「731部隊作成資料」発見の経緯
「神田、古本屋の片隅に」
−「731部隊作成資料」発見の経緯−



毎日新聞 1984年8月15日(水) 19面

神田・古本屋の片隅に
731部隊人体実験の資料

軍医中佐の遺族が処分 
チリ紙交換から回って

【リード】
 "細菌部隊"七三一部隊の人体実験を裏付ける本格的資料が、戦後三十九年たって世の中に出たきっかけはチリ紙交換だった。家を新築するため、置き場所に困って処分された資料。戦後ずっと隠されてきたものが、クズになって初めて、歴史の証言者となる機会を得たのだった。

【本文】
 「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」の二つの報告書は、他の報告書、書簡、写真集などと一緒に段ボール箱二箱に詰まって、神田の古本屋の片隅に置かれていた。慶応大学の「太平洋戦争史研究会」のメンバーが発見した時、値札もなかった。古本屋の店主も貴重な資料と気づいたが、同会が交渉の末入手した。

 同研究会が出所を探る手掛りとしたのは七三一部隊関連の報告書に名を連ねているA元陸軍軍医少佐。A元少佐の論文は他にも十数編あるが、段ボール箱の中にA元少佐からB元中佐にあてたメモがあった。

 「あっ、これだわ。気持ち悪かったから覚えている」。東京多摩地区の住宅街。築後一年の家で、B元陸軍軍医中佐の遺族は、記者が持参した写真帳や資料を見て叫んだ。

 B元中佐は、四十四年に死亡しており、東京多摩地区の遺族宅には妻と長男夫婦が住んでいた。長男夫婦によると、B元中佐は、戦争中、毒ガス研究で博士号を取った毒ガスの専門家で、押し入れの中には防毒マスクや毒ガス関係の書類、報告書、写真が段ボール箱で六、七箱もあった。四十四年、死亡した後も段ボール箱はそのままにしてあったが、昨年七月、家を新築するため段ボール箱を処分することになった。

 「だれか欲しい人がいるかも知れないと思ったけど、何しろ毒ガス関係の文書でしょ。もちろん、僕には何の役にも立たないし、これ以上置いておくスペースがないから」と、長男はチリ紙交換を呼び、トイレットペーパーと交換した。

 処分する前、フタを開け、段ボールかの中から取り出して、パラパラッと見ただけ。報告書ひとつひとつについては覚えていないという。しかし、写真集は印象深く、報告書類の中にある、B元少佐が書いたメモ類などから「ウチがチリ紙交換に出したものに間違いない」とし「それにしても、古本屋に並べられ、数十万もの値がつくなんて・・・」と驚くばかり。

 長男によるとB元中佐は、七三一部隊に所属していたことはないとしているが、戦後七三一部隊長だった石井四郎元中将と親しく、石井氏宅へ何度も出掛けていたという。


「関与していない」登場の元少佐

 チリ紙交換から古書市場に回った段ボール箱の資料は、書類などと分別され、報告書類を中心に二箱に詰め替えられ、神田の古書店に回されたらしい。二段の段ボールの中で、七三一部隊関連とみられるのはA元少佐の名が書かれた報告書がほとんどだった。

 A元少佐は、滋賀県の長男宅にいたが「石井部隊のことは一切しゃべりたくない。会いたくもない」と言い、高血圧や戦傷の後遺症などで休養中だった。このため、長男を通じてコメントを求めたところ「破傷風の実験は上官の指導でやったこと。他の論文はすべて私のもの」と認めた。

 しかし、「きい弾(イペリット弾)の報告書については「私は十七年に七三一部隊に呼ばれたので、実験に加われるわけがない。関与していない」と否定した。

 「担当」と書かれていることについては「極秘書類には担当者名を書かない。そこだけ毛筆で書かれていることからもわかる通り、書類を保管する人が書き入れたのではないか」と答えている




