石井猪太郎『外交官の一生』


石井猪太郎『外交官の一生』より (中公文庫)

 東亜局長時代 中日事変の勃発


 中日事変の勃発

 中日関係の大局は、約一〇か月前私が上海を去った頃に比べて、少しも改善されていなかった。

 国交調整の彼我会談は、昨年一一月の綏遠事件以来中絶のままだ。佐藤外相がこの春の議会で表明した、平等の基礎に立つ中日国交調整論と、五月帰朝した川越大使の対華再認識論は、中国側に新鮮味をもって迎えられたが、中日関係の癌である華北の現実は、症状いよいよ悪化するの観があった。

 中日の緩衝役たる冀察政務委員長の宋哲元氏は、華北特殊化を目指す日本軍の諸要求に耐えかねて、この五月、展墓を名として故郷山東省に逃避したまま帰任しない。日本軍は苛立っている。国民政府は華北の特殊化を断じて許すまじい意思を表明している。

 国民政府の強い態度には、綏遠事件以来全国的に結晶した対日強硬世論と、西安事件を契機として国共間に成立したと思われる「内戦を停止し国力を集中して一致外に当る」ための妥協とが裏付けしているのに相違なかった。

 華北の外務公館からは、わが駐屯軍の醸し出す不穏な空気がしばしば伝えられてきた。油断のならぬ情勢であるが、これを解消させて全面的国交調整に持ってゆく具体的政策は、日本側に持ち合わせがない。今さら広田三原則でもなかった。(P294-P295)

 私は、局長になったからには、と意気込んで、就任早々大乗的な構想を立てて、対華私案を練った。まずこれを、国民政府外交部亜州司長高宗武氏との私的会談に試みようとの腹案であった。が蘆溝橋事件で一切が夢になった。

 七月八日払暁、私は外務省からの電話でたたき起こされた。蘆溝橋での中日両軍衝突の情報であった。しまったと思った。差しまわしの自動車で、外務省に着いたのが六時頃、構内には人影なく、すがすがしい早朝であった。

 情報部に行くと河相部長が出勤していた。「とうとう始まったね」「大きくならなければよいが」顔を合わせるなりの挨拶であった。主管課の東亜第一課には太田 ( 一 ) 主席事務官が詰めていた。

 やがて登庁した広田大臣を囲んで、堀内次官、東郷欧亜局長、私の三人が鳩首した。事件不拡大、局地解決、誰にも異存あるはずがなかった

 続報が次々と北平大使館から入電した。事端は中国軍の不法射撃によって開かれたとあるが、柳条溝の手並みを知っているわれわれには「またやりあがった」(ママ)であった。が、いずれが手出しをしたかはさておいて、当面の急務は、事件の急速解決にあった。

 その日午前中、陸軍の後宮軍務局長と海軍の豊田 ( 副 ) 軍務局長を私の部屋に会同して、事件不拡大方針を申し合わせた。中国問題については陸海の二軍務局長と、東亜局長とが随時外務省に参集して相談するのが従来からの慣行であった。三省事務当局会議と称した。(P295-P296)

 午後閣議があって、事件不拡大、局地解決の方針が決定され、その旨陸、海、外の出先機関に訓令された。現地では、二九軍と日本軍と対峠のまま、善後交渉が開始された。

 不安の間に三日たって一一日、日曜日にもかかわらず緊急閣議が召集されたというので、早朝から出勤すると、東亜一課から太田事務官が顔を見せて大憤慨だ。先刻陸軍軍務局から連絡員がやってきて、今日の緊急閣議に、陸軍大臣から三個師団動員案が出る、そいつを外務大臣の反対で葬ってもらいたいというので、それくらいならなぜその提案を自分らの力で食い止めないのか、卑怯ではないか、と一論判やったところです、というのである。

