ハバロフスク裁判証言(4)
川島清の尋問調書

1949年12月6日、ハバロフスク市


被告川島清の尋問調書

 一九四一年四月−六月の間私の兼摂指導せる庶務部は、人員の配置、会計、部隊業務計画の作成及び第七三一部隊監獄囚人の給養に従事しました。

 当時私は、強制的に殺人細菌に感染させる実験に必要なる囚人を受領する目的を以て、部下たる庶務職員を通じて日本憲兵隊と常に連絡を保って居ました。(P75-P76)

 一九四一年より一九四三年に至る迄私の指導せる第四部(製造部)は、実際に於ては同部隊の病原体製造工場でありました。製造部は細菌培養の立派な設備を有して居ました。

 此の設備によれば、純粋なる細菌としてペスト菌約三〇〇キログラム、或は炭疽菌五〇〇−六〇〇キログラム、或は腸チブス菌、パラチブス菌又は赤痢菌八〇〇−九〇〇キログラム、或はコレラ菌一〇〇〇キログラムを毎月製造することが可能でありました。

 併し、実際に於ては以上の菌量は毎月製造されませんでした。斯かる生産高は戦時の需要を目標として定められたのであって、実際に於ては、製造部は部隊の当面の業務に必要なる細菌量を製造したのであります。

 細菌兵器の製造見本を試験し、伝染病の治療方法を研究する目的を以て、生きた人間に対する、即ち中国人及びロシア人の囚人に対する実験が、弟七三一部隊に於て不断に行われました。是等の囚人は、以上の実験に専用する為在満日本憲兵隊より第七三一部隊に送致せられたのであります。

 被実験囚人を収容する為第七三一部隊は特設構内監獄を有して居ました。其処には、部隊員から「丸太」と呼ばれた所の被実験者が、厳重に隔離されていたのであります。私自身、被実験者の斯かる名称を第七三一部隊部隊長石井中将より度々聞いた事があります。(P76-P77)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


被告川島清の尋問調書

 生きた人間を使用する実験室内の実験は、第一部に於て行われて居ました。

 一九四二年春、私は一ヵ月間第一部長を兼務しました

 第一部は防疫対策に関して、併し主として最も効果的なる細菌戦用兵器を準備する為に、科学的研究を行い、第一部所属監獄に収容中の生きた人間を使用して、其の研究の最後的結果を試験したのであります。

 上記の期間、私は第一部長として第一部の業務を指導し、細菌兵器の研究に関する部隊の任務の遂行を計りました。

 第一部の各実験室にて行われた実験以外に、第七三一部隊特設実験場及び戦場に於ても、生きた人間を使用する実験が行われました。私も一度、生きた人間を用いた実験に参加したことがあります。

 一九四一年六月私は他の部隊員等と共に、安達駅附近の部隊実験場に於けるペスト蚤を以て充填せる爆弾の試験に参加しました。同実験により、柱に縛り付けられた一〇名乃至一五名の囚人に対する細菌爆弾の作用が試験せられたのであります。此の実験に当っては、合計一〇箇以上の爆弾が飛行機より投下せられました。(P77)

 私は、庶務部長として同実験に参加したのでありますが、参加の目的は、実験の準備状況並びに私の起案せる、実験に関する第七三一部隊長命令の遂行状況を査閲するにありました。夫れ以外に私は、製造部長として同実験に関心を以て居ました。併し実験の実際指導は第二部長太田大佐が之を担当しました

 私の有する資料に基いて、即ち部隊に於ける職務の性質上私が知って居た資料に基いて、私は次の如く陳述することが出来ます。即ち第七三一部隊に於ては、急性伝染病の感染実験実施の結果、毎年少くとも約六〇〇名の囚人が死亡したのであります。

 第七三一部隊は、一九四二年関東軍司令部の命令により、浙かん地区の中国軍に対して細菌兵器を使用する為、約一〇〇名より成る派遣隊を中国中部へ派遣しました。派遣隊には第一部、第二部及び第四部の部員が参加し、製造部からは、私の選抜により八名が参加しました。

