インタビュー 井本熊男
インタビュー 井本熊男


共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収

1995年7月―9月

インタビュー 井本熊男

  七三一部隊

―― 陸軍、特に参謀本部の作戦課は七三一部隊(石井部隊)の研究を積極的に支援してその成果を作戦に利用しようと考えていたんですか。

「実際(研究が)やられていても、本当に効果があるだけの(実戦の)準備はできてなかったね。私が参謀本部に着任したのは大尉時代の昭和十年(一九三五年)でした。石井(四郎)部隊長というのは陸軍軍医学校付でもあった。『石井との連絡は君がやれ』と言われ、担当することになった。石井部隊の本当の役割は戦場に給水することで、これは非常に役立った。

 それとは別の特殊目的が細菌兵器で、参謀本部がそれを利用するようになった。もともと参謀本部が指示したのか、石井の方から積極的に持ってきたのか、仕事の沿革を歴史的に書いたものを、着任してからいろいろ調べたが、はっきりしなかった。(P354-P355)

 だが、私がタッチした範囲では、初めから作戦課なり参謀本部全般として石井部隊に細菌兵器の研究を命じたのではない。石井部隊が研究したものを利用する、そういう成り行きから事は始まった、という印象を私は受けました。

 作戦上使うのは参謀本部になるが、参謀本部の中で秘密が保たれるのは作戦課だから、作戦課がやれということに決まったと思う。それで石井部隊の連絡指導は作戦課がやる。私がその担当になった

 着任したばかりの一年間は私は部員じゃなく練習生みたいな感じでした。当初は作戦課は人数が少なかったんです。私はその後、昭和十一年の終わりに部員になったが、その間、石井部隊との連絡係は一番下級者の私がやった。

 相手の石井部隊長は大佐だったが、その石井さんと話をするのは参謀本部の一番へっぼこで決定権も何もない、そういう人間が連絡をして、その結果を作戦課長に報告する。必要な事は作戦課長から作戦部長に、連絡者の本人もついて行って連絡する。必要なことは総長まで内輪で上申する。そして決定する。決定した事を(石井部隊長に)伝えるのは連絡者の私か、作戦課長だった。

 参謀本部がこの間題を重視して、時には総長も石井部隊長と会って話すことまでやったかというと、それはなかった。だから(参謀本部は)あまり(細菌兵器開発に)積極的ではなかった。国際的にはどこの国もやっとるけども、表向きは条約で生物兵器は造らないということになっとる。あまり気持ちのいいものではない。

 連絡は積極的ではなかったですね。成果が表れれば作戦上いざという時に使おうということはありますが。

 私は支那事変のあった昭和十四年の暮れから十五年の十月まで十カ月、支那派遣軍の参謀として派遣された。(P355-P356)

 着任してからその時代までの間の参謀本部は、石井部隊の研究に対し、これやれあれやれという指導命令したことは全然ないんです。ただやってもよろしいということと、費用が相当要るのでその費用を取るような基準をある程度決めてやっただけ。

 石井部隊は参謀本部の認可を得た範囲で陸軍省と連絡を取る。私は束京でも現地でも石井部隊との連絡をやった。

 支那に行った時の(作戦)課長は公平(匡武)大佐だった。彼は支那での石井部隊の研究に直接(口を)はさまず私に連絡させた。石井部隊の内容はこちらから指示したことも命令したこともない。石井部隊のやることは研究である、こっちはその認可だけをやっとるということだった」(P356)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― 細菌兵器は中国で実戦に使用されていますが。

大東亜戦争が始まる前、石井部隊が支那で実際にべスト菌その他をまいた。成果があったと言わなきゃ次にカネのかかることはできないから、石井部隊としては相当成果があったと言った。

 私の観察では、石井部隊が満州あたりでウサギを使って試した時には非常に成果が上がるけれども、本当の細菌だけを飛行機でまいて支那事変に使ってみたら、そんな成果は実は上がっていないんじゃないか。

 一番の問題は、揚子江をさかのぼって岳陽という町から湘江を南に下ると長沙という所がある。そのすぐ西に常徳という所がある。そこが石井部隊の目標だった。そこでペストが大流行して支那が困ったという情報があった。

