くの局に帰るともう真暗である。山森事務官と梅森書記は、気の進まぬ運転兵に金一封をやり、機嫌を取って下関の局へ向かう。 夜だいぶ遅くなってから、このトラックの運転兵がどかどかもどってきた。下関では大変なことがあったと話す。

 その夜、下関の局近くの河岸で、敗残兵掃蕩の銃声がさかんに起った。江上の駆逐艦は棲壮な灯を点じ、濁流を逃げんとする敗残兵を機関銃で掃射した。(P217)

(『野戦郵便旗』(上)より)

 


 
佐々木元勝『野戦郵便旗』

入 城 式


 十二月十七日、快晴、暖かい。今日は南京入城式である。式の次第は極秘であり印刷したものなどくれない。国民政府附近一帯粛然として警戒厳重である。 街角で一人怪しい奴が撃ち殺され、公共防空壕に蹴落される。山森事務官、藤田事務官とともに、私は午後一時半、国民政府の門廓を潜り内庭に入る。

 杭州湾上陸の柳川兵団や海軍の将校もきている。飛行機が晴れて霞んだ上空を飛ぶ。六十一機だとか。

 将校たちが緊張して整列していると松井大将、朝香中将宮殿下、柳川中将、海軍の長谷川中将、ほか幕僚の一群が入城せられる。内庭の壇上 宮殿下のほか松井大将、柳川中将、長谷川中将が起立せられる。

 表門廓の頂上の柱に大きな日の丸の旗が、君が代吹奏裡に掲揚され、一同東方遥拝。松井大将の発声で

「大元帥陛下 万歳」

を声高らかに三唱する。

 祝宴場は爆弾の当たっておる建物のある奥の広い部屋で、四司令官は上壇、軍楽隊の吹奏、御賜の冷酒と煙草、歓喜の渦である。 勝粟、するめ、昆布、蜜柑が少し、質素な立食であるが、各将校の今日のご機嫌はまた格別である。式は二時から一時間半くらいで終わる。

 門廓の外に出て中島部隊兵器部の片岡少佐といっしょに記念撮影をする。野戦郵便のトラックで中山門砲撃の野砲弾を運んだので、片岡少佐と私たちは知己となったのである。少佐は中川書記にその申出もあったので、鹵獲品のモーゼル拳銃を贈呈するという。(P218)

 今朝、一人の你が撃ち殺され防空壕に放り込まれた街角にくると、路面が濡れ強列な匂いがする。酒である。これは蘇州の豪邸から徴発した薔薇酒と同じ匂いである。 私は酔って昏睡しひどい目に会っているので、この酒の匂いをよく覚えている。酒舗に一歩入れば匂いだけで酔いそうである。

 兵隊が甕を抱え出してくる。店の中の大甕は口を開けられ、兵隊が思い思いにしゃくっている。小さい酒甕が転がされ、破られてある。 局が近いので私はトラックと兵隊を廻させ、小甕とはいっても一斗近く入るのを五個運ばせる。床の甕の間に糞がしてある。

 カウンターに立ち上って指揮する私の長靴は、糞がつき洒で濡れている。 壁際に積まれてある古い小甕はまだ三、四個残っているが、とても飲み切れるものではない。甕を持ち運んだので兵隊の胸は赤煉瓦の埃みたいなのがついて汚れる。

 一同トラックで中山陵に出かける。ここは中山門を出て、右手の松林丘陵のドライブ道路を走るとすぐである。 陵の巾の広い階段を私たちが上がりかけた時、一組の兵隊がガソリン罐を徴発してもどってくる。一人新しい青竜刀を持っている。

 敗残兵が一人後手を縛られ綱で曳かれてきたので私は驚いた。ガソリン罐は陵墓の階段途中にある附属建物にあったものらしい。 敗残兵は近くの松林か、どこかからひょろひょろと現われたのである。背が高く痩せ、眼がぎょろつき軍鶏みたいである。