 製造部は石井中将の命令に基く私の指令に依り、パラチブス菌及び炭疽菌約一三〇キログラムを製造し、私は之を派遣隊に支給しました。其の外第一部々員は第一部にて培養せるコレラ菌及びペスト菌株を携行し、現場、即ち南京「栄」部隊に於て必要量の細菌を繁殖したのであります。又第二部の部員は必要量のペスト蚤を支給せられました

 私の知る所に依れば、同派遣隊は其の任務を首尾よく遂行しました。(P78)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


被告川島清の尋問調書

 以上の外に、一九四一年には第七三一部隊が常徳市附近の中国軍に対して同様に細菌兵器を使用し、一九四〇年には第七三一部隊派遣隊が寧波市附近の中国軍に対して細菌兵器を使用しました。

 私は部隊幹部の一人として、部隊長たる石井中将の主催せる諸会議に出席し、一九四二年夏より後任部隊長北野少将の主催せる諸会議に出席しました。是等の会議に於ては細菌の研究、製造及び其の実戦応用に関する問題が審議されました。

 私は、戦用兵器として細菌を多量に製造せる第七三一部隊の製造部を指導し、新しき種類の細菌兵器の研究に関する科学的研究に従事せる第一部を臨時に指導し、以て人類に対する罪を犯した事を認めます。(P79)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


1949年10月23日、ハバロフスク市


川島清の訊問調書(抄録)

……伝染病媒介体たる蚤の飼育器具は次のようなものでありました。

 即ち部隊第二部には特別設備を有する屋舎があり、其処には、約四五〇〇箇の培養器を置くことが出来ました。各培養器内の白鼠は一ヵ月間に三−四匹宛取替えられました。此等の白鼠は特殊の仕掛によって培養器内に縛り付けられてあり、培養器内には培養器と数匹の蚤が入れられてありました。

 培養期は三−四ヵ月に亘って続き、此の期間内に各培養器により約一〇グラムの蚤がそれぞれ飼育されました。

 斯くて部隊は三−四ヵ月間に、ペスト感染用の蚤を約四五キログラム飼育したのであります。

 私は第二部に勤務しませんでした。従って、蚤の繁殖に関する数字が大体の数字であることをお含み願います。(P154)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


川島清の訊問調書(抄録)

 部隊の業務計画作成に当っては、細菌の培養並びに蚤の繁殖を不断に増強することが予定されました。日本参謀本部は第七三一部隊の業務を重視しました。

 私の記憶によれば、一九四一年六月東京から帰隊した石井中将は部隊の各部長を自室に集め、第七三一部隊が細菌兵器としてペスト蚤の用法を成功裡に完成し、其のため実践に於けるペスト蚤の大規模使用が可能となったとの報告を、彼が日本参謀本部に於て行った旨述べました。(P154-P155)

 石井が吾々に伝えたところに依れば、参謀本部では部隊の業務成果を高く評価し、細菌戦用兵器の改良及び今後の研究に特に留意するようにとの指示を与えました。石井は以上のことを伝えた後、蚤の繁殖に関する部隊の業務能率を増進するために一層奮励努力するよう吾々を督励しました。

 其の席上石井は、部隊が三−四ヵ月間に於ける蚤の最高繁殖量を六〇キログラムに迄増大し得たが、今後は以上の期間に於ける蚤繁殖量を二〇〇キログラムに迄引上げねばならぬと力説しました。(P155)

 石井中将は吾々に対し次のように説明しました ― 細菌兵器の増産に関する以上の方策は総て、国際情勢が変化したために、即ち独ソ間に戦端が開かれたがために、又対ソ戦の準備を予定する「関特演」計画が関東軍に於て実行に移されたがゆえに必要なのである。従って、我が軍は、必要な場合ソヴエト同盟に対して使用すべき細菌兵器の用意を整えねばならぬ。

