「731部隊」関連新聞記事
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朝日新聞 1972年10月23日(金)夕刊

科学者の戦争責任 学術会議で討論を 有志が要望書

「南極委に満州の生体実験者」

 日中の国交正常化で、学術面でも交流が再開されようとしているが、物理学者、精神科医、歴史家らから成る科学者有志は、二十三日「日本の医者が、中国人を相手にした生体実験など、科学者の戦争責任をはっきりさせることが先決であり、二十五日から始まる第六十二回日本学術会議総会で、この問題を考慮すべきである」との越智勇一同会議会長あての要望書を高富昧津雄同会議事務局長に手渡した。

 この要望書は、野上茂吉郎東大教授、井上清京大教授、岬暁夫埼玉大助教授、高橋晄正東大講師ら十五人が発起人となっており、十月初めから署名運動を始め、これまでに百四十人の科学者の署名を集めた。

 要望書は「科学者はまず戦争責任を自らの問題として背負い、将来再びこのような事態が起ることを防ぐ基本的姿勢を確立しなければならない」との前提に立ち、同会議の南極特別委員会が、かつて満洲(現中国東北地方)で生体実験に従事した二人の軍医を委員に加えた責任を追及している。

 この日記者会見した小林司神経研究所研究部長らの話によると、昭和三十年に設置された南極特別委員会の医学部門の委員になった北野正次(現ミドリ十字嘱託医師)、吉村寿人(現兵庫医大教授)両医師は、旧満洲ハルビンで現地人三千人以上を使って生体実験を行い、細菌戦用兵器の研究などをした関東軍七三一部隊(石井部隊)に属していたという。

 北野医師は、一時、部隊長もつとめ、中国人らにワクチン接種もせずに発しんチフスの菌を注射して病状を調べ、吉村医師は、中国人らの手足を零下四〇度に凍らせたうえで、水をかけたり、湯をかけたりして凍傷の実験をした、という。

人体実験してない

 吉村寿人氏の話 私は、兵隊や現地人たちを相手に、つめたい水につけた指の温度がどのように変るかを測ったりして、寒さに対する抵抗の民族差を研究していた。手足を凍らせて湯をかける実験は、動物実験であり、人体実験はしていない。七三一部隊は、主に細菌戦の研究をしていたが、私はそれには加わっていなかった。といって、私に責任がないというわけではない。そもそも戦争というものが悪いのだ。

昔のこと忘れた

 北野政次氏の話 南極観測には、私が満洲(現中国東北地方)で長い間寒さを経験したのを買われてひっぱり出されたのだと思う。向うでは、七三一部隊の隊長を三年くらいつとめたが、もう昔のことなのでくわしいことは忘れたし、日中の平和条約が結ばれるまでは沈黙を守りたい。

(吉村寿人『喜寿回顧』P177所収)



毎日新聞 1981年10月16日(金)夕刊 11面

生体実験、自慢さえ 告白の旧石井部隊軍医「動物じゃダメだった」

発症のさま、克明に

中国囚人を丸太と呼ぶ "成果"の著書示して



【リード】
 「戦争だったんだよ、キミィ。それに戦後、ちゃんと役に立ってるじゃないか」―。流行性出血熱の生体実験を告白した「関東軍七三一部隊」の元軍医中佐はあっけらかんとすべてを話した。大阪市内の住宅密集地の一角に立つ古い木造二階建て医院の薄暗い診察室。実験で得たデータの入っている論文を引っ張りだして得意気に見せる姿には、生体実験への心の痛みは感じられなかった。

 二日間、六時間にわたるインタビューで白衣の老医師が心の揺れをのぞかせたのは、最後につぶやいた一言だけだった ― 「本当は戦犯追及の米軍がいつ来るか不安で、戦後ずっとこわかったよ。僕の名前は出したらいかんよ」。

