ラーベは武器商人か?


 ラーベは、南京事件当時、独ジーメンス社の南京支社長を務めていました。

 南京支社の主な取扱品目は「電話、発電機、医療機器」(文庫版「南京の真実」P14)などで、各種資料から判断する限りでは、もっぱら民需関係に携わっていました

 ところが掲示板等では、ラーベが当時「武器商人」であるかのように断定した書き込みが多く見られます。そのルーツは、どうやら田中正明氏の次の文であるようです。

『南京の真実』は真実か?

 ラーベの所属するジーメンス社は、兵器や通信機の有名な製作会社である。ラーベの納めた高射砲は当時日本にもない優秀なもので、ラーベはこれらの兵器を売り込むため、南京出張所を勤めていたのである。

(「月刊日本」1998年1月号P55)


  田中氏がどのような根拠でこの記述を行ったのかは不明ですが、実際には当時のジーメンス社は、「電機メーカー」であるに過ぎませんでした。

  また私が調べる限り、少なくとも1930年代以降にラーベが「高射砲」を中国側に販売した事実も存在しません。

 当時のラーベの取扱いは民需用のものでしたので、「これらの兵器を売り込むため」というのも、的外れな記述です。
なお、後述の「ジーメンス社の兵器生産」(ja2047さんの寄稿1)の通り、 ジーメンス社またはその関連会社が、電機メーカーとして兵器の「部品」を製作していた事実はあります。ただし その本業はあくまで「電機」であり、田中氏のように「兵器・・・の有名な製作会社」という表現を行うのは、行き過ぎでしょう。

 ちなみに「否定派」の中でも、ラーベを「武器商人」と断定しているのは、田中氏のみであるようです。

 東中野氏はこの点への言及は見られませんし、松村俊夫氏などは、 「ラーベが南京支社の責任者をしていたドイツのジーメンス社は、当時でも強電機・通信などの一大コンツェルンとして世界に君臨し、ラーベが従事していた南京市の電気関係からの注文は大きかった」(「南京虐殺への大疑問」P213)と、この点については正確な認識を示しています。

 なお、竹本忠雄・大原康男氏の「再審「南京大虐殺」」は、「親中派の軍需産業シーメンスの利益代表であるラーベ」(P56)という、微妙な表現をとっています。

 ジーメンス社が「軍需産業」であるかも疑わしいところですが、当時のラーベが「武器」を取り扱っていたという資料が存在しない以上、これは「企業イメージ」をラーベのイメージにすりかえようとするトリックと見られても仕方がないでしょう。



「ラーベ日記」でも、ラーベが南京支社で「武器輸出」に関わっていた痕は全く見られません。「商売」に関しては、例えば「発電機修理」の記述があります。

ジョン・ラーベ日記 10月19日

 発電所を再開するためにリーベはとてもよく働いた。第二発電機は全力駆動(五千キロワット)している。いま、第三機の修理中だ。六年前、うちが納めて以来ずっと使っている古いボイラーしか動かしていない。アメリカ製の有名なほうは、はじめからいじらなかった。

(「南京の真実」文庫版P40)


あるいは、ヒトラー宛ての「ラーベ報告書」です。

ラーベ報告書

 南京電力会社のタービンはジーメンス社が供給していました。すべての省庁にはわが社の電話と時計の設備があったし、中央病院は大きなレントゲン設備をもち、また警察とすべての銀行の警報装置は当社のものでした。

 これらの設備はわが社の中国人組立工によって管理されていましたが、かれらはさっさと南京を立ち去ることはできませんでした。 これらの人々と、私のオフィスの使用人、それと何十年も私のもとで働いていた家の奉公人、さらには中国人マネージャーたちが、いまや多くの家族と共に私の回りに集まっていたのでした。

(「季刊 戦争責任研究 第16号」(1997年夏季号)より「南京事件・ラーベ報告書」(片岡哲史訳)P41。なお、「南京の真実」文庫版P333にも該当箇所の翻訳あり)


