脳を食った話


 ネットではよく、「人肉食」「残虐な殺害方法」など、「中国人の猟奇性」なるものが取り上げられます。

 しかし、これを「中国人の民族性」まで昇華させるのは、いささか行き過ぎの感があります。これについては、「通州事件」についての秦郁彦氏の発言に私は共感します。


秦郁彦 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』より   

 アジアでもっとも温和な仏教徒との定評があったカンボジアでポル・ポトの大虐殺が起きたように、残虐性と民族性を結びつける議論は成り立たぬし、不毛だと筆者は考える。

(『諸君!』 1989年11月号 P216)



 さてそれでは、日本にはこの種の猟奇的事件は存在しないのか。もちろんそんなことはなく、例えば第二次世界大戦では、米軍捕虜を生きたまま解剖した事件、あるいは捕虜を殺して肉を食った事件など、目を覆いたくなるような残虐事件が続出していていることは、 よく知られている「常識」でしょう。


 ここでは、たまたま私の目についた資料から、日中戦争におけるこの種の「猟奇的事件」を紹介してみましょう。
*当然ながら、これは「一部異常者によるこのような行為もある」というだけの話であり、「日本軍が全体として残虐である」と主張するものではありません。 このコンテンツは、「中国人の残虐性」をやたらと問題としたがる人々に対する、日本にだってこんな話があるんだよという程度の、一種の「からかい」とご理解ください。

**またここでは、資料は「日中戦争」期、それも主に初期のものに限定していますので、ある意味、比較的「穏やかな」事件しかありません。 第二次世界大戦中の「人肉食」事件は、「飢え」を原因としているだけに、これらとは比較にならないくらい悲惨なものであることは、念押ししておきます。


 最初は、憲兵として中国各地を転戦した、井上源吉氏の体験談です。昭和12年10月、北京の捕虜収容所での出来事とのことです。 「兵隊やくざ」たちが捕虜の脳を食べ、あやうく自分もそれを食べさせられるところであった、というリアリティのあるエピソードであり、比較的信頼できる話であると思われます。

井上源吉『戦地憲兵』より

 こうして収容所が開設されて一週間ばかりたつと、内地から補充された予傭役のおっさんたちが六名ほど門頭溝の中隊から到着し、私たちの小隊へ補充されてきた。

 ところがこれは、中隊の方で手におえぬ者を選んで送ってきたかと思われるほど始末に負えぬ連中で、下士官たちを呼びすてにするばかりか、小隊長の命令さえ無視して、満足に勤務にもつかない。

 二、三年兵は神様だがオレたちはその上のホトケ様だといって、毎日一人あたり二合ずつ支給される酒やビールはホトケ様へお供えしろ、と私たちに強要してまきあげ、朝から晩まで室内にとぐろを巻き賭博や飲酒にふけっている、いわゆる兵隊やくざであった。

 おとなしい小隊長は、さわらぬ神にたたりなしとばかりに、こうした彼らを知りつつ放任していたが、そのうちに彼らは恐るべきことをやってのけた。ある夜、二名の捕虜が逃亡をくわだてた。 これをとらえた小隊では他の捕虜たちへの見せしめのため斬首して校庭のすみへ埋めた。これを見た彼らはさっそくこの首を掘りかえし、脳をとりだしてくってしまった。

 たまたまそのとき用事のため彼らのたむろする部屋へはいった私にたいしても、「珍らしい肉が煮えているからひと口くっていけ」といってすすめたが、私は彼らと接触することをさけるため、 隊務にことよせてこれをことわりはやばやと退散した。このときはその肉が何であるか知らなかった私であったが、翌日になってそれが人間の脳ミソであることを知り、身の毛がよだつ思いがした。(P58)
  




 次は、昭和12年応召、歩兵第六連隊所属に所属していた、草川鐘雄氏の『鉄砲担いで幾山河』です。この本には、元上官の中隊長が、序文を寄せています。

 この本の中に、同じエピソードが場所を変えて、2回登場します。書きぶりを見ると、筆者はこれを、「残虐行為」ではなく、単なる「変人の行為」として受け止めているようです。 行為者の「実名」まで記載されており、これも信頼性の高いエピソードであると判断できるでしょう。なおここでは、「実名」は、プライバシーに配慮して●●としました。


