「日本刀で人を斬るのは3人が限界」という「伝説」が、ネットの世界ではすっかりポピュラーなものになっています。このコンテンツでは、「伝説」の発生源である山本七平氏の論稿、及び当時のメディアでの報道状況などにより、この「伝説」に検討を加えることにします。
*なおこのコンテンツは、あくまで「日本刀3人限界説」についての検討であり、「百人斬り競争」の真偽にまで踏み込んだものではありません。 また、「日本刀で百人斬れる」ことを実証しようとしたものでもありません。ときどきこのあたりを理解しないコメントをいただきますので、念のため。
「日本刀三人限界説」が初めて登場するのは、山本七平氏『私の中の日本軍』の中でのことでした。そして、ネットなどでの議論を見る限り、事実上、「限界説」のエッセンスはこの本ですべて出尽くしていると思われます。
しかし、この本における山本氏の記述は、要点を掴みにくく、かつ論理の流れを読み取りにくいダラダラとしたもので、この本からその「根拠」を明確に要約することは、大変困難です。とりあえずは、山本氏のあげる「根拠」らしきものに、検討を加えていくことにしましょう。
さて、氏はいきなり「日本刀で五人は斬れない」という「結論」から始めています(この段階では、まだ「三人限界説」は登場しません)。「なぜそういえるか」と言えば、氏自身が「斬った」体験があるからだそうです。
山本七平氏「私の中の日本軍」より
日本刀神話の実態
しかしそこにもし白兵戦の体験者がいたらすぐに言ったであろう。「・・・四、五人 ? 本当に人を斬った人間は ,
そういうあやふやな言い方はしない。野田少尉!
四人か、五人か― 五人だというなら貴官にうかがいたい、五人目に軍刀がどういう状態になったかを
―彼はおそらく答えられまい。というのは、彼が口にしている「とりつくろい」は、戦場での伝聞であっても、おそらく彼の体験ではないからである。そして戦場での伝聞は前にものべたが恐ろしく誇大になるのである。
なぜそういえるか。理由は簡単である。私は体験者を知っており、そして私にも「斬った」体験があるからである―といっても即断しないでほしい、後述するような理由があったことで、私は別に残虐犯人というわけではない。しかし人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮んできたり、夢に出できたりするほど、衝撃的なことである。
そしてこれは、私だけではない。従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、まず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないものである。
結局、私もその一例に入るのかも知れないが、「日本刀で人体を切断した」という体験に、私も最後の最後までふれたくなかったのであろう。従ってこの一点を、自ら意識せずに、自分で回避していたのである。ある意味で、それを指摘される結果になったのが、
S
さんという台湾の方からのお手紙であった。これは後述しよう。
私は実際に人を斬殺した人間、人を刺殺した人間を相当数多く知っている。そしてそういう人たちが、そのことに触れた瞬間に示す一種独特な反応―本当の体験者はその瞬間に彼の脳裏にある光景が浮ぶから、否応なしに、ある種の反応を示す―その反応を思い起すと、「本当に.斬ったヤツは絶対に自分から斬ったなどとは言わないものだ」という言葉をやはり事実だと思わないわけにいかない。
だがここで、体験は後まわしにして
( また後まわしになるが ) 、まず日本刀なるものの実態と機能の客観的な評価からはじめよう。
(「私の中の日本軍」(下)P71〜P72)
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氏の「だらだらとした文章」を味わっていただくために、あえて関係のない部分も含めて引用しました。
さて、氏は、どんな体験をしたのでしょうか。「そして私にも斬った経験がある」「といっても・・・私は別に残虐犯人というわけではない」と思わせぶりに書いておいて、氏は、改行もなしにいきなり関係のない「おしゃべり」を始めてしまいました。読み流したら、この「おしゃべり」部分に「体験」が書いてあったか、と錯覚してしまいそうです。
山本氏の文章は、全体にわたってこの調子。氏の文章から「論理」を読み取るのは、ちょっとした「仕事」です。
*最初に、いきなり「・・・四、五人 ? 本当に人を斬った人間は ,
そういうあやふやな言い方はしない」という記述を行っていますが、これは実は、「志々目証言」の「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない」の部分に対する批判です。 「斬った人数」ではなく「白兵戦の中で斬った」人数ですので、
戦場の混乱状態を考えればこの程度の「あやふや」さは十分許容範囲にあるでしょうし、実際のところ、ほとんどどうでもいい「クレーム」です。
