常徳ペスト調査報告書


常徳ペスト調査報告書

 中華民国三十年(1941年)十二月十二日

報告 軍政部戦時衛生要員訓練本部
     中国紅十字会本部救護総隊本部

 小職は湖南省常徳のペスト調査隊を組織せよとの命令を受け、直ちに教官兼医師劉培、■裕■及び助手兼検査技術員朱全■、丁景蘭等を引率し、検査用器材、ワクチン、ペスト治療の特効薬スルファジゾール等を携帯し、本年十一月二十日総隊本部を出発、十一月二十四日常徳に到着、当夜早速一人の疑似ペストの病例を発見、死体解剖を実施、細菌学上の検査及び動物接種等の実験を経て、確実に真性腺ペストであることを実証した。

 小職の隊は常徳滞在時、常徳に駐留している各防疫機関とペスト処理の方法を協議した上各責任機関にべストワクチン及びスルファジゾール等を分配し、その後新病例を継続発見することも無かったので、全隊員を率いて十二月二日に常徳を離れ、六日貴陽に到着した。

 その際研究用として染色標本プレパラート、ペストで死亡した死体から培養したペスト杆菌の純菌種及び敵磯が投下した麦穀等を持ち帰った。

   謹呈

林本部主任、総隊長殿

                         軍政部戦時衛生要員訓練本部検査学法主任
                         中国紅十字会本部救護総隊本部検査学指導員
                                            陳 文貴 呈

 陳文貴医師が常徳から持ち帰ったというペスト研究用の標本や材料をすでに詳細に検査した。

 確かにペスト杆菌に相違ないものと認める。その報告書の結論についても同感であることを表明する。

 謹呈(P485)

林本部主任、給隊長殿

軍政部戦時衛生要員訓練本部防疫学班主任
中国紅十字会本部救護総隊本部予防医学指導員

                   施 正信 呈

軍政部戦時衛生要員訓練本部検査学斑高級教官
中国紅十字会本部救護総隊本部検査医学指導員
                  林 飛郷 呈(P486)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


常徳ペスト調査報告書

常徳ペスト調査報告書

  (民国三十年十二月十二日)

1 前がき − ペストの疑いの発生

 民国三十年十一月四日朝五時ごろ敵機一機が霧の中、常徳の上空を低空飛行し、穀類、ワタ・紙・羊毛の繊維およびその他正体不明の顆粒状物体を含む、さまざまな種類の物体を投下した。それらの物体は鶏鴨巷関廟街と東門一帯に落下した。

 午後五時になって警報が解除されたあと、軍と警察はようやく落下物を回収して焼却し、一部を顕微鏡検査のため広徳病院に届けた。その染色プレパラート検査の結果、常徳の医療関係者は全員、ペスト杆菌の疑いがあると考えた。

 その後、陳文貴医師が再検査してもペスト杆菌とは確認できなかったが、疑いは残った。そのため、常徳で働く医療関係者はみな、ペスト流行を懸念して互いに注意を促し合った。(P487)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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2 疑似ペストおよび真性ペストの症例報告(付表)

 敵機の穀類投下直後は、不幸な事件は一切起きなかったものの、十一月十一日になって最初の疑わしい症例が出た。この症例は十一歳の少女で、関廟街付近に住んでいた(地図のA区を参照)。

 同日、突然、高熱を発し、翌日の朝、広徳病院に入院した。患者の体には、高熱以外には異状は見られなかったが、血液のプレパラート検査の結果、ペスト杆菌に似た細菌がはっきり見られた。患者は十三日朝、死亡したが、死体解剖をしたところペストの疑いのある病理変化が認められ、内臓のプレパラート検査でもペスト杆菌に似た細菌が発見された(症例二、表を参照)。

 十一月十三日にはさらに死亡症例一例が出た。東門長清街の住民(地図B区を参照)で、家族の話によれは、十一日に高熱を発して十三日に死亡した。肝臓穿刺術によりプレパラート標本を作成し、顕微鏡下で観察したところ、ここでもペスト杆菌に似た細菌が認められた(症例二、表を参照)。