 ところがそのやや後、常徳を含む地域で作戦をやった。その作戦部隊はペストがはやったという情報を全然つかんでいないんです。部隊に対する被害も何もなかった。(P356-P357)

 そういうことから石井部隊の飛行機による実戦的な試験はあまり効果を上げていない、私はそういう印象を持った。

 石井部隊と連絡していたが、実際にどうやって細菌を落とすかなんて見たことはないんです。それが私のタッチした支那事変までの範囲のことです。

 ある程度石井部隊の要望を認めて試験をやらせた。しかし本当の実戦的な効果は上がっていないというのが私見です」(P357)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― 太平洋戦争で細菌兵器を使おうという考えは参謀本部になかったんですか。

「大東亜戦争の戦争計画には石井部隊のことは一言半句も書いてない。秘密上書かなかったんじゃなくて、大体(参謀本部の)考えの中に入っていなかった。昭和十六年暮れから十七年の五、六月ごろまでは作戦は順調にいきました。石井部隊を使おうなんて考えは全然ない。

 (石井部隊を使おうという)考えが起こったのはガダルカナル戦です。私も途中から第一線に行きましたけれど、非常に苦労してヘンダースン飛行場が取れない。そこで使ったらどうかというような話が出たと思う。

 私が作戦日誌に書いて問題になったことがあるんですが、ガ島とかフィリピンに使いたいという希望の声がどこかから出てきた。それを帳面に書いただけで、実際に使う計画もなければ、実際の使用もしたことはない」(P357)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― 陸軍省、参謀本部では細菌兵器使用についてどのような意見があったのでしょうか。七三一部隊を積極的に支援し、その成果を作戦に利用していこうという考え方が主流だったと考えていいのでしょうか。

「私は昭和十七年暮れに第八方面軍に行ってからは参謀本部作戦課の仕事をしたことはないが、陸軍大臣の秘書官の時、同時に作戦課の部員になった。秘書官で作戦課の部員であったのは私が初めてだった。(P357-P358)

 大臣は、自分の秘書官が作戦課の部員だと内情がいろいろ分かる。しかし秘書官は忙しいので作戦課の仕事の内容や結果、出先から来る報告電報は見られるんですけど、仕事そのものや、その中で石井部隊の話がどういうものであったかは分からん。だから結局、昭和十七年の暮れに作戦課を出て以降はこの問題には全然触れていないんです。

 ところが(陸軍省医事課長の)大塚(文郎)備忘録にも書いてあるように、(細菌兵器を)使いたいとの希望はいろいろ来る。それを陸軍大臣まで言うのはやはり難しいので、秘書官の私のところに来て『お前、秘書官だから大臣に言ってくれ』 というような要求はずいぶんありました。参謀本部からのこともあったし第一線からの希望を取り次いだこともある。石井部隊の希望もあった。フィリピンとかオーストラリア、ビルマとかいろいろな所に使いたいと。

 ところが東条首相兼陸相は、この話をすると非常に機嫌が悪いんです。秘書官もよほどの理由がないと、時機をうかがわなければ切り出せない状況だった。『どこどこからこういう希望が出ております。どうされますか』と幾つか報告したけど東条さんは 『うん、うん』と言うだけで後は絶対に返事しない。いっぺんも返事したことがない。結局東条さんはやらないつもりだな、と思ったんです。

 大塚メモにもあるように、陸軍大臣にも参謀総長にも秘密で報告せずにやろうとした時に、東条陸軍大臣の耳に入って、『おれは陸軍大臣であり総理大臣であり、同時に参謀総長である。これ以上のすべてのことについての責任者がおるはずはない。おれが責任者だ。その最高責任者に黙って事をやるなんてけしからん』 と怒られた。(P358)

 そういうことで、その最高責任者が、報告を受けても返事しない。ということは反対だということだった。大東亜戦争では使いたいという案はいろいろあったけども、結局使うのは許されなかった。同時にそれを使えと言った時に効果のあるだけのことができたかというと、さっき言ったように、米国や英国に村してそれだけの効果のある準備はできていなかったのが実情だと、私はみている。

