佐藤三郎『近代日中交渉史の研究』



佐藤三郎『近代日中交渉史の研究』

日本人が中国を「支那」と呼んだことについての考察

 このように「支那」という語を中国に対する親愛感をもって使用した例はなお多くあげることができるが、前にも述べたようにこの語の普及した時期は、たまたま中国が内外の事情によって混乱を生じ頽勢に傾いていた時に当り、 その弱体振りが日本人に強く意識されていった時であったことと、日本が西洋文化崇拝に急傾斜し、中国伝来のものをも含めて在来のものはこれを甚だしく軽視する風潮が高まっていた時期であったため、 「支那」という語には次第に惰弱・因循姑息・驕慢不遜・無能・不潔というような感覚が結びつけられるようになっていった

 幕末期の日本人が中国の弱体振りを慨歎した例の幾つかを前に示したが、この傾向は明治期に入り一層強まり、中国に対する日本人の軽蔑感に発展していったわけである。(P50-P51)

 その一例としては、明治四年(一八七一)三月五日に中弁兼制度分局御用掛の地位にあった江藤新平が対外策を論じて大納言岩倉具視に提出した意見書をあげることができよう。

 彼はその中で、「支那の勢や、人民は愚に、技芸は拙に、国政は不振、盗賊頻りに起り、衰潰極る」と分析し、「それ支那は亜細亜の争地なり、不得之者は危く、苟も之を得れば亜細亜の形勢を占領するなり」として、 謀略などの準備を十分に行ったのち列強に先んじて「支那を取る」ことを主張している

 明治七年の佐賀の乱後、佐賀城内から乱の主謀者島義勇が政府の失政を批判した書が発見されたが、それには、「外は不逞不礼の朝鮮国を御征討被成侯は勿論、支那・魯西亜の外たりとも我に臣僕とする御目途被在侯はでは不相済」と記されていたと伝えられ、

 くだって明治二十四年自由党の大井憲太郎も、東洋問題を論じた講演で、「今日東洋の形勢は如何なる有様でございましょうか、支那の放慢不遜の奴は一度は其の鼻の端を押えつけておかなくては到底相談が出来ない、 実に頑固な気風であるから、 支那と共に東洋を談ずることは到底望む可からざることである」といっている。

 明治十年代には日本人の間で「支那取り」という言葉がしきりに用いられたが、中国に対するこのような軽侮や侵略の気分を醸し出していったものの一つは、明治初年に用いられた小学校の教科書類であろう。

 啓蒙的内容をもち七五調の調子よさもあって盛んに使用された福沢諭吉の「世界国尽」(明治二年)は、

「亜細亜洲の東なる、我日本を始とし、西のかたへと乗り出し、その国々を尋るに、支那は亜細亜の一大国、人民おほく土地広く」と説き起し、

「そもそも支那の物語、往古陶虞の時代より、年を経ること四千歳、仁義五常を重じて、人情厚き風なりと、その名も高かく聞えしが、文明開化後退去、風俗次第に衰て、徳を修めず知をみがかず、我より外に人なしと、世間知らずの高枕、 暴君汚吏の意にまかせ、下を抑へし悪政の、天罰遁るるところなく、頃は天保十二年、英吉利国と不和を起し、只一戦に打負て、和睦願ひし償は、洋銀二千一百万、五処の港をうち開き、 なおも懲ざる無智の民、理もなきことに兵端を、妄に開く弱兵は、負て戦ひまた負て、今の姿に成行し、その有様ぞ憐なり

と述べている。(P51-P52)

 また明治三年大学南校から刊行された中博士内田正雄の「輿地誌略」では、「支那」は

「数千年来君主専治ノ政令ニ基キ下民ヲ罵御スルガ故ニ、開化ノ風教世ヲ追テ逡巡シ、国民ノ智覚モ亦随テ消滅ス。且其民情一般ニ詭詐狡黠ニシテ頑固俗ヲ為シ、罪人随テ多ク、残忍ノ風習言フニ忍ピザル者アリ、又古ヲ貴ミ今ヲ賤ミ、 自ラ尊大ニシテ中華中国ト称シ、外国ヲ視ル夷狄禽獣ノ如ク、屡信義ヲ外国ニ失ヒ、其汚辱ヲ蒙ルト雖モ、依然トシテ旧習ヲ固守シ、海外ノ形勢ヲ察シテ自ラー変スルヲ知ラズ。 故ニ国勢振ハズ政令行ハレズシテ、数千年前ノ開化ノ域ニ止リ、進歩セザルノミナラズ、次第ニ却歩シテ、其人情陋風俗ノ日日ニ哀願スルヲ見ル」

と記し、明治六年の山本与助外著「世界婦女往来」には、

「支那は(中略)世の開化におくれ、何事も古きを尊び新しきを卑しみ、自ら尊大にして他国を視る事禽獣に等しくいやしくし、夷狄と唱へなどして天理にうとく、徒に詩賦を好み絃歌を娯しみ、時間を費し遊惰に過るの国」

であるとしている。

 さらに同年刊行の「小学諳誦十詞」という教材には中国を、

「又文明の国なりと、昔よりして名も高き、支那・西班牙・葡萄牙、其国勢も哀へて、或は膏腴(こうゆ)の地を割かれ、又は微々たる一小国、むかしの誉後の世の、笑の種に引かへて」

云々と、哀願の「支那」を、興隆の日本との対照のうちにとらえている。

 このような教材で教育を受けた小国民、それが成人となった大人の間には、中国に対する尊敬や親愛の気持は生まれるべくもなく、「支那」という語が語られる時、そこには潜在的に軽蔑感が伴う場合が多くなっていった

 日本人の間の中国に対する軽侮感は、日清戦争後特に甚だしくなったようである。

 中国ではこの戦争の敗北によって、一部有識者の間ではかえって日本に対する認識を改め、日本を近代文化採用における先進国とし、日本を範として国内の改革を進める必要があるとする考えが高まり、 それ以来官・公・私費の留学生が多数日本に送られるようになった。(P52-P53)

 その最初の官費留学生一三人が来たのは明治二十九年三月末であったが、そのうちの四人は一ヵ月たらずで帰国してしまった。その理由は、日本食が口に合わないという不満のほかに、 街に出ると日本の子供達から「支那人」「チャンチャン坊主」などとはやされることに嫌気がさしたためであったと伝えられているが、子供達のそうした行動は、大人の日本人の考えと態度を反映したものでもあったのである。

 こうしたことから生じた次の問題は、日本人が「支那」という語を使用することに対する、中国人の反対である。(P53)

(2013.1.20)


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