 同会議の席上太田第二部長及び大谷材料部長は、細菌戦用兵器の増産並びに夫れ迄内地より入手して居た白鼠の代りに満洲産の白鼠を獲得する方法に就いて具体的な提案を行いました……(P155)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


川島清の訊問調書(抄録)

 ……人間に対する細菌の作用を最も完全に研究し、必要な場合、実戦に使用すべき細菌兵器の製造方法を最も速に研究する目的を以て、第七三一部隊に於て生きた人間に対するあらゆる殺人細菌の効力試験が盛に行われました……

 第七三一部隊には毎年五〇〇乃至六〇〇名の囚人が送致せられました。私は部隊の第一部の職員達が憲兵隊より多数の囚人を受領するのを目的したことがあります。彼等(囚人達)は二棟の監獄に収容されて居ました……

 ……殺人細菌に感染せしめられても囚人が死亡せずに快癒した場合には、再び実験が行われ、夫れは被実験者が感染によって死亡する迄続けられました。被感染者は、各種の治療方法を研究するために之を治療し、普通の食事を支給し、彼等が全快した後にはこれを次の実験に使用し、他の種類の細菌に感染せしめました。

 何れにしても、此の殺人工場より生きて出た者は曾てありませんでした。

 死亡者の死体は、解剖後に部隊所属の火葬場で焼却されました……(P156)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


川島清の訊問調書(抄録)

 ……私は部隊に勤務中石井中将と共に部隊の各部を幾度も巡回し、監獄をも観察しましたので、構内監獄の制度、獄則、給養に就いて多少知って居ります。

 囚人は、表側の中央建築物の下に設けられたトンネル状の秘密路を通じて監獄内に送り込まれました。部隊憲兵班は、窓がなく通風口のある黒塗の特別自動車数台を有して居ました。囚人達は、此等の自動車によって懲罰機関から第七三一部隊所属監獄に送致せられたのであります。(P156-P157)

 監獄当局は各囚人に番号を付け、此の番号は囚人が死ぬ迄用いられました……

 部隊が平房駅に在った五年間に、即ち一九四〇年より一九四五年に至る間に、此の殺人工場内で殺人細菌に感染せしめられて殺害された者の数は、少くとも三〇〇〇名に達しました。一九四〇年以前の死亡者数は知りません……

 私は一九四一年四月着任直後、構内監獄を巡視した際、或る監房に於て二人のロシア人の女を見ました。其の内一人には、部隊所属の監獄で生れた一歳の幼児がありました。私の在隊中此等の女は生きて居りました。私は彼女達が其の後如何なったか知りませんが、併し、何れにしても生きて出獄出来ずに、他の囚人達が陥った運命と同じ運命を辿ったものと考えます……(P157)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

国家検事−貴方が第七三一部隊に勤務していたのは何時か?

被告川島−私は第七三一部隊には一九三九年四月から一九四三年三月迄勤務しました。

(問)如何なる職務についていたか?

(答)日本陸軍大臣の命令で、私は第七三一部隊庶務部長及び第七三一部隊第四部長を兼任していました。

 一九四一年六月から、私は庶務部長の職務を辞任し、第七三一部隊第四部、所謂製造部の長として勤務しました。

 此の全期間を通じて、第七三一部隊長の命令によって定期的に第一部長及び第三部長の職責も遂行しなければなりませんでした。(P289)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) では、専門的な諸問題に移ることにする。貴方は、何年間、第四部長をしていたか?

(答) 二年間であります。

(問) 従って貴方は、第四部の専門的な設備及びその能力をよく承知しているわけか?

(答) はい、知っています。

(問) 主な種類の伝染病について言えば、第七三一部隊の第四部で一ヵ月にどれ程の細菌を製造できたか?

(答) それは、若干答え難い質問でありますが、第四部にあった生産能力及び全設備を最大限に利用すれば、此の部が一ヵ月に、ペスト菌−三〇〇キログラム、或は、チフス菌−八〇〇乃至九〇〇キログラム、炭疽病菌−五〇〇乃至七〇〇キログラム、コレラ菌−一トン製造出来たのであると言わねばなりません。(P297-P298)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 第四部にあった生産設備を説明して貰いたい。

(答) 第四部には、同一の能力をもった二式の設備がありました。

(問) 第一式の培養基の煮釜の容量如何?