 その後、東門付近(地図B区を参照)で第三、四症例が相次いで発見された。いずれも十二日に発病し、高熱、鼠径リンパ腺の腫大(よこね)などの症状があった。リンパ腺穿刺術によるリンパ液プレパラートの検査でいずれからもペスト杆菌に似た細菌が認められた。一例は十三日、一例は十四日にそれぞれ死亡した(症例三、四、表を参照)。(P487)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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 第五症例は十八日に発病、高熱、譫妄、よこねなどの症状があった。十九日に隔離病院に入院、同日夜、死亡した。死体解剖を行ったが、特殊な病理変化は見られなかったと言う(症例五、表を参照)。

 第六症例は襲操勝という二十八歳の男性で、関廟街(地図A区を参照)に住んでいた。二十三日夜、突然、高熱を発し、四肢が脱力症状を呈し、つづいてよこねが起き、二十四日夜、死亡した。たまたまこの日に軍政部戦時衛生要員訓練本部検査学班主任陳文貴医師が常徳に到着したので、ただちに死体を解剖し、細菌培養、動物接種などの実験を行った。各種の検査の結果はすべて真性腺ペストの判断に疑問の余地がないことを実証した(症例六、表および付録一を参照)。

常徳腺ペスト六症例の研究、調査の結果簡表(詳細は付録一、二を参照)(略)(P488)

 以上六例はすべて常徳県あるいはその附近に長く住んだ湖南省人である。本報告書作成時までに新しい患者は発見されていない。

 結論−症状およびプレパラート検査の結果、第一、二、三、四、五例は疑似腺ペスト、第六例は真性ペストである。(P492)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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 3 調査および研究で得られたもの

(イ)一般的状況

 常徳は南は■江に面し、東は洞庭湖に接する。かつて自動車道路が通じていた時は北は湖北省、東は長沙、西は桃源および湖南省西部の主要な町を結んでいた。現在は自動車道路が破壊され、最も近い自動車道路沿いの町は常徳西南約六十キロの鄭家駅で、わずかに船が通じているにすぎない。

 その他の水路としては、東は洞庭湖を経て長沙、湖北省へ、西は■江に沿って■陵へ行くことができる。■江からは民間の船を利用するほかは、わずかに小道をたどって常徳に直接、出るしかない。

 常徳は夏はきわめて暑く、冬はきわめて寒い。現在、十一月はすでに冬に入っており、調査時の気温は四十〜五十Fであった。

 常徳はもともと湖南省北部の商業の中心であったが、抗日戦争後、くりかえし空襲を受けて破壊され、さらに自動車道路が廃されたこともあって、現在では商業は見るかげもない

(ロ) 常徳の医療機関

 広徳病院− アメリカの教会付属病院、ベッド数百。
 県立衛生院 − 外来診療部門あり。(P492)
 隔離病院−ベッド数五十、常徳ペスト発生後に設立。(P493)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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(ハ) 死亡統計

 常徳の人口は現在、約五万余だが、死亡率については確実な統計がない。かつて地域的なコレラ流行の中心地で、毎年のようにコレラが流行した。

 敵機による穀類の投下以前には、人口死亡率の激増現象は見られなかったと言われる。最初の疑わしい症例が発見されたあと、県衛生院は警察当局および棺材店の協力を得て、県城内全域の死亡について確実な調査を行って、後日に備えて記録をとった。

 十一月十二日から二十四日までに計十七人が死亡したが、これにはペストによる死者六人が含まれる。その他の死因については不明である。(P493)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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(ニ) 環境衛生

 常徳県城全体の環境衛生は全般的に見てきわめて悪い。しかも、しばしば爆撃を受けたため、破壊された家屋がきわめて多い。県城内の家屋は目下、木造が多いため、ネズミ類の潜伏に好条件を与えている。

 A区 − 関廟街と鶏鴨巷一帯(地図を参照)