こんな微笑ましいエピソードもありました。

ジョン・ラーベ日記 11月12日

 見ず知らずのドイツ人の婦人から、ついさっき電話があった。

「もしもし、いますぐおたくの技師さんをよこしてちょうだい。うちのミシン、壊れちゃったのよ!」

「奥様、こちらはジーメンス電機です。シンガーミシンではありません」

「ええ、わかっています。シンガーなら、もう行ってみました。 あの会社ったら、ほんとにいまいましいったらありゃしない。だからおたくに電話したんですよ。だってうちのは電気ミシンなんですもの」

はあ、どうしたものだろう? ま、明日、うちの電話技師の宋さんでもやることにしよう。いやあ、どうやらまた商売が繁盛してきそうだぞ!

(「南京の真実」文庫版P50)

 またラーベは、南京占領後の発電所復旧にも関わっていました。



 当時のドイツが中国に武器輸出を行っていたことは事実です。ただしそのルートは、ラーベを通したものではなく、ドイツの「軍事顧問団」を通じたものであったようです。

 「南京戦史」には、以下のような記述が見られます。表現の類似から、どうやらこれが、田中氏の「元ネタ」であると推定されますが・・・。

「南京戦史」より

 なお、上海戦を戦った第八十八師ほか中央軍の精鋭の多くは、ドイツ軍事顧問団によって訓練された軍隊であったし、またわが海軍渡洋爆撃隊を悩ませた南京鶏鳴寺東側高地防空砲台の中口径ドイツ製高射砲は、フォン・ブロンベルク独国防相の好意により、開戦直前ドイツから海路到着したばかりの電動照準装置を含む最新式のものであった。

(P6〜P7)


(注記)

 鶏鳴寺東側高地防空砲台はドイツ人技師の指導により岩山をくりぬいて深い坑道を掘り発電機を据え、交換機を備えた通信所があった。この高射砲陣地は完全な電動式で、当時日本軍は装備していなかった高射算定具、照準具、四メートル基線測高機と電気的に連動していた(現在の言葉で表現すればコンピュータ制御されていた)。

(P11〜P12)

*「ゆう」注 「南京戦史」のこのあたりの記述は、「証言による『南京戦史』(9)」(「偕行」1984年12月号)の石松政敏氏の証言と一致し、どうやらこれが元ネタであるようです。


 「南京戦史」では、上記の注に続けて、尾崎秀実「現代支那論」の記述が引用されています。

尾崎秀実「現代支那論」(岩波書店・昭和十四年)より

 ドイツは一九三二年に支那軍組織の改造の為に国防軍のフォン・ゼークト元帥を指導者とし、その下にファルケンハウゼン将軍を筆頭とする約六十人の軍事顧問を支那に送った。

 彼等は軍事顧問であると同時に、端的に云えばドイツ武器の売込の斡旋をする仲介者という地位に立って居った。

 これらの軍事顧問は一方において支那の軍備を高度化し近代化する為の、そして又かかる軍隊を訓練する為の目的を持ち、一方においてはそのために必要なる軍需資材、特に既成の武器を支那に向けて輸出すると同時に、本国軍需産業に必要なる原料、鉱石又は油、皮革類を支那より輸入するという、軍需品とその原料品を中心とする対支貿易を斡旋する役割を直接間接に果していたのである。

(「南京戦史」P13。なお、勁草書房「中国新書」版「現代支那論」ではP133)

  「ジーメンス」「ラーベ」の名は、どこにも見当たりません。後に紹介するja2047さんの調べられたところによれば、当時の「武器輸出」は、「ハプロ」社、あるいは「カルロヴィッツ商会」を通じたものであったようです。



 なお、「ラーベ日記」で唯一「高射砲」に言及しているのは、以下の部分です。

ジョン・ラーベ日記 10月3日

 政府高官筋の人々、とりわけ蒋介石夫人の宋美齢はドイツにあまり好感を持っていないという噂だ。ドイツが日本と防共協定を結んでおり、ソビエトと同席したくないという理由から、(ゆう注 ドイツは)ブリュッセル会議への出席を拒否したからだ。