しかしこの「体験」、「後述するように、私の体験では「三人」は到底無理で、従ってこれは「最大限三人」と解すべきであろう」(P73)、「というのは、前述のように、私は軍刀を使用して人体を切断した経験がある」(P83)などと、何度も読者に「期待」を持たせる表現が出てきますが、
いくら読み進んでも、肝心の「体験」そのものは一向に登場しません。登場するのは、何と、上の文章から80ページもあとになってのことでした。
山本七平氏「私の中の日本軍」より
N兵長が水とナツメヤシの幹らしい丸太をもってきた。私は死体の手首をつかみ、その手を、その丸太を持つような形においた。タイマツを近づけさせた。K兵長は、顔をそむけて立っていた。私は水嚢の水を、死体の手にかけて泥を流した。白ちゃけた手が、真黒な土の中からのぴ、太い木をつかもうとしているように見えた。炎の赤い反射と黒煙の黒い影が、白い手の上で、ゆらゆらとゆれた。
私は一歩下がって片膝をつき、軍刀を抜くと、手首めがけて振りおろした。指をばらばらに切るより、手首ごと切った方がよいように感じたからである。がっといった手ごたえで刃は骨にくいこんだが、切断できなかった。衝撃で材木から手がはずれ、手首に細いすじが入ったまま、また土の中へ帰って行きそうであった。私は軍刀を放り出すともう一度その手をつかみ、再び木材を持たすようにした。
その時ふと、内地の連隊祭の巻藁切りを思い出した。繊維はすべて直角にはなかなか切れないが、斜めなら案外簡単に切れる。私は位置を少しかえ、手首から小指のつけ根の方へ、手の甲を斜めに切断しようとした。二度日の軍刀を振りあげたとき、鍔が何か少しガタが来たように感じた。しかしそのまま掘り下ろした。
手の甲はぎっくりと切り離れたが、下の木が丸いためか、小指のつけ皮がついたままで、そこが妙な具合に、切られた手と手首とで、丸太をふりわけるような形になった。私は手をつまむと軍刀を包丁のようにして、その皮を断ち切った。鋭角に斬断された手首は、ずるずると穴の底へもどった。小指が皮だけで下がっている手の甲を、私は手早く紙で包み、土の上におき、円匙を手にすると、急いで土をかけた。
そのまま円匙を手にしで、私は、機械的にO伍長の墓に来た。すペてが麻痺したような、一種の無感覚状態に陥っていたらしい。全く機械的に土を掘り起したが、彼の手は、どこにあるのかわからなかった。骨ならば手でなくてもよいだろう。そんな気がした。
軍靴をはき、巻脚絆をつけた足が出てきた。私は足くぴをつかんで力まかせに引きあげた。S軍曹の手がなかなかあがらなかったのでそうしたのであろうが、その時、これが、彼のはずれた方の足だとは気がつかなかった。カが余って、まるで大根でも抜くような形で、はずれた足が、スポッと地上に出てきた。私は千切れた軍袴を下げ、切断部を水で洗うと、右膝をつき、左足の靴先で彼の靴を押え、まるで足をタテに割るような形で軍刀を振り下ろした。
鋭い鋭角状に、肉と骨が切れた。おそらく、距離が近かったので自然に「挽き斬る」という形になったことと、刃が繊維に平行していたからであろう。
私は、軍刀を抜身のまま放り出し、切断した部分を前と同じように処置し、急いで土を掘り、足を埋めなおしてから、軍刀を紙でぬぐった。暗くてよくわからなかったが、一見何も付着していないように見えた刀身や拭うと、確実に何かがべっとりとついていた。刀身は鞘におさまった。しかし、何か鍔や柄がガタガタグラグラする妙な感じがあった。しかしその状態は、もう再述する必要はないであろう。
(「私の中の日本軍(下)P152〜P153)
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冗長、としか言いようのない文章です。ポイントを赤字で示したので少しは読みやすくなったでしょうが、実際にこの部分を本で読んだ方は、「読みにくさ」にうんざりされたのではないかと思います。
要約すれば、氏の「体験談」なるものは、遺体の手首を斬ろうとしたら、「鍔が何か少しガタが来たように感じた」。続いて足を切断したら、「何か鍔(つば)や柄がガタガタグラグラする妙な感じがあった」。それだけです。
「予告」の表現から「三人」なり「四、五人」なりを「切り損なった」話を期待していた読者は、ここで肩透かしを食らわせられます 。もっとも、ここまで「後回し」になっていると、もう誰も「期待」自体を覚えていないかもしれませんが。
しかし、氏の「軍刀」の切れ味のあまりの悪さは、ちょっと意外です。後で山本氏がバイブルのごとく引用する成瀬氏によれば、「日本刀」は、「切れ過ぎる」くらいの道具であったはずなのですが・・・。
成瀬関次 「随筆 日本刀」より
東大病院の整形外科医局長をして居られる伊藤京逸氏が(此の人は剣道家でもある)軍医としてやつぱり徐州戦に参加された時の感想として、「日本刀は案外に切れた。寧ろ切れ過ぎるかの感さへあつた。首を斬る位の事は、短いやつの片手斬りでもスパツと落ちた。刀の柄を、
ぬれ手拭を絞るやうに持てといふ古人の教へは、切れ過ぎる余勢で自分と自分の左足などを切らぬための、その調節のいましめだ。」と、こんなことを話された。
