陸軍参謀・朝枝繁春の証言


共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

 靖福和の一家を絶望のどん底にたたき込んだ七三一部隊。その撤収命令を出したのは大本営の対ソ作戦担当参謀、朝枝繁春だった。

あの時は決死の覚悟だった。ソ連に七三一部隊の人体実験の証拠を握られると、まかり間違えば天皇陛下まで責任を問われかねない。それだけは絶対阻止しようと満州に飛んだ

 八十三歳になった朝枝が、川崎市の自宅で五十年前の出来事を振り返った。切れ長の鋭い目付き。顔を紅潮させ、野太い声でまくしたてる。

 一九四五年八月九日未明。ソ連軍は満州北東のアムール川や、西のモンゴル平原の国境線を破り、進攻した。関東軍国境守備隊との激しい戦闘が始まった。

僕が関東軍から『ソ連と交戦状態に入った』と直通電話で連絡を受けたのは午前四時だった。すぐ大本営の対ソ作戦命令を書き上げ、十一時には関東軍総司令部やソウルの司令部に電報を打ち終わった

 その直後の午前十一時二分、長崎に原爆が投下された。翌十日未明、御前会議で国体護持を条件にポツダム首言受諾が決定した。朝枝は混乱する参謀本部を後に、東京・立川の飛行場から軍用機に乗り込んだ。(P136)

 十日正午すぎ、偵察機や連絡機が慌ただしく離着陸する満州の首都・新京の飛行場に着くと、一八〇センチを超す長身の男が滑走路で待っていた。太い八の字の口ひげ。金地に二つ星の襟章。七三一部隊の創設者の軍医中将、石井四郎だった。

 朝枝はつかつかと石井に歩み寄り、声を張り上げた。

「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします」

 石井は背筋をぴんと伸ばし、直立不動の姿勢を取った。

貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください

 石井は母校京大などから優秀な医学者を集め、ハルビン郊外の平房に世界最大規模の細菌兵器開発基地をつくり上げていた。

 朝枝が「細菌学の博士は何人ですか」と聞くと、石井は「五十三人」と答えた。朝枝は「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」と指示した。

「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」

 石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。

「ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね」

 朝枝は、思わず声を荒らげた。(P137)

「何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」(P138)
 


三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 飛行機から降ろされた無法松(「ゆう」注 朝枝繁春参謀)たちが、そこで軟禁状態で収容されたのは、哈爾濱市の副市長の官舎だった。副市長は藤沢某という日本人だった。

 その夜、無法松は、以前から心に重くのしかかっていた第七三一部隊のことについて瀬島龍三中佐に相談してみることにした。もうこれから先に今日のような機会は訪れることはないと考えたからだった。(P334-P335)

「瀬島さん、じつはお願いがあるんですが……」

 いつにない無法松の深刻な表情に、一期先輩の瀬島もきっとなって無法松の口許の開くのを待っていた。

「瀬島さん、……たいへんに口幅ったいのですが、私は大本営から派遣されてきた参謀でありますので、皆さんに対して指示権があると思うのです。そこで瀬島さんに今夜、ここに泊っている関東軍の首脳の全員を集めて戴きたいのですが、……そして合議をやらせて欲しいのです」

「何のことなんだ?」

じつはあの七三一部隊のことなんですが、あれがソ連側にバレたりするとたいへんなことになると思いますので、それについて打ち合わせをしておきたいのです」

 無法松は瀬島の顔を覗き込むようにしながらそう切り出してから、

「ソ連に移送されてから彼らがこのことについて厳しく追及してくることは間違いありません。ソ連がドイツの場合もアウシュヴィッツ収容所などを例にとって戦争犯罪人を厳しく弾劾しているようです。一人ひとりが拷問にかけられて、各個撃破され、それぞれの言い分がちぐはぐになったらえらいことになる。そこでこう訊かれた場合はああ言え、ああ訊かれた場合はこう言え、と語呂合わせをぴしゃっとやっておく必要があります……」と語気を強めた。

 じっと耳を歌てて無法松の説明に頚いていた瀬島は、

「よし」と言うと立ち上がった。

 瀬島も早く手を打たねば、と考えていたのだろう。(P335)

 


三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 関東軍第七三一部隊と呼ばれたこの部隊(正式名は関東軍防疫給水部)は、先の証言のように、「丸太」と呼ばれた捕虜や死刑囚を用いて、各種の細菌による細菌戦の実験・研究を行なっていた。

「これは作戦の目的に使う関係上、作戦(課)が取り仕切っておりました。それで関東軍にいる時は私が担任していました」

と語る朝枝繁春は、そうしたことから絶えずこの部隊に足を運び、石井部隊長やその他から説明を受けて、その作戦計画を練っていたという。

「何故それを考え出したかというと、対ソ作戦で想定されることは、ソ連軍の大戦車軍団と航空機の空陸連合の大兵力が蒙古方面の大平原から満州に向かって怒涛の突進をしてくる。ソ連の作戦計画はそうなっている。しかし、この大兵力に対してはわが方は正直いって防ぐ方法がないんです。