【本文】
 流行性出血熱は三八−四〇度の高熱を出して発症し、頭痛、下痢を伴い、胃腸や肝機能の障害の出やすいウイルス性の奇病。昭和一三年、ソ連国境近くで大流行したのが最初の報告例で、当時の死亡率は一五−二〇%。当初、この地方の風土病とみられ「不明熱」とされたが、細菌戦研究の秘密部隊「七三一」の研究で、世界で初めて「流行性出血熱」と命名された。

 部隊の一員として昭和十六年からこの研究に取り組んだ元軍医中佐、A氏は、戦後もこの病気に関心を持ち続け、昭和三十四年「満洲に於(お)ける流行性出血熱の臨床的研究」によって博士号をとっている。

 A氏は多弁だった。各種の論文を手に、説明する。そして、論文中にある実験に使われた「サル」が、実は「ヒト」であると、あっさり認めた

 「部隊では中国人たちの囚人を"丸太"と呼んで実験に使った。論文にはサルと書いたが、あれは"丸太"や。そんなことはもう、常識やないか」

 少し背は丸くなっていたが、髪はオールバックにきちんとなでつけ、メガネの奥に光る目は、鋭い。

 当初の流行では日本兵も次々と倒れた。陸軍は十七年に「戦時流行病」(一等病)に指定している。「そりゃ、おそろしい病気だった。死体もずいぶん解剖した」とA氏は回想する。動物実験も試みた。だが「いくら動物でやってもちっともかからんから人間でやるしかなかったんや。初めはきれいに(実験台にされた人の症状が)出たな。全身に、斑点がパッと出て、死ぬかと思った。だが死ななかったな。僕は実験してもみんな治したからな。でも(生体解剖して)臓器を取り出さんとはっきりわからんという医者もおってな。僕は断ったよ

 この病気は、戦後から現代まで不気味なカゲを落としている。朝鮮戦争さ中の二十六年、北緯三八度近くで米軍に大量発生。わが国では三十五年から十年間に大阪市北区で流行し、百十五人が発病、二人が死亡した。五十年ごろからは全国医科系大学を中心に医師らの間で続発。その感染ルートや治療法も確立していない奇病の一つ。

 A氏は続ける。「僕の実験では感染の媒介はシラミや。みんな見落としとるんや。ソ連が今ごろ、同じことを言い出しているが、僕は近いうちに阪大に行って教えてやらんといかんと思っとる」

 薄暗い診察室の机の上から四、五冊を取り出すと胸をそらせた。

 「隊長だった石井さん(元中将)から戦後、やいやい言われて書いたんや。あの実験がなかったら、こうはできんやったろな」

 「七三一」部隊について生体実験に手をそめたとみられながら、戦後、大学や会社のトップにおさまった人たちは、決して「七三一」を語ろうとはしない。A氏は、なぜこうも、しゃべるのか。

 A氏は言った。「他の連中はもっとひどいことやっておきながら知らん顔してやがる。謝ればすむことやないか」。A氏の口ぶりは、放置されたままの巨大な戦争責任の黒い塊を思わせた。




毎日新聞 1982年11月4日(金) 23面

「日本生気象学会」育ての親
吉村役員を解任

「石井部隊」での実験問われ


 旧関東軍第七三一部隊(通称石井部隊、部隊長・石井四郎中将)による生体実験が問題になっている折、日本生気象学会(会長、菊池正一・順天堂大教授)は、同学会育ての親でわが国環境適応医学の権威である吉村寿人・元京都府立医大学長(七五)が同部隊研究班を率いた最高責任者の一人だったことを重視、同学会役員を事実上解任していたことが三日明らかになった。

 凍傷の予防、治療法確立のため、多数の捕虜(マルタ)を使い生体実験をしたことが指摘されており、同学会では「本人がどの程度関与したかはわからないが、学者としての責任は免れず、放置しておけば学会の姿勢そのものが問われかねない」として今回の異例の処分となった。(以下略)

