森下清人証言
<少年隊に入隊>
これからはね、森下さんが見たこと、体験したことを一つ一つ描いていっていただけたらなと思うんですよね。できたら今日は七三一部隊に入隊するまでのことを、その少年隊にはいるまでのところからお聞きしたいんですが。まず生れはどこになるんですか?
生れは私は野津原。大分県の野津原(現 大分郡野津原町 大分市の西隣りに位置)。
ああ野津原ね。小学校は?
大分の金池小学校。
いつ七三一に入ることになったんですか?
昭和17年。そのころは若者は職業といったらやはり兵士、それか満蒙開拓団か軍属かかぎられたところです。昭和17年の3月29日が、今の王子中学あそこが大分高等小学校、そこを卒業した。それで職業安定所の馬場静夫というのがその当時の所長で私とこの遠縁だったんです。どこにいこうか開拓団にいこうかといって悩んでいたんです。
長男さんではなかったんですね?
長男です。6人兄弟やけどあとは女ばっかし。家をつごうだとかは非常時だから毛頭なかった。親父も勤め人でしたし。市役所の土木課に出てましたから。それで3月26日に卒業して、馬場さんからいいところがあるから行くかといわれて、どこだといったら満州だというので、その晩考えて、晩飯のときに親父に満州いくけんなといったら、こめえときから悪かったもんだから、お前が行くならどこでん行けいうてこうきた。それで次の日に門司にいって。
すぐ次の日に。満州のどこにいくとかいうことは判らなくて、軍属ということだけで。
軍属というのが僕はよくわからないんですが、兵隊じゃないんですね?
兵隊じゃない。軍隊に属するんですね。給料は軍隊からでるんですね。
階級はないんですね?
階級はあります。4段階くらいに分れますね。ええと下から庸員、雇員、判任官、高等官。高等官いうのは佐官級です。少年隊は庸員になります。
そういうことで行かれて、すぐ満州に渡ったんですか?
下関で各方面から来るのを2日待った。滝沢という班長が迎えに来た。それから舟にのって釜山にいった。これが揺れて揺れて。皆吐いとりましたなあ。船倉なんですよ。それでエンジンいうんですか、スクリューいうんですか、あの音がうるそうてねえ、私も気分悪くなりました。それから釜山からは汽車にのって。確か夜でした。
その当時何歳?
14歳ですね。高等小学校卒業した時だから。ちょっと3,40人、九州ばかりで。途中新京によって食事をして。関東軍の兵舎みたいなとこでした。
新京で一泊されたわけ?
いや、すぐ出発です。ハルピン向うて。
ハルピンに着いたら、すぐ平房ですか?
そう、ハルピンの駅から軍用トラックに分乗して南向いてですね。ほこりだらけの赤土の道の。そして着いたら一年先輩がおりますわね。そこで誰は何班、誰は何班とわけられて
一班で何人ですか?
三十人くらいかな。森下は三班となって。班長は井上精二。
他の班長の名前覚えてます?
ええと、1班が高階班長。2班が藤沢班長。4班は西沢班長。
班長の中でたちの悪いのがいたらしいですね?
それは高階班長。背丈は1m60くらい、32歳位かな、脊はこまかったけど銃剣術の達人でした。
教育隊というんですか?
教育隊、園田部隊。その中に少年隊というのがあるんです。一番びっくりしたのが銃を立てかけるところがあるんですよね。軍隊となんちゃかわらん。
どういうことを少年隊はやっていたんですか?
1週間くらいは御馳走ばかり食べていましたね。内地では考えられないような御馳走をね。おかし、ようかんとかそういうものの配給もある。
少年隊というのは何か勉強するんでしょう。何を勉強したんですか?
本部に入るための基礎の勉強をするんです。それが少年教育隊というわけ。本部に配属するための下準備ですね。まず教育勅語。教育勅語は十二月の時に石井閣下が読上げるんです。その次は5箇条のゴセイモン。
何ですか?あの朕思うにとかいうやつですか?