そこで窮余の策として考え出されたのがペスト菌なのです。そして蒙古の一帯にそれを空からばら撒けというわけです。つまりそこを越えて来る奴らはペストで皆殺しにしてしまう。黒死病といって、昔、満州から外蒙古、シベリアにかけて流行したそのペストの乾燥菌、これは猛烈な伝染力がある。そしてこれは蚤が媒介する。例えば、その蚤を一匹、アメリカの空母にボンと落として、それが人間の肌に付けば、乗組員は全部、真っ黒になって死んでしまう。だから黒死病というんです」

 朝枝繁春は当時の状況をそう説明した。(P337)

 ―― その夜、一室に集まって行なわれた「謀議」は無法松がイニシアティブをとる形で深更まで続いた。

 そして、この細菌戦研究に関してソ連の追及があった場合は、次のようなことで口裏を合わせることにした。

「第七三一部隊は、陸軍省医務局の直轄で、関東軍の指揮下には入っていなかった。つまり出先の関東軍の知ったことではない。

 それでも、どこかでソ連軍に捕まった軍医などが拷問にかかってドロを吐かされたりしたら、その類が回ってくる。そんな場合、全く知らないと言うと、却って疑われる。だから、その時はちょっとだけ、例えば、誰それからそんなような話を聞いたことはある、と言い、ではそれは誰なのだ、と聞かれたら、すでに戦死してこの世にはいない者の名前を出すこと。

 彼らはスターリンへの報告書だけ書けばそれで済むので、徹底的に追及するというようなことはしない。ソ連の将兵というのはそういう連中である。……」(P338)



三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 果たせるかな、無法松が危惧していたとおり、シベリアに抑留された後、山田乙三大将以下それぞれ別々に軟禁され、このことについてソ連側の厳しい追及が始まったのだった。ところが誰に訊いても話の辻棲が合っているところからソ連側もそうかということになって、この件は打ち切りになった。

「これで二年間は時を稼げたんです。ソ連側ももっと早く追及の手を打っていれば、極東軍事裁判にこの件を持ち出せたのに、と悔やんでいた筈だ。それにその時は、すでに石井中将以下関係者全員がアメリカのワシントンに連れて行かれ、アメリカがその細菌の研究、ノウハウを全部取ってしまった。(P338-P339)

逆に言うと、アメリカが日本を守ってくれたことになるが、アメリカもまた将来、細菌戦で、ソ連と対抗しなければならないから……アメリカも抜けめないですよ。それはそうと、哈爾濱に一泊していなかったらもう間に合わなかったので、それを考えると、してやったりと思いますよ……」

 朝枝繁春の後日譚である。(P339)
 


近藤昭二『細菌戦部隊の資料と一将校の顛末』

1994.5.28 朝枝繁晴とのインタビュー

 1945(昭和20)年9月5日の夜、ハルビン市の副市長の官舎で、大本営の朝枝繁春作戦主任参謀は「会合をもちたいと思いますので、ご集合願います」と、軟禁されていた関東軍の首脳をひそかに一室に呼び集めた。

 この日、新京でソビエト軍によって総司令部の武装解除をうけ、捕虜となった将官たち約20人がハバロフスクヘ連行される途中、飛行機の給油のためにハルビンに一泊するところだった。朝枝参謀は陸軍中央の工作任務を帯びて急速関東軍に潜り込んでいた。すでにソビエト軍に接収されていた副市長の官舎で、朝枝参謀はこれが最後の機会になるかもしれないと考え、一同の口裏を合わせることにした。

 関東軍総司令官山田乙三大将、秦彦三郎総参謀長、瀬島龍三参謀らの前で、朝枝は大本営派遣の参謀総長特命の軍使という立場で、主導的に謀議をすすめた。

「かねてソ連よりにらまれている防疫給水部―石井部隊のことは必ず調査をうけるでしょうし、内実が発覚すれば国際間題になります。ひいては陛下に……」(戦犯嫌疑が及ぶ)。(P246-P247)

でありますから、あの部隊は統帥系統のものではなく、軍政系のもので陸軍省医務局の管轄下にあり、参謀本部や出先の関東軍司令部の知ったことではないということに。ただ全く知らないといえばかえって疑われる。間接的には聞いたことにして、誰からと訊問されたら、太平洋で死んだ者の名を出すこと……」。

 朝枝は1カ月ほど前の、8月9日の午前4時頃、ソビエト軍進攻の知らせをうけて、すぐにこの731部隊のことが頭に浮かんだという。統帥大権に基づく天皇の勅命によって、国会の承認なしに会計検査院も通さず年間1000万円の国費を費消できる部隊、あの731部隊のことがバレては累は天皇に及ぶ、と。

 朝枝はすぐさま自分で案文を作成し、参謀総長名で石井四郎隊長に電報を打つ。「貴部隊ノ処置ニ関シテハ朝枝参謀ヲ以テ指示セシムルノデ10ヒ新京軍用飛行機場ニテ待機セラレタシ」。さらに陸軍省の交通課長武居大佐を通じて省命令を大連の満鉄総裁に打って、731部隊撤退のための特別急行列車を用意させた。