 「私たちの味方でない者はすなわち敵」と夫人は言ったという。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ? いまや中国人があんなに誇りにしている高射砲部隊、つまり防空隊を導入したのはいったいどこのだれだ? ドイツ人の軍事顧問じゃないか! (以下略)

(「南京の真実」文庫版P31)

 「高射砲部隊」を導入したのは「ドイツ人の軍事顧問」であるとのことで、尾崎氏の記述に一致します。



   私の知る限りでは、ラーベが「武器輸出」に関わっていた可能性を示唆するのは、次の「読売新聞20世紀取材班」の記述のみです。ただし、南京事件を大きく遡る「一九二〇年代」のことではありますが。

読売新聞20世紀取材班 「20世紀 欧州大戦」(中公文庫)より

 日本軍による南京での虐殺事件(一九三七年)を克明につづった独商人ジョン・ラーベの日記が、九六年末に出版され、世界的反響を呼んだ。そのラーベの中国での活動を通し、独中関係の裏表をうかがうことができる。

 ハンブルク生まれのラーベは二十六歳で貿易会社の中国駐在員となり、やがて独ジーメンス社に移籍し駐在を続けた。

 第一次大戦後、独産業界はベルサイユ条約での禁止にもかかわらず、ひそかに武器輸出を続けた。五年に中国の各軍閥が輸入した武器総量の六割は独製だった、との説もある。

 ミュンヘンのジーメンス本社付属博物館には、ラーベ自身がタイプ打ちした二百十五ページの手記「中国のジーメンス・コンツェルンでの二十五年」が残されている。学芸員は「わが社は武器を製造したことはないはずで、ラーベの記述にも武器関係はない」とする。

 だが米ハーバード大学教授ウィリアム・カービィによると、同社もオランダの複数の会社を通じ、中国へ武器を売っていたという。成城大学教授・田嶋信雄は「二〇年代のラーベは武器貿易にかかわったはず」と見る。

 孫文は二四年、ラーベの同僚で広東駐在のグスタフ・アーマンを通じ、ドイツから軍事顧問団を招こうとした。これは実現しなかったが、二八年、蒋介石が成功する。この年、ドイツは蒋介石の南京政府を正式承認し、翌年には独中貿易協定が結ばれる。

 ラーベは三一年、ジーメンス社南京支社長となる。同社は、北京の発電、成都の放送などの各工事を受注、中国近代化事業に加わった。

 南京の自分の土地にドイツ人学校を作ったラーベは、ヒトラー政権から支援を受けやすくするため、ナチス党員になった。

 独軍退役将校の武器商人ハンス・クラインが、三四年、独国防軍を後ろ盾として貿易会社「ハプロ」を設立、両国の軍事・経済関係が一段と強まる。

 蒋介石政権は、三六年、重工業建設を柱とする「三か年計画」を打ち出す。主な資金はドイツからの巨額の借款だった。ジーメンス社は湖南省の製鉄プラント建設で、土木工事を請け負った。

 「これらは対日戦争に備えた国防建設事業で、ラーベも力を入れただろう」(田嶋)

(P161〜P162)


 「・・・説もある」「・・・はずと見る」と何とも頼りない記事ですが、これを見る限りでは、20年代においてラーベが「武器貿易」に関わっていた可能性もないこともない、という程度のことであるようです。

(記事は識者の意見を紹介するのみで、「断定」は行っていません)

 ただしいずれにしても、例え関わりがあったとしても「武器貿易」を仲介していた、というレベルであり、「ジーメンス社本体」が武器を「生産」していたとはいえない。また1937年の南京事件時点では、ラーベが「兵器」を扱っていたという信頼すべき資料は見出せない、といえるでしょう。



 なおこの記事については、「兵器」に詳しいja2047さんの調査に負うところ大です。以下、この話題に関連しての、ja2047さんの調査結果を紹介します。

ジーメンス社の兵器生産について (ja2047さんの寄稿1)

