小林英夫『日中戦争』

「ハードパワー」と「ソフトパワー」の戦い


 「軍事力」において圧倒的優勢だったはずの日本軍が、なぜ「日中戦争」に敗れたのか。

 一般には、「中国大陸の広大さ」がその理由に挙げられます。どんな大兵力を動員しても、広大な大陸の中では、日本軍は「点と線」しか確保できなかった。そして奥地重慶に逃げ込んだ蒋介石を捉えることは、軍事的にも不可能だった。そのような説明です。

 しかしそれは、「日中戦争」の一面でしかありません。最終的には中国は、国際世論を味方につけ、連合国の力を借りることにより、戦争に勝利しています。中国が諸外国を味方につけた「外交力」、あるいは「宣伝力」の強力さを、無視することはできないでしょう。



 小林英夫氏『日中戦争』(講談社現代新書)は、「ハードパワーとソフトパワーの戦い」という視点から、「日中戦争」の全体像をまとめ上げています。

 以下、内容を紹介していきます。大変面白く、かつ入手容易な本ですので、関心を持たれた方にはぜひ一読をお勧めします。



 まず、「ハードパワー」と「ソフトパワー」の定義です。

小林英夫『日中戦争』

 戦争におけるハードパワーとは、軍事力や産業力のことをさす。一方、ソフトパワーとは、直接の武力によらない政治、経済、外交のほか、メディアによる宣伝力、国際世論の支持を集めうるような文化的な魅力など、広範な力が含まれる。(P124)


 あえて単純化すれば、「ハードパワー」は「軍事力」、「ソフトパワー」は「外交力、宣伝力」、と理解すればわかりやすいでしょう。

 日本は、「ハードパワー」に頼り、短期の「殲滅戦」で戦争に勝利しようとしました。一方中国は、戦争を「消耗戦」に持ち込み、「ソフトパワー」により形勢逆転を目指しました。


 初期の上海戦では、「ハードパワー」にアドバンテージを持った日本軍が、中国軍を圧倒しました。

小林英夫『日中戦争』

 この間の日本の軍事力は、殲滅戦をお家芸とする本領を発揮した。とりわけ長江を遊弋する日本海軍艦艇の艦砲射撃は猛威を振るい、渡洋爆撃や小型機による空陸一体の作戦は、攻撃に厚みを増した。軍事力という点では、確かに日本の圧勝だった。(P53)



 続けて日本軍は南京を陥落させ、さらに徐州・漢口も占領しました。しかし「ハードパワー」による短期決着を目指した日本軍の目論見は外れ、蒋介石は遠く重慶に逃げ込んで抗戦を続けます。

 かくして、戦争は「持久戦」となります。しかし中国には、自らの力で勝利を勝ち取る力はありません。そこで中国は、「ソフトパワー」の発揮により反撃に転じようとします。



 初期において、中国は諸外国、特に米国の同情を獲得することに成功していました。この本からは離れますが、いくつかの事例を紹介します。


ジョセフ・C・グルー 『滞日十年』

一九三七年十月五日

 
松方幸次郎が渡米に先立つて話しに来た。私が樺山、副島その他に、いわゆる親善使節を米国に送ることはやめた方がいいといつているにもかかわらず、続々出かけて行く。米国へは松方、芦田、高石、鈴木文史郎、英仏両国へは石井紙尺、ドイツへは伍堂提督、イタリイへ大倉男爵等々である。米国へ行つたつて何にもなりはしない。

 彼らの基本的主題は日本が自衛上中国と戦つているというのだが、どんな風に表わそうと、こんな馬鹿なことに耳をかす米国人は一人もいはしない。米国人は先天的に中国に同情的であつたし、現在とて同情的であるばかりか、ほとんど通常的に弱者に同情する。

 日本は中国の土地で戦つているのではないか。それ以上に何をいう必要があるか。もし私がひどくまちがえていないものなら、かかる使節は、ひどいショックを受けることだろう。(上 P291)



清水俊二『映画字幕五十年』より

 そのころのアメリカのニュース映画は日中戦争をとりあげるとかならず中国かわの立場に立っていた。

 ニュース映画だけではなかった。日本と中国を秤にかけて、アメリカ市民はどちらにより好意を抱いていたかといえば、ほとんどのアメリカ市民が中国の味方だった

 敵に回されてもしかたがない理由もあったろうが、日本人はいまもむかしも自分を売ることがへたなようだ。(P216)



 当時の駐日大使・グルーは、戦後、天皇制の存続に力を尽くした「親日派」として知られます。そのグルーですら、ここまで厳しい言葉を発しています。

 実際の話、初期においてすら、「当時のアメリカ国民の意識調査では、中国に同情する者は七十四パーセントを占め、日本に同情する者は二パーセントにすぎなかった」(黄仁宇『蒋介石  マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』P177)という状況でした。



 このような「親中ムード」を背景に、中国は諸外国の「対日制裁」を引き出すべく、「外交戦」を展開します。しかし初期の段階では、この試みは成功しませんでした。

小林英夫『日中戦争』

 蒋介石は自身が中国側の長所の一つに国際情勢への強みをあげたように、日中開戦当初から目まぐるしく外交戦を展開した。あるいは初めから、外交戦を有利に展開するための時間を稼ぐために、長期的な抵抗戦の陣立てをしたのではないかとも思われる。(P72)

