増田知貞尋問調書
日付 1947.4.22
尋問者 Dr.N・H・フェル、マックウエル大佐、メラー少佐、吉橋通訳
被尋問者 増田知貞(元大佐、満洲第731部隊)
亀井貫一郎(増田のスポークスマン)
1(略)
2(略)
3.亀井は、同日の早い時間に増田と彼との間で交わされた会話に言及する許可を要求し、次の内容を述べた。
増田はあなたに協力したがっている。しかし攻撃的な生物戦の研究の情報はデリケートであり、以前この分野にかかわっていた日本人たちはそれについて話をすることを非常に恐れている。
石井は彼の部下たちに嫌われており、生物戦研究において人体実験を指揮したと石井を告発し、戦犯として訴追すべきだとした匿名の投書が敗戦後間もなくSCAPにいくつか送られてきた。
その結果、日本人たちは彼らや他の人間を巻き込む懸念から、情報を明らかにすることを恐れた。サンダース中佐やトンプソン中佐による尋問は降伏後まもなくすぎた。しかし、実験の詳細にわたる成果を実際に知っている隊員に、あなたの調査が純粋に科学的見地から行われるものであることを納得させることができれば、より多くの情報を引き出すことができるだろう。
生物戦の試みが、中国中央部の中国軍に対して行われたことに、疑問の余地はない。爆弾は元々、一部の敵による生物戦の可能性に対抗する防衛的手段として開発された。しかし、生物爆弾の強力な攻撃的価値、特に炭疽菌を搭載した場合の価値が、まもなく明らかになった。
増田の二人の友人、内藤と金子は、これらの試みについての明確な情報を持っている。彼らと会ってみることをお勧めする。
第一復員局の井上は、あなたの訊問の目的のため、命令を受けるべきである。あなたが「戦争犯罪」を調べているわけではないことを初めから保証してやることは、あなたが調査しようとする人々に対して安心感を与えるだろう。
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4.増田は1937年以降の彼の配属先について質問を受けた。その答えは事前の情報と一致していた。1941−43年、東京の軍医大学校にいた間、彼は満洲731部隊と接触を持った。彼は1945年に部隊に戻り、戦争の最後の一ケ月を第三部部長として過ごし、設備と記録の破壊を監督した。増田は、残存したノートブックを、次回のミーティングに持ってくる、と言った。
5.増田のヒアリングが終ったあと、亀井はフェルに、ささやくように以下の内容を語った。
増田は私に、人間に対して実験をしていたことを認めた。犠牲者は死刑判決を受けた満州人囚人だった。
これら人体実験にかかわった人びとは情報を決して漏らさないと誓約していた。しかし、貴方が科学的見地から調査を行うのなら、もっと詳細な情報を得られるだろう。
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