第二次上海事変

張治中将軍=共産党スパイ説


 1937年7月28日、日本軍と中国軍は華北で本格的に衝突し、「日中戦争」の幕が開けられました。ついで8月14日には、戦火は上海に飛火し(第二次上海事変)、戦争は中国全土に拡大することになります。

 この第二次上海事変は、実はスターリンの意を受けた共産党の大物スパイの仕業であった。そう主張するのが、『マオ』です。

ユン・チアン、ジョン・ハリデイ『マオ』(上)より

第一九章 戦争拡大の陰に共産党スパイ

 七月、日本がまたたく間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにもおよぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。 すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。

 事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期にわたって冬眠させておいた共産党スパイを目ざめさせ 、上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の中心部に引きずり込む―すなわちソ連から遠ざける―手を打ったものと思われる。

 「冬眠」から目ざめたスパイは張治中という名の将軍で、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった。 張治中は、一九二五年当時、黄埔軍官学校で教官をしていた。黄埔軍官学校は、広州の近くにソ連が資金と人材を提供して設立した士官学校だ。学校設立当初から、 モスクワは国民党軍の高い地位にスパイを送り込もうという確固たる意図を持っていた。

 張治中は回想録の中で、「一九二五年夏、わたしは共産党に心から共鳴し・・・『紅色教官』『紅色団長』と呼ばれていた・・・ わたしは中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。周恩来は張治中に対し、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。 こうして、一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取りあうようになっていた。(P341-P342)

 盧溝橋事件の発生当時、京滬警備司令官という要職にあった張治中は、日本に対する「先制攻撃」に踏み切るよう蒋介石に進言した。それも、事件があった華北地域においてではなく、一〇〇〇キロ南の上海における先制攻撃を進言した。上海には日本の海軍陸戦隊が少数駐屯しているだけで、この段階では何ら軍事行動にかかわっていなかった。

 張治中はこの進言をくりかえしたが、蒋介石は耳を貸さなかった。上海は中国にとって産業と金融の中心であり、国際的な大都市でもあったので、蒋介石はここを戦場にしたくなかったのである。 しかも、上海は蒋介石政権の首都南京に非常に近い。蒋介石は、日本に攻撃の口実を与えないために、わざわざ上海から部隊や大砲を遠ざけたほどだった。

 七月末、日本軍が北京と天津を占領した直後、張治中は蒋介石に重ねて電報を打ち、開戦に「先手を取る」よう強く主張した。張治中が執拗に主張をくりかえし、 日本軍が上海攻撃の明白な動きを見せた場合にしか攻撃しないと言うので、蒋介石はその条件付きで承諾を与え、「攻撃開始については命令を待つように」と釘をさした。

 しかし、八月九日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。 さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。

 日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蒋介石を攻めたてた。

  蒋介石はこれを却下し、一三日朝、張治中に対して、「一時の衝動に駆られて」戦争の口火を切ってはならない、いま一度あらゆる局面を「検討」したうえで計画を提出するように、と命じた。

 翌日、張治中は、「本軍は本日午後五時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次のとおり・・・」と、蒋介石に迫った。(P342-P343)

(略)

 たった一人の冬眠スパイを使ってソ連に対する日本の脅威をかわしたのだから、これは、おそらくスターリンにとって大成功の作戦だったと言えるだろう。 張治中と接触したソ連大使館付き武官レーピンとソ連大使ボゴモロフは、直後に本国に召還され処刑された。

張治中は史上最も重要な働きをしたスパイと呼んでも過言ではないだろう。 ほかのスパイは大半が情報を流しただけだが、張治中は事実上たった一人で歴史の方向を変えた可能性が大きい。(P344)

 蒋介石は上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを抱いて、九月に司令官の職を解任した。しかし、蒋介石は張治中を公には暴露しなかった。 一九四九年に国民党政府が台湾へ逃れたあと、張治中ともう一人の大物スパイ邵力子は、ともに共産党政権下にとどまった。(P345)
 


 問題は、『マオ』がどのような資料を根拠に上のような記述を行っているか、です。矢吹晋氏が紹介する、コロンビア大学教授・ネイサンの『マオ』批判です。


矢吹晋『激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実』より

 書評の鑑、ネイサン教授「翡翠とプラスチック」

(略)

 しかしながら、とネイサンの批判は、ここから始まる。張戎夫婦の発見した多くの事柄は、典拠を調べることができない。 他の場合は当て推量か、あるいは状況証拠しかなく、一部のものは真実ではない