草川鐘雄『鉄砲担いで幾山河』

私の上海戦

 これが第一で、第二は未だ息をしている支那兵の頭を十字鍬で叩いて穴をあけ、脳漿(彼は脳味噌という)を取り出し、手つかみで大丼にみんな一杯入れ、もう一つの丼で蓋をして、 それに泥を丼に塗りつけ、まん丸みたいにすると、既に穴をあけ火を入れた上に乗せる。その上にもたきぎをのせ、どんどん燃やす。

 やがて泥のかたまりが真赤に焼けてきた。更に一と時火を燃やして「もう好かろう」と火を払い、スコップですくうと泥を落とし蓋を取り去ると中味は真黒になっていた。

 黒焼きの脳味噌、ナイフで突いてひとつまみ口の中に入れ、目を宙に味見する●●、皆んなあきれて嘆息ついて、何んと変った事をする偉いお方が御座るものかと、つくつく感心したものです。

 この彼の事に関しては色々と後述しますが、本当に私達の考え思う人とは別な社会の人の様です。(P117)



忘れ得ぬ男

 扨て誠に野性的な彼が、私の目の前を十字鍬をぶらさげて行くのを見て、今度は何をやるかと後を追うと、彼は倒れている支那兵の頭を十字鍬の尖端を打ち込む処でした。 脳がダラリと出てくる。死に切っていなかったのか身体がビタリと動いて止まった

 彼は黙って持参の丼を並べると丼に脳をつめ一杯になると帯剣で切り離し今一つの丼を蓋代りにすると準備してある泥で丼を包み終ると、次は焚火の処へ持って行き、火の中に入れ木を加えてどんどん燃やし、丼を包んだ泥土が真赤になるのを今暫らく燃やして、 漸がて丼を取り出し土を払って蓋を取ると脳が真黒に焼けている

 それを摘んでロの中へ、うんうん満足そうにうなづき笑う彼に、私はじめ十人近くの者が一部始終呆気にとられる、と言うより完全に毒気を抜かれました。

 何にするんだと聞くと、彼いわく梅毒さーと平気で答えると丼を大切そうに持ち帰って行くのを、ため息をついて見送ったものです。

 彼はこの黒焼を容器に入れて時々飲んでいたようですが、彼が梅毒だなんて事は誰一人疑がう者はありませんでした。しかしこの事で彼は変り者だという印象を私も皆も心に決めこみました。(P211)



 最後に、『歩一〇四物語』です。愛知揆一外務大臣、山本壮一郎宮城県知事らが推薦を寄せている、いわゆる「郷土部隊戦史」ものです。

 「病院で聞いた話」という「伝聞」ではありますが、「迷信に基く素朴な犯罪」として、三つのエピソードが紹介されています。

『歩一〇四物語 わが連隊の記録』

 戦争は異状な社会状態であるから犯罪も特殊なものがあり、戦争と犯罪はつきものだ―とい(ママ)定説である。だからといって犯罪が行われていいということではない。

 戦場も社会生活の一部であるから普通の犯罪も行われる可能もあるわけだが、これが比較的少ないのは軍紀と、いわゆる一つのエリート(選抜された)意識にもよるが、知った者同志(同郷、同県人)であり、帰郷後の名誉を考えてということもある。

 しかし、戦争が長期化すると、応召者の範囲が広くなり、参戦者はエリートではなくなる。又、同郷、同県が乱れてくる。 ―われわれの連隊は編制当時九五%以上が宮城県人であったが、あとで福島、新潟の師団管内の県下から補充があり、更に関東東部各地の兵隊が入ってきた。

 ―他の部隊だと、これが多く、部隊によっては全国的に亙っているのも少くなかった。こんな部隊程犯罪が多かったといわれている。又、戦争が長期化すると、いつ帰還するかわからない。死ぬ迄帰えされないという情緒の不安から犯罪を犯すものが多くなる傾向にあった。

 戦後、いろいろの作家が戦争と犯罪について書いているが、私は別の角度から書いてみたい。一つは迷信に基く純朴な犯罪についてである。

 Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。 彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。

 Bの母は中風で半身不随であった。それには人間のきもがよく効くという。彼はきもをガーゼにのばして陰干にした。彼はこれを後生大事に持っていた。

 Cの愛児は今でいう脊髄カリエスであった。人骨を粉にしてのませると治るという詣だ。彼は人骨集めに夢中になった。ある日、友達に発見された。

 この三人はみんな戦死したという。これは私が病院で聞いた話である。これは、うちの連隊の兵隊のことではない。(P426-P427)
 

 先の草川氏の記述にもありましたが、どうやら当時、「脳の黒焼きが病気にきく」という迷信があったようです。


(2011.2.5)


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