 負傷しているらしく、飢え疲れているのであろう、階段横の芝地から道路へ下る時のめる。まったく情ないくらい、胸を道路に打ちつけて、二、三度のめる。連れて行かれるのが嫌らしくもある。 中山陵の前、松林の中の枯れた芝生でこの敗残兵の青年は白刃一閃、頸を打ち斬られてしまう。亡国の悲哀がひしひしと私の胸に迫る。

 陵の高い階段を上って行く時、私は上海からトラックに警乗してきた兵隊の頚筋を見る。この兵隊は好ましい青年であって、その頸は襟足に軟かい魅力がある。 私はこの頸が一刀両断せられるかと何回となく盗み見る。(P219-P220)

 中山陵は門も殿堂も、竹矢来で仮普請のごとくおおっていて、空襲のカムフラージュがしてある。石段は幅広く立派である。 中程に青銅の大きな鼎が置かれ、それに小さい砲弾や銃弾の痕がある。白大理石の雄渾な高麗犬もある。

 絶頂の殿堂の中には孫中山の白い大理石の半座像がある。鼻柱が撃ちぬかれている。鍵がかかって開かぬ一室は扉が叩き壊され、中には絨氈その他が燃え燻ぶっている。

 中山陵からは夕靄(もや)に烟ぶる南京の街が展望され、近くには砲兵陣地の気球が二つ空に繋留している。 数百の石段を一歩一歩降りてくる時、兵隊の一人が銅銭を放り投げると、ころころとどこかへ転がっていってしまう。

 トラックの帰り、中山門の前のところから、また武装解除の支那兵の大群に会う。七千二百名とか。おびただしい乞食の大行列である。だれ一人可憐なのがいない。

 日暮れ局に帰る。局の前は紙屋なので鼻紙になるのを徴発してくる。その隣は花柳病の医院である。はいって見たが別に何もなく、台所の裏に防空壕がある。局の横隣は時計屋である。裏二階に梯子が掛けてあり、局に目醒し時計が持ち込まれる。 局の裏手に石の小さい円井戸がある。赤鉛筆や筆やノート等どこからか徴発され、混雑と多忙の局務に使える物は使う。

 夜の飯は本場の南京米でぼろぼろで箸に掛らない。

 日暮れ、局に兵隊が連れて来た小輩がいた。十三になる黒服のおとなしい少年である。兵隊にとてもなついている。句容の寺の息子でよく字が読め、苦力が畏服している。母親は殺された。 句容を去る時は大変泣き悲しんだとかである。夜、遠近に火事が止まぬ。


 十八日、五時には兵隊の靴音が騒々しい。暗い七時、伊東部隊のトラック二台が出発する。これに新聞記者や映画班の人たちが便乗する。 伊東部隊から上海局にわざわざ兵隊ごと差回わされたトラックで、それが南京にやってきていたのである。ヘッドライトに雪がちらちら降ってくる。中川書記のトラックは二十五分遅れて出発する。曇り日である。 (P220-P221)

 上海局から森田書記が飛行機で航空便を持ってくる。軍用機で上海南京間三時間である。藤田部隊の局長渡辺書記もやってくる。下釜と築地運転手のトラックがきたので、私は城外から二里余の藤田部隊の本部のある土山鎮に行く。

 要談の後、帰りに城壁外の道を違え、汚ない家混みに出る。五、六個死体が転がっている。でっぷり肥った白髪の老婆が横たわっている。私の母親に似ており不快さが私の胸に突きあげてくる。

 夜、局舎内の焚火を囲みいろいろな話が飛び出る。いい気になってしゃべるから口が滑る。南京が陥落した大動揺の波涛が無錫や常州等の廃墟の街で何を演じさせたか。軍夫の運転手が同僚に分別らしくいう。 「あまり妙なことをしゃべるなよ」

 上海を最初出発する時注文しておいた南京陥落記念スタンプができていたので、それを私は携行していた。図案は従軍画家田代君に依頼していたもので、大日章旗が城壁の上に林立している。これを赤色で押捺する。

