佐藤振壽証言



 
佐藤振壽『従軍とは歩くこと』


八十八営庭の中国兵"処断"

一夜が明けると十二月十四日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社である。一日前は中山陵近くの山上で寒い夜を過ごしたのだが、今日はなぜか、ここにいる。運命というものが、何となく恐ろしく思われたのであった。

そのうち他の師団に従軍していた本社の仲間が続々と集まって来た。そうなると宿泊設備のない励志社では不便である。そこで南京通の志村さんが、新しいねぐらを探して来た。

励志社から中山東路を進んで、中山中央路と交差するロータリーの手前にある中国宿だ。その名をよく覚えていないが、ベッドが五十台もある大きな宿だった。第十軍に従軍して歩兵第六十六聯隊 ( 宇都宮 ) と共に中華門から一番乗りをした「大毎」の松尾さんは、コックの従者をつれていて、われわれ全員の食事の面倒をみてくれたので、幸い飯盆炊さんは免れることができた。(P609)

この宿舎前の広場で、全員の記念撮影した。あの顔、この顔どれも見覚えがある顔ばかり四十一名。この中で、いま存命中の者はわずかに四名。考えてみれば、半世紀近く経っている。その間に日中戦争から太平洋戦争を、そして戦後の混乱期を駆け抜けて来たわけである。(P609-P610)

ともかく全員が何かしら、なすべき目標が無くなってしまい、ただただ解放感にひたりきっていたのであった。



そんな時、連絡員の一人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせて来た。何事かよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。

行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。

中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には五メートル平方、深さ三メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。

右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。

左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。
(P610)

たまたま穴の方へ歩かされていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた日本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。(P610-P611)

銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。

後で仲間にこの時のことを話すと、「カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか」と反問された。「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。


このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ。東京から第百一師団に従軍するため、大阪から同じ軍用船で上海へ渡った記者仲間に「東京朝日」の足立和雄君がいた。

阿羅健一著『聞き書・南京事件』 ( 図書出版社刊 ) の中に足立記者との次のような問答が記されている。(P611)

−南京で大虐殺があったといわれていますが、どんなことをご覧になっていますか。(P611)

「犠牲が全然なかったとは言えない。南京へ入った翌日だったから、十四日だと恩うが、日本の軍隊が数十人の中国兵を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区内ではなかった。」(P611-P612)

筆者が見た場所と足立記者が見た場所は、同じ場所ではないようだ。しかし、同じ十四日の出来事であった。


さて筆者が目撃した場所はどこであったのか。大きな門の写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の哨舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが「棚○○、捕虜収容所、歯獲品集積所」という文字が読める。

「駐軍八十八師司令部」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。

ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海戦で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七聯隊第三大隊の通称である。

たまたま刺殺を逃れようとした中国兵の逃走方向は広大な広場だった。その行く手に建物が見えたので連絡員と一緒に行ってみると、建物の前にはずんぐりした単座戦闘機が置いてある。操縦席をのぞき込むとメーターが並んでいたが、見馴れぬロシア文字だ。日本海軍機が南京空襲の時、ソ連機と空中戦を交えたという記事を読んだ記憶がよみがえった。

操縦席のシートに座ってみた。すると眼前に照準望遠鏡らしいものがある。のぞいてみると、中央に十文字の細い線が見える。この望遠鏡だったら、何かの時、役に立つだろうなどと浅間しい考えを起こし、取付け部分にネジがみえたので、取外せたらなどとポケットの中のコインを出し、このコインでねじれば外れるだろうとウンウンがんばったがどういたしまして。本格的な工具でなければ外すことは不可能と悟ってあきらめた。このソ連機はイー−16型と、ウロ覚えながら知っていた。

次に裏手の建物は何だろうかと興味があったので回ろうとした。するとわれわれの行動を通せんぼするかのように、笹竹が数本横たえてある。何気なしにそれを取り除こうとしたら、連絡員が大声を上げて筆者をとめた。なんと連絡員が指差す所を見ると、手榴弾がブラ下げられていたのだ。(P612)