 朝枝は新京の軍用飛行場の格納庫の中で石井と約1時間立ち話をし、マルタ(被実験者)が何人いるかを訊ね、こまかく指示を出した。全ての証跡を抹消し、マルタは骨と灰にしてトラックで運んで廃棄すること、53名の医学者は部隊の爆撃機で一番に内地へ輸送すること、部隊は下士官兵、看護婦に至るまで1人の遺漏もなく列車で撤退すること、すでに手配済みの149師団の工兵1個中隊によって施設を全て破壊すること、そういう指示だった。

 石井は飛行機で去る間際まで、研究データだけは持ち帰ってはいかんかとくい下がったという。(P247)

(『731日本軍細菌戦部隊』所収)



近藤昭二『細菌戦部隊の資料と一将校の顛末』

 ソビエト軍は東京裁判に訴追するために、731部隊に異様なほど関心を示した。朝枝繁春の記憶にも強く残っているという。

入ソしてまず我々は、黒竜江沿岸にあった共産党高官の別荘に40日ほど軟禁されたが、しつこく明けても暮れても呼び出して、石井部隊のことを訊く。しかし、管轄違いと述べる我々の話の辻棲が合っているので、あきらめたらしく、おかげで(発覚まで)2年は時間を稼げた」(P248)

(『731日本軍細菌戦部隊』所収)



シェルダン・H・ハリス『死の工場 隠蔽された731部隊』

朝枝手記

 もしソ連軍によって平房店のこの部隊が占領された場合には、その累は天皇陛下にも及んで、重大なことになる危険があると私は判断したので、立川より出発する以前に、石井部隊長宛に、参謀総長電として、『今次ソ連の対日参戦にあたって、貴部隊の処置について、朝枝参謀をして指示せしむるにつき、本八月一〇日正午頃、新京の軍用飛行場において待機せらるべし』との暗号電報を、上司の決済を経て発電しておいた

 ついで、八月一〇日一二時 新京第二軍用飛行場に着陸した時には、七三一部隊の石井中将は、飛行機で、平房店より既に到着して待機しておられた。(この期間には専用軍用機を保管しており軍医自らその操縦も出来るし、空港も設けられておった)。

 石井中将に敬礼した後、『貴部隊の今後の処置について、参謀総長に替わり、私が承った要旨を申しげます』と前置きして、

・貴部隊は速やかに全面的に壊し、職員は一刻も早く日本本土に帰国させて一切の証拠物件は、永久にこの地球上より雲散霧消すること。

・このためハルビンの○○○師団より工兵一コ中隊と爆薬五トンを貴部隊に配属するようにすでに手配済みにつき、貴部隊の諸設備を爆破して下さい。

・建物の丸太は、之また、電動機で処理した上、貴部隊のボイラーで焼いた上、その灰はすべて松花江(スンガリ河)に流しすてること。

・貴部隊の細菌学の博士号をもった医官五三名は、貴部隊の軍用機で直路日本へ送還すること。

 その他の職員は、婦女子、子供達に至るまで、南満州鉄道で大連にまず輸送の上、内地に送還すること。

 このために、大連所在の満鉄本社に対しては関東軍交通課長より指令の打電済みであり、平房店駅には大連直通の特急(二五〇〇名輸送可能)が待機させられています。

 以上で終わります。即時実行にとりかかってください』と申し上げた。(P348-P349)

 ところが中将は、私に向かって言われるには、

『ところで朝枝中佐よ、すべてよく分かったが、部隊の今日までの研究成果である世界に誇るべき文献論文は、焼きすてるわけにはいかないが、どうするかね?』

と、まことに呑気なことを仰言るので、私も頭にきて、

『何を仰言いますか、永遠にこの地球上からすべての証拠物件は灰塵にして下さい、でないと大変なことになりますから』

と申し上げたところ、

『よし分かった、君の言われるとおりにやるよ』

と申されて、待機中の軍医中将が操縦する飛行機に乗られて北の方へ飛び立たれた(P349)

(訳者あとがき)


青木冨貴子『731』

 関東軍に見放され辛酸をなめたおよそ一〇〇万を超える避難民に比べると、石井部隊がいかに優遇され、いかに手際よく撤収したか、石井の「1945-8-16終戦当時メモ」(以下、「1945終戦当時メモ」)には、そのディテールが克明に記録されてある。

 ノートの後頁には、八月八日より十四日の「御聖断」まで続く国内の動きが年表ふうに記されてあって、その下の段には部隊の動きが書き込んである。

 これを見ると、神出鬼没で掴みどころのなかった九日からの石井の行動がほぼ姿をあらわしてくる。そのなかには、東京から新京まで飛んできて、石井自身に面会、指示を与えた軍司令官についての記述もある。

 この軍司令官とは、参謀本部作戦課の朝枝繁春主任のことで、これまで朝枝の証言のみで伝えられた両者の面会が、石井側からも確認されたことになる。(P125)

 


