第二次上海事変 張治中将軍=共産党スパイ説 |
1937年7月28日、日本軍と中国軍は華北で本格的に衝突し、「日中戦争」の幕が開けられました。ついで8月14日には、戦火は上海に飛火し(第二次上海事変)、戦争は中国全土に拡大することになります。 この第二次上海事変は、実はスターリンの意を受けた共産党の大物スパイの仕業であった。そう主張するのが、『マオ』です。
問題は、『マオ』がどのような資料を根拠に上のような記述を行っているか、です。矢吹晋氏が紹介する、コロンビア大学教授・ネイサンの『マオ』批判です。
このような本であってみれば、真偽判定は慎重に行うべきところでしょう。 さて、『マオ』の「張治中=共産党スパイ説」の最大の典拠と見られるのが、『張治中回憶録』です。確かに同書には、このような記述があります。
張治中は共産党に入党申請をした。共産党の側では、国民党との関係を慮り、とりあえずは「秘密党員」として受け入れることにした、というわけです。 しかし共産党との関係を示唆する記述は、これで終わります。 『マオ』が主張するような、実は自分は共産党のスパイであり、スターリンの指示に基づいて「第二次上海事変」を引き起こした、などという記述は、どこにも見当たりません。 それどころか、しばらく読み進めると、こんな記述に遭遇します。
つまり『張治中回憶録』によれば、「入党」以来1937年11月まで、張治中と共産党の関係は途切れていたことになります。 張にとって「共産党との関係」はむしろ誇るべきことであったと思われますので、例え「党員」であったことが事実だとしても、この時期「党員」としての活動はほとんど行っていなかった、と解するのが自然でしょう。 『マオ』の『一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取りあうようになっていた』の一節は、根拠不明です。 結局のところ、矢吹晋氏が紹介するスペンス教授の評価が、最も説得力を持つように思います。
さらに『マオ』では、「先制攻撃」に消極的な蒋介石の意向に逆らい、張治中が勝手に戦闘を始めたかのように書かれています。 実際はどうか。「第二次上海事変」に至る経緯を中国側の視点から見た論稿を紹介しましょう。
14日の「総攻撃」は「蒋介石の命令」に従ったものである、とのことです。一連の経緯を見ても、張治中が蒋介石の指示に逆らって「暴走」した気配は窺えません。 なお『マオ』は、「大山事件」を中国側の陰謀であるかのように描いていますが、実際にはこの事件の真相は、今日に至るも「謎」とされています。 このように根拠に乏しい「張治中=共産党スパイ説」ですが、この「説」は、日本の「コミンテルン陰謀論者」たちに強い影響を与えました。
張治中が「共産党員」であったことまでは事実かもしれませんが、「秘密工作員」とまで書くのは行き過ぎの感があります。読者は間違いなく、「共産党の意を受けて張治中が攻撃を始めた」と理解するでしょう。 氏は「はっきりと立証されている」とまで言い切ってしまいましたが 、『マオ』の記述以外にどのような「立証」の材料があるのか、聞いてみたいところです。 また『謎解き「張作霖爆殺事件」』の加藤康男氏も、同様の見解であるようです。
「国民政府軍にいた秘密共産党員」という表現で、わざわざ「共産党の謀略」という印象を読者に与えようとしています。 「張作霖爆殺事件=ソ連諜報機関犯行説」を唱えるメンバーが、なぜか必ずと言っていいほど「張治中=共産党スパイ説」の「怪説」を信奉してみせるのも、不思議なところです。 (2011.10.9)
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