 「南京陥落記念スタンプ押捺します」

 十八日、この貼紙は非常な人気を呼ぶ。上海銀行の局舎は入城した兵隊が、記念押捺を求めるので大変な混雑となる。中には靴でカウンターに上がったりする。将校が叱る。ある中隊長は部隊の兵隊に一枚ずつ押してもらいたいと風呂敷いっぱいに葉書を持ってくる。

 かようなのは、局を閉ざしてから局員が蝋燭の灯で一枚一枚夜遅くまでかかって押す。二十一日、スタンプ二個のうち一個盗まれたのでますます混雑する。(P221-P222)

 ある兵隊が南京軍官学校の封筒にこの陥落記念スタンプを押捺して家へ南京入城の便りをしたところ、骨董屋かだれかこの封筒を二十円で買いにきたとかである。『日日新聞』にスタンプの記事が出たので、内地からもおぴただしい押捺要求があった。

 二十一日、為替も取扱い開始、この日の取扱いは一万九千円である。兵隊が殺到する。用紙がない。あまり忙がしいので、徴発の白紙を切って受取証をこしらえるのを私も手伝う。(P222)

(『野戦郵便旗』(上)より)

 


 
佐々木元勝『野戦郵便旗』

ト ラ ッ ク

 南京下関の支那郵政局は堂々たる大建造物である。

 江岸には掃蕩せられた敗残兵の死骸が累々として道路と岸壁の下と水打際に折重なっている。
いかなる凄惨もこれには及ばない。 長江の濁流に呑まれ押し流された者がこのほか幾何(いくばく)あるかわからぬ。

 私は関東の大震災の時、本所の緑町河岸でたくさんの人が折重なり死んでいるのを見たが、これにくらペればものの数でもない。

 生命を奪った銃弾と銃剣とがこれをものすごくしている。半裸になっているのがある。石油をかけて焼かれ焦げたのがある。 傍に陸揚げされた菰被りの酒樽が戦捷を祝うもののごとく山積され、上に兵隊が歩哨に立っている。戦勝国と亡国とのあまりにも深刻な場面である。

 私たちは上海戦以来局舎ではさんざん苦労したので、南京では戦闘司令所が湯山鎮にある時、主任参詳と打合わせて城内の支那郵便局をもらうことにしておいたのである。(P222-P223)

 それで十二月十六日、栗鼠のごとく俊敏にここを占拠し野戦局の貼紙をしたのであるが、この建物は工兵隊の小池部隊が進撃してきて占領したので一悶着起る。彼らは命がけでここを占領したのだからやれぬという。

 結局貼紙の「野戦郵便局佐々木」とは主任参謀が佐々木大尉であるので、その姓であることになり、郵政局は完全に私たちの占有となった。屋上の柱から緑の支那郵政旗が降され、野戦郵便旗が翻翻と翻える。

 この局舎の入口には砂嚢が積んで土塁になっており、局舎の内外には敵の機関銃や抗日の腕章付の被服が遭棄されてあったが、それは大したものではない。

 局内に大型ダッヂ(DODGE)の緑色のトラックが八台あった。これは優秀車であるが、敵が逃げる時、部分品を取りはずしたので動かない。工兵隊は乗り潰した一台の支那の乗用車だけを置いて、ダツヂのトラックは全部牽引して城外の工兵学校に移動してしまった。 トラックは野戦の足であり体である。三台のトラックが中山門攻撃の際砲弾運びをしたのでも、いかにそれが重要であるかがわかる。


 十二月二十日晴。湯山鎮の戦闘司令所に行く。城外を出ると田のクリークに薄氷が張っている。 司令部で佐々木参謀に会い名刺にトラック分配の件を書いてもらい、工兵学校に出かける。途中田圃でトラックがめり込んでいるのでつかえる。