 日本では1914年の「ジーメンス事件」があまりにも有名なため、ジーメンス社に「軍需産業」のイメージを持つ人が多いようです。

 では実際には、「ジーメンス社」はどの程度「兵器生産」に関与していたのでしょうか。以下、項目別に整理してみます。
 

1.弾薬、投射物、飛翔体
生産実績なし。

2.弾薬、投射物、飛翔体の構成部品
ジーメンスシュッケルト社は第一次大戦当時、一部で実用化された「電動式魚雷」の電気動力装置を担当し、第二次大戦ではハーゲルコルン滑空爆弾、V1号滑空爆弾、V2号ロケットのジャイロ誘導装置を担当した。

3.火砲本体
生産実績なし。

注記.明治期から昭和初期の沿岸砲台用に使われた「斯式加農砲」というものが存在しますが、これはSchneider-Kanone 社の製品(スナイドル砲)であり、ジーメンス製ではありません。 サイトによっては “「シーメンス式」の略称は「斯式」である”と書かれているものがありますので、念のため付言します。

4.射撃管制装置
  照空用探照灯(サーチライト)、防空用レーダーの生産を行った。これらは部隊編成の上で高射砲部隊の一部として使用された。

  また、ジーメンスハルスケ社のオランダの関連会社”HazeMeyer”が、ボフォース40mm対空砲の砲架駆動装置の開発、生産を行ったが、オランダ占領後はイギリスで生産されたので、HazeMeyerの生産分は少ない。

5.軍用機、艦艇、車両
ジーメンス・シュッケルトが第一次大戦で少数の戦闘機、爆撃機を生産した以外実績はない。

  これらは技術的には意欲作であったが成功作とは言えず、 生産数もわずかであり、試験機・珍機の部類に入るものであった。

6.軍用機、艦艇、車両の動力装置
 ジーメンスハルスケが練習機用など小馬力の航空用エンジンを、ジーメンスシュッケルトが潜水艦の主電動機を生産した。

注記.なお、BV222飛行艇、 Do17爆撃機などに“ブラモ”という名称のエンジンが使用されています。”プラモ”とは、ジーメンスシュッケルトのシュパンダウ工場が1936年に Brandenburgische Motorenwerke GmbH として独立したものであり、これはさらに1939年にBMWに吸収されています。従って、このエンジンは、大戦期の製品としてはBMWのものですが、ジーメンス系の技術の血を引いていることには間違いありません。

 また、少数生産されたポルシェティーガーの電気動力装置はジーメンス製であるが、これは通常”タイガー戦車”と呼ばれるヘンシェルティ−ガーとは別のものである。

7.軍用通信機
ジーメンスハルスケは元々通信機器メーカーとして創立され、国際電信網の事業に進出して成功を収めた。軍用通信設備は当初から手がけており、その後も多数生産した。 



 以上見てきたように、ジーメンス社は戦時下、準戦時下では相当の軍需生産を行っていますが、民需用の重電、通信メーカーとしての事業規模を考えると、決して「軍需」を中心に据えたメーカーではありません。

  田中氏は「“兵器”や“通信機”の有名な製作会社」と表現していますが、ジーメンス社は“通信機”を供給するのと同様に「例えば高射砲のような」“兵器”を製品として供給することはできませんでした。

  中国についても最初の発電機がジーメンス社により1879年に上海に設置されて以来、ジーメンスは発電機、電話交換機など民生品を中心に納入しています。

 いずれにせよ、1934年以降、ドイツからの武器輸出は国策会社であるHAPRO社(Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte) が行っており、1936年にはHAPRO社と国民政府との間でバーター取引による決済の契約まで成立していましたので、ここにジーメンス商会の入る余地はありませんでした。
注記.その後、外務省東亜局の「昭和11年度 執務報告」(アジア歴史資料センター レファレンスコード:B20021301343)の第4章が各国から中国への武器供給状況の解説に充てられていることを発見しました。ここには様々な国から商社などを通じて各種の兵器が中国に導入されている状況が記録されていますが、やはり「ジーメンス」社からの武器供給の記述は存在しません。
 
*以上、ja2047さんの原稿を、そのまま掲載させていただきました。なお、強調部分の表示は、「ゆう」が独自の判断で行っています。

**以上の記事の出典は、極めて多数であるため、掲載を省略しました。




ラーベの高射砲」を追う (ja2047さんの寄稿2)