※この文は、こちらのアドレスで読むことができます。



 このような本であってみれば、真偽判定は慎重に行うべきところでしょう。


 さて、『マオ』の「張治中=共産党スパイ説」の最大の典拠と見られるのが、『張治中回憶録』です。確かに同書には、このような記述があります。


『張治中回憶録』より

(「ゆう」試訳)

 そこでその頃、私は共産党に参加したいと考え、真っ先に周恩来先生に申し出をした。彼はその時たいへん嬉しそうにしたが、組織の指示を受けてから回答する、と言った。 しばらく経って、周はこう回答してくれた。

 中共はもちろんあなたの入党を歓迎する。しかしあなたの目標はもっと大きい。両党はかつて、中共は国民党の目覚めた高級幹部を吸収することはしない、と約束した。 不便をかけるかもしれないが、公にするのは適当な時期を待つ方がいい。けれども、中共は今後あなたを必ずひそかに支持し、あなたの仕事がうまくいくようにしてあげる。

(私の記憶に間違いがなければ、大意はこのようなことだった。この件は当然中共の討論を経ている)

(P412)



 張治中は共産党に入党申請をした。共産党の側では、国民党との関係を慮り、とりあえずは「秘密党員」として受け入れることにした、というわけです。

 しかし共産党との関係を示唆する記述は、これで終わります。 『マオ』が主張するような、実は自分は共産党のスパイであり、スターリンの指示に基づいて「第二次上海事変」を引き起こした、などという記述は、どこにも見当たりません。

 それどころか、しばらく読み進めると、こんな記述に遭遇します。


『張治中回憶録』より

(「ゆう」試訳)

 1937年11月(私は既に淞滬(上海)前線から大本営管理部部長に異動していた)、南京政府は既に武漢に撤退する準備をしていた。 この情勢にあり、湖南省政府は改組せざるをえなくなり、私が省主席に任命された。湖南に到着した後、中共との隔絶していた十年来の友誼関係がまた回復した。 当時中共の湖南の代表は徐特立先生であり、その他に中共の友人として周恩来、葉剣英らが長沙に来ており、我々はうまくつきあっていた。(P417)



 つまり『張治中回憶録』によれば、「入党」以来1937年11月まで、張治中と共産党の関係は途切れていたことになります

 張にとって「共産党との関係」はむしろ誇るべきことであったと思われますので、例え「党員」であったことが事実だとしても、この時期「党員」としての活動はほとんど行っていなかった、と解するのが自然でしょう。

 『マオ』の『一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取りあうようになっていた』の一節は、根拠不明です。



 結局のところ、矢吹晋氏が紹介するスペンス教授の評価が、最も説得力を持つように思います。

矢吹晋『激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実』より

 スペンス教授の書評「モンスターの肖像」は『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』(二〇〇五年一一月三日号)に掲載された。(P32)

(略)

 張治中将軍スパイ説について、スペンス教授は明確に否定する。曰く、

「当時、国民党と共産党が争っているところに日本軍が介入した。三者がそれぞれの諜報部員と暗殺組織をもち、その一部は二重スパイ、あるいは三重スパイであった事例は確かに存在する」

「一つは国民党と共産党との国共合作のため、相互の連絡調整は不可避であった。 将校たちはかつて一九二〇年代初頭に広州近くの黄埔軍官学校で共に学ぶ関係にあり、そこではコミンテルンのオルグたちが活発に活動していた。 蒋介石は学校長、周恩来は政治部主任であった。蒋介石は軍事訓練を学ぶためソ連を訪問し、周恩来はフランス動工倹学から帰国したばかりであった。(P33-P34)

 蒋介石のお気に入り張治中将軍が一九四九年に蒋介石とともに台湾に撤退せず、大陸の八路軍に降伏したのは事実だが、ここから類推して張治中将軍スパイなる新説を出す前に、次の点を検証せよ

(1)スターリンは日本との戦争を拡大するために、どのようにして、張治中将軍を眠りから覚めさせ、活動を始めさせたのか。

(2)上海を基地とするコミンテルンのスパイは、まだモスクワのスターリンと秘密の無線通信を保持していて、それを張治中将軍に伝えたというのか。

(3)張治中将軍が眠りから覚めるまでの、実際の任務は何であったのか」。

 『張治中回想録』(一九三六年二月の記述)によると、当時国民党軍官学校校長を務めていた張治中は、蘇州上海地区を日本軍から防衛する「秘密計画」を立案した。 この仕事は一九三七年になって、張治中が青島の医療施設で治療を受けたときも続けたが、一九三七年七月九日、日本軍が華北を攻撃したニュースに接するや、彼は急いで南京・上海地区防衛のために戻った (『張治中回想録』 一〇九、一一一、一一六〜一一七、一二三、一三九ページ)。

