「流行性出血熱」の人体実験記事
「流行性出血熱」の人体実験記事




毎日新聞 1981年10月16日(金)夕刊 11面

生体実験、自慢さえ 告白の旧石井部隊軍医「動物じゃダメだった」

発症のさま、克明に

中国囚人を丸太と呼ぶ "成果"の著書示して



【リード】
 「戦争だったんだよ、キミィ。それに戦後、ちゃんと役に立ってるじゃないか」―。流行性出血熱の生体実験を告白した「関東軍七三一部隊」の元軍医中佐はあっけらかんとすべてを話した。大阪市内の住宅密集地の一角に立つ古い木造二階建て医院の薄暗い診察室。実験で得たデータの入っている論文を引っ張りだして得意気に見せる姿には、生体実験への心の痛みは感じられなかった。

 二日間、六時間にわたるインタビューで白衣の老医師が心の揺れをのぞかせたのは、最後につぶやいた一言だけだった ― 「本当は戦犯追及の米軍がいつ来るか不安で、戦後ずっとこわかったよ。僕の名前は出したらいかんよ」。

【本文】
 流行性出血熱は三八−四〇度の高熱を出して発症し、頭痛、下痢を伴い、胃腸や肝機能の障害の出やすいウイルス性の奇病。昭和一三年、ソ連国境近くで大流行したのが最初の報告例で、当時の死亡率は一五−二〇%。当初、この地方の風土病とみられ「不明熱」とされたが、細菌戦研究の秘密部隊「七三一」の研究で、世界で初めて「流行性出血熱」と命名された。

 部隊の一員として昭和十六年からこの研究に取り組んだ元軍医中佐、A氏は、戦後もこの病気に関心を持ち続け、昭和三十四年「満洲に於(お)ける流行性出血熱の臨床的研究」によって博士号をとっている。

 A氏は多弁だった。各種の論文を手に、説明する。そして、論文中にある実験に使われた「サル」が、実は「ヒト」であると、あっさり認めた

 「部隊では中国人たちの囚人を"丸太"と呼んで実験に使った。論文にはサルと書いたが、あれは"丸太"や。そんなことはもう、常識やないか」

 少し背は丸くなっていたが、髪はオールバックにきちんとなでつけ、メガネの奥に光る目は、鋭い。

 当初の流行では日本兵も次々と倒れた。陸軍は十七年に「戦時流行病」(一等病)に指定している。「そりゃ、おそろしい病気だった。死体もずいぶん解剖した」とA氏は回想する。動物実験も試みた。だが「いくら動物でやってもちっともかからんから人間でやるしかなかったんや。初めはきれいに(実験台にされた人の症状が)出たな。全身に、斑点がパッと出て、死ぬかと思った。だが死ななかったな。僕は実験してもみんな治したからな。でも(生体解剖して)臓器を取り出さんとはっきりわからんという医者もおってな。僕は断ったよ

 この病気は、戦後から現代まで不気味なカゲを落としている。朝鮮戦争さ中の二十六年、北緯三八度近くで米軍に大量発生。わが国では三十五年から十年間に大阪市北区で流行し、百十五人が発病、二人が死亡した。五十年ごろからは全国医科系大学を中心に医師らの間で続発。その感染ルートや治療法も確立していない奇病の一つ。

 A氏は続ける。「僕の実験では感染の媒介はシラミや。みんな見落としとるんや。ソ連が今ごろ、同じことを言い出しているが、僕は近いうちに阪大に行って教えてやらんといかんと思っとる」

 薄暗い診察室の机の上から四、五冊を取り出すと胸をそらせた。

 「隊長だった石井さん(元中将)から戦後、やいやい言われて書いたんや。あの実験がなかったら、こうはできんやったろな」

 「七三一」部隊について生体実験に手をそめたとみられながら、戦後、大学や会社のトップにおさまった人たちは、決して「七三一」を語ろうとはしない。A氏は、なぜこうも、しゃべるのか。

 A氏は言った。「他の連中はもっとひどいことやっておきながら知らん顔してやがる。謝ればすむことやないか」。A氏の口ぶりは、放置されたままの巨大な戦争責任の黒い塊を思わせた。




(2016.10.30) 


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