 市の中心部で家屋が軒をつらね、街路は狭く、不潔である。ペスト死亡者の住家を視察したが、室内は暗く、空気の流通が悪く、床板が張ってなかった。部屋のすみずみにゴミがたまり、ネズミ穴がいたる所にあった。ほかの家屋も大同小異であった。

 B区 − 東門一帯(地図を参照)

 この地域は家屋は比較的少ないものの、住民の多くは貧しく、屋内はとくに乱雑である。環境衛生の面ではA区と大きな差はない。

 ペスト発生の前後にネズミ類が死ぬ例は顕著な増加傾向を見せていなかったと言うことである。

 あるペスト死亡者の家にインド式捕鼠籠一個を三夜にわたって仕掛けたが、一匹もかからなかった。そのほかにネズミ類約百匹余を収集し(捕獲場所については注記がない)、解剖検査を行ったが、ペスト感染を示す病理変化は見られなかった。また、特製のノミ取り寵多数をペスト死亡者の家の室内に置いたが、収獲はなかった。(P493-P494)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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4 検討内容と結論

(1) 常徳にべストは発生したのか

(イ)陳文貴医師はペスト症例一例を研究した結果、同症例を腺ペストと確認した(注‥陳医師はかつてインドでペストを専門に研究したことがある)。この症例は二十八歳の男性で、十一月十九日に農村から県城に来たあと、二十三日に発病した。二十四日に陳医師が診察したところ、高熱、よこねなどの症状が見られ、同日夜、死亡した。

 死体解剖の結果、ペストによる死亡と診断された。鼠径リンパ腺、心臓血液、肝臓、脾臓のプレパラート検査、細菌培養、モルモットへの接種実験の結果、すべてこの診断に誤りのないことが立証された(詳細は付録一を参照)。

(ロ)十一月十一日から二十四日にかけて常徳でペストが流行したことは、先に挙げた第一〜五例の疑似症例にもとづいて断定できる。

 この五例はいずれも細菌学的方法および動物実験による立証を行っていないとはいえ、発熱、よこねといった症状やリンパ腺、肝臓または脾臓のプレパラート検査によって、形態学上、ペスト杆菌に似た細菌が発見された検査結果、病勢の急速な進行(発病後二十四〜四十八時間で死亡)はすべて、ペストの疑いが濃いことを示している。

 そのほか、大多数の症例の発病時が同一日時であることの先に述べた事実をまとめると、腺ペストが十一月十一日(敵機が穀類を投下した七日後)以降に常徳で流行したことを立証している。

 この数例のプレパラート標本は、陳文貴医師の再検査によっても、ペスト杆菌に似た細菌であることが確認された。(P494)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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(2) ペストはどこから来たのか。

 十一月四日朝、敵機が穀類などの物体を投下したことは、これと関係があるのか。

 この疑問を解くには、考えられる三つの原因について検討する必要がある。以下、それぞれについて解明する。

(イ) 敵機が穀類などを投下する以前に、常徳にべストがあったかどうか。−
(ロ) 常徳ペストは国内の近くの流行地域から伝染し得たかどうか。
(ハ) 常徳ペストは敵機が投下したペスト菌に汚染された穀頬などによって発生したのかどうか。


 (イ)常徳ではこれまでペストが流行したことはない。かつて世界的にべストが大流行し、国内でも流行したときであっても、湖南省北部の一隅はもちろんのこと、華中地方にさえ波及しなかった。ペストの自然発生説にいたっては前代未聞の説である。したがって、常徳地区自体におけるペスト復活説はまったく成り立たない。

 (ロ)伝染病の原理からすれば、ペストの流行はつねに食糧の輸送ラインに沿って起こる。船舶は貨物を積載するため、ネズミ類が隠れ住むのに好適である。そのような船舶がつねにべスト流行地域の港に往来するならば、福建、広東両省の沿岸各港がまずその災厄をこうむってペストに侵入され、そこから次第に内陸部へと伝染するはずである。

 わが国では現在、福建、浙江両省および江西省の福建、浙江両省境と接する地域でペストが大流行している。常徳から最も近い流行地域は浙江省の衢県だが、常徳からは約二千キロ離れている(衢県のペストは昨年、発生したものだが、これも敵機が伝染性物体を投下したために発生した疑いがある)。

