石井四郎の発言
今御紹介を受けました石井であります。親孝行をしたい時には親はなし、先生にまだ御恩を報ずることも出来ないで誠に残念であります。
大学院学生時代に眠り病が起りまして、各大学が行つているのに京都大学丈がいねむつてると京都大学が眠り大学になるから、一つ京都大学は奮発して、この眠り病の本態を突止めて頂きたい、とこう申上げました。
先生膝を打つて賛成して下されて、あの大編成が出来て、丸亀に本拠を置き、香川県の三豊郡に本拠を置いて一切の資料、お墓の屍体迄集めてこの研究に従事し、それから細菌班とウイルス班に分けまして、渡辺遍さんと共に、この、朝から晩までシャンベランを渡しまして、遂に動物試験に成功して、東京に於ける学会に発表して、あらゆる反駁をそこに受けたんでありますが、とうとうまあウイルスであるということが承認されまして、日新医学の抜刷になつたのは御存知の通りであります。
それからお前洋行してこいと、いうことをいわれ、陸軍から外国に行きました。その時の非常に深い感銘は、学問は日本で出来る、しかし乍ら世界の大人に会つて、この、その偉大な人間が如何なる条件でこういう偉大な事業をなしたかというその着眼と、方法とを、がつちり握つて来て、日本でやれば必ず出来るという話でした。
それから英・米・仏・露、ロシア迄入りまして永くこの観点で見たのでありますが、どうも日本のとつても、一つも手をつけない大きなデフエクトがあるという事がわかりました。即ち日本に於ては非常に日本が偉いと、日清、日露、日独、シベリア、こういう事変を通じてぐんぐん興隆の一途を進んで、日本の中におる我々は、日本中が一等国であると自負してましたが、この観点から世界の内面に入つて考えると丸で逆であつたのであります。(P18-P19)
それでもうー年、僅か足掛三年ほかいませんが、もう半年か一年も延ばして、これを少し徹底的に掴みたいと思いましたが、一先づ日本へ帰つて来て、内閣の諸公と軍の首脳に報告しようと思いまして、先生を訪ねました。
そりやいいとこを掴んだと、掴めないとこを掴むのがいいんだと。然し乍ら連戦連勝の日本、万世一系の天皇を上にいたゞいて隆々たる日本の何人もこれを耳にする人はございませんでした。誰も相手にしません。
しかし既に、第一、民族の潰されたのが御存知の通りアメリカインディアンであります。第二の潰された、殆ど潰された民族はモンゴリアンであります。第三番目にジャップであります。
先生はこの着想を非常に喜ばれました。これは一つの大きな掴み所だから、これをものにして将来を計劃するのが一番いゝということであります。
それでも、非常に有頂点になつている日本として一番難かしい事でありました。そこで、自分で仲々とりつくしまもありませんから、陸軍軍医学校の教官に補せられたのを幸にして、先生と相談し、又長与先生にも相談し、それから荒木にも相談しましたが皆、この着眼は、でた杭は必ずたたかれることがあるんだから、或は然らんという考えでございました。
それで陸軍、内地で全大学にお願いして出来ることと、内地で出来ないこととの二種に、軍の再々の会議の結果決定致しまして、そして、内地で出来ないものは何とか別に方法を考えると、その為には、まあ気温の変化、環境が違うから、まあ北極、南極、赤道と三つの大きな、地球儀の大きなものを作つて環境の変化を作つてもらう約束をしましたが、日本のカでは、当時昭和五年でありましたが、内地に作る技術もなければ、資力もないということで、一つは赤道の直下へゆくがいいし、一つは満洲の北端にゆけばいいということで、遂に研究所をそこに設けることにしたのであります。
それから次々と発展致しまして、まづ戦地が四千粁に発展しました、北は北満より、南はアンダマン・ジャバ・スマトラまでゆきまして、一年中同時に戦争があるものでありますから、これに対応策として、まづ将兵の身体を保護して死亡率罹患率をなくするという国家百年の計を樹てるということに廟議一定しました。
それで如何にして日本の国力を維持するかが問題であります。そこでまづ陸軍軍医学校に研究室を作り、それから満洲ハルビンに(ロックフェラー・インスティチュートを中心に)。又南支に中山大学を中心に、その外、逐次研究室を作つて行つて、遂に三百二十四の研究所を作つたのであります。
この結果、伝染病並にその伝染病死の率が下り、大蔵省は非常に喜んで、これではまだ継続出来るという結論になつたのであります。
その為に、ハルビンに大きな、まあ丸ビルの十四倍半ある研究所を作つて頂きまして、それで中に電車もあり、飛行機も、一切のオール綜合大学の研究所が出来まして、ここで真剣に研究をしたのであります。
その時に先生が一番カを入れてくれたのが人的要素であります。各大学から一番優秀なプロフェッサー候補者を集めて頂いたのが、ここに沢山御列席になる石川教授、それから東北大学の岡本教授その外十数名の教授連でございます。
そうして先生が、鶴見先生と一緒でございましたと思いますが、研究室を御覧になりまして、これはどうしても国家的のものにして育てねばならんというので、非常にカを入れて頂いたのであります。
その都度簡潔に御報告をしますと、今度は、次は、とどこまでも先生が拍車をかけられまして、段々に、最後に大東亜の全面にわたつて、この民族線防禦の第一次完成をみたのであります。
所がここで不意に中立条約を破つてソ聯が出て来た為に、この敗戦の憂き目を蒙りまして、部隊は爆発し、一切の今迄の何十巻にのぼるアルバイトも、感染病理に関する心魂こめて作つた資料も全部焼かざるを得ない、悲運に到着したのであります。
しかし乍ら頭に残つた経験、残つたこの研究は今病理学会で、岡本教授、石川教授、ちらほらと出ます、又細菌については各教授になられた方が細菌学会でその片鱗を発表しておられますので非常に心強く思つております。
清野先生の構想はどこを叩いてもそれに応ずる反応があつたんでありまして、今はよくこれをまとめて国家に奉納して、そして最後の日本の防禦、破滅の防禦、生々発展、再建にするようにと、わざわざ茨城県から出ていらつしやいまして、私のうちにおとまりになつて、このことを始終案じておられたことであります。(P19)
(『続・現代史資料(6)軍事警察』(みすず書房)所収) |