松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』


 資料1、資料2および資料5に名前のでてくる池田苗夫は、かれ自ら書いた略歴で、「私は一九三〇年−一九四五年の間、満州事変、支那事変、大東亜戦争に軍医として参戦其間満州各地、北支、中支、千島、北海道、宇品に於て或は第一線軍医として或は航空隊、船舶隊、研究機関に在って軍陣医学的研究に従事し貴重な体験をした(注12)」と書いている。
(注12)池田苗夫「一九三〇−一九四五年第二次大戦に於ける生物物理学的に見たる日本軍陣医学の経験」 (手稿、四〇〇字詰原稿用紙一一五枚)、一頁。
 広島で敗戦を迎え、四六年二月に公職追放、その後民間病院に勤務、大阪市で医院を開業したが、現在は故人である。

 なお、資料一「きい弾……」 の報告書について、池田苗夫は、「私は昭和一七(一九四二)年に七三一部隊に呼ばれたので、実験に加われるわけがない。関与していない」と否定し、表紙に「池田苗夫少佐担当」と書かれていることについては、「極秘書類には担当者名を書かない。そこだけ毛筆で書かれていることからわかる通り、書類を保管する人が書き入れたのではないか」と答えている。

 これは、一九八四年夏に、松村と毎日新聞記者二名が報告書を持参し、本人にコメントを求めたところ、滋賀県の長男宅で病気静養中であったため、長男を通じて得た返答であるが、あえて記しておきたい。

 資料2の破傷風実験については、池田苗夫自身が「破傷風の実験は上官の指導でやったこと。他の論文(資料5−引用者)はすべて私のもの」と認めている『毎日新聞』一九八四年八月一五日)。(P12)



松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』

 つぎに、資料発見の経緯とそれが公表された以後の経過について書こう。

 右の資料1と資料2、および資料5の『関東軍防疫給水部研究報告』五点は、一九八三年秋に神田の古書店にでたのを、兒島俊郎(現大阪千代田短期大学)が発見し、慶応大学図書館が購入し、同大学太平洋戦争史研究会が分析してきたものである。

 井上義弘陸軍軍医中佐が六九年に死去したのち、八三年七月に遺族が廃品回収業者に売りだしたのが、古書店に入ったのである。井上元中佐は、戦争中、毒ガス研究で博士号をとった専門家で、遺族は自宅のダンボール箱六・七箱に防毒マスクや毒ガス関係の書籍、報告書、写真があったというが、慶応大学が入手したのは、八三年秋のダンボール二箱分と、その二年後の二箱の追加分である。

 『毎日新聞』誌上(一九八五年八月一五日)に資料1のイペリットガスと資料2の破傷風の実験報告書が公表されると、反響は大きかった。

 日本軍が作成した資料は、前述したように七三一部隊の撤退時に証拠隠滅のために焼却されたか、戦後アメリカが石井四郎ら部隊幹部の戦犯免責と引きかえに根こそぎ持っていったので、ほとんど我々の眼に触れることがなかったからである。

 翌日の『毎日新聞』の社説は、「『人体実験報告書』の意味」と題し、つぎのように書いた。

 「……このほど慶応大学太平洋戦争史研究会が、この部隊の手による人体実験報告書の原本二冊を入手した。それは永く、重い闇の時間と空間を突き抜けて現れたという衝撃を与えるのに十分だった。

/これまで七三一部隊については多くの著書、論文が書かれているが、細菌兵器の準備、使用の罪に問われた元日本軍軍人に関するハバロフスク裁判公判資料や元隊員の証言によるものが多かった。その意味で原資料発見の意義は大きく、今後の検証の重要な手がかりを与えるものといえよう。」(P12-P13)

 「社説」はこのように二冊の資料の意義を捉えて、さらに「戦争の狂気について」こう書いている。

 「人体実験を行ったのは医学者を中心とした科学者、研究者たちだった。……科学者の理念、理性をここまで見事に喪失することが出来るという点に、りつ然とせざるを得ない。

/もう一つは七三一部隊の全容がこうも永く秘匿されつづけていることの重みである。この部隊について語られ始めたのはつい数年前のことだった。……四十年近い戦後の歳月をへても、なお当事者による証言を十分に得ることができない点にこそ七三一部隊の重くて深い暗黒の部分を読みとることができるだろう。」(P13)



(2016.7.23) 


HOME