 明らかに陸軍部内の意見の不統一の暴露だ。現地でせっかく、解決交渉中というのに、何を血迷っての動員案か、頼まれずとも外務省は大反対にきまっている。

 閣議への召集を受けてその朝九時、週末静養先の鵠沼から帰京する広田大臣を、私は東京駅に出迎え、自動車の中で軍務局連絡員の話を報告し、頼まれるまでもなく閣議で動員案を食い止めていただきたい、このさい中国側を刺激することは絶対禁物ですからと進言した。大臣は領いた。

 ところがその日の閣議は、動員案をあっ気なく可決した。閣議から帰来した大臣の説明によると、その案は居留民の保護と現地軍の自衛のため必要が生じた場合に限り、動員を実施するという条件付きの、万一のための準備動員案だったから、主義上異議なく可決されたというのであった。(P296-P297)

 手もなく軍部に一点入れられた感じで、私と東亜一課はいたく大臣に失望を感じた。

 内閣は閣議決定に基づいて、その晩「重大決意をなし、華北派兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなす事に決した」旨の声明を発したのみか、翌一二日夜政界、言論界、実業界の多数有力者を首相官邸に集め、首相自ら政府の決意に対して、了解と支援を求めた。

 行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。

 事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ。



 石原少将―風見書記官長

 もう正面から手の打ちようもない。裏面工作として、私は当時参謀本部第一部長の石原少将に狙いをつけた。一か月ほど前、外務省の幹部会で石原少将を招待して意見交換をやった席上、「わが国防上最も関心を持たなければならぬのは、ソ連への護りである。中国に兵を用いるなどはもってのほかだ。自分の目の玉の黒いうちは中国に一兵だも出さぬ」と言い切った石原少将の一言が、私の記憶にささっていたのだ。(P297-P298)

 たしか七月一三日のこと、私は河相情報部長の斡旋で、平河町の河相氏宅でひそかに石原部長と会談した。河相部長も同席した。「中国に一兵だも出さぬ」との石原部長の決意に変化なきを確かめ事件局地解決の方針を約束した。

 石原少将は、この会談を秘密にしてくれ、軍内部の連中や右翼が自分の行動を付けまわして困るのだといった。これは同少将の、部内での困難な立場を物語るものであったが、作戦用兵を掌る第一部長が頑張ってくれる以上、動員出兵は避け得られると思って、私は気が軽くなった。

 現地では一一日すでに解決条件が彼我の間に成立し、同時に山東省へ逃避中の宋哲元氏が駆け戻って、事件の善後処理に乗り出し、日本軍は橋本(群)参謀長の統制よろしきを得て平静を保っている。この分ならば、数日中に事件は片付くであろう形勢を呈した。

 事件解決の交渉は南京でも行われた。事件発生の直前、川越大使は華北に出張し、留守を預る日高参事官が、本省の訓令を受けて外交部と折衝した。国民政府はもとより不拡大方針であったが、現地で協定せられる解決条件が、中国の主権を侵害する底のものならば認容し得ないという建前を堅持した。

 七月一八日、日曜日であるが出勤して執務していると、夕方風見書記官長から電話で呼ばれたので首相官邸に行くと、中日問題解決案を私見でもよいから話してくれという。そこで、かねて練っていたこれ以外に国交打開の道なしという大乗案の荒筋を話した。その時私は書記官長にいった。(P298-P299)

「この事件は処理を誤ると日本の命取りになる。近衛総理の覚悟如何」

「皇室と近衛家の関係は並々ならぬものだ。今までの総理大臣なみに、時局をもてあまして辞職するがごときは、皇室と近衛の関係において許されないのだ。近衛内閣は飽くまで事件解決の責を全うするから安心し給え」と書記官長は壮語した。

「それなら、なおさら僕の解決案でいかなくては」

 そういって外務省へ戻ると、私案を書面にして送り届けた。私に解決案を求めるなどは、殊勝の至りだと思った。同時に私は、大臣にも私案を提出して、書記官長との会談の次第を報告した。