(P42)
素肌の人間を斬ること位たわいのないことはない。素つ首などは、一尺四五寸位の脇差を片手に持つて、それで切れ過ぎる程だ。戦場では、若い士官などが、大刀を大上段にふりかぶり、満身の力をこめて敵の首をねらひ斬りにし、勢ひ余つて刀の切先何寸かを、土の中に切り込むのはまだよいとして、よく誤つて自分の左の脛などに大怪我をする。
昔から、刀の柄を、恰もぬれ手拭を絞るやうに持て、と云はれてゐるのは、さうした切れ過ぎの場合に処する方法、即ち絞り止めに止める為だと云はれてゐる。
骨を切るといふことも、思つた程ではない。死後若干時間が経過すると、堅くなつて切りにくいが、生き身は今年竹の程度だと、誰しもいふ。大体首は、中位の南瓜を横に切る程度、生き胴は南瓜に横に直径一寸二三分の青竹を一本貫いたものを切る程度と云つたら、略見当がつくであらう。
切り損ずる原因の一つは、誰しもあわてること、上気してしまふことだ。それによつて見当を誤るのでよく肩骨に切り込んだり、奥歯に切りかけたりして失敗する。
(P61〜P62)
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ではなぜ山本氏の刀は、遺体の手首を斬る、という程度のことにも苦労したのか。種明かしをしますと、山本氏の持っていたのは、真正の「日本刀」ではなく、大量生産の粗悪品「昭和刀」であった、というのがその理由であったようです。
山本氏は、「日本刀ではなく昭和刀を使った理由」をP84からP88にわたってダラダラと書いています。要約すれば、日本刀には製品の質にバラつきがあり、また「構造上の欠陥」があるので、「製品の刃物としての質が必ず一定水準以上」である「昭和刀」を選んだ、ということのようです。
しかし、この「「昭和刀」というのは、成瀬氏の言葉を借りれば、実際にはこんな代物でした。
成瀬関次 「随筆 日本刀」より
今事変では、殆ど有史以来の多数の日本刀が、大陸に渡つて、華々しい白兵戦条裡に、其の重要な役割を分担してゐて、後から後からと、いくら日本刀があつても足りない有様である。そこをねらつて現れたのが粗悪な昭和刀である。昭和刀といふのは、昭和年代に鍛へられた日本刀をいふのではなく、洋鉄を赤めて延ばして、恰も日本刀の如く偽装した、危険極まる折れ易い刀の名であることを忘れてはならぬ。
(P68)
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当時の新聞記事にも、「昭和刀」と「古い名刀」の違いが見えます。
「東京日日新聞」 昭和十三年一月二十一日
日本刀病院で 大和魂修理
これが勇気の泉だ
【南京にて守山特派員十九日発】
南京の目抜の通り中山路に「日本刀修理、大日本刀匠協会現地奉仕団」といふ看板が上つてからもう三日になる、何時見ても大変な盛況で凄い奴を携げて将校や兵隊さんが日夜入替はり立替はり来てゐる、
剣や銃の修理所はあつても白兵戦に最も必要な日本刀の修理機関は軍の方にも備はつて居ない、 肉弾相打つ白兵戦が多かつた上海から南京までの戦線では日本刀の傷み方も甚だしい、だから斯うした修理団の無料奉仕は非常に感謝され門前市をなす大繁盛を来すのも無理はない、
十九日国貨銀行の五階、仕事場を覗いて見た、
団長栗原彦三郎氏、名誉顧問の伊集院兼知子爵を始め日本の刀剣界に堂々たる名を得る一流のお師匠ばかり十九名が日本刀の林の中に埋つては研(とぎ)や柄巻に余念がない、日本刀の病院、大和魂の修理工場である、
上海で松井大将、長谷川中将の軍刀を研いだ一流の研師宮形光■氏等は語る
実戦において最近の鎔鉄で作つた所謂昭和刀が如何に惨めな結果になるかが今度こそはつきり判りました、矢つ張り古い名刀は何人斬つても刃が微かにこぼれる程度で立派なものです
この現地奉仕を機会に日本刀の機能を研究している栗原団長は
我々の別働隊は杭州にも派遣されこれまで北支から上海南京の各戦線を通じ既に一万七千口の日本刀を修理しました、併しこの度の事情で三万口の修理を目標にして居るのですからこれからです、日本刀の機能についていろいろ面白い結果を得ました
いざ白兵戦といふ時に平素勇敢な人でもその持つて居る刀の柄が緩んで居たり刃がこぼれて居たりすると不思議に勇気が鈍り躊躇する傾がある、その反対に素晴らしい完全な刀を持つて居る人は日頃温順なしい人でもいざといふ時に非常な勇気が出る、躊躇せずに突撃が出来る、将校達は皆さういつて居られる、日本刀こそ勇気の泉です、
それから支那兵は日本刀を最も恐れて居るらしく日本刀を振■して飛込むと催眠術にかかつたやうに無抵抗状態になつてしまふらしいですね
と語つた
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こんな「粗悪な」刀を使っての自分の「体験談」をもとに、「日本刀3人限界説」を打ち出しても、説得力は皆無でしょう。
(2004.6.20)
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