その手榴弾はドイツ製で、上海戦線でもおなじみの木製の棒の先に弾体が付いているやつだ。棒を握って敵陣めがけて投げるのだが、棒の根元に金属製のキャップがある。このキャップをねじって外すと針金の輪があって木綿の紐が結んである。この輪を引くと数秒後に爆発するという仕掛けである。(P612-P613)

横たえられている笹竹を見ると、この手榴弾のキャップが外されていて、金輪でいくつもブラ下げられているではないか。うっかり私が笹竹を動かしていたら、あえなく一巻の終わりだったかもしれぬ。中国兵が南京を撤退する際に、置き土産にこんな仕掛けを考えたのだろう。

八十八師の営門を入り営庭を過ぎてソ連製の飛行機があったのだから、あそこは城内の故宮飛行場ではなかったろうかと思っている。

「第九師団作戦経過ノ概要」の報告書中、鹵獲品のリストに「飛行機四機」と出ている。筆者が見たソ連機は、この四機の中の一機かも知れない。


この日が終わると大勢の仲間が、南京から去っていった。バイアス湾敵前上陸に従軍する者や、内地へ帰って南京攻略の従軍報告講演会に出席するためである。

バイアス湾の作戦は、パネー号撃沈事件の余波で米英に気兼ねをして中止となり、全員内地へ帰った。

従軍報告会は、郷土部隊の出身地を中心にして開かれ、どこでも大盛会だった。中にはぼうぼうのヒゲを残したまま、前線生活を彷彿とさせる従軍服姿で聴衆を驚かす者もいて、新聞販売政策に大いに貢献したそうだ。(P613)


第十六師団だけの入城式

十二月十五日中山門占領から二日たった。南京城内には、まだ敗残兵がいるらしい。それでも難民区に沿った中山北路を行くと、難民区の中から牧師らしい服装をした中国人が出て来た。軍人とは違った服を着ていたせいか、筆者に英語で話しかけて来た。その言うところは、「ここは紅卍会の難民区だから、日本兵は立ち入らぬように・・・」と言うのだった。

難民区の周辺には、生活力のたくましい中国人たちが、もう露店を出している。白地に梅干しを書いたような日の丸の腕章を左腕につけて、筆者の撮影にも無関心だった。自分の畑で収穫したらしい野菜を売る者、中古の衣類を売る者、餃子入りのスープを売る者など。

通りかかった日本兵に「兵隊さん、餃子を食べないか、食べたらお金を払ってね」と声をかける。この兵隊は気安く歩兵銃を肩に負い直して、中国人の女が差し出したドンブリを手にした。私は箸を持って水餃子を食べだしたところを写真に撮った。

このあたりでは、子供も日本兵を恐れる様子は見せなかった。(P613)

(『南京戦史資料集供拿蠎)

佐藤振壽『従軍とは歩くこと』

中国の女に泣きつかれる

 十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武湖の風景写真を撮ったりした帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止めると助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。

彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。(P618)

寒かった慰霊祭

南京も二十日すぎになると、平穏な日々が続いた。下関(シャーカン)で、捕虜を始末したとかの噂を聞いたので現場へ行って見たが、それらしい痕跡は見当たらなかった。

正月用品と思われる四斗樽の菰かぶりが貨物船からクレーンでつり下ろされ、それを中国兵捕虜が運んでいたが、うっかり地上に落としてしまった。これを見た日本兵が銃床でなぐりつけるのを目撃したが、何もそこまでしなくてもと思わせられた。

慰霊祭も終わり公式行事も無くなったので、市内を車で取材した。難民区や南部の市街地域には、爆撃や砲撃の跡は少なかった。北部の海軍部や交通部のあたりは、街路上にまだ物品が散乱しており、このあたりからユウ江門にかけて、中国兵が城外へ逃れる時に民家を荒らしたらしい。

時折り、市街で小火災が発生していた。原因は明らかではないが、市内の警備状況は万全とはいえなかった。ともあれ戦争に負けるとはどういうことか、よくよく思い知らされたのであった。(P630)



(2008.7.27)


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