(答) 容量一トン宛で八釜です。

(問) では、第四部が一式で一度に出し得る培養基は八トンという事になるのか?

(答) はい、そうであります。

(問) では、第二式の釜の容量は総容量いくらであったか?

(答) 第一式と同容量でありました。

(問) 第一式には培養室が幾つ、第二式には幾つあったか?

(答) 第一式に五、第二式に四でありました。

(問) 細菌培養器は誰の考案になる式か?

(答) 培養器は石井中将によって発明されたものであります。

(問) 第四部には、石井式培養器が全部で幾つあったか?(P298)

(答) 正確な数字は記憶していませんが、それは、細菌の大量生産には充分でした。

(問) 貴方の言う殺人細菌生産能力は如何なる根拠に拠るのか?

(答) 私は、釜の容量、其の他の設備の能力及び培養器の数量を根拠にしました。

(問) 一定種の細菌、即ち、チブス菌、コレラ菌、炭疽病菌、ペスト菌の培養には、どれ丈の時間を要したか?

(答) ペスト菌と炭疽病菌には、四八時間、コレラ、チブス其の他の細菌には、二四時間が必要でした。

(問) 炭疽病菌は一つの培養器からどれ丈取れたか?

(答) 五〇乃至六〇グラムです。

(問) チブス菌は一つの培養器からどれ丈取れたか?

(答) 四〇乃至四五グラムです。

(問) ペスト菌は?

(答) 三〇グラムです。

(問) コレラ菌は?

(答) 五〇グラム位です。(P299)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 第四部が製造した細菌は、如何に保存されていたか?(P299)

(答) 短期保存に当っては、冷蔵庫に保存されていました。

(問) 中国人民に対する細菌攻撃に細菌を送った時には、之等の細菌の梱包はどんなにしたか?

(答) 五〇グラム宛入る特製の小形壜に細菌を充填し、此の小形壜は金属製のサックに包まれ、若干個の之等の金属製のサックは、又特製の大きな箱に梱包され、此の箱の内部の周囲を氷で包みました。(P300)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 蚤の大量培養の為に、第七三一部隊で用いられた方法及び特別設備を説明して貰い度い。

(答) 蚤の大量繁殖の為、第二部には特別室が四つありました。室温は一定温度、即ち摂氏三〇度に保持されていました。蚤の繁殖には高さ三〇糎、幅五〇糎の金属製の罐が使用され、蚤の居場所として、此の罐にもみがらを撒きました。此の様な準備が終りますと、先ず罐に若干の蚤を入れ、飼料として白鼠を入れ、此の白鼠は蚤に危害を加えない様に縛り付けられていました。罐の中は常に摂氏三〇度の温度が保持されていました。

(問) 一つの培養器から一製造周期にどれ程の蚤が取れたか?

(答) 正確に記憶していませんが、一〇グラムから一五グラム迄だと言う事を想い起します。(P300)

(問) 此の製造周期はどれ位の期間続くのか?

(答) 二乃至三ヵ月です。

(問) 蚤培養特別な課には、幾つ培養器があったか?

(答) 正確な数字は記憶していませんが、四〇〇〇乃至四五〇〇と言えます。

(問) では、部隊にあった設備で一製造周期に、部隊は、四五キログラムの蚤を取り得たのか

(答) はい、其の通りであります

(問) 細菌戦の際、此の蚤をどうする積りだったか?

(答) それは、ペスト菌で汚染される筈でありました。

(問) そして、細菌兵器として使用するのか?

(答) はい、その通りであります。(P301)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) ペスト蚤をどんな方法で、細菌兵器として使用しようとしたのか?