「生体実験していない」吉村氏

 吉村寿人・元京都府立医大学長はこのほど、京都市内の自宅で毎日新聞記者と会い、生体実験の疑惑などについて苦しげな表情で語った。一問一答は次の通り。

 ― 冷凍装置で凍傷の生体実験をしたと指摘されているが。

 当時はまだそういう装置はなかった。対ソ戦略のため、防寒具が氷点下七〇度でも耐えられるかどうか調べたいというので、冷凍装置を作った。資材の到着が遅れ、終戦間際にようやく試運転にこぎつけた。ところが、ソ連の参戦で爆破した。この話を少年隊員が聞きかじって、そういう話になったのではないか。

 ― 民族別の凍傷予防研究を行ったというが。

 中指を氷水につけて反応を調べる方法は、ハンチング反応といい、今も使われている方法だ。当時氷点下四度にならないと凍傷にならないことが関東軍の調査でわかっていたので、零度で実験した。しかも、マルタを使ったのではなく、現地人の協力を得て調査した。生体実験などというものではない。私はマルタを管理している特別班には近寄らないようにしていた

 その後、凍傷治療を研究することになり、部下の軍医中尉にやらせた。彼からの報告はあったが、あまり聞かないようにしていた。彼が何をしたか、よく知らない

 ― 赤ん坊を凍傷予防の研究に使ったというのは事実か。

 この問題は四七年に学術会議で問題になり、共同研究者の技師(四八年に死亡)に問いただした。彼からは手紙で「自分の赤ん坊を使った」と知らせてきた。手紙は今も持っている。当時、生命は羽のようなものと考え、軍隊に協力することは名誉と考えていた。自分の子供を実験に使うことは問題ではなかった。ジェンナーが天然痘の種痘を初めてやったのも自分の息子じゃないですか。

 ― 石井部隊に入ったのはなぜか。

 大学の恩師から「満洲へ行け」といわれた。断ったが、行かないと破門する、といわれた。

 ― 自分では生体実験をしていないというが、部下の監督責任はあるのではないか。

 監督責任はあるかもしれない。しかし、軍隊に入ったら仕方のないことだ。

 ― 科学者としての倫理、良心の問題はどうか。

 倫理といわれても、私はマルタは使ってない。部隊に入ったこと自体が間違いだった



朝日新聞 1983年8月14日(日) 19面

細菌部隊の戦犯免責 マッカーサーが保証

元GHQ担当者が証言

20年の調査開始直後 幹部こっそり命ごい


ニューヨーク十三日=小林(泰)特派員】

(リード)

 「細菌部隊の戦犯免責は、私がマッカーサー総司令官から、一九四五年秋に取り付けた」「調査中、部隊の幹部たちは、深夜こっそり現れては、命ごいをした」―旧満洲で人体実験を繰り返し、細菌兵器開発を進めていた陸軍「七三一部隊」について、GHQ側として最も早い時期に調査にあたった元米軍医中佐マレー・サンダース博士(七三)は、十三日までに、記者(小林特派員)との数回のインタビューに応じ、これまでベールに包まれていた終戦後の調査経過を始めて明らかにした。

 記者は、同時に米国防総省から、かつての秘密文書「サンダース・レポート」を入手、この証言を裏付けた。「七三一」幹部と米軍との取引は、従来は一九四六年春とされているが、実は調査開始直後に、マッカーサー総司令官から免責が保証されていたことが明らかになった。

(本文)

 サンダース博士は、戦後はコロンビア大教授(細菌学)などを務め、退職後は、フロリダ州ボカラトンに医学研究所を設立、研究・治療にあたっている。大戦中は、化学戦争部隊に配属され、一九四五年夏、フィリピンで、マッカーサー総司令官から「七三一」の調査を命ぜられ、八月中に日本に上陸、調査を開始した。

 インタビューは、同博士のオフィスで行った。同博士の記憶は、はっきりしていた。

― 事前情報は、どの程度あったのか。

 終戦の数カ月前から、満洲の平房で「防疫給水部」の偽名で細菌化学兵器を開発している部隊があり、そのトップがイシイという名前であること、中国人を実験台にし、中国本土で細菌をまいたことがあることなどを知っていた。