 わかり難いところを尋ね当て、部隊長に会う。押収トラック三輌を譲受けることになる。時刻が昼なので、焼飯のご馳走になる。

 帰りは光華門に出る。ここは脇坂部隊一番乗りの有名な新戦場である。高い頑丈な城門は二重になっており、血痕と硝煙が生々しい。

 門のところで部隊長人見大佐に会う。 部隊長は松井部隊本部が大場鎮周宅にあった当時、高級副官から前線に転出され、今は部隊長として奮戦しておられるのである。宮殿下がご通行遊ばされるので、トラックを横道に片寄せ私は下車する。(P223-P224)

 局に帰ると森山運転手のトラックで中村書記がきている。朝七時半上海を出発、自動車競争のような速力でふっ飛ばし、夕方四時半南京に着いたのである。森山運転手に頼んでも動かない。無理もないことである。

 それで下釜運転手と私とで再び工兵学校に出かけ、青塗りのトラック二輌を引いて帰る。後のトラックにもそれぞれハンドルを握る者を乗せ、なかなかの苦心である。もう暗くなりかけている。

 光華門は激戦の跡、梗塞物を急遽取払ったばかりで、勾配が急であり、トラックは登りかけては何遍も逆行する。一台ずつ引張ってこの英霊の眠る城門も抜ける。火事で街の空は一面に赤い

 やっとの事で局に帰る。大成功と歓んだのも束の間、翌朝起きて見ると前夜引いて来たトラック一輌がまんまと盗まれている。ロープでゆわえてあるトラックを盗む! なんということであろう。この紛失はその後すペてのものに関して私を充分警戒させた。

 この苦心惨憺して野戦局のものにしたトラック三台は、一台は盗まれ、あと二台は自動車廠へ持って行ったが、部分品が無いのでなかなか直らぬ。 徴発の自動車は兵器部の登録がないから埒があかず、結局あとの二台も自動車廠に入っている間に紛失してしまった。


 二十二日、晴。七時トラックで出発。中村書記と下関停車場に行く。寒い。プラットホームには血痕がある。昨日初めて貨車が試運転したもので途中鎮江で脱線し、一貸車河に落してきたとかのことである。

 上海に帰るのに二泊せねばならず、貨車四輌の粗末なものである。それで鉄道便を止め、私はトラックで上海に帰ることにする。

 城外飛行場には吉住部隊がおり、私たちが上海から輸送した郵便物の中から、数通の手紙を局長の新谷書記が部隊長にじきじき届けると、閣下は喜ばれ、局長は面目をほどこした。

 ここの局も部隊が蘇州に移動するので引揚げねばならぬ。局長の新谷書記ほか配属兵を乗せたのでトラックはいっぱいになる。かような際、ひとり置いてけぼりなどされたらたまったものではない。(P224-P225)

 十二時十五分中山門を通過。湯山鎮の戦闘司令所も今日が引越であり、局にはだれもいない。霜枯れの丘陵地帯である。みんなは近所の温泉に行ったのであろう。湯山鎮は湯が熱過ぎるけれども、支那には珍しい温泉場である。 その後ここは傷病兵の療養所となった。


(以下略)

(『野戦郵便旗』(上) P222〜P224)




<佐々木元勝日記>(「証言による『南京戦史』(9))

 上の手記の元になったと思われる、佐々木元勝日記です。『偕行』1984年12月号に掲載されました。

 なお青字の(注)は、すべて『偕行』によるものです。私とは見解を異にする部分もありますが、原文のまま、掲載しています。

▲佐々木元勝氏の野戦郵便長日記

(上海派遣軍司令部郵便長)
〈注〉佐々木元勝氏は軍の野線郵便長として従軍し、12月15日上海出発、書記以下兵十六名がトラック三台に乗り、太倉- 常熟- 無錫- 常州 - 丹陽-匂容- 南京道を前進し、16日南京に入城した。この間の戦闘の情景を日記に誌している。既に若干引用したが、16日、17日の日記をまとめて引用する。