いやいやそやなくて、我が国の軍隊はよよ天皇の統率たもうところにある、いうて始まるやつです。長いですよ全部で40分くらいかかる。覚えるのに苦労したんですよ。トイレの中に持込んだりしてね。5箇条の御誓問? あれは、ひとつ軍人はなになにを本分とすべし、いうやつですね。軍人勅諭いうやつです。
ああ、それをそういっとたんですか。それなら分ります?
先生の顔を覚えていますか?
もちろん覚えています。まず長屋教官。これが一番上の人。
やっぱり僕らが考える授業ああいう雰囲気で考えていいんですか?
そうですね。入口のドアがあって開くと内務班があるんですね。その横が学科をする黒板があって机がならんでいる。そこで9時から先生が入替わって、今日は数学なら数学という具合に授業があるんです。
朝何時ころ起きるんですか?
朝6時。食事して6時半。冬の場合は7時。それから床をあげたりして9時から授業。となりの先輩の床をあげてぴしゃーとせないかん。
今のように1時間目2時間目というふうに分けられているんですか?
そうです。教官が入替わって。学科ゆうたらまず軍隊の必要事項。それからじわじわじわじわいつのまにかこうなったのかわからんように細菌のというような学科に入っていくんですね。だいたい石井中将というのは防疫給水が専門だったですから。
いまの医学部だったら例えば細菌学以外に生理学や解剖学をしますがね?
1年たったところで、試験をしてこの男はどこに配属というのを、頭がよければいいような部があるわけですね。頭が悪ければ動物飼育の専門みたいな部があるんですね。森下は本部の柄沢班に配属されたわけです。どこの班に入ってもそこのことを絶対に喋ったらいけないことになっていたんですね。先輩と交互にならんで寝ていたんだけど。
1学年で何人なんですかね?
160人かな。
語学なんかもありましたか。英語なんかも?
英語は無かった。だけど化学記号があった。水がH2Oとかいう。これはつらかったですね、我々は横文字は不得手だから。あの亀の甲いうのは全部覚えましたけど。
一般教養みたいな、芸術とか文学とかそういうものもあったんですか?
ありました。国語とか数学とかそういう一般の中学の教科くらいはありました。時間は少ないけど一応ありました。
何の授業が好きでしたか?
中国語ですね。薮本教官の授業。それが楽しかったですねえ。
それは中国語の会話ですか?
そうです。ニーハオとか挨拶とかから始ってね。
1年間教育隊にいて何かすごく記憶に残っているのはありますか?
そうですね日曜日がくれば63棟というところで演芸があると。かならず月に1,2回。それと汁粉とか甘味とかそういうものが日曜日にはつくと。本部と63棟にいくのにちょっと10分くらいかかるんですね。そこを4列で並んで。
お休みの日に街に遊びにいくことができたんですか?
できました。外出許可の申請を出すわけです。すると一人では行かせんのです。先輩と一緒に月に1回くらい。朝早く出て7時半か8時ころでて隣の部落に平房という駅があるんです。そこまでトラックにのって、そこから汽車にのってハルピンにいくんです。
それでハルピンに行って一日遊べるんですか?
そうですね一番注意されとったのはキタイスカヤ、あそこには入るな。キタイスカヤのなかにマジャコというところがあるんです、そこに軍人、軍属が日本人が入ると次の日に必ずスンガリ(註 松花江のこと)に死体がうかぶんです。ちょいちょいそういう話があったですね。
しかしキタイスカヤといったら一番の繁華街でしょ。あそこ行かんでどこに行くんですか?
そうやね子供心に一番覚えているのは写真館に行って冬の防寒帽つけて写真とるんですね。それとロシア飴買って内地におくるんです。
映画館なんかは?
映画館は入ったことないです。喫茶店はそやね一回一年先輩の堀田というのがこれが飲むのが好きで一緒について入ったことがあるかね。ウオッカというのを飲んで。あれは強かったですね。びっくりしたですがなあ。ぽっと火をつけて。
のみましたか?