  蒋介石氏の廬山演説―三個師団動員決定

 一一日のわが政府の重大決意声明は、案のごとく中国側を刺激し、早くも中央軍の北上が報ぜられた。

 加うるに廬山会議中の蒋介石氏は、一九日重大なる声明を発表した。一昨年の六中全会における演説では、中日国交は未だ最後の関頭に達しておらない、軽々しく犠牲をいうべからずと急進抗日を押えたが、その最後の関頭の到来を宣言して、中国主権擁護の決意を国民に訴えた悲憤の大演説である。

 蒋氏もとうとう最後の関頭を口にしたか。中日国交の破綻をせきとめていた堤防の決潰だ。事態いよいよ重大を加えた。これに対処するの途は、わが方の行動を慎重にするより他ない。しかるに何ごとぞ、政府は陸軍の要請で、二十日閣議を召集し、三個師団の動員を議定せんとするのだ。(P299-P300)

 その朝私は後宮、豊田両局長を会同して、動員問題を議論した。海・外両局長は絶対反対、後宮局長は個人としては動員反対だが、部内情勢上、国内情勢上動員もやむを得ないと頑張った。内部の強硬論者と、右翼から圧迫されているのだ。意見対立のまま散会し、私は右の次第を大臣に報告して閣議での善処を進言した。

 閣議は午前中からあったが、何らまとまらずに夕刻七時半から本格的に再開となった。どうも大臣の態度に煮えきらぬものを感じたので、私は東亜一課に嘆願書を作成させて、閣議に臨む大臣を総理官邸に追った。閣議室の入口で追い付いたが口頭説明の暇がないので、中でご披見を願いますと嘆願書を呈した。

 動員は事件拡大の端を開き、回復し難い事態を招来すること必然ゆえ、中日関係百年の計のため、閣議におけるご奮闘を嘆願するという文面で、石射、上村両人が連署した。ラスト・ミニットの注射のつもりであった。私は外務省に引き返して、閣議の結果をまった。

 大臣は夜一一時過ぎに、閣議から官邸に戻ってきた。かけつけてみると何のことだ、三個師団動員、大した議論なしに閣議決定とある。がっかりした。私は「辞職、少くとも休職の決意をしつつ帰宅」(日記から)した。

 翌二十一日朝、私と上村一課長は辞意表明を決意し、太田事務官が作ってくれた連名の辞表を持って大臣に面謁した。私ども事務当局の進言も嘆願もご採用なく、動員に賛成せられたのは、事務当局不信任に他ならないと思いますからと前置きして、辞表を提出すると、大臣は意外なことを突っ込んできた。(P300-P301)

「君達は部下の連袂辞職などを戒しむべき地位にありながら、連名の辞表を出すとは不都合ではないか」

「連署は便宜上そうしただけです。別々の辞表と見倣していただきます」

 そう答えて、なおも動員問題に食いさがると、

「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな!」

 大臣の一喝である。私はこうした広田さんをかつて見たことがなかったので、瞬間面食らったが「ご立腹は恐縮ですが」と言葉を続けかけた。

 すると大臣は調子を穏やかに落として、動員は実施しても、事態急迫せざる限り出兵はしないと陸軍大臣がいっており、また現地の情勢は解決近きにあるのだから、しばらく成り行きを見守ることにして辞表は撤回してくれ、諸君の意見はよく了解しておるという。

 大臣の穏やかな調子で、私の鉾先は他愛もなく鈍ってしまった。これ以上抗争しても埒はあかない。事件さえ解決されれば問題はないのだ。「ではお言葉に従います。このうえともにご健闘をお願いします」といって、われわれ二人が席を立つのが落であった。うまく大臣にいなされたのだ。(P301)