 「(張治中が)共産党のために働いているようには見えない。張治中将軍は日記で、一九三二年初め上海で日本軍と積極的に闘ったことを記した。 蒋介石が南京に戻ったとき、空港で張治中に会い、張治中の報告を聞いた上で、部下として信頼した」。

 張戎は張治中将軍が「日本軍との戦闘に積極的であったために、一九三七年九月に辞任させられた」と書く。だが、上海地区での日本軍初期の勝利以後、

「張治中は上海から湖南省知事に配転された。これは左遷ではあるまい。 蒋介石の全体計画は長江の南にある湖南省を越えて西南に移動しようとしていたから、湘南省は中国の将来にとってカギになる地域なのだ」(P34-P35)

一九三七年一一月、張治中将軍は黄埔軍官学校以来一〇年ぶりに周恩来ら同校の旧知の仲間と再会した。 張戎は『張治中回想録』を援用しているが、張戎の主張を裏付けることはできない」。

 スペンス教授は『マオ』の主張の核心の一つを崩してみせた。(P35)

※この文は、こちらのアドレスで読むことができます。ただし書籍収録にあたり改稿を行ったようで、細部は異なります。





 さらに『マオ』では、「先制攻撃」に消極的な蒋介石の意向に逆らい、張治中が勝手に戦闘を始めたかのように書かれています。

 実際はどうか。「第二次上海事変」に至る経緯を中国側の視点から見た論稿を紹介しましょう。


楊天石『1937、中国軍対日作戦の第1年』より

 盧溝橋事件が発生した後、蒋介石は上海の防衛を強化するため、張治中上将を京滬警備司令として任命した。張は命令を受けた後、直ちに所轄の部隊を保安隊に変装させ、上海虹橋飛行場等に進駐させた。

 7月30日、張治中は南京国民政府に、いったん上海に異常事態が発生したら、「主導権を取るために先制攻撃を発動すべし」という意見を提出した。 蒋介石は張の構想に同意し、「先制攻撃の態勢を作っておき、発動の時期は命令を待つこと」と返電した。

(略)

 9日、上海の日本海軍特別陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫中尉は兵士斎藤要蔵を同行させ、自動車で虹橋飛行場に乱入し、中国保安部隊を銃撃した。中国保安隊は直ちに反撃し、大山ら2人を射殺した。

 日本軍はその機に乗じて上海に軍艦を集中し、陸戦隊を上陸させ、中国側に保安隊の撤退及び防御施設の取り壊しを要求した。 海軍中央部は第3艦隊に、武力以外の解決方法がないため、陸軍が動員された20日後に攻撃を開始すると伝えた。(P101-P102)

 10日、日本の閣議は陸軍の派遣に同意した。長谷川中将は佐世保で待命していた艦隊に上海に出動するよう命じた。12日、陸軍省は30万の兵力を動員して上海と青島にそれぞれ派遣すると決定した。

 保安隊は上海地区における唯一の中国軍部隊であった。 蒋介石は、保安隊が撤退すれば、上海が北平のように日本軍に占領されると考え、日本側の要求を拒否することを決め、作戦の準備命令を発した。

 11日、蒋介石は、日本軍艦が上海周辺海域に集中していることを知り、呉淞口を封鎖することを決めた。同日、彼は張治中に、所属の87師長王敬久と88師長孫元良の部隊を蘇州から上海包囲線へ推進するよう命じ、 呉淞と上海に駐留している日本軍の掃討を準備し、その拠点の排除を目論んだ。当時、上海の日本海軍特別陸戦隊の総兵力は5,000人を越えていなかった。

 12日、国民党中央常務委員会は、この日から全国が戦時状態に突入することを秘密裏に決定した。 何應欽将軍は会議上で、「和平はすでに絶望的だ」、「もし彼らに動きがあれば攻撃すべきだ。そうしないと、彼らが兵力を集中した後は、攻撃が困難になる。」と述べた。

 張治中は本来13日未明に攻撃を開始する予定だった。 しかし、蒋介石は英、米、仏、伊4国の在中国使節等が調停していることを理由に、張に「命令を待って、小部隊の衝突を避けるべき」と命じだ。