いや私は飲みきらん。いまだに飲みきらん。
赤線とか青線とか昔あったんでしょう、ああいうのは?
いややっぱりありましたねえ。先輩が連れてってくれたですね。外出する時スキンもらって。満州語でピーヤというんです。それも等級がある。一番下のは、土方がいくとこは間口が1間なかろうね。うすいカーテンがあって入って行くと横に洗面器があるんですね。それに冬の場合はお湯をいれるんです。畳一帖くらいの部屋がある。そこで今度は寝るわけですね。そしてあとはそれで終り。日本人の客は金払いがいいからよろこばれましたね。
失礼だけど内地で遊郭いってたんですか?
いやいってない。
はじめての感じはどうでした?
そやね、すぐ終ったからね。相手はよろこんどった。童貞だったからね。相手はそう朝鮮人だった。三分か五分ですよ。終ったらすぐ交代ですから。終った時は後がもう入って来るから大変ですわな。
相手するほうも大変ですね
そりゃ大変。だけど金になるからね。昼間いくんですよね。七三一部隊というのは外泊というのがないから。夕御飯に間に合うように帰るんですね。点呼が9時だからそれまでにはどういう理由があっても帰らないといかん。
その辺から聞いているとなんか普通の学生生活みたいですがね
そうですね。
つらかったのはなんですか?
一番つらかったのは学科ですわね。そりゃもうノイローゼになるごとあったですわね。それまで遊ぶばっかりでいたもんだから。それがもう試験試験でしょう、こりゃまあなにしに来たんじゃろかと思うたですね。ただ、一番印象にのこっとるのは衛生学の授業で消毒と滅菌はどうちがうかというのですね、学科が終って何か質問があるかというので私が、教官、消毒と滅菌はどう違うのですかときいて私が誉められた。その時の回答が消毒は一定の限られた細菌を殺すことであって、滅菌とはすべてを殺してしまうんだいうんでしたね。
夏休みというのはあったんですか?
ありません。ただ、旅行とかキャンプとかに全員で行きました。ええと、初年次のときは、9月の末でしたかね、大連に少年隊全員でトラックに乗っていきましたねえ。楽しかったのを覚えてますねえ。途中りんご畑がずらーとならんでる所で止ってりんご取ったこと覚えてますね。それから大連について203高地から旅順から見学して。それから松花江、スンガリ。
スンガリいうのは現地語ですか?
そうです。ロシア語です。あの、先生も見られたでしょう、川に太陽島がありますわね。そこに少年隊でキャンプ行ったんですね。もう釣れる釣れる、こんなフナが入れ食い。ものすご釣れる。一つのテントに7、80人泊れる大きな軍隊のテントはって。飯合炊飯して。
寝袋ですか?
いや、毛布です。
なかなか楽しそうですね。ところで内地には、里帰りとかそういうものはないんですか?
ありません、ただ親が死んだ場合には1ヵ月くらいの休暇を、先輩でとったものはおる、そういった感じですね。誰かの親が死んだとしますね、そうしたら軍属の上官が同行して内地に戻るんです。
ああ、一人では帰さないいうことですか。まあそうやって1年がたちますわね、そうしたら、ここがどういう所なのかだいたいわかってきましたか?
そうですね、入って6ヵ月くらいして衛生学が入ってきましたね、それからだーと専門的な内容が入ってきましたから。
本部でどういうことをしているということも?
いや、それはわからんですわね。
先輩からもれてくるんじゃないんですか?
いや、絶対いわんです。ただ衛生兵になるんだという感覚はもちろんありましたね。包帯の巻き方とか3角襟の使用方だとか消毒液に何種類あるとかですからね。
あの、本によると将来医者になれるんだといって集めたというような記述があるんですが森下さんそういうこと聞かれました?
いや、我々の時代はそういうことは聞かなかったですね。あくまで軍属になるいうことですから。まあ、この部隊で努力したら中学卒の資格ができるというようなことは聞いたことありましたけどね。
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