佐々木氏の資料は、12月16日〜17日と南京攻略戦から若干の時日を隔て、多くの伝聞推測を交えてはいるが、当時現場にあって、惨烈なる戦闘後の戦場の実相を見聞した人によるつぶさな記録として、その資料的価値は高く、
遺憾ながらこの日記に記録されているようないくつかの不法行為があったであろうことは認めざるを得ない

12月16日、快晴、風

 湯水鎮の軍司令部に立ち寄り、中川君と会い、敗残兵との一戦の危ない話を聞き、勇躍トラック四台、先を争って南京に向う。麒麟門から少し先の工○試験所の広場に、苦力みたいな青服の群が蹲っている。武装解除された四千の兵である。
(注 第六師団参謀長中沢光夫氏の証言の俘虜と同一のものであろうが、この俘虜は南京に護送収容された。)
 瞬く間に南京の大城壁に到り、中山門を入る。・・・・・軍政部の前通りから数丁の間、真に驚くべき兵の殲滅が行われたらしく、死体は殆んど片付けられているが、鉄兜や衣服が狼藉を極めている。ここで二、三万の兵が、一時に掃射されたものであろう。 火災の炎が未だ燃えている家がある。
(注 この目撃記が「大虐殺」の根拠とされているが、狼藉の跡を見ての想像である。13日、真っ先に入城した歩兵第二十連隊、第七連隊の証言をみても、否定的である。中国軍が狼狽して敗走した跡である。)
 夕日が沈まんとする頃、トラックを走らせて揚子江河岸停車場近傍の郵政局に向う。ここは上海の閘北の如く荒れている。揚子江河にも支那兵の殺された無数の跡があり、駆逐艦が浮んでいる。 新局舎の前には、軍帽を被った支那兵(士官)が脚から腹の方を焼かれ、まだ燃えている。壊れた煉瓦の上では、少し前殺されたらしい中老の死体が、口と鼻から血を出して倒れている。・・・・・

 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した五百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した。 ・・・・・夕方頃、自分で通った時は二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。

 南京で俘虜は四万二千とか。揚子江河岸からの帰り、続々と夥しい行列をなして兵に連れられて行く。苦力の大群(俘虜)は三組あり、警戒の兵にトラックの窓から聞くと、皆殺してしまうのだと答えた。 便衣に変装して避難しているのを一網打尽にされたので、日の丸の腕章をつけたのが多く、十五、六歳の給仕みたいのもいた。月が蒼白くのぼり、此宵一夜の命の俘虜の群れは、歴史的悲劇に違いない。

 碼頭の局に行った運転手の兵等が、大分遅くなってからドヤドヤ帰ってきたが、碼頭で二千名の俘虜を銃殺したという話。手を縛り、河に追い込み銃で射ち殺す。逃げようとするのは機関銃でやる。 三人四人づつ追い立て、刺しても斬っても御自由というわけで、運転手の兵も十五名は撃ったという。
(注 16日夜、下関碼頭で俘虜二千名を銃殺したという話=これは、第三艦隊従軍画家住谷盤根氏(後掲)の証言、15日夜大量に銃殺されたという今井正剛氏の証言あるいは梁廷芳大尉の五千人殺害談と、 何らかの関係があるように思う。(P10)

住谷氏の目撃日時は明記されていないが入城式の前日といい、人数が約二千人というから、同一の事件であるかも知れない。)(P10-P11)

 ―馬群で女俘虜殺害の話―

 これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を降り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、 裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。

 殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。



12月17日 快晴

 朝方、上海兵站部の兵が、年寄りの支那人を射殺した。この支那人は、どこをどう間違えたのか、入場式のある街近くに来て、警備の兵に捕えられ、ウオーウオーと盛んに弁明する。 一旦釈放され帰りかけたが、引き戻されて防空壕に連れ込まれ、銃声一発、二発、射殺された。返くの宿舎の歩哨に補助憲兵が二人立っていたが、何とも去わない。殺された支那人が馬鹿で、不運なのである。