 同日午前9時15分、日本陸戦隊員が租界を出て中国保安隊を射撃し、中国軍が反撃した。10時半、商務印書館付近の中国軍と日本軍の間に小規模な衝突が発生した。 同日夕方、日本軍は中国軍を砲撃し、中国軍が迫撃砲で反撃した。また日本軍は戦車で歩兵を援護して87師の陣地を攻撃し、日本軍艦は上海市中心地を連続的に砲撃した。

 14日払暁、張治中は蒋介石の命令を受け、総攻撃を発起した。同日、中国空軍が出動し第3艦隊旗艦及び虹口の陸戦隊本部を爆撃した。 淞滬戦役が勃発したことは、中国が華北戦場以外に、第二戦場を開いたことを意味し、名実ともに「全面抗戦」に突入した。 (P103)


(慶應義塾大学出版会『日中戦争の軍事的展開』所収)


 14日の「総攻撃」は「蒋介石の命令」に従ったものである、とのことです。一連の経緯を見ても、張治中が蒋介石の指示に逆らって「暴走」した気配は窺えません。

 なお『マオ』は、「大山事件」を中国側の陰謀であるかのように描いていますが、実際にはこの事件の真相は、今日に至るも「謎」とされています。




 このように根拠に乏しい「張治中=共産党スパイ説」ですが、この「説」は、日本の「コミンテルン陰謀論者」たちに強い影響を与えました。

中西輝政『田母神論文の歴史的意義』 

 さらにもっと重要な史料として、蒋介石が任命し、上海南京防衛司令官であった張治中が晩年に書いた回顧録がある (『張治中回憶録』は邦訳がないが、深堀道義著『中国の対日政戦略』 一九九七年、原書房刊の第八章に翻訳されたものが読める)。

 この中で、張治中が一年以上前から抗日戦争の戦略を策定していたことを告白している。それは、日本人居留民や陸戦隊を攻撃して、文字通り上海で日本を罠にかけ大陸の内部に引きずり込もうと仕掛けたのであり、 その実行準備は一九三六年にはっきりと動き出していた。

 日本との戦争を上海で引き起こし、欧米の関心を引きつけ、日米対立を惹起しながら、どんどんと内陸へ日本を引き込んでいくという大戦略を、蒋介石の意を受け張治中は立案していたと自ら書いている。

 実際には、張治中の意図に反して日本がなかなか乗ってこないため、中国はあえて上海に条約に則って駐留していた日本海軍の大山勇夫中尉を殺すという「大山事件」を起こしたり、 租界で爆弾騒ぎを起こしたりという謀略と挑発を繰り返した。

 それでも日本が乗ってこないため、正面から日本海軍の陸戦隊に攻撃を加えたのが、第二次上海事変の発端で、これが日中戦争の真の始まりなのだ。 そしてこの張治中こそ、蒋政権の中に潜入していた中国共産党の秘密工作員でもあった。このことは今日、はっきり立証されている。(P72)

 田母神論文のこのくだりに違和感を持った人は、この張の回顧録こそを参照されたい。そうすれば、朝日新聞や先の論者のような解釈こそ、バランスを失していると言わざるを得ないことがわかるであろう。(P73)

(『WiLL』2009年1月号)


 張治中が「共産党員」であったことまでは事実かもしれませんが、「秘密工作員」とまで書くのは行き過ぎの感があります。読者は間違いなく、「共産党の意を受けて張治中が攻撃を始めた」と理解するでしょう。

 氏ははっきりと立証されているとまで言い切ってしまいましたが 、『マオ』の記述以外にどのような「立証」の材料があるのか、聞いてみたいところです。


 また『謎解き「張作霖爆殺事件」』の加藤康男氏も、同様の見解であるようです。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』 

 もうひとつ付け加えておくならば、日本軍の奇襲攻撃であるかのように扱われている一九三七(昭和十二)年八月に起きた第二次上海事変も、 実際には国民政府軍内にいた秘密共産党員張治中による謀略だった。(P158-P159)


 「国民政府軍にいた秘密共産党員」という表現で、わざわざ「共産党の謀略」という印象を読者に与えようとしています。


 「張作霖爆殺事件=ソ連諜報機関犯行説」を唱えるメンバーが、なぜか必ずと言っていいほど「張治中=共産党スパイ説」の「怪説」を信奉してみせるのも、不思議なところです。

(2011.10.9)


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