 この日午後、陸軍の柴山軍務課長が、吉報をもたらした。柴山課長は事件早々華北に急行して、現地の情勢を見届けて帰京したのだ。

 現地は極めて冷静、解決条件は次第に実行せられつつある。増兵の必要なしとの帰来談であった。柴山課長からその旨意見の上申があり、加うるに現地の橋本参謀長からも援兵無用の急電があったというので、急に目先が明るくなった。

 当時の日記にはこう出ている。
現地より帰来の柴山課長の意見上申もあり、天津軍よりの援兵無用の来電もあり、軍は動員をしばらく見合わせることになったという。陸軍大臣より外務大臣にもその話あり。東亜局第一課これにより大いに活気づき今後の平和工作をねる。

 二三日には、陸軍から現地協定の内容と、その実施状況について発表があった。事件の円満解決近きにあるを語るものであった。

 その日は朝から三局長会議を聞いた。陸軍からは柴山課長が代理で出てきた。善後交渉の方針について大体の申し合わせができた。もう山が見えてきた。

 それでも陸軍は北上した中央軍を気にして、後宮軍務局長がやってきて、中央軍の撤退を南京に外交工作してくれとせがむ。私は事件が解決しさえすれば、そんな工作はいらぬはずではないかと斥けた。

 二五日南京では日高、高宗武会見で、国民政府も現地協定の解決条件を黙認する意向であることが明らかにされた。もうしめた。次のステップは中日国交の大乗的調整に乗り出すばかりだ。私の胸は爽快になった。(P302)



 三人連れの悪魔

 それはしかし、ほんの束の間だった。二五日から翌二六日にかけての郎坊事件という彼我両軍の撃ち合いで、形勢が逆転してしまったのである。現地からの情報は、例によって責を中国軍の不法射撃に帰したが、動機はわが軍末端の不必要な動きが作ったものと判断した。

 いずれにせよ、わが現地軍は、この事件で態度が硬化し、最後通牒を宋哲元将軍に突きつけて、二九軍の保定方面への全面的撤退を要求し、容れずんば自由行動をとると通告した。満州事変以来、国防のための飼い犬は、ここでも主人にお構いなしに相手に噛みつかんと猛るのだ。

 悪魔は一人では来なかった。同じ二六日の夕刻になると、広安門から北京へ入城せんとするわが部隊が、城壁上の中国軍からの兵火を浴びた。非は中国軍の故意か、少くとも誤解にあるとせられた。

 事件発生以来、局地解決を目指して見あげた態度を堅持してきた橋本参謀長も、もう部内の興奮を押さえきれぬものと思われた。悪いことには部下の参謀に名うての策謀家和知(鷹)中佐がいた。

 他方、最後通牒で追い詰められた宋哲元氏は、屈辱的条件の受諾よりも抗戦を選ぶとの決意を中央政府に告げて、その支援を求めた

 わが陸軍部内の強硬派にとって、思う壷の事態がここにでき上った。軍は二七日の閣議に三個師団動員を通告し、あたかも開かれた臨時議会に、事件費九、七〇〇万円を要求した。(P303)

 議会はこれを鵜呑みにしたばかりか、ご丁寧にも華北派遣将兵に対する感謝決議までやった。政府も負けじとばかり、軍事行動礼讃の声明を発した。

 二八日早暁には、皇軍の二九軍膺懲戦が開始された。ジャーナリズムは政府の決意を礼賛して怪しまず、民衆は戦争熱に浮かされた。情勢は急転、火は燃え上がって手のつけようもない。中国に一兵も出さないといった参謀本部石原第一部長はどうしたのだろう。

 おまけに二九日には、わが軍の傀儡冀東政府の保安隊一、五〇〇人が叛乱して、通州のわが守備隊・領事館警察・居留民約二五〇人を殺傷した。わが軍の油断が招いた惨劇であったが、罪は二九軍の煽動に帰せられた。二九軍はいよいよもって膺懲を受けねばならなかった。悪魔は三人連れであった。(P304)

 

(2005.2.20)


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