 石井部隊が自分の近所で小さな試験をやった。それは百パーセント効果がある。しかし実戦的には効果は上がってない。

 そこでさっきの質問に戻ると『陸軍省、参謀本部ではどのような意見があったのでしょうか、七三一部隊を積極的に支援、その成果を作戦に利用していこうという考え方が主流だったと考えていいか』ということですね。

 大体これでいいんですがね。どうも実際は積極的に支援してはいなかった。大塚メモには、実際には相当積極的だったと書かれているけど、積極的と言うことは消すと、後はその通りです。この間題については大塚君とか、皆それぞれの考えを持っとるだろうと思う。相談したことはありませんけど、私の考えは今申し上げた通りです」(P359)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― 資料(「決戦兵器考案に関する作戦上の要望」)を見ると「決戦兵器」として細菌兵器が重視されているようですが。

「本当に役に立つなら利用するのはいいことだ。どこの国でも皆やっとることで公然の秘密ですから、ほかの国にひどい目に遭うことがないように準備だけ積極的にしておこうということだった。

 石井部隊の利用について、課内の作戦会議で話し合ったことはない。連絡者が直接課長に報告して、必要なことはもちろん課内にも説明はしたんですが、それについて課内で審議したことはありません」(P359-P360)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― 七三一部隊は戦力としてどう評価されていたのですか。

「石井部隊の評価は人によって違うと思いますね。私は、将来は役に立つかもしれんが、まだ本当の成果はないという感じを昭和十四、五年の当時は持っていました。他の人も大同小異じゃないかと思うんですけど、聞いてみないと分かりません。

 大塚メモには裏芸とあるが、大して効果のあるもんじゃない。石井部隊は戦争そのものを左右する効果を持つ部隊じゃないと思っとったんじゃないかな」

―― ガダルカナル戦の作戦計画に七三一部隊が入っていたという事実は?

「ありません。それは石井部隊に期待してないということもありますが、極秘の問題だから書かなかったという点もあると思うんです。その両方です。要するに、これが作戦上非常に有効な手段であるという判断をしていたら、作戦計画に書いたと思う。作戦計画そのものは非常に秘密ですからね」

―― 陸軍上層部は七三一部隊の実情は知っていたのでしょうか。

「これは相当に実情を知っていたと思う。参謀総長、陸軍大臣が満州に行って平房の石井部隊を見たこともあったと思う。私の連絡は必ず上まで行っている。だから知ることだけは知っていて、東条総理なんかは 『これは使っちゃいかん』と決心したんだと思う」

―― 七三一部隊に研究内容の具体的な指示はしていたんですか。

「そういうことはなかった。ある示唆を与えて、それに基づいて研究しろとか、あの研究をどう利用するとか、作戦計画に組み込むとか、そういう連絡は全然してない。世間で考えているようにはこの問題は重視していなかった」(P360-P361)

―― 資料(「大塚備忘録」)によると井本さんは七三一部隊の予算要求をしていますが。

「石井部隊の要求をどれだけ認めるかは、やはり参謀本部の方が主導権を握っているから石井部隊の思う通りに予算をもらうことはできなかった。編成も大きくできなかった。石井部隊の要求通りに予算を計算したのが(資料にある)私の案だと思います。カネをいくら出すかの計算は陸軍省の軍事課がやる。だから、参謀本部と陸軍省が決定権を握っている。石井部隊は要求を出して認められた範囲で仕事をする、そういうことなんです。最後の決定権は陸軍省が握っていると言ってもいい」(P361)


(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― 開戦当時の杉山(元)参謀総長は七三一部隊をどう考えていたんでしょうか。

「まあ杉山さんは、下の方から持ってきたものを認める度合いが東条さんよりも寛大だった。東条さんは人が何と言おうと自分の意思で決める。杉山さんは上を尊重する。私はこの問題で杉山さんにいろいろ報告した記憶はありませんね。

 東条さんは、国策として天皇のお許しを得なきゃならん決定については、必ず事前に『こういう必要を今考えている。いずれ決定の段階になったら正式に上奏する』と予告するんですよ、天皇に。これは全くの私の類推的想像ですが、東条さんは事前に申し上げていたんじゃないか。天皇はガスとか細菌の使用には反対だったろうと私は思います」