 上海戦で子飼いの精鋭部隊である第八十八、八十七師を投入し、決死の防衛戦を展開したのも、欧米の注意と同情を引き出すためだった。(P72-P73)

 また、各国大使には中日和平に動いてくれるよう働きかけを開始し、早くも一九三七年八月八日には外交部長の王寵恵が駐ソ大使と会談し、九ヵ国条約調印国会議の開催と中ソ不可侵条約について話し合いを始めている。

 王は同月十六日にも駐華ヒューゼッケン英大使を通じて日中両軍の軍事行動の中止を求め、十九日には駐日大使の許世英が神戸で平和的解決を呼びかけ、日本軍の撤兵を要請している。

 さらに九月初頭には蒋百里を欧州に派遣してイタリア、ドイツに調停を依頼し、十三日からブリュッセルで開催された九ヵ国粂約調印国会議では駐仏大使の顧維鈎を団長に活発な外交活動を展開した。ただし、蒋介石が期待をかけたこの九ヵ国条約調印国会議は、対日制裁がなされることなく終了する。(P73)




 国民政府の次の一手は、米国をターゲットにした、「外交ロビー活動」です。

小林英夫『日中戦争』

 期待を裏切られた蒋介石は、しかし、すぐに次の行動に着手した。日本からの生糸・雑貨輸入と、日本への石油・くず鉄輸出で日本の貿易・産業の命脈を握るアメリカに焦点を合わせ、外交ロビー活動を積極的に展開したのである。(P135)

 アメリカが対日貿易制裁に踏み切れば、外貨獲得と戦略物資供給の両方を遮断できて、日本を兵糧攻めで締め上げることが可能となる。それを見越して、アメリカに照準を合わせたのだ。(P135-P136)



 その一方で中国は、米国世論を味方につけるための「宣伝戦」にも力を入れていきます。

小林英夫『日中戦争』


 そのために一九三七年七月、「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じ」と主張する薫顕光の建議を容れて、軍事委員会第五部(宣伝担当)の副部長に董を据え、親中派の外国人を組織してアメリカを舞台の中心に国際宣伝活動を展開した。これには蒋介石みずから直接責任者となって、豊富な資金を投入する力の入れようだつた。

 マンチェスター・ガーディアン紙の特派員で、南京事件の目撃者ティンパリーもこの活動によって中国の理解者となった記者の一人だった(「ゆう」注 ティンパーリは当時南京にいない。「目撃者」は誤り)。彼は虐殺事件の証拠資料を持ち帰り、三八年九月以降、在中宣教師たちと虐殺を証明するフィルムを携えて全米で活動を展開した。

 彼らは、経済学者で親中活動家だったハリー・プライスを中心に「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」 (ACNPJA) を組織し、ニューヨークに事務所を構えて活動した。

 アメリカの世論を大きく変え、アメリカが対日経済制裁を政策化するうえで、この活動が果たした役割は大きい(土田哲夫「中国抗日戦略と対米『国民外交工作』」『重慶国民政府史の研究』 ) 。(P136)

 また、ニューヨーク・タイムズの記事も、一九三七年の時点では日中に対し中立の立場で記事を書いているが、三八年夏頃から明らかに中国寄りに変わっていく。

 見出しの言葉も、当初は日本が中国の領土を「併合」(annexation) と表現していたのが、三八年に入ると次第に「侵略者」(invader)「侵略」(aggression)が使われはじめ、日本を「敵」(Enemy)と書くことさえあった。
それに比例して、中国の勝利をたたえる記事が増加していったのである。(P136-P137)

 さらには、三七年十月、「ライフ」誌に掲載された一葉の写真がもたらした効果も大きい。それは、日本軍の爆撃で破壊された上海駅で泣き叫ぶ赤ん坊の写真だった。アメリカだけでなく世界の新聞に配信されたこの写真は世界中の人々の同情を誘い、反日運動のポスターにも使用された ( 『従軍カメラマンの戦争』 ) 。(P137)



 また中国にとっては、多くの国際的ジャーナリストを味方につけたことが、「宣伝戦」を有利に進める大きな材料になりました。

小林英夫『日中戦争』

 一方、中国には多くの欧米ジャーナリストが訪れ、戦争中の国民党・共産党の活動を世界に紹介した。日本のジャーナリズムや作家活動と中国のそれとの決定的に異なる点はここにある。

 たしかに、中国人作家も抗戦期に巴金、茅盾、銭鍾書、張恨水など抗日小説を書いているが、エドガー・スノーやアグネス・スメドレー、ジャック・ベルデン、ニム・ウェルズなどが果たした中国側のソフトパワーへの貢献は計り知れない。(P145)




 念のためですが、中国の味方をしたジャーナリストたちは、別に何か不純な動機を持っていたわけではないでしょう。小林氏も、次のように書きます。

小林英夫『日中戦争』

 しかし誤解してはならないのは、国際世論の支持を得ようとする中国側が、外国人取材者に対していくら自国を美化し、あるいは買収めいた工作をしたところで、良心あるジャーナリストは決してそれを理由に中国に肩入れはしないということだ。