(答) 私のいた時は、蚤を飛行機から投下する方法が最も有効な方法であると看做されていました。

(問) 中国派遣の時も、蚤を飛行機から投下したか?

(答) はい、そうであります。(P301)

(問) それは、ペスト菌で汚染された蚤だったか?

(答) 其の通りです。中国に於けるペスト蚤による細菌攻撃は、ペスト流行病を発生せしむる筈でした。

(問) ソヴェト同盟に対してドイツが戦争を開始した時、石井が先ず蚤の培養を強化する様に命令したと言う、私の理解は正しいか?

(答) 正しいです。

(問) 如何にして、蚤をペスト菌で汚染したか?

(答) 鼠は予めペストのワクチン注射によってペストに感染せしめられ、それから、蚤が之等の鼠を媒介体として汚染せしめられました。(P302)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 第一部長の職で第七三一部隊では、貴方の前任者は誰だったか?

(答) 北川大佐でありました。

(問) 確かに彼から貴方は、第一部の業務を引継いだのか?

(答) はい、其の通りであります。

(問) 所謂実験室の条件で、生きた人間を使用する実験に従事していたのは、第一部か?

(答) はい、其の通りであります。(P302)

(問) 被告、第七三一部隊は実験用の人間を、何処から受取っていたか述べて貰いたい。

(答) 私の知っている限りでは、部隊は生きた人間を哈爾濱の憲兵隊から受取っていました。

(問) 第一部が行っていた生きた人間を使用する実験に関して貴方の知って居る事を述べて貰いたい。

(答) 第七三一部隊構内の監獄に監禁されていた囚人が、細菌戦準備の諸目的に於ける、色々な研究を行うために使用されていました。研究は次の様な部門、即ち種々なる伝染病の殺人細菌の毒力増強の為、之等細菌の生きた人間に対する使用方法研究の為でありました。之等の実験に直接立会った事はありませんので、詳細を述べる事は出来ません。(P303)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 之等の実験は何処で行われたか?

(答) 監獄で行われました。監獄の外に特別実験室があって、其処でも、生きた人間を使用する実験が行われました。

(問) 監獄は、一度に何名の囚人を収容する様予定されていたか?

(答) 二〇〇名から三〇〇名迄ですが、四〇〇名でも収容することは出来ました。(P303)

(問) 一年間に部隊の監獄に何人囚人が送り届けられたか?

(答) 此の問題に関する統計資料及び正確な数字は、私には分りませんが、一年間に約四〇〇名から六〇〇名迄でした。

(問) 人間が一定の細菌で感染された後、その人間は部隊構内の監獄で治療したか否か?

(答) 治療しました。

(問) 彼が健康を回復した時彼をどうしたか?

(答) 治療した後、他の実験に使用するのが常でした。

(問) そうして人間が死ぬ迄行われていたのか?

(答) はい、そうであります。

(問) 第七三一部隊の監獄に入れられたものは、誰でも死ななければならなかったのか?

(答) そうであります。監獄のあった全期間を通じて私の承知しているところでは監獄から生きて出て来たものは一人もいませんでした。(P304)


(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) この様な恐しい実験に使用された人々の国籍は如何?

(答) 主として中国人、満洲人、それからロシア人が少しでありました。(P304)

(問) 実験用囚人の中に婦人がいたか?

(答) いました。

(問) 貴方が一九四一年四月監獄を訪れた時、監獄で婦人を見たか?

(答) 見ました。

(問) これらの婦人の国籍如何?

(答) ロシア人だったと思います。

(問) 囚人中に子供を連れた婦人がいたか?

(答) 其の中一人の婦人が乳呑児を抱えていました。

(問) 彼女を子供と一緒に第七三一部隊に送り届けたのか?

(答) 私の聞いた所では、監獄で生んだ様でした。

(問) この婦人も生きて監獄から出ることは出来なかったか?

(答) 私が部隊に勤務していた当時はそうでしたし、この婦人も正に其の様になりました。(P305)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 貴方は関東軍主計古野将軍及び関東軍参謀次長綾部中将が部隊を視察したことを想い起すか?