―― 天皇自身の言動はどうでしょうか。(P361)

「天皇の言動ですか? それは分かりません。天皇のお考えを東条総理が自分で判断しての自主的決定だろうと思います」

―― 天皇は毒ガス兵器に反対していたという記述がありますが。

「私はこの問題は、東条首相の言動から(判断したの)ではなく、一般的にだれでも考える、天皇はこういうことに反対であろう、人道的に外れたことは嫌いであろうという判断からだと思います。当時の国民の大多数は、天皇の考えをそういう風にみていたと思います。細菌やガスの使用など人道に反したことは天皇はお嫌いだという一般的な想像が根底にあったと思います。取り扱ったわれわれ本人があんまり気持ちのいい問題じゃないんだから」

―― 「決戦兵器」に関する作戦課の要望書をご覧になった感想は。

「新しい効果を発揮するものを造ろうという考えが主だったと思うんですよ。米国の原爆のようなものならいいけど、こんながらくたを集めるような、幼稚なことを考えるなあ、とこれを今見て思うんですよ。この中で石井部隊のことを書いてある。でも重視しとったからじゃないんですよ。『石井部隊も将来もし役に立つことがあれば、成果を上げるだろうから入れとけ』ということだったと思う。だから石井部隊に期待を大きくして書いたんじゃない。この実は優秀な案じゃないですから。

 (一九四二年)八月十五日というと、ガダルカナル戦が始まってから一週間ですか。そのころ作戦課はガ島があんなことになるとは考えていません。作戦課長と部長は、海軍が太平洋を管理するんだから陸軍はやることないから支那で大作戦やろうと、そのことばかり考えていた。

 書類の中の、上にみな判子押してるのは、幼稚なことであまり良い案じゃないけど、これを決めるためにわれわれみな集まって作戦課で課長以下で審議したんです。審議したわれわれが同意だという連帯のサイン。この書類をどう扱ったか、最後までは私は知りません。(P362-P363)

 作戦部長で止まっとるね。本当はこれが通って一つの成案になつて、他の穴がみな埋まっとらにゃいかん。起案者と同じ立場にあって審議しない問題は回覧で読んで、反対がなければ全員が承認しとったんです。それに伴う責任も生じる。もしこれが問題になって裁判になった場合はみな責任がある。だから責任を背負った重い意味のサインと判子です。でも、これそのものをどう扱ったかは記憶がありません」(P363)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


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―― なぜ中国で細菌兵器の実戦使用や人体実験をやったのでしょうか

戦争をやってるんだから目をつむるというのが当時の考えだった。戦争は非人道を伴うからやむを得ない。日本は中国を支那と軽視していた。日清、日露戦争が終わった後、非常に弱い国という印象が与えられるような教育を受けた。細菌や毒ガスを使うことに大きな罪悪感を持っていなかった

 あのころと現代では雲泥の差がありますね。支那の要人、今考えるとあんな偉い人を、と思うような人を捕まえて面と向かって『われわれはあんた方を人間と思っちゃいないんです』と平気で言うような人間がおるんです。そのくらいの思想を持っておった。

 (だから)こういうことを試験的にやることに罪悪感を持っていなかった。それが事実です。時代思想というものを抜きにして、常に現代の思想をもって過去を判断したら非常に難しい問題になる。マレーシアの大統領が日本の今の首相に言ったように 『五十年前のことを言うのは間違いである』、それが世界的な常識だと思うね。これを直さんと日本は普通の国にならんような気かしとるんです。列国並みの思想に直さないと本当の国際政治はできないと私は考えます。(P363-P364)

 私はニューギニアとかガ島、最後は広島で悲惨な状況を経験したんですが、できるなら戦争はやっちゃいかんですね。戦争してる時は、しようという気はあったんですけども。原爆とか細菌とかは撤廃しなければいかん。しかし一方で私たちは、一度生まれた武器は、それが細菌兵器であろうと原爆であろうと絶対になくならない、と思う。それは一つの鉄則であるような気がする。

