ハバロフスク裁判証言(2)
西俊英証言


被告西俊英の尋問調書

 私は、部隊に於ける私の職務及び地位の性質上次の事実を知って居ました。

 即ち、細菌戦用兵器の試験を目的として、ロシア人及び中国人(部隊の監獄に収容中の俘虜を含む)を強制的に殺人細菌に感染させる実験が行われました。是等の人々は、憲兵隊及び日本特務機関から部隊に送致されたのであります。(P84)

 以上の実験は一年間を通じて行われ、然も強制的に細菌に感染された者は、其の死後専用の火葬場に於て焚焼されました。

 例えば、私は次の事実を知って居ます。

 即ち、一九四五年一月−三月には監獄に於てロシア人及び中国人を発疹チブスに感染させる実験が行われ、一九四四年十月には安達実験場に於て五名の中国人俘虜をペストに感染させる(ペスト蚤に依る)実験が行われました。一九四三年−一九四四年冬、部隊に於てロシア人及び中国人に対する四肢凍傷実験が行われました(私は此の実験に関する実験者の報告並びに特殊映画を閲覧したのであります)。

 夫れ以外に、一九四五年一月私の参加の下に、ガス壊疽の感染実験が一〇名の中国人俘虜に対して行われました。実験の目的は、零下二〇度の気温に於て人間を瓦斯壊疽に感染させ得るか否かを確めるにあったのです。

 此の実験は次の様な方法に依って行われました。即ち一〇名の中国人俘虜が、瓦斯壊疽菌を附着せる榴霰弾より一〇米乃至二〇米離れた地点にある柱に縛り付けられました。

 被実験者の即死を防ぐ為、其の頭部及び背部は特殊の鉄板及び綿布団を以て蔽われましたが、足部及び臀部は被覆されなかったのです。

 スイッチが入れられると榴霰弾は破裂し、被実験者を配置せる広場に、瓦斯壊疽菌の附着せる榴霰弾子が散乱しました。其の結果すべての被実験者は足部若しくは臀部を負傷し、一週間後に苦悶死を遂げました。(P85-P86)

 私は又、日本軍が第七三一部隊部隊によって製造された細菌戦用兵器を実地に使用した二つの事実を知って居ます。

 一、一九三九年ハルハ河附近にて日本軍のソ・蒙軍に対する戦闘が行われた時細菌兵器が使用され、戦地のハルハ河に腸チブス菌、パラチブス菌、赤痢菌が投入されました

 二、一九四〇年五月−六月中国中部の寧波地区に於て、第七三一部隊派遣隊は石井中将の指導の下に、ペスト蚤撒布の方法により中国軍に対しペスト菌を使用しました。

 私は此の事実をば、私自身が教育部の金庫内に発見した書類、即ち殺人細菌使用の任務を帯びて派遣隊に参加した決死隊員の誓約書によって知ったのであります。夫れ以外に私は、戦地の細菌使用現場に於て撮影された映画、即ち使用された細菌戦用兵器の効果を証明する映画を閲覧しました。(P86)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 第七三一部隊による、細菌戦用兵器の実用について貴方の知っていることを述べて貰い度い。(P350)

(答) 私は、一九四〇年中国に対して細菌兵器が使用されたことを聞きました。一九四〇年八月或は九月に私は北京の防疫給水本部に居り、そこで中国中部の寧波市附近で細菌が使用されたことを耳にしました

(問) 誰から、そして如何なる事情で貴方はこれを聞いたか?

(答) 私が北京防疫給水本部に居た時、其処に南京の防疫給水本部の書類が来ました。この書類から寧波市附近で実用されたことが私に明らかになりました。

 ついで、北京の防疫給水本部長吉村少佐が中国に対して実用したペスト菌は石井部隊から取寄せられたものであることを私に知らせました。

 一九四〇年九月或は十月私の友人瀬戸少佐が南京から北京に立寄り、彼が中国中部で行われた作戦の帰途にあることを伝えました。

 斯くして、私が中国中部に於けるペスト蚤の実用に関し知っているのは、次の筋から、即ち第一は、瀬戸少佐の報道、第二は、吉村の報道、第三は、南京の本部からペスト蚤kンの本部に来た文書からであります。(P351)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 中国派遣隊に関し、貴方自身第七三一部隊で見たことを述べて貰いたい。

(答) 私は一九四〇年の中国中部の第七三一部隊派遣隊の活動に関する記録映画を見ました。

 先ず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。ついで飛行機の翼に撒布器が取附けられている場面が映され、更に特別容器にはペスト蚤が入れてあるという説明があって、それから四人或は五人が飛行機に乗りますが、誰が乗るのか判りません。(P351-P352)

 それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に向って飛翔しているという説明があり、次いで飛行機は敵の上空に現われます。

 次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現われ、飛行機の翼から出る煙が見えます。

 次に出てくる説明から此の煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判ってきます。

 飛行機は飛行場に帰ってきます。スクリーンに「作戦終了」という字が現われます。

 ついで、飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現われます。

 先ず飛行機から石井中将が姿を現わし、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。

 この後「結果」という文字が現われ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。

 説明の中で、寧波附近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。

 最後に、終りの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。

 正に此の映画から、私は寧波附近で細菌兵器が使用されたことをはっきりと知る様になりました。(P352)

(軍医中佐、731部隊教育部長)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 細菌兵器の使用に関して未だ貴方の知っていることがあるか?

(答) ハルハ川方面事件の際、石井部隊が細菌兵器を実用したことを知っています。(P352)

 一九四四年七月、私は孫呉の支部から平房駅の第七三一部隊教育部長に転任せしめられました。私は前任者サノダ中佐から事務を引継ぎました。同日、サノダ中佐は日本に向けて出発しました。私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、即ち、ハルハ河畔の事件で、細菌兵器を使用したことについての書類を発見しました。

 其処には当時の写真の原版、此の作戦に参加した決死隊員の名簿、碇少佐の命令がありました。決死隊は将校が二人、下士官、兵約二〇名から成っていましたが、此の名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。

(問) 第一番目は誰の署名があったか?

(答) 隊長碇の署名です。ついで碇の一連の詳細な命令、即ち如何に自動車に分乗し、如何にガソリン瓶を利用するか等、更に如何に帰還するかについての指示が若干有りました。

 之等二つの文書から二〇人乃至三〇人から成る決死隊が河 ― 私はハルハ河と思いますが ― を汚染したことが明らかになりました。

 翌日私は、之等の書類を碇少佐に手渡しました。私が之等の書類を碇に手渡した時、さて此の結果がどうであったかと興味を持ちました。碇は黙ったまま書類を引取りました。(P353)

 此の作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、その結果については、私は何も知りません。(P354)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 部隊で行われた凍傷実験について貴方は何を知っているか?

(答) 吉村研究員から聞いた所によりますと、酷寒 ―零下二〇度以下とのことです― に部隊の監獄から人々を引出し、素手にさせ、人口風によって手を凍らせていました。それから、小さな棒をもって凍傷にかかった手を、小板を叩く様な音が出る迄叩き続けました。此の外、私は実験に関する吉村の報告を読みました。これについて、映画も撮影されました。

 画面に、足錠を嵌められた人間が四−五人、防寒服を着、手には何も纏わず表に引出されて来る場面が現れ、ついで大形の扇風機が人工的方法によって凍傷を早めます。それから、手が完全に凍傷にかかったかどうかを点検するため、手を小さい棒で叩く所が上映され、つずいて、凍傷にかかった人間が部屋に入れられる所が上映されます。

 吉村は、この研究が 将来対ソ戦を目的として行われているのだと私に語りました。(P354)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言

(問) 安達駅の特設実験場に於ける実験について貴方の知っている事を全部述べて貰い度い。

(答) 安達駅は、哈爾濱から一四六キロメートルの地点にあり、その近辺に部隊の特設実験場が有りました。此の特設実験場で、第二部が野外の条件下で各種の実験を行っていました。(P354-P355)

 第七三一部隊長の命令で、一九四五年一月私は安達駅に赴きました。ここで私は第二部長碇と二木研究員の指導下に、ガス壊疽菌による感染実験が如何に行われていたかを見ました。

 此の為に囚人が一〇人使用されました。此等の人々は柱に面と向って縛りつけられ、相互の間隔は五乃至一〇メートルでした。囚人の頭は鉄帽で、胴体は楯で夫々覆われていました。

 身体は全部覆い隠され、只臀部丈が露出されていました。感染の為に約一〇〇メートルの所で電流によって榴散爆弾が爆発せしめられました。一〇人共全部露出部分に負傷しました。

 此の実験が終了した後一〇人共、特別の自動車に乗せられ、再び平房駅の監獄へ運ばれました。

 後に至って、私は碇及び二木研究員に、結果について質問しました所、彼等は、一〇人全部負傷し、ガス壊疽に感染されて死亡したと語りました。(P355)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西俊英証言


(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


(2016.5.1)
  
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