 目下の国内交通の状況から言えば、ペストを浙江省衢県から常徳に伝染させようとするのは、事実上、不可能である。しかも、先に挙げた六例はすべて長年、常徳に住み、発病以前に遠方に他出したこともないと言うことである。さらに、常徳は米産地で、食糧輸送も、常徳から運び出されることはあっても、常徳に運び込まれることはないのである。

 したがって、今回の常徳ペストは同地において発生したものであって、国内の他の流行地から伝染したものではない。(P495)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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 (ハ)上の二つの原因が成立しないとなると、敵機が投下した伝染物体がペストの流行を招いたとする説がきわめて有力であると考えざるを得ない。以下、その理由を列挙する。

 A、すべての症例が敵機の投下した穀類の最も多い地域から出ていること。

 B、敵機が投下した穀類などの物体の中には、ペストを伝染させ得るネズミノミが隠されていたと推論できること
。当時、道路清掃夫あるいは収集者に発見されなかった理由としてはほぼ次の二点が考えられる。

 (一)一般市民はペスト伝染についての知識を持たず、敵がそのような危険な物を撒布するとは予想しなかったため、注意を払わなかったこと。

 (二)当日、常徳には終日、警報が出され(朝五時から午後五時まで)、警報解除後にはじめて穀類などの物体の収集および清掃を行ったため、ネズミノミはすでに逃げ、気温のよい近くの人家に隠れてしまったこと。(P496)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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 C、伝染性物体がペストを発生させた経路は以下の三点にほかならない。

 (一)敵機が投下した穀類などの物体は事前にペスト杆菌で汚染できる。それをネズミ類が食べて感染すれば、ネズミからノミに、ノミから人間にと伝染して流行する可能性がある。

 しかし、これは可能性としてはあまり大きくない。あるいは成功しなかったといえる。その理由は次の二点である。

 ー集した穀類などの物体は、培養、動物実験を行ったが、ペスト杆菌は発見されなかった(付録三を参照)。

 敵機が穀類などの物体を投下したあと、常徳のネズミ類の死亡が激増したことを示す明確な証拠はない。

 (二)ペストを感染させられたノミが穀類などの物体とともに投下されたあと、穀類に誘われてやって来たネズミの体につき、そこからネズミ類の間にべストが流行し、ネズミからノミヘと伝わり、人間に伝染した可能性がある。(P496)

 この考え方はたしかに可能性はあるが、諷査の時点でそうした事実はなかったようである。その理由としては、次の二点が考えられる。

 〜綾劼力讃瀕磴呂垢戮禿┻,旅鯲狹蟆叱綵集淨以内に発病していること。一般に人間のペストはつねにネズミ類のペストの流行の二週間後であり、しかもネズミ類のペストも流行するまでにはかなりの時間(約二週間)必要である。

 ⊂鐺船撻好箸糧生以前およびその流行期間に、ネズミ類の間にべストが発生したことを示す証拠がないこと。

 仮に敵機がペストに感染させられたネズミノミを投下したとした場合、それによってネズミ類の間にべストを流行させることができるかどうかは、当時のネズミの体にいたネズミノミの数の多少またはケオプスネズミノミの占める割合(ケオプスネズミノミ指数)によってきまる。

 言いかえれば、ネズミ類にべストが流行する時はこのケオプスネズミノミ指数がつねに高い値を示す。

 常徳ではふだんのケオプスネズミノミ指数が調査されていないが、当時は気候が寒かったので、この指数はペストを急速に伝染させ得るほど高くなっていなかったと考えてよい。

 現在、常徳のネズミ類が感染しているかどうかは断定できず、これに答えるには研究を継続しなければならない。(P497)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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 (三)では、伝染性を持つノミが穀類などの物体とともに敵機から投下され、そのノミの一部が直接、人を咬んでペストの流行を招いたとする考え方については、今回の研究と調査によって得たものにもとづき、この伝染経過を立証するかなり完全な証拠を入手できたと言える。