青木冨貴子『731』

 その朝、市ヶ谷台の参謀本部作戦課作戦室の机上で仮眠していた朝枝は、ソ連侵攻の報を受取ったときのことを回想録にこう記している。

「私はガバと起き上がって、机上の満州の地図を睨みながら、関東軍、北方軍(北海道)、朝鮮軍(第十七方面軍)、支那派遣軍に対する大陸命(大本営陸軍部命令大陸命) 及びこれに伴う大陸指(参謀総長の指示事項)の起草にとりかかり、大陸命起案用紙に鉛筆で (ボールペンなどは無い時代だったので) なぐり書きして、起草が終ったのはたしか七時だった」 (回想録『追憶』)。

 その起草案をもちまわって、作戦部長や河辺虎四郎参謀次長などを経て、梅津参謀総長のOK印を取り付けたのが九時だった。梅津参謀総長はこれをもって天皇のもとにはせ参じ、この大陸命を上奏した。この大陸命が天皇の命令として発効、最高度の暗号の軍機電報に組み替えられ、各方面の第一線軍に対して有、無線電話で発信下達されたと朝枝は回想録で語っている。(P127)

 


一瀬敬一郎『細菌戦裁判と松村証言』 

 元大本営参謀の朝枝繁春氏は、細菌戦裁判で陳述書を提出し、一九四五年八月十日、石井四郎に対し、七三一部隊の施設を含む一切の証拠物件の隠滅、人体実験用捕虜の焼却処分などを直接指示した旨供述した (死亡により証言できず)。(P340)

(『裁判と歴史学』所収)  



2020.8.30追記

朝枝の「ソ連のスパイ」疑惑について

三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 本稿を書き終えた今年の初め頃、たまたま『文藝春秋』二月号に「瀬島龍三・シベリアの真実−ソ連対日工作最高責任者の証言」と題したインタビュー構成の記事が掲載された。

 その趣旨は、いまだに一部で疑惑を持たれている「瀬島氏のスパイ説」の真実を徹底解明するためのインタビューというものであった。

 筆者はそこで更めて、その頃、瀬島龍三氏とシベリアの捕虜収容所で生活を共にしていた本稿の主人公「無法松」こと朝枝繁春氏は「その目」でこうした事実をどう捉えていたか、その「真相」を少しく補遺することとした。

 この「瀬島龍三スパイ説」や当時の実情を朝枝氏は次のように発言している。

(これはすべて昭和六十一年、ほぼ一年に亘って、文藝春秋専務取締役半藤一利氏がインタビューした一問一答の厖大な量の発言資料の中から筆者が関係箇所を抜粋したものである。なお、このインタビューの中での「壱岐」とは瀬島氏のことを指している)(P341)



三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 「(略)ところが、この男、突然、<ヨウプ・トヤ・マーチ>という言葉を遣った。これは日本の馬鹿野郎という意味です。これは聞き捨てならなかった。

<この野郎! 思い上がるのもいい加減にせい>と、私は遂に堪忍袋の緒が切れた。

 "オレは日本人だぞ! 命令するとは何事だ。なんでオレがお前の命令を聞かなきゃならないんだ"と下手くそながらロシア語でその中佐を怒鳴りつけた。全くアタマにきたね。弱い相手にはますます強くなり、恫喝してくる相手には弱くなるというのが<赤熊>(ソ連人)の習性なのだ。

 すると、急にしおらしくなったその中佐は、内心えらいことになったなあと思ったんでしょう。"スターリンの手前、自分の立場もある。どうかガスパジン(あなた−滅多に遣わない言葉です)、私に協力して欲しい"と下手に出てきた。

 やはりこの男、私が看破していたとおり、ソ連諜報謀略の工作員だった。(P349)
 


三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 沈思黙考の五分間が続いた。 − 私はあらゆる場合を想定して、その利害得失を考えた。(P349)

 "よしきた。よかろう" と私はわざと声を弾ませた

 "ただしどこまでも私の自由意志ということにする。嫌な時は協力しない。気が向いたらやる。……"

 私は考えた。仮に<ニエット(ノー)>と返事したらどうなるか ― 私は抹殺されるに決っている。そんなところまで私に相談しておいて、野放しにしておく手はないんでね。

 この広いシベリア大陸で、一粒の日本人が"消され″ても日本にはわからない。しかも、なんの証拠も情報もなしに私は抹殺される。それで一体、何の意味があるのだろうか。

 私としては、それを逆手に取って生還することだ。日本に帰るためにはあらゆることをしなければならない。これは決して<悪>ではないのだと自分に言い聞かせて割り切った。

 これは保証付きの日本行きの切符じゃないかと私は考えた。私を帰さざるを得ないはずだ。帰さなければ、向うに対して<協力>できないんですから。これは保険付きだ」(P350)



三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 − しかし名前を先にくれるっていうのは面白いですね。

「アサエダなんていう名前は使えないだろう。向うの書類に。……とにかく私は帰らなければならない。シベリアで消されたんじゃそれこそ意味がない。そのためにはどんなことでもやるべしだ。嘘もつけ、そういう糞度胸を決めて、大芝居を打ったわけですわ……」

