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近藤昭二『細菌戦部隊の資料と一将校の顛末』
1994.5.28 朝枝繁晴とのインタビュー
1945(昭和20)年9月5日の夜、ハルビン市の副市長の官舎で、大本営の朝枝繁春作戦主任参謀は「会合をもちたいと思いますので、ご集合願います」と、軟禁されていた関東軍の首脳をひそかに一室に呼び集めた。
この日、新京でソビエト軍によって総司令部の武装解除をうけ、捕虜となった将官たち約20人がハバロフスクヘ連行される途中、飛行機の給油のためにハルビンに一泊するところだった。朝枝参謀は陸軍中央の工作任務を帯びて急速関東軍に潜り込んでいた。すでにソビエト軍に接収されていた副市長の官舎で、朝枝参謀はこれが最後の機会になるかもしれないと考え、一同の口裏を合わせることにした。
関東軍総司令官山田乙三大将、秦彦三郎総参謀長、瀬島龍三参謀らの前で、朝枝は大本営派遣の参謀総長特命の軍使という立場で、主導的に謀議をすすめた。
「かねてソ連よりにらまれている防疫給水部―石井部隊のことは必ず調査をうけるでしょうし、内実が発覚すれば国際間題になります。ひいては陛下に……」(戦犯嫌疑が及ぶ)。(P246-P247)
でありますから、あの部隊は統帥系統のものではなく、軍政系のもので陸軍省医務局の管轄下にあり、参謀本部や出先の関東軍司令部の知ったことではないということに。ただ全く知らないといえばかえって疑われる。間接的には聞いたことにして、誰からと訊問されたら、太平洋で死んだ者の名を出すこと……」。
朝枝は1カ月ほど前の、8月9日の午前4時頃、ソビエト軍進攻の知らせをうけて、すぐにこの731部隊のことが頭に浮かんだという。統帥大権に基づく天皇の勅命によって、国会の承認なしに会計検査院も通さず年間1000万円の国費を費消できる部隊、あの731部隊のことがバレては累は天皇に及ぶ、と。
朝枝はすぐさま自分で案文を作成し、参謀総長名で石井四郎隊長に電報を打つ。「貴部隊ノ処置ニ関シテハ朝枝参謀ヲ以テ指示セシムルノデ10ヒ新京軍用飛行機場ニテ待機セラレタシ」。さらに陸軍省の交通課長武居大佐を通じて省命令を大連の満鉄総裁に打って、731部隊撤退のための特別急行列車を用意させた。
朝枝は新京の軍用飛行場の格納庫の中で石井と約1時間立ち話をし、マルタ(被実験者)が何人いるかを訊ね、こまかく指示を出した。全ての証跡を抹消し、マルタは骨と灰にしてトラックで運んで廃棄すること、53名の医学者は部隊の爆撃機で一番に内地へ輸送すること、部隊は下士官兵、看護婦に至るまで1人の遺漏もなく列車で撤退すること、すでに手配済みの149師団の工兵1個中隊によって施設を全て破壊すること、そういう指示だった。
石井は飛行機で去る間際まで、研究データだけは持ち帰ってはいかんかとくい下がったという。(P247)
(『731日本軍細菌戦部隊』所収)
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