 トラックを走らせて、揚子江河岸に行く。昨夕、軍政部前の通りに散乱していた青色の軍服等は、一斉掃射を浴びた跡と思ったが、血が流れていないから、ここで一、二万の兵が集合し、便衣に着換えるため、算を乱したとも思われる。 (注 この目撃記が「大虐殺」の証拠とされている。実は中国兵があわてて便衣に着換えて放棄した軍服散乱の跡である。)

 野戦郵便局の前を素通りして、揚子江岸に出ると、ここで人類最大の悲劇に直面した。昨夜銃殺した俘虜は二千名余で、道路の一方の空地に縛しておき、四人づつ石畳の河岸に追い出し、支那銃で射ちまくり、逃げるのは機関銃でやり、江上には駆逐艦が居て照明をした。 二箇所で、どしどし大量虐殺が行われたのである。(注・昨夜の事件を想像しての記載であろう。)

 道路近くでは石油をかけられたのであろう。黒焦げになり燻っている。波打際には血を流し、屍体が累々と横たわっている。波打際の死体と並んでいる一人が、こちらを向き眼を開け、睨んでいる。兵站部の兵が道路の欄から撃つ。一発命中したが死なぬ。 次の一発は水にあたる。目を開いて呪わしげにこちらを見る。さらに一発。両手をぐうっと伸ばして絶命。抗日は呪日であったろう。

 兵站部の兵二名と他の兵一名が、河岸に下り立って余喘のあるらしいのを撃つ。向うの箇所でも他部隊の兵が、道から拳銃で撃っていた。・・・・・トラックで引返し、入城式に向う。(入城式の状況記述、省略)

 式は二時から一時間半ぐらいで終り、トラックで中山陵に向う。・・・・・中山陵近くの松林で青竜刀を持った一人の兵士が、敗残兵一名を後手に縛り(斬首の光景が述べられているが省略)


 タ靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。 船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・。
(注)佐々木氏が16日、麒麟門近で見た約四千の俘虜が、17日の入城式後に南京に護送されたものか、あるいは別の捕虜であるか不明である。 人数の七千二百名は仙鶴門(堯化門)の歩三八の俘虜数と一致するが、澄田氏の証言によると約二、三千人といい、どうも人数が一致しない。

元上海派遺軍参謀榊原主計氏が「16、17日頃、俘虜を南京刑務所に収容した」(後掲)と述べているので、この俘虜の護送光景であろう。17日の入城式以降は、大量の俘虜処分の話は聞かない。)
(P11)




2015.1.4 追記


 上記資料を補完するものとして、『じゅん刊 世界と日本』1985年1月5日号に掲載された、畠山秀夫氏(阿羅健一の別名)による佐々木元勝へのインタビューを紹介します。

 なお阿羅氏は、のち単行本『聞き書 南京事件』(図書出版社)を出版しますが、この佐々木インタビューは単行本には収録されませんでした。

『聞き書き 昭和十二年十二月 南京 「南京大虐殺」説の周辺』より


― 上海から南京に行く途中、「道傍の廃屋に死体が転がっている」と書いてありますが、この死体は?

兵士ではなく一般の人の死体です。日本兵によって殺されたのでしょう

― 戦闘で殺されたものですか?

「いや。戦闘によるものではないでしょう

― 敗残兵という言葉から、戦闘で傷つき戦闘意欲を失った兵士を想像しますが、この本ではちょっと違うようですね。どんな意味合いで使いました?

「戦闘で敗れた兵とか逃亡して潜んでいる兵を指して使っています。大体ゲリラ活動をしており、指揮者がいれば再び攻撃してくる兵士たちです」(P26)

― 敗残兵はいつまでいましたか?

「南京攻略直後はそれほどでもなかったが、時間とともにひどくなって来ました。日本と中国との戦いは続いているのだから当然です」

― 本文に「敗残兵二百名の掃蕩が行われた」とありますが、掃蕩とは?