 − 肚の中では「この馬鹿野郎」と言いながらですね。

「そういうことです。― その中佐は、後に二階級ぐらい進級したでしょう。月給も上がったことだろう。私が"イエス"と言ったことを、彼はすぐモスクワに報告したと思う。

 しかし恐らく現在はラーゲリ一に入れられているかもしれない。なんで日本人に騙されて、ヘマをやったんだと言われてね。(P350-P351)

 恐らくソ連軍の中で厳しい責任を追及されたでしょう。それで監獄にぶち込まれているだろう。これはあくまでも私の想像ですがね。

 まあそういう一幕があったっていうわけです」

 ー そのなんとか中佐は、朝枝さんに、とくに何をやれと命令はしなかったんですか。

「日本に帰ってソビエトのために協力してくれ。ソ連の側に立って何くれと協力してくれ。わが方からも連絡をとるからとかなんとか言ったが、連絡もありゃしない。こちらだってそんなことをする気は毛頭ない。だからそれでこの件はパーだ

 舞鶴に上陸した後で、GHQに全部バラしてやった。GHQのなんとかいう少将がいたな」

 − ウィロビーですか。

「そうそうウィロビー(筆者注=諜報謀略工作G−2の名で知られたGHOの参謀第二部長)にアメリカに非常に信用のあった杉田さん(筆者注=朝枝氏の士官学校八期先輩、当時大佐、アメリカ駐在、参本部員、大本営参謀などを歴任、戦後、陸上幕僚長)を通じて、じつはこんなことがあったが、これはあくまでも方便であって、私は逆手をとって、無事日本に帰ることができた。

 しかし、きっと私を監視する日本人がいるに違いない。それがとかくのことを、日本およびGHOに密告するようなことも考えられる。ソ連は必ずお目付けを付けるんだ。

 そいつが、朝枝はこうだということを言いかねない。そういうことは十分あり得る。そういうことで、先手を打って、じつはこれこれこうなんだと全部告白した。

 ウィロビー少将は、杉田さんを通じて、"ミスター・アサエダはアメリカにとって金鉱のようなものだ"と言ったという。ウィロビーは本当に私を大事にしてくれましたよ。ソ連の実態を知りたかったんでしょうね」(P352-P353)

 − 当然そうですね。(P353)



三根生久大『参謀本部の暴れ者』
 
「服部さん(筆者注=服部卓四郎大佐、フランス駐在、関東軍参謀、参本作戟課長などを歴任、戦後GH
Oでウィロビー少将の戦略顧問を務めた)も『参本切っての当時はソ連通だから、あれはもったいない』と言ってくれて、更めて私に対するイギリスからの逮捕令(筆者注=朝枝氏はイギリスからも戦犯として指名手配され、身柄引き渡しの要求が東京のマッカーサー司令部にきていた。マレー進攻作戦の時のシンガポールでの華僑問題についての罪科が問われていた)もウィロビーを通じて取り消してくれ、天下御免で日本を歩けるようになったんです。

 これも逆手にとったんだ。それで私は、ソ連とイギリスの両方の追及をうまいこと振り切ったのだ」(P352)



三根生久大『参謀本部の暴れ者』

 朝枝繁春氏の周辺には、いまでも瀬島氏に対すると同様に、「シベリア抑留」からその後の「行動」に関して、さまざまな憶測が飛び交っている。

 「朝枝はラストポロフに深く関わっており、ソ連のエージェントになったことによって、わずか四年で帰国できたのではないか」等々、数え上げれば切りがないほどである。

 それに対して、朝枝氏は、前述した「一問一答」にも見られるように、軍使であったことを強く主張し、国際法に悖るソ連側の取り扱いは不当極まるものであるとし、「その不法に対して、正義の下に堂々と闘い、帰国したのであって、いまさら云々される筋合いはない。しかもソ連の諜報活動に協力したなどとは全くの事実無根であって、濡衣も甚しい」と反駁するのである。(P352)

 ただ、朝枝氏のこの「一問一答」(原文のまま)で発言していることが事実と相違ないのであれば、帰国後、直ちに当時のGHOに駆け込み、すべてを告白したということによっても、その「疑惑」 の争点となっているソ連諜報機関との「関わり」は完全に解消されたことになる

 アメリカのCIAがその狭間に躍り出ることになるからである。

 この朝枝氏や瀬島氏の「ソ連の諜報機関との接点」が論じられる場合、どうしてもソ連側だけにスポットライトが当りがちになってしまうのだが、当時、すでに進行し始めていた東西の冷戦構造下にあって、対共産主義諜報活動の強化に力を入れ始めていたアメリカの諜報機関 ー GHQのG−2 (前掲)やCIA(アメリカ中央情報局)の、旧日本軍の高級幹部(とくに作戦関係)に対する「接触」が一方で行なわれていたことに留意する必要がある。