 田中氏の言う、「当時日本にもない優秀な」高射砲の正体は何だったのでしょうか。

 当時の日本軍の記録を見ると、「陸支普第一五○二号」「陸技本甲第一九五号」などに、“押収兵器”として「ボツホース高射砲」「克式八糎八高射砲」「ラインメタル三十七粍高射機関砲」「ラインメタル二十粍高射機関砲 新型」などの名が並んでいます。 

 このうち当時の日本軍がその優れた性能に注目したのは、「クルップ88mm高射砲」「ラインメタル37mm、20mm高射機関砲」であったようです(「南京戦史」P11〜13、及び「証言による南京戦史」1984年12月号P9の記事)。しかし、名称の示すとおり、いずれもジーメンス社の製品ではありません。



 では、このクルップ砲やラインメタル砲がジーメンス商会を通じて輸入されたのかというと、どうもこれも違うようです。 

 まず「クルップ砲」については、ラーベの記した「ヒトラーへの上申書」を見ましょう。

「ラーベ報告書」

 爆弾に対して安全なのは、すでに述べたように、これらの地下壕のうちごく少数だけでした。私のもだめだったことは確かですが、榴散弾の破片に対するよい防御にはなりました。

 私の庭に高射砲弾が落下してきましたが、それは爆発しませんでした。それでわれわれは、おそらくこの砲弾が、親しい関係にあるドイツのカルロヴィッツ社から輸入したものに違いないという点で意見が一致したものでした。

((「季刊 戦争責任研究 第16号」(1997年夏季号)より「南京事件・ラーベ報告書」(片岡哲史訳)P43。なお、「南京の真実」文庫版P338にも該当箇所の翻訳あり)


 さてこのカルロヴィッツ社(礼和洋行=Carlowitz.&Co) については、中国の歴史資料集「全国政協文史資料撰集」の中の「徳商礼和洋行在華経営軍火活動情況」に、記述が見られます。

 この中には、南京カルロヴィッツ商会がクルップ社などドイツ有力企業の代理店であり、南京国民政府を相手に様々な物資を売り込んで、南京中央病院のX線機械、紫金山天文台の観測装置から、モーゼル拳銃、ボフォース75mm高射砲までを納入したことが記されています。 
*注記 「徳商礼和洋行在華経営軍火活動情況」の筆者は、南京カルロヴィッツ商会の支配人、丁福成氏です。なお、丁氏は、蒋公殻の「陥京三月記」の十二月八日の項にも登場します。この引用文は中国の軍事サイト“徳国軍事中心” で、また、下記の「我所接触過的砲兵兵器」は“征程憶事”で原文を確認できます。

 カルロヴィッツ商会は、「ボフォース高射砲」を輸入していました。また、クルップ社の正式代理店でもありました。つまり、この記述を見る限りでは、ジョン=ラーベの記録した“カルロヴィッツ社の砲弾”は、カルロヴィッツ商会を通じて輸入されたボフォース高射砲またはクルップ高射砲の弾丸であったと考えるのが妥当であるようです。 

 田中氏の言う「当時日本にもない優秀な」高射砲が、後に日本軍の注目した「クルップ88mm」(克式八糎八高射砲)であったとすれば、ドイツ軍事顧問団の仲介によりHAPRO社を通じて、あるいはさらにカルロヴィッツ商会を通して国民政府に納入されたものと考えられます。



 一方ラインメタル社の製品について記録したものには、「遼寧文史資料」の25集に掲載された回想記「我所接触過的砲兵兵器」があり、1935年にドイツに派遣された兵器受領使節団のメンバーであった王国章が、「当時ラインメタル大砲工場の中国での代理店は禅臣洋行であった」と書いています。

 ラインメタル砲を輸入していたのは禅臣洋行(ジームセン商会=Siemssen &Co.)であって、西門子洋行(ジーメンス商会=Siemens &Co.)ではありません。 

 また、王国章は1936年からはこの決済がHAPROとのバーター取引となったことにも言及しています。 ラインメタル砲もまた、軍事顧問団の仲介により、HAPROが直接、または禅臣洋行(ジームセン商会)を通して輸出したと考えられます。



