インタビュー 井本熊男
七三一部隊
―― 陸軍、特に参謀本部の作戦課は七三一部隊(石井部隊)の研究を積極的に支援してその成果を作戦に利用しようと考えていたんですか。
「実際(研究が)やられていても、本当に効果があるだけの(実戦の)準備はできてなかったね。私が参謀本部に着任したのは大尉時代の昭和十年(一九三五年)でした。石井(四郎)部隊長というのは陸軍軍医学校付でもあった。『石井との連絡は君がやれ』と言われ、担当することになった。石井部隊の本当の役割は戦場に給水することで、これは非常に役立った。
それとは別の特殊目的が細菌兵器で、参謀本部がそれを利用するようになった。もともと参謀本部が指示したのか、石井の方から積極的に持ってきたのか、仕事の沿革を歴史的に書いたものを、着任してからいろいろ調べたが、はっきりしなかった。(P354-P355)
だが、私がタッチした範囲では、初めから作戦課なり参謀本部全般として石井部隊に細菌兵器の研究を命じたのではない。石井部隊が研究したものを利用する、そういう成り行きから事は始まった、という印象を私は受けました。
作戦上使うのは参謀本部になるが、参謀本部の中で秘密が保たれるのは作戦課だから、作戦課がやれということに決まったと思う。それで石井部隊の連絡指導は作戦課がやる。私がその担当になった。
着任したばかりの一年間は私は部員じゃなく練習生みたいな感じでした。当初は作戦課は人数が少なかったんです。私はその後、昭和十一年の終わりに部員になったが、その間、石井部隊との連絡係は一番下級者の私がやった。
相手の石井部隊長は大佐だったが、その石井さんと話をするのは参謀本部の一番へっぼこで決定権も何もない、そういう人間が連絡をして、その結果を作戦課長に報告する。必要な事は作戦課長から作戦部長に、連絡者の本人もついて行って連絡する。必要なことは総長まで内輪で上申する。そして決定する。決定した事を(石井部隊長に)伝えるのは連絡者の私か、作戦課長だった。
参謀本部がこの間題を重視して、時には総長も石井部隊長と会って話すことまでやったかというと、それはなかった。だから(参謀本部は)あまり(細菌兵器開発に)積極的ではなかった。国際的にはどこの国もやっとるけども、表向きは条約で生物兵器は造らないということになっとる。あまり気持ちのいいものではない。
連絡は積極的ではなかったですね。成果が表れれば作戦上いざという時に使おうということはありますが。
私は支那事変のあった昭和十四年の暮れから十五年の十月まで十カ月、支那派遣軍の参謀として派遣された。(P355-P356)
着任してからその時代までの間の参謀本部は、石井部隊の研究に対し、これやれあれやれという指導命令したことは全然ないんです。ただやってもよろしいということと、費用が相当要るのでその費用を取るような基準をある程度決めてやっただけ。
石井部隊は参謀本部の認可を得た範囲で陸軍省と連絡を取る。私は束京でも現地でも石井部隊との連絡をやった。
支那に行った時の(作戦)課長は公平(匡武)大佐だった。彼は支那での石井部隊の研究に直接(口を)はさまず私に連絡させた。石井部隊の内容はこちらから指示したことも命令したこともない。石井部隊のやることは研究である、こっちはその認可だけをやっとるということだった」(P356)
(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収) |