 GHQのG−2がC・A・ウィロビー少将(前掲)の顧問を兼務していた元大本営作戦課長の服部卓四郎大佐を通じて、朝枝氏を「とっておきのソ連通」として優遇したという事実(「一問一答」で朝枝氏自身がそう述べている)は、その頃、すでに水面下で、米ソの諜報合戦がいかに激しく火花を散らしていたかを物語っている。(P353)



生出寿『元大本営作戦参謀 ビジネス戦記』
 
 ある日、こんどは第二十収容所第十六分所にやってきたGPU(ゲー・べー・ウー、ソ連国家政治保安部)の一中佐に、朝枝はとつぜん呼び出され、分所の事務室で取り調べを受けた。

 その中佐は、取り調べの後、米ソの冷戦状態が悪化している情勢を説明し、

あなたはやがて日本に帰ることになるだろうが、そのときはわがソ連に協力してくれまいか

 と切り出した。

 朝枝は「きたか」と思ったが、真っ向から「ニエット(ノー)」と拒絶すれば、抹殺されかねない気配を感じた。

 殺されては愚かなことだし、なによりも日本にかならず帰ることが重要と思い、

「よかろう、話を聞こう」

 と、柔軟に対応した。

 彼の要求は、日本に帰国してからは、ソ連側に必要な情報を提供し、あるいはソ連側の工作に協力しろというようなことであった。

「よし、協力してもよかろう」

 朝枝は従うふりをして、まったく偽りの返事をした
。(P68)



 朝枝はGPU中佐を誑(たぶら)かしたことについて、こう言う。

「ソ連は日ソ中立条約を破り(一方的破棄は可能だが、破棄通告後でも、一九四六年四月までの一ヵ年は有効である)、不戦条約に違反して、その有効期限内に日本に背信的な攻撃をしかけ、侵略してきた。

 私がGPU中佐を騙したことは、道義的になんら非違行為とは思わない。不当きわまるソ連軍による抑留から解放され、日本に帰国するための正当防衛であり、許されるべき方便だと確信している」(P69)




生出寿『元大本営作戦参謀 ビジネス戦記』
 
 朝枝には、生死にかかわる危惧が一つ残っていた。シンガポールにおける華僑虐殺事件で、英軍がGHQに朝枝の身柄引き渡しを要求し、シンガポールで裁判にかけ、死刑に処そうとしていることであった。

 朝枝は、さっそくGHQ・G2顧問の杉田に助言を求めた。杉田は、

「君は参謀本部きってのソ連通だったが、さらにシベリアで四年もの間、ソ連の内部をつぶさに見聞してきた。その君を米軍がむざむざ英国に引き渡し、処刑させるようなことはしないはずだ。(P71-P72)

 君が米国に協力することに同意するなら、僕がG2の責任者に、米国への協力とひきかえに君の身柄の安全を保証することを頼んでみよう」

 と言った。

 朝枝は全面的に米国に協力することを約束した。(P72)



生出寿『元大本営作戦参謀 ビジネス戦記』
 
 昭和二十四年(一九四九)八月下旬か九月初旬ごろ、朝枝繁春は、日系米国人二世のペック・松井米陸軍中尉(両親は新潟県出身のアメリカ移民)が運転するジープに乗せられ、文京区湯島の旧岩崎別邸にあるキャノン機関本部に出頭し、指揮官のジャック・C・キャノン米陸軍工兵中佐と会見した。

 服部、杉田の進言を聞いたウィロビーG2部長が、キャノン中佐に対して、朝枝に会ってみるよう指示していたのである。

 キャノン機関はCIA(中央情報局)東京支部で、ソ連やアジア共産圏に二重スパイ、永住スパイ、特殊工作員などを送り込み、情報を取り、各種工作を行なっていた。

 キャノンは朝枝より二歳下の三十五歳である。

 朝枝は、ソ連のGPU中佐に対してソ連に協力すると言って騙したことをふくめ、満州、ハバロフスクでの体験、見聞を、包み隠さずキャノンに打ち明けた

「日本は米国の占領下にある。日本に対する生殺与奪の権はワシントンが握っている。したがって米軍には絶対嘘をつくべからず」

 という判断からであった。

 数日後、服部と杉田から、朝枝に知らせがあった。

ウィロビーが非常に喜び、ぜひキャノン機関の対ソ問題顧問になってもらいたいと言っている。米軍中佐の待遇をし、英軍が何と言ってきても、絶対に君の身柄は英軍には引き渡さないと言う」

 朝枝は厚く礼を述べ、服部の保証人でキャノン機関顧問になることを承諾した。(P73)



進藤翔大郎『アメリカ国立公文書館(NARA)から見たラストボロフ事件』

朝枝繁春(大本営参謀本部付陸軍中佐)

・RG319 個人ファイルあり

・RG319 ラストボロフ個人ファイルには、「朝枝に関する短いファイルは、朝枝が ZED に 引き継がれる前に CIC ファイルにふくまれている」という記述があるため、アメリカ側のダブルエージェントであった可能性が高い