 以上のように、当事者の残した記録を見る限りでは、「当時日本にもない優秀な」高射砲が、ジーメンス商会によって納入されたものとは考えられません。 

 田中氏の記述の根拠は不明ですが、このジームセン商会とジーメンス商会の取り違え、あるいは日本軍の捕獲した高射砲がジーメンス製の照空探照灯とセットで使われていた事による誤解であるのかも知れません。 

*こちらについても、強調部分の表示は、「ゆう」が独自の判断で行っています。

(2003.11.7)





2007.2.17追記

 戦前日本におけるシーメンス社の事業展開について、「日本におけるシーメンスの事業とその経歴」という本を入手しました。

 これは、日本シーメンス社の幹部社員であった百渓禄郎太氏が、昭和19年、「社史」草案としてシーメンス本社に送るべくまとめたものです。(私が入手したのは、昭和30年の改訂版です)

 戦前の日本シーメンス社の活躍ぶりがよくわかり、大変興味深い内容でした。内容を要約してWikipediaに投稿しましたので、その文をこちらにもアップしておきます。

 「軍」との関わりについて言えば、1914年シーメンス事件までは何箇所か「陸軍」「海軍」への納入実績の記述が出てくるのですが、それ以降はほとんど見かけなくなります。「照準制御装置」納入の商談がまとまらなかった(1926年)とか、その程度の記述しかありません。満洲事変以降は、古河グループとの合弁企業である「富士電機」が、ジーメンスの軍事関係技術を「国産化」することになります。

 「兵器」関係については意図的に記述に取り入れましたが、それでもこの程度です。「兵器」関係は、シーメンス社の幅広い活動の一部に過ぎないことがわかります。

戦前日本におけるシーメンス社の事業展開

 1861年、ドイツ外交使節が将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに始めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。

 1887年にはシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気株式会社への発電機を含む電車制御機及び電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。

 1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。

 その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鉄所・山口県下小野田セメント・伊勢電気鉄道古河家日光発電所・曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なった。

 軍関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照燈、シーメンス・レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入している。1914年には海軍省の注文で千葉県船橋に80〜100キロワットテレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件に発展することになる。

 第一次大戦中は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923年には古川電気工業と合弁して富士電機製造株式会社を設立、1925年には電話部門を富士電機に譲渡した。

 その後も、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。

 1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局のほとんどがこの様式を採用することとなる。

 1931年には八幡市水道局にシーメンス製オゾン浄水装置が納入された。1932年には日本活動写真株式会社にトーキー設備40台を納入、以降全国各地の映画館にトーキー映写装置を販売することになる。

 1932年、上野帝国図書館は日本最初のシーメンス式自動書類複写機を採用した。1936年には大阪市にも採用された。

 満洲事変以降、富士電機は探照燈・特殊電気機器・船舶航空器材など軍用兵器関係の製作に力を入れることになり、シーメンスから専門技師を招致するなどして、シーメンス関連企業が設計製作を行なっていたその種の装置の国産化に努めた。

 1938年頃から、アルミニウム工場が日本国内、満洲、朝鮮の各地に建設・増設されたが、シーメンス社はその設備・資材供給で多忙を極めることとなった。発電設備関係では、1939年、満洲国各地、鴨緑江水電株式会社などに、相次いで大型発電設備を供給した。

 1941年、ドイツとソ連が交戦状態に入り、シベリア鉄道経由での貨物輸送が不可能になった。続く日米開戦により、東京シーメンスはほとんど全部の製品を国産化することとなった。この時期の納入実績としては、シーメンス水素電解槽の住友電気工業、日本カーバイド工業、鐘淵紡績等への供給、逓信省への大型短波放送設備の納入等がある。戦争が続く中で、資材の獲得が困難となり、戦時中は保守業務が中心となった。

(以上は、百渓禄郎太編「日本におけるシーメンスの事業とその経歴」による)

(2003.4.13記。2003.8.21一部改訂。2003.11.7 ja2047さんの寄稿2を掲載)


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