― 隊員との最初の接触は。

 調査開始直後、通訳としてドクター・ナイトウがやってきた。私は最初、ナイトウが七三一部隊幹部とは知らなかった。今から考えると、だれが彼をよこしたのか不思議だ。ドクター・ナイトウは、その後、ミドリ十字社の社長になった。彼とは、その後も非常に親しく付き合った。

(昨年七月に死去した内藤良一・ミドリ十字会長のこと。同氏は陸軍軍医学校教官として、満洲の七三一部隊と東京を行き来していたほか、南方軍防疫給水部長なども務め、七三一の石井四郎部隊長の参謀格だったといわれる)

― 調査はどう進んだか。

 最初、名前を知っていたミヤガワ、キムラといった京大教授たちに会った。だが、彼らは内部情報は何も知らなかった。

 そのうち奇妙な事態が続いた。深夜、ナイトウのいない時を狙って、七三一の幹部から若い兵士たちまで、こっそり私に会いに来た。細菌爆弾の設計図を渡しに来た者もいた。みんな、そのかわりに自分だけは戦犯を見逃してくれと私に頼んだ

― 内藤氏は?

 あまり協力しないで逆に私をためそうとした。一カ月ほどしたころ、私は「これでは厳しい訊問をする人間に任せざるを得ない」と通告した。すると、その夜、彼は徹夜して報告書を書き、持って来た。それにより、私は初めて全体像をつかめ、リストにより次々と幹部を尋問することが可能となった

― 戦犯免責の取引は関知していたか。

 イエス。四五年の秋だった。GHQの私の上司だったウィロビー少将に相談し、二人で総司令官室に行った。マッカーサーをはさんで私たちが座った。その時のやりとりは、よく覚えているが、次のようだった。

ウィロビー 「七三一部隊の解明は、彼らを戦犯に問わないという保証をしてやらないとうまく進まない。サンダース中佐がその保証をしてやっていいですか

マッカーサー 「それでよろしい

ウ 「サンダース中佐が、あなたの言葉として使っていいですか」

マ (黙ってうなずく)

人体実験せぬ、とだまされた

― 調査はいつまで?

 四十五年のクリスマスまでに報告書をもって帰国せよ、と命令され、年末に日本を離れた。帰国後提出した総括的な報告書で、ようやくワシントン(戦争省)は事態を重視し、トンプソン(四六年)、フェル(四七年)の二人を日本に派遣、継続調査にあたらせた。

― 石井部隊長は?

 捜したが、見つからなかった。私は彼の尋問はしていない。

― 人体実験については、どう考えているか。

 ナイトウは私に「誓って人体実験はやらなかった」と繰り返し言い、私はそれを信じていた。ところが、最近になってそのことを知り、大変、ショックを受けた。ナイトウは故人になったが、私としては彼に裏切られた気持ちだ

通説より早い「免責」

『消えた細菌戦部隊』の著書もある常石敬一・長崎大教授(科学史)の話 七三一部隊の戦争責任を、米軍側は免じた時期は、一九四六年春、というのが通説だった。実際には、非常に早い時期であったことを知って驚いた。その背景には、ウィロビー少将のG2(GHQ参謀部)が、終戦前に、七三一部隊の情報をかなり詳しく入手していたことがあげられる。人体実験については、四七年春になってソ連側から事実を告げられるまでは確認できなかったようだ。



毎日新聞 1984年8月15日(水) 19面

神田・古本屋の片隅に
731部隊人体実験の資料

軍医中佐の遺族が処分 
チリ紙交換から回って

【リード】
 "細菌部隊"七三一部隊の人体実験を裏付ける本格的資料が、戦後三十九年たって世の中に出たきっかけはチリ紙交換だった。家を新築するため、置き場所に困って処分された資料。戦後ずっと隠されてきたものが、クズになって初めて、歴史の証言者となる機会を得たのだった。