(答) 記憶して居ります。(P305)

(問) 関東軍司令部の之等の高級将校は、部隊の全ての部屋特に部隊の監獄を視察したか?

(答) はい、視察しました。

(問) 生きた人間を使用する実験に際して如何なる伝染病菌を最も屡々第一部は実験したか?

(答) 主としてペスト菌であります。

(問) 実験室の条件に於ける実験の外に部隊で、生きた人間を使用する他の実験が行われていたか?

(答) はい、野外の条件に於て行われていました。

(問)その実験は何処で行われていたか?

(答) 安達駅にあった特設実験場で行われていました。(P306)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) これらの実験に関して貴方の知っていることを全部述べて貰いたい。

(答) それは、私が第七三一部隊勤務を任ぜられてから間もなく、即ち一九四一年の夏のことでした。安達駅でペスト蚤を充填せる「石井式」陶器製爆弾の使用実験が行われました。

(問) 供述を続けて貰いたい。

(答) 実験に使用された場所は入念に警備され、其処を通過することは禁止されていました。其の周囲には、特別な歩哨が立ち、局外者が誰も其処に行けない様に警備していました。(P306-P307)

 この実験に使用された一五名の被実験者は部隊構内の監獄から届けられ、実験が行われていた地域で特別に地中に埋めた柱に縛りつけられていました。飛行機が容易に方位を定め、容易に特設実験場を認め得るために特設実験場には旗が掲揚され、煙を昇らせました。

 平房駅から特別飛行機が飛来しました。飛行機は実験場地域上空を飛行し、実験場の上空にきた時二〇個ばかりの爆弾を投下しましたが、爆弾は地上一〇〇乃至二〇〇米の所に達せぬ内に炸裂し、中から爆弾に充填されていたペスト蚤が飛出しました。此等のペスト蚤は全地域に蔓延しました。

 爆弾投下が行われた後、蚤が蔓延し、被実験者を感染させることが出来る為、相当の時間待ちました。其の後これらの人間を消毒して、飛行機で平房駅の部隊構内監獄に送り、そこでこれらの人間がペストに感染したかどうかを明らかにするため彼等に監視がつけられました。

 此等の実験の結果について申上げたいことは次の事であります。

 即ち、実験の責任指導者太田大佐の言から私が知っていることは、実験は好結果を生まず、是れは高温、即ち非常な暑さに起因するもので、その為蚤の作用が非常に弱かったということであります。この実験について私が言える事は、これ丈であります。(P307)

(問) この実験に関する命令を作成したのは誰か?

(答) これに関する命令を作成したのは第二部長であります。庶務部長、即ち部隊の書記部長として私はこの命令を閲覧し、裁決を受けるため部隊長に提出しました。部隊長は命令を裁決しました。

(問) 特設実験場の条件下では如何なる細菌が最も屡々実験されていたか?

(答) ペスト菌であります。(P308)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 貴方は、中国に対する細菌兵器の使用に関して予審に於ける自分の供述を確認するか?

(答) 確認します。

(問) 中国派遣隊について述べて貰い度い。

(答) 先ず私が第七三一部隊に勤務していた時期について述べます。この期間を通じて第七三一部隊の派遣隊が中国中部に於ける中国軍に対して兵器として殺人細菌を使用したことが一九四一年に一度、一九四二年にも一度ありました。

(問) 貴方の供述を続けて貰い度い。

(答) 第一回目は、私が述べました様に、一九四一年の夏でした。第二部長太田大佐が何かの拍子に中国中部に行くと語り、其の時私に別れを告げました。

 帰って来て間も無く、彼は私に中国中部洞庭湖近辺にある常徳市附近一帯に飛行機から中国人に対してペスト蚤を投下した事について語りました。斯様にして、彼が述べた様に、細菌攻撃が行われたのであります。(P308-P309)

 其の後太田大佐は、私の臨席の下に第七三一部隊長石井に、常徳市附近一帯に第七三一部隊派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下した事及び此の結果ペスト伝染病が発生し、若干のペスト患者が出たという事に関して報告しましたが、さて其の数がどの位かは私は知りません。

(問) 此の派遣隊に第七三一部隊の勤務員は何人位参加したか?