 仮説ですけど。石ころ投げたり、梶棒でたたき合いした時代から(始まって)火薬が発明され、大砲、鉄砲、今は原爆までできたが、一つとしてなくなったものはない。なくさにゃいかんという議論はあるが、絶対なくならない。むしろ原爆があることによって平和が保たれているという事実もあるわけですね。人間世界が千年後にはどうなるか知らんけれども、見通し得る範囲では現状の武器はなくならない。

 国と国は仲良く手をつなぐ面もあるけれども、争う面の方がむしろ強い。そういう状況は数百年は変化することはなかろうという感じがします。未来のことは分からんが、過去を見れば大体将来のことは分かるような感じがします。あんないやなことがなくなれば一番いいけども、なくなることをみな願っているけども実際はなくならない。これが現実だろう」(P364)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


インタビュー 井本熊男

―― 天皇は七三一部隊について上奏を受けていたのでしょうか。また東条首相が七三一部隊の実戦使用に否定的だった理由は何でしょうか。

「戦争当時、軍からどの程度石井部隊について正式に上奏があったか見当がつかんが……石井部隊のことは大体真相をご存じであったと思う。(四二年四月十八日)ドゥリットル(B25爆撃部隊)の(東京)爆撃がありましたな。あの時(捕虜となった)一部の人間を処刑したが、あの処刑は誤りだったと東条さんは後で考えたらしい。だから戦争法規は守ろうという気持ちがその後だんだん強くなったんじゃないか。(P364-P365)

 後で戦争裁判で処罰されるからという考えではなくて、戦争法規を積極的に守ろうと思った。戦争裁判で自分を弁護するような考えは一つもなかった。日本は負ける、負けたら痛い目に遭うから無理しちゃいかんというような考えはなかっただろうと想像するんです。

 (東条さんは)ドゥリットルの処刑が端緒になって、だんだんと戦争法規でこういうことをしちゃいかんということになった。それは日本の総理として、日本の態度として守るべきだという考えが強くなったんだろうと想像するわけです。

 善意の想像だけども、あの人はそういう考えの相当強い人だった。国際法規の遵守を積極的に考えておったとみて間違いないんじゃないかと思います。言うなれば、天皇の考えを遵守しておったですね。天皇がそういう考えだと思って、自分も遵守しょうという考えが強かったと思います。

 当事者は理屈を付けて『原爆を落とさなきゃならなかった』と言うでしょう。私も支那に対し石井部隊の実戦的所見を踏まえてと、自分としてはそう考える。米国も原爆については当事者はそう考えたでしょう。一般の人は何てむごいことするかと思うでしょうが。

 広島の死体も間近で見ました。惨憺たるものでした。人間というのはひどいことするものですね。私のおやじも日露戦争で戦死したんですが、私も戦争中、いずれかの日が自分の命日だと思っていたんですけど、とうとう命日に合わなかったんですよ」(P365)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

「世界戦争完遂の為決戦兵器の考案を要望す」

 東京の防衛庁防衛研究所図書館に残る書類の冒頭にはそう書かれていた。参謀本部作戦課が作成した「決戦兵器考案に関する作戦上の要望」書だ。

 日付は南太平洋のガダルカナル島で米軍の反攻が始まった直後の一九四二年八月十五日。主任課長欄に作戦課長服部卓四郎の押印があり、瀬島龍三ら参謀四人の印も欄外に残っている。

「決戦兵器とは決勝を求むる兵器の意にして敵の各種攻撃法を制し或は敵を奇襲攻撃して常に敵の技術的手段を陵駕し適切なる運用と相俟て戦闘に於て最後の勝利を獲得せんとするものなり

 従て差し当り航空機、戦車、火砲等現用兵器に於て敵に一歩先んずる如き大威カのものを考案することも極めて緊要にして之に対し大なる努力を払ふべきは固よりなるも

 敵の未だ企図せざる奇襲刷新兵器を創案し現有兵器を無価値たらしめ以て一挙に勝を求むる方策に関しても亦深く研究を要望する次第なり」(P147)

 要望書の中で作戦課は「神経戦兵器」や「敵性民族剿滅兵器開発」のため七三一部隊の「拡充、改善」を再三強調している。(P147)