「戦闘で殺したことです。多分機関銃を使ったのでしょう。戦闘だから問題はありません」

― 昭和十三年五月頃、「今でも敗残兵が土民になっており、物騒である」と書いてますが?

「百姓の姿をしているが、実際は兵隊なんですよ」

― 野戦郵便夫も徴発しているようですが?

「戦時国際法上、徴発は許されています。ただし対価を支払う義務があります。私たちも徴発したが、支那を馬鹿にしていたので対価を払わない者も多かった」(P27)

― 戦時国際公法を皆知っていたのですか?

「兵士や郵便夫は知らなかった。私は東京大学で戦時国際公法、平時国際公法、国際公法を学んでいた。逓信省では、国際都市旧上海で活躍するためにこういう法を知っている人を、ということで私に話があった。 当時私は三十三歳だったが、世界を旅行したいと考えていたので逓信省に入った」

― 十六日の南京を「軍政部から海軍部にかけ数町の間は、真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる」と表現しているが、具体的にはどうだったのですか?

「多くの軍服が乱雑に脱ぎすてられてあった。青い、濃紺の中国兵の軍服です」

― 下関にも敗残兵の死体がありましたね?

「これが今言われている虐殺に当たると思う。数から言えば小銃では無理だ。機関銃による射殺だろう。数えたわけではないが、二千人くらいいた。夕方街路で会った俘虜たちだ。揚子江には海軍が軍艦から掃蕩した死体があった」(P28)

― ガソリンをかけて焼いたともあるが……。

「最初は臭わないが、そのままおけば腐敗するので、ガソリンをかけて焼いたのだろう。それでも焼いたのは三百人か五百人ぐらいで、全部ではなかった」

― 翌年二月二日に下関の揚子江岸で二つの死体を見ていますね。

「十二月十六日に見た死体の残りだと思う。大部分は流れていって、その残りだろう。 揚子江では、南京あたりでも潮の干満というのか波というのか、そういうのがあって死体は流される。揚子江が満々と流れるというのは嘘で、流れは早く、中ほどでは船から落ちたら助からないという」

― 「南京城内外での俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされていた」と書いてありますが、どこから聞いたのですか。

「今すぐには思い出せない……。南京城に入る時、城門の外に四千人ほどの俘虜を見てるし、そのくらいはいたのじゃないかな」(P29)

― 同じ日に 「江岸に支那兵の殺された無数の跡がある」と記述していますが、死体があったのか、脱ぎすてられた衣服があったのか。

「ここでは戦闘があったのです。その跡です」

― 二十一日の南京を 「火事で街の空は一面に赤い」 と書いていますが、あっちこっちで燃えていたのですか?

「何ヵ所かありました。日本兵が宿営して、火の始末を完全にしていなかったためです。火を使ってそのままにしていたので燃えたのでしょう」

― 放火ではありませんか。

「放火ではありません」

― 難民区のことは何も出ていないが、知っていましたか?

「知っていた」

― 崇善堂は知っていますか?(P30)

「知らない」

― 慈善団体ですが……。

「慈善団体なら紅卍会を知っている」

― 紅卍会と崇善堂が死体を埋葬したというのですが……。

「紅卍会は有名なので名前は知っているが、南京ではどうだったのか。崇善堂は聞いたことがない」

― 本の中にある「敵兵の重傷患者の収容所」はどこにあったのか?

「南京の収容所は小さくてどこにあったのかはっきりしない。外国の記者が取材に来るので見せていたようだ」

― 実際、日本軍の暴行、殺人などを見ましたか?

「一度あった。中山陵に行った時、二、三メートルの松の林で将校が一人の敗残兵の首を斬るところを見た。その瞬間を.ベビー・ミノルタで撮った。カメラは親類の写真屋が出征の祝いにくれたものだ」(P31-P32)

― 城の郊外に死体はありましたか?