【本文】
 「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」の二つの報告書は、他の報告書、書簡、写真集などと一緒に段ボール箱二箱に詰まって、神田の古本屋の片隅に置かれていた。慶応大学の「太平洋戦争史研究会」のメンバーが発見した時、値札もなかった。古本屋の店主も貴重な資料と気づいたが、同会が交渉の末入手した。

 同研究会が出所を探る手掛りとしたのは七三一部隊関連の報告書に名を連ねているA元陸軍軍医少佐。A元少佐の論文は他にも十数編あるが、段ボール箱の中にA元少佐からB元中佐にあてたメモがあった。

 「あっ、これだわ。気持ち悪かったから覚えている」。東京多摩地区の住宅街。築後一年の家で、B元陸軍軍医中佐の遺族は、記者が持参した写真帳や資料を見て叫んだ。

 B元中佐は、四十四年に死亡しており、東京多摩地区の遺族宅には妻と長男夫婦が住んでいた。長男夫婦によると、B元中佐は、戦争中、毒ガス研究で博士号を取った毒ガスの専門家で、押し入れの中には防毒マスクや毒ガス関係の書類、報告書、写真が段ボール箱で六、七箱もあった。四十四年、死亡した後も段ボール箱はそのままにしてあったが、昨年七月、家を新築するため段ボール箱を処分することになった。

 「だれか欲しい人がいるかも知れないと思ったけど、何しろ毒ガス関係の文書でしょ。もちろん、僕には何の役にも立たないし、これ以上置いておくスペースがないから」と、長男はチリ紙交換を呼び、トイレットペーパーと交換した。

 処分する前、フタを開け、段ボールかの中から取り出して、パラパラッと見ただけ。報告書ひとつひとつについては覚えていないという。しかし、写真集は印象深く、報告書類の中にある、B元少佐が書いたメモ類などから「ウチがチリ紙交換に出したものに間違いない」とし「それにしても、古本屋に並べられ、数十万もの値がつくなんて・・・」と驚くばかり。

 長男によるとB元中佐は、七三一部隊に所属していたことはないとしているが、戦後七三一部隊長だった石井四郎元中将と親しく、石井氏宅へ何度も出掛けていたという。


「関与していない」登場の元少佐

 チリ紙交換から古書市場に回った段ボール箱の資料は、書類などと分別され、報告書類を中心に二箱に詰め替えられ、神田の古書店に回されたらしい。二段の段ボールの中で、七三一部隊関連とみられるのはA元少佐の名が書かれた報告書がほとんどだった。

 A元少佐は、滋賀県の長男宅にいたが「石井部隊のことは一切しゃべりたくない。会いたくもない」と言い、高血圧や戦傷の後遺症などで休養中だった。このため、長男を通じてコメントを求めたところ「破傷風の実験は上官の指導でやったこと。他の論文はすべて私のもの」と認めた。

 しかし、「きい弾(イペリット弾)の報告書については「私は十七年に七三一部隊に呼ばれたので、実験に加われるわけがない。関与していない」と否定した。

 「担当」と書かれていることについては「極秘書類には担当者名を書かない。そこだけ毛筆で書かれていることからもわかる通り、書類を保管する人が書き入れたのではないか」と答えている



朝日新聞 1986年9月19日(金) 22面

七三一部隊の資料 防衛庁は「ない」

 米下院復員軍人委補償問題小委員会で、旧日本軍七三一部隊(石井部隊)の細菌研究や人体実験についての極秘資料が一九五〇年代後半に日本側に返還されていることが明らかにされ、同委が日本政府に資料提供を求めることを決めたが、防衛庁では存在を否定している。

 国立国会図書館の調査によると、連合軍最高司令部(GHQ)が日本占領自体に収集したとされる石井部隊に関する第一次資料は、日本側へ返却後、最初、外務省復員局に渡されたという。この際、米側が全資料を返却したのか、選択したのかは明らかでない。

 その後、防衛庁が設置された際、外務省から防衛庁本庁に移され、さらに戦史室に移された。外務省−防衛庁、防衛庁本庁−戦史室の二度の移管の際に、それぞれ選択が行われた可能性もある、という。








(2016.1.17) 


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