→RG319 朝枝繁春ファイルには該当の記述なし

→柴山太『日本再軍備への道 1945〜1954 年』 ミネルヴァ書房、2010 年、310 頁 「朝枝繁春元陸軍中佐(当時GHQの二重スパイ)が GHQ に伝えたところによれば、八月一日の共産党幹部との会話で、「高山」(日本帰還者同盟副議長の高山秀夫と思われる)と呼ばれる幹部がソ連からの帰還者による共産党への忠誠は信用できるとし、同党の武装蜂起を示唆していたという」

→RG331 SCAP、Economic & Scientific Section, Miscellaneous Records 1945 to 1952, Box1

・RG319 朝枝繁春ファイルに含まれているのは、ラストボロフ事件発覚後(1954 年 12 月 21 日以降)に作成された史料であり、主に朝枝の戦後(1954年12月10 日)の東南アジ アにおける活動に注意が置かれている

警視庁公安部『外事警察資料昭和 44 年 4 月ラストボロフ事件・総括』 10

「朝枝は大本営参謀本部付陸軍中佐で昭和20年8月19日ソ連軍によって逮捕抑留 された。 彼はソ連側から数回取り調べを受けているうちソ連側の意図を察し帰国したい一心から諜報誓約を行い、帰国のシグナル(合図)、埋没などの訓練を受けて昭和24年8月7日引揚げた。

  引揚直後、教育されたとおり東京世田谷の松陰神社の石燈篭に記号を書き、同月12日には都内の墓場から 5 万円を掘り出し、昭和27年5月19日日本橋の“丸善” 2階で見知らぬソ連人から次回連絡についての指示を受けたがその後の連絡は行われなかった。」

「誓約後の諜報訓練 朝枝は誓約後昭和24年3月14日キリロフ中佐により、南樺太豊原のソ連極東情報 本部に連行され、3月18日から4月13日の間に政治思想の改造教育を受けたほか、
〇諜報活動方法
〇機密情報を無電で送るときに用いる暗号
〇東京における無電操作補助者との連絡方法
〇秘密通信の隠匿および連絡場所
〇必要があって無電技師と連絡する場合の新聞広告、郵便による通信方法

などについても教育訓練を受けた」

→酷似したケースに種村佐孝の場合 Cf. 種村佐孝 (参謀本部第 20 班(戦争指導)班長)





2020.9.12追記


Wikipedia「朝枝繁春」の項には、以下の記述があります。(2020.9.12現在)


1954年(昭和29年)1月27日、駐日ソ連大使館のラストボロフ二等書記官がアメリカに政治亡命する「ラストボロフ事件」が発生。ラストボロフはソ連の日本における諜報活動の元締めであり、同年8月にアメリカはラストボロフの自白により、日本でのソ連の諜報活動の一端を発表した。このニュースが日本の新聞に掲載された際に、朝枝と志位正二が「自分はラストボロフに協力していた」として警視庁に自首している


 Wikipedeiaではその出典を「保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』」としていますが、この本を確認したところ、実際には該当箇所は、松本清張『現代官僚論』の内容を紹介した部分でした。

 以下、松本本の該当部分を紹介します。ただし松本の記述には出典が附せられておらず、どこまでが事実なのかは判然としません。


松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 内閣調査室には、いわゆるソ連通や中共通の元軍人が室員または嘱託(ペーパー職員と称する)として採用されていた

 前記の押田機関で知られている押田少佐をはじめ、辰巳中将、久住、種村大佐といった旧将校連をもちい、またロシア班だったかにいた志位少佐、浅枝(「ゆう」注 朝枝)少佐なども使っていた

 またソ連帰りの外務省出向室員日暮伸則(欧米局勤務)、庄司宏(国際協力局勤務)、高毛礼茂(経済局勤務)などはそれぞれ内調に協力してソ連の事情についてレポートを書いている。(P25)

(文藝春秋社、1966年8月)


松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 二十九年一月二十七日に駐日ソ連元代表部のラストポロフ二等書記官がアメリカ側機関に逃亡した事件が起った。

 元代表部では逸早く束京警視庁にラストポロフの失踪届けを出したが、ラストポロフの自供がアメリカ国務省から発表されたのは七ヵ月後八月十四日の記者会見の席上であった。

 発表の要点は、「ラストポロフ二等書記官はソ連内務省所属の陸軍中佐で、日本で情報活動に従事していたが、自発的に米当局に保護を求めてきたものである。若干の日本人がラストボロフと関係がある。その中で自首した者もいる。しかし、日本政府高官は関係していない」(新聞報道)といったものであった。(P25-P26)

(文藝春秋社、1966年8月)


松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 ラストポロフの脱出は、それが自主的なものであったか、または一部で伝えられているようにアメリカCIA側からの誘いの手がかかっていたかは知る由もない。

 当時事件にたずさわった柏村信雄(元警察庁長官)も米国に出張し、ラストポロフを直接に調べたことになっているが、取調内容についてはっきりとした言明はしなかった。

 若干の日本人がラストポロフと関係があったという自供発表は日本側に大きな衝動を与えたが、これがアメリカから打電されて日本の新聞に発表されたとき、素早く警視庁に関係者として自首して出たのが志位少佐である。