「郵便トラックで何ヵ所か通ったが、なかった」

― ティンパーリーの本について……。

「記憶にない。読んだこともない。中国にいる間に読んだのは 『麦と兵隊』です」

― 南京大虐殺の話はいつ聞きました?

「虐殺という言葉を聞いたのは戦後です。虐殺は明らかに国際法違反ですから、戦前は聞いたことがなかった」

― でも俘虜を殺しているのでしょう……。

「俘虜といっても、自分の生命が危険になれば戦時国際法上殺してもいい。銃を持っていても、一人では五人の俘虜にやられる時もある。その時は殺してもいいわけです。二千人の虐殺は、日本軍自体、食べるものもなく困っていた。 始末に困ったから、理由をこじつけて殺したのだと思います」(P32-P33)

― 二千人の虐殺はあったのですね?

二千人の虐殺はあった。しかし、朝日新聞の本多記者が言っているようなことはない。二千人の虐殺はあった。それを否定してはいけない。 そのことははっきり言わなくてはならない。ただ、支那人は万とつくのが好きだから、ああ言っているだけだ。それが朝日新聞に載るものだから、最近は小学生まで二十万人だとか言っている。 このままにしておくと、歴史的事実になる。否定し、訂正しなければいけない」

― なぜ南京で起きたのか……。

「第一次上海事変の時、中国人の爆弾で白川大将が死んだ。重光公使が足をもぎとられ、野村大将が片目になった。多分あれが頭にあったんじゃないかな。轍を踏まないで、ということでやむを得ない。甘く見ると自分たちがやられるからね」(P33-P34)

― 二千人以外の虐殺は?

「二千人以外は、ほとんど戦時国際公法上適法な行為だと思います。『処刑した』ということは、適法な行為のことです」

― 東京裁判では大虐殺と言っていますが……。

「あれを聞いた時、松井大将が気の毒だと思った。虐殺を認容した、それが理由で罪になったと言われた」

― ところで、「野戦郵便旗」 を書く時、検閲を気にしましたか?

「当然。時代の自己規制はあったよ」

― 具体的にはどう自己規制しました?

「日本の悪口は書かない。天皇陛下を天皇なんて書かない。婦女暴行もあったが、書かなかった。婦女暴行のことはちょっとあの本の中に書いているが、今でも詳しくは書く気がない」(P34-P35)

― 日本に持って来る時、検閲されなかったのですか?

「上海だったと思うが、検閲があるので、自己規制はしているが、持って帰れないと思っていた。ところがスタンプや貯金通帳用紙などの公用機材を入れるトランクを持っていた。これはほとんど検閲がなかった。その中に入れてきた」

― その原稿が本になった……。

「そうです。逓信大臣の永井柳太郎が表紙を揮毫してくれ、昭和十六年に発表した。下関でのことは『今宵一度きりの大軍よ』としか書けなかった。それを高崎隆治氏が眼光紙背に徹する、というのか見抜いた。すごいね。高崎氏にはこの本を認めてくれて感謝している」

― 序文を書いている高崎氏や洞富雄氏は、南京での何十万人の虐殺を主張していますが……。(P35-P36)

「二人には会ったことはない。出版することや序文は出版社にすべてまかせた。本になってから序文を読んで、それなりに参考になった。洞氏は歴史学者だと聞いたが、本と本をつき合わせるのが仕事だから仕方ない。 ただ、体験もしていないでああいうことを書いたりするのはどうか。自分は南京ですべてを見たわけでないが、事実だけを書いている。それが解釈によってまちまちだ。歴史はこうだと断定できないむずかしいものだと思った」

― 当時の日記に書いてあることほすべて本に書きましたか?

「すべてを書いたわけではない」

― 南京のことで日記だけに書いてあることもありますか?

「あるかもしれない。しかし重要なことはすべて本に書いた。本に書いてあること以外に知りたければ聞いてください。日記を見て記憶を引き出せば、何か出て来るかもしれない」(P36-P37)

(『じゅん刊 世界と日本』1985年1月5日号所収)


(2010.10.2)


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