 〜ペストの潜伏期間(ノミに咬まれて感染した日から発病した日まで)は三〜七日で、ときに八日あるいは十四日のこともある。この六症例のうち四例は潜伏期間が最も長く、七日または八日である。この点は、患者が敵機の穀類投下後まもなく、十一月四日あるいは五日ごろに、投下されたノミに咬まれたことを明確に示している。(P497-P498)

 第一症例は十一月十一日に発病したが、敵機投下後七日目である。第二症例もこれと同じである。

 第三、四症例は十二日に発病(敵機投下後八日目)、第五症例は十八日に発病、第六症例はすでに腺ペストであることが実証されているが、この患者は十九日に常徳に来て、四日間滞在したあと(十一月二十三日)に発病した。仮にこの患者が常徳に来てすぐ、投下されたノミに咬まれて感染したとするなら、敵機投下後十五日目になる。

 このように比較的長時間にわたって、伝染性を持つノミが生存できるであろうかという疑問もあるが、答えは生存可能である。ペストに感染し、飢えたノミであっても、環境が好適であれば、血を吸わなくとも数週間にわたって生存することができる

 ∀讃瀕磴里垢戮討、敵機の投下した穀類が最も多い地区に住んでいたこと。(P498)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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 (三)上記各節にもとづいて得られた結論は次の通りである。

一、十一月十一日から二十四日にかけて、常徳ではたしかに腺ペストが流行した。

二、ペストの伝染源は敵機が十一月四日朝に投下した、ペスト伝染物体のなかのペスト伝染性を持つノミである。(P498)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


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抗戦六年来の全国防疫活動概況

民国三十二年五月(一九四三年)

 乙 ペスト

 ペストの蔓延は特に深刻な状況である。

 福建省は当初地域的な発生地であったが、人口の移動や交通の発展にょり、又沿海地区に敵がしばしば上陸して騒乱を起こしたため、内陸部に向って多数が移動したが、その際、病原菌を持ち込みやすく、病域が次第に拡大した。(P498)

 三十一年には浙江、江西両省で戦闘が発生し、かなり多くの軍民が福建省に後退した。

 後に我軍が奪回したが、ペストは次第に侵入し、新しく蔓延した伝染地域は浦城、寿寧、連江、羅楽、順昌、永安、■武、長汀までに及んだ。

 また、松渓から浙江省の慶元に、■武から江西省の光澤に伝染した。前年の冬には広豊、上■にもペスト発生の情況があり、その情勢から推して浦城から伝染したものと思われる。同時に西、北両方面にも次第に拡大し、その情勢はきわめて深刻であった。

 この外、綏遠、河西の一帯も歴史的に久しくペスト流行の中心地となっているが、残念ながらまだ国民の注意をひくところとなっていない。三十年の初め激しい流行が再発し、臨河、■ロ、安北、東勝、府谷、河曲、包頭の一帯にかけても波及し、死者は五百七十人にも達した。多方面からの報告によると、これらは肺ペストである。

 とりわけ、絶対に納得のいかないことは、暴敵がその野心を逞しくし、人道を顧みず、人工的な方法すら利用して、浙江省■県と湖南省常徳県にべストの病原菌を撒布して流行を引き起こしていることである。

 前者(■県)の場合は衢県、義鳥、浦江、龍景元の一帯に蔓延し、その範囲は非常に広いものであった。

 後者(常徳県)の場合は、桃源及び常徳県下の石公郷、桧徳橋の両地に蔓延した。

 ただ症例は浙江省ほどではないが、その地勢の特殊なことと、産物が豊富な地域であることを考えると、特に軽視できないものがある。(P499)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


『証言 細菌作戦』より

 本報告書は、日本軍の細菌戦を世界に伝えるべく、中国政府により重慶駐在の各国大使館に配布された。当時重慶のイギリス大使館に勤務していたJ・ニーダム博士はこの文書を入手し、その英文版を後の著書に付録として収めている。(P175)



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(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)


(2017.2.11)
  
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