 当局の捜査が発動してからならともかく、新聞記事を読んで逸早くラストボロフの協力者は自分であると名乗り出た志位元少佐の行動は不可解だ。

 つづいて前記の浅枝元少佐も同じく自首した。しかし、この二人がラストポロフといかなる協力をしていたかは遂に具体的に公表されなかった。(P26)

(文藝春秋社、1966年8月)


松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 ところが、それから数日経って、警視庁公安三課では外務省の高毛礼茂を自宅で逮捕、つづいて日暮伸則と庄司宏を逮捕した。

 彼らはいずれもラストポロフに日米関係の機密事項を流して国家公務員法違反に問われたのであった。

 この三名のうち日暮は、長谷検事が取調べているとき、隙をみて地検の窓から中庭に飛び降り自殺した。

 高毛礼と庄司とはその事実のないことを主張し、庄司は身分保障の行政訴訟まで起している

 だから、この三人が果してラストポロフに外務省の機密文書等を閲覧させ、秘密を洩らしたかどうかは現在まで真相が分っていない

 しかし、たとえその嫌疑があっても、日本には秘密保護法がなかったので、三人は国家公務員法違反として起訴するよりほかなかった。(P26-P27)

 ラストポロフ事件については私なりの推測はあるが、真相は不明のままとなっている。

 ただ、既述のように、ラストポロフの供述がはじまったという日本の新聞記事を見てすぐに警視庁に自
首したのが内調関係の軍人二人であり、さらにソ連代表部の情報将校と連絡を持っていたという疑いで逮捕されたのが同じく内調関係の外務省出向役人三人であったという事実ははっきりしている。

 これから考えて、当時の内調がアメリカの情報機関と協力していたか、又はアメリカ側の示唆をうけてソ連代表部に接近を試みていたかしていたことは否定できないようである。

 内調のCIA的活動といえば、これがただ一つ世間に洩れた代表的な動きであった。(P27)

(文藝春秋社、1966年8月)


松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 また鳩山首相がソ連と国交を回復するきっかけとなったドムニツキー親書についても内調は調査に一役買っていたらしい。

 ドムニツキー親書の事件当時は、鳩山首相や河野一郎の周辺まで尾行がついたといわれるが、内調も独自の動きをしていたと思える。

 ところが、この動きも内調の縄張争いに利用され、誰が書いたか分らぬが当時、二つの怪文書が出された。

 一つは、斎藤国警長官、杉原防衛庁長官らと親交のある元外務省嘱託馬場祐輔はソ連の秘密工作員であって、同人におどされてドムニツキー親書は鳩山首相に手渡されたという趣旨だ。

 もう一つは、大陸帰りで、海上保安庁から調査室に出向している某調査官と、調査室嘱託で、元参謀本部戦争指導班長、朝鮮軍参謀の某陸軍将校がラストポロフの配下であるという趣旨である。

 本人の否定にも拘らず怪文書の火元は肝付であろうと巷間噂されたものである。(P27)

(文藝春秋社、1966年8月)


松本清張『現代官僚論3』 第八部 内閣調査室編

 この元参謀本部戦争指導班長というのは種村佐孝大佐のことで、内調が調べた種村の履歴では、彼は三重県出身で、陸大卒、戦時中は参本第一部作戦課指導班長、敗戦間際に朝鮮軍参謀として北部地区の戦況視察に赴き、ソ連軍の捕虜となった。

 エラプカ俘虜収容所に送られ、共産党員に転向、ゲー・ペー・ウ一に協力、日本人の自治委員長、いわゆるアグチヴとなる。

 他の日本人十名と共にモスクワに送られ、第七〇〇六俘虜収容所で特殊訓練を受けた。

 この第七〇〇六悍虜収容所とは、俘虜中最も共産主義に対して思想堅固の者を抜擢し、日独両国の共産革命の準備工作に関する機密要員を訓練する特殊学校であり、ここに収容された者は俘虜であってもソ連市民と同待遇を与えられた。

 この収容所にいた日本人は総計十一名であるが、氏名確認ができたのは種村、志位、浅枝、瀬島竜三(現伊藤忠商事専務)らであったという。

 種村は昭和二十五年一般俘虜と共に舞鶴経由内地に帰還、昭和二十八年内調に出頭を命ぜられ、防衛班機密事務所に週二回出頭し、ソビエト関係の情報提供に当っていた。

 このとき第七〇〇六俘虜収容所の日本人俘虜に対する教官がラストポロフG・P・U中佐だったというのである。

 そしてラストポロフ事件ののちの調査によれば、志位元少佐の前住所と、種村の前住所とが隣合わせであったことが判明、ラストポロフ自身は助手を志位の自宅前に派遣して連絡に当らせていた。 ― これが種村に関する肝付の調査内容だという。

 この調査が当っているかどうかはわれわれには判断ができない

 しかし、指摘できることは、ラストボロフ事件には少なくとも内調が何んらかの役割を持っていたと考えられること、さらに、この事件を内部撹乱策に利用した室員がいたということである。(P28-P29)

(文藝春秋社、1966年8月)

(2015.12.6) 


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