 「決戦兵器考案の為には従来の型に捉はるることなく広く衆智を集むるを要すべく、能ふ限りの人と金と施設とを動員し、可及的速かに之を完成するを要す

 従つて単に陸軍関係のみならず海軍並民間技術界を大同的に統合し且之に為し得る限りの予算と物並施設を与へ、今日の世界戦争に応じ得しむるを要す」(P148)



共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

 一九四四年四月下旬、東京・市谷にある陸軍省の大臣室。東条英機の怒りはすさまじかった。
    −
「けしからん。おれは陸軍大臣であり総理であり参謀総長だ。すべてのことについてこれ以上の責任者はおらん。そのおれに黙ってやるとは」

 東条が激怒したのは陸軍省医務局長、神林浩の報告などから、七三一部隊による細菌戦計画が進行しているのが分かった時だ。

参謀本部作戦課は東条さんに内緒でシドニーやミッドウェー、ハワイなどにべスト菌攻撃を行おうと計画していた。それが東条さんに知られてしまったんだ」

 当時、陸相秘書官だった井本熊男が振り返る。米軍は既に南太平洋を制圧し、日本軍の中部太平洋の拠点サイパン島に迫っていた。

 作戦課は戦局転換のため米軍などへの細菌攻撃を計画した。だが毒ガス使用に反対した天皇は細菌兵器も許さない見通しが強かった。作戦課は陸軍省の医務局と連携し、天皇や東条に内緒で準備を進めた。(P148-P149)

 当時の作戦課側の発言が元医事課長、大塚文郎の備忘録に残っている。

ガス(毒ガス) 陛下は不可で許されぬ。局長(医務局長)は上奏せぬが可と言はれた、参本(参謀本部は)上奏せぬ事に決定した……総理大臣にも言わぬ方が可

 井本が言う。

「これ以前にも参謀本部や七三一部隊からフィリピンやオーストラリア、ビルマ戦線などに使いたいと要求があったが、東条さんは七三一の話が出るといつも非常に機嫌が悪くなった。『うん』 と言うだけで絶対に返事せず、結局許さなかった」(P149)



共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

 東条はなぜ細菌兵器使用に否定的になったのか。その謎を解くカギは四二年四月、ドゥリットル米軍中佐らのB25爆撃機による本土空襲だ。乗員八人が日本側捕虜となり、うち三人が銃殺された。

東条さんは処刑は誤りだったと後で思うようになり、それから国際法遵守の考えに変わった。その背景には天皇の姿勢があったと思う。東条さんは天皇の考えを忠実に守ろうとする人だったから」

 昭和天皇の「姿勢」を『大本営機密日誌』 はこう伝えている。

 「(昭和) 十七年五月六日……さる四月十八日帝都を急襲した米機搭乗者のうち一部のものはわが方に俘虜となりその後取調べを受けていたが、この俘虜の処置については、部内の一部に血気に逸って厳罰に処すべしとする意見が動いていた。(P149-P150)

陛下には、これがお耳に達したのであろう、本日『俘虜は丁寧に取扱いせよ』 とのお言葉を、蓮沼蕃侍従武官長より次長宛に伝えられた。

 敵地に捕えられた日本の俘虜や外地にある同胞の身を特にお心にかけさせ給うたのであろうか……。

 しかし、実際に動きつつあった省部内の空気は、ごく一部のものに圧せられて、全くお心に反する方向に向かいつつあるのは、遺憾である」(P150)




共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

 対米戦で参謀本部は細菌兵器を実戦に使えなかった。だが、中国戦線では四〇−四二年に揚子江南側の寧波や常徳などで上空からペスト菌やコレラ菌をばらまいた。

 その後、細菌兵器が実戦に使われた記録は見つかっていない。細菌感染の媒体となるノミ、ネズミの不足や、輸送のための航空機不足も一因だった。井本が言う。

「戦争というのは非人道的行為を伴うもので細菌兵器使用もやむを得なかった。中国で使ったのは、当時日本人は中国を『非常に弱い国』と軽視する教育を受けていたという事情もあった。この二点から大きな罪悪感を感じなかったんだ」(P150)



(2015.12.6) 


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