 その点を、前出の董顕光とともに外国人記者への宣伝工作にあたった国際宣伝処長の曾虚白はよく理解していた。彼はその自伝のなかでこう述べている。

 「国際的な宣伝が実効を収めるための第一の原則は、絶対に嘘をついて人をだますことをしないこと、そして事実を誇張したり粉飾したりしないことである。事実を正直に言い、真実と誠意で人を感動させるべきである。そうでなければ、他の人が心から承服してわれわれを援助することは考えられない」 ( 『曾虚白自伝』 )

 曾らは、まやかしではない真実の自分たちの姿を見せて、辛抱強く外国人記者たちに理解されるのを待ち、彼らが彼ら自身の言葉で書いてくれるための努力を続けたのである。

 結局、外国人ジャーナリストや作家の多くが中国側に共感したのは、中国の指導者や民衆の戦いがヒューマニズムに強く訴えるものがあったからである。人間の尊厳をかけた戦いであるがゆえに彼らは感動し、共感をもち、それを英語という世界言語で宣伝したのである。

 それは中国のソフトパワーの強烈さの表れにほかならなかった。(P148)



 実際には、中国側の宣伝活動には、少なからず「誇張」や「ウソ」が混じっていたのかも知れません。しかし「日本の軍事攻撃に苦しむ中国」という「事実」が根っこにあったからこそ、「宣伝活動」は十分な成果を挙げることができた、と言えるでしょう。




 このような中国側の「ソフトパワー」の発揮は、米国などからの大規模な物資支援、あるいは日本に対する石油禁輸措置などの形で、少しずつ成果を挙げていきます。そして打つ手がなくなった日本は、英米戦争という「狂気の選択」に追い込まれることになります。

小林英夫『日中戦争』

 汪南京政権樹立から半年後、四〇年九月に日独伊三国軍事同盟を結んだ日本は英米との対立を深め、ついに四一年十二月、太平洋戦争へと突入する。それは、開戦からすでに四年以上に及んでいた日中戦争の行き詰まりを、はるかに強大な敵・英米との戦争によって打開しようという狂気の選択にほかならなかった。(P105)


 結局のところ、「ハードパワー」で圧倒的劣勢にあった中国は、「ソフトパワー」で世界を味方につけたことにより、日本に対して逆転勝利を収めることになりました。





 余談ですが、小林氏は、国際社会において中国側の「ソフトパワー」を増大させてしまった事例として、「南京事件」を挙げています。逆に日本にとっては、手痛い「失策」でした。

小林英夫『日中戦争』

 以上のような日中戦争の初期に発生したのが、南京事件である。

 くわしくは後述するが、日中戦争をハードパワーとソフトパワーの相克として見るならば、この事件は彼我のソフトパワーに決定的な差をもたらすものであった。

 中国人兵士のみならず一般市民までが大量に虐殺されたこの事件は、日本の軍隊がいかに残虐であるかを国際社会で証明するに十分な材料を提供し、日本のソフトパワーを著しく減退させるとともに、中国のそれを大きく増大させたのである。(P55)



 犠牲者の数が何人かを確定することは、いまに至ってはおそらく困難だろう。当時でも戦時下の混乱のなかで戦闘兵と投降兵、さらには民間人を正確に識別することなど至難の業であったに違いない。

 はっきりしているのは日中両軍間で激烈な戦闘、というより死闘が繰り広げられたことである。上海を舞台に描いた石川達三の『生きてゐる兵隊』を読むまでもなく、犠牲者の数は常識を超えていた。

 満足な糧秣の支給も受けぬまま、異常な戦場心理のなかで敵愾心に燃えた将兵が、殺戮、強姦といった残虐な事件を起こすことを想定していなかったとすれば、それは指揮官の怠慢である。その対策を講じるのは、日本の司令部の責任であったはずである。

 また、捕虜をいかに扱うべきかを含めて、兵への教育や軍規の徹底が不十分だったことは明らかである。これらの点で、この事件発生の最大の責任が日本側にあることはいうまでもない。(P58-P59)



 なお小林氏は、「南京事件」が深刻化した責任の一端を国民政府側にも求めています。ただし「しかし、これらのことは被害を増幅させる理由にはなっても、日本側の責任を軽減することにはならない」と結んだのは、冷静な判断であると言えるでしょう。


小林英夫『日中戦争』

 ただ、国民政府側のいくつかの要因も、日本側のこうした失態を深刻化させた

 南京守備についた蒋介石の幕僚・唐生智の防衛作戦も当を得たものであったとはいいがたい。彼が採用した上海周辺の焦土作戦は、効果よりも住民被害を増幅させ、南京城にこもり最後の抵抗を展開した際も住民を楯に脱出の時間を稼ぎ、彼らを日本兵の犠牲にさらしたのである。

 しかし、これらのことは被害を増幅させる理由にはなっても、日本側の責任を軽減することにはならない。(P59)

(2019.4.6)


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