(答) 四〇人−五〇人位です。

(問) 一九四一年に於ける此の派遣当時のペスト菌による地域の汚染方法如何?

(答) ペスト蚤を非常な高空から飛行機で投下する方法であります。

(問) これは細菌爆弾の投下によって行われたのか、それとも飛行機から蚤を撒布する方法によってか?

(答) 撒布によってであります。

(問) 一九四二年に第七三一部隊が中国へ送った派遣隊について貴方の知っていることを全部述べて貰い度い。

(答) 一九四二年六月第七三一部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、近く中国中部派遣隊が編成されて、これは細菌兵器の最良の使用方法の研究に当る筈であると吾々に語ったのであります。(P309-P310)

 此の派遣隊は、日本軍参謀本部の命令によって編成され派遣されたもので、其の主要な目的は、所謂地上汚染方法、即ち地上に於ける細菌の伝播方法の研究でした。ついで、中国中部に特別隊を派遣することを命じた関東軍司令官の命令が出ました。

 此の命令に基いて、第七三一部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、実際上如何に此の派遣を行うかについて打合せをし、其の際此の派遣隊工作の実施計画の作成は、第二部長村上中佐に命ぜられました。

 この特別隊の人数は、一〇〇名から三〇〇名迄になる筈でありました。そして、ペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が使用されることに決まりました。

 六月の末から七月の初め迄、該派遣隊は数ヵ班に分れて、飛行機及び汽車で南京「栄」部隊に派遣されました。

 該派遣隊の細菌工作は、中国中部に於ける日本軍の浙かん作戦と平行して行われる筈でした。作戦の時期は七月末と指定されました。しかし、日本軍の戦略的退却を意味していた浙かん作戦の実施が若干遅れたことに鑑み、此の細菌作戦は八月の末に行われました。第七三一部隊の此の中国中部派遣隊は「栄」部隊を基地とし、同部隊に拠点を創設しました。

 細菌作戦は、玉山、金華、浦江の諸都市附近一帯で行われる筈でありました。此の作戦が終了した後、中国人に対してペスト菌、コレラ菌、バラチブス菌が撒布法によって使用された事を私は知る様になりました。ペスト菌は蚤によって伝播され、他の細菌は其儘の型で貯水池、井戸、河川等々の汚染によって伝播されました。(P310-P311)

 細菌作戦が全く計画的に実施され、完全に成功したことを知っていますが、此の作戦の結果に関する詳細は、私には不明であります。作戦が成功したことは石井中将の言によって知っています。(P311)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 一九四二年の派遣隊準備に関連して第四部は如何なる任務を受けたか?

(答) 第四部は第七三一部隊の派遣隊に細菌の供給を確保せよという任務を受け、此等の細菌は一三〇キログラム準備され、飛行機で中国中部に送られました。

(問) 第四部で如何なる細菌が製造されたか明確にして貰いたい。

(答) 吾々はパラチブス菌と炭疽菌のみを製造しました。

(問) 一九四二年の中国派遣隊の派遣に関する梅津大将の命令を貴方は自分で読んだか?

(答) はい、読みました。

(問) 一九四〇年の中国派遣隊に関して貴方は何を知っているか?

(答) 石井中将は私に中国の医学雑誌を見せて呉れましたが、それには一九四〇年に於ける寧波附近一帯のペスト流行の原因について述べられていました。彼は私に此の雑誌を見せた後、寧波附近一帯で第七三一部隊の派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下し、之が伝染病の原因となった事を話しました。(P311-P312)

(問) 当時貴方との話で石井は一九四〇年の派遣隊の工作の結果を如何に評価していたか?

(答) 彼はこの派遣隊の工作は成功したと考えていました。(P312)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問



(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


(2016.9.10)
  
HOME