俘虜関係調査中央委員会調査報告書

「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書


昭和二十年十二月一日

俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴

俘虜関係調査部

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

前言

本調査に於ては「バタン」作戦終了直後に於ける俘虜の輸送竝に「オードネル」収容所における俘虜の管理に就き記述す(P7)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

第一 米国政府抗議の要旨

一、一九四二年十二月二十三日附瑞西国匿名全権公使より日本帝国外務大臣宛書簡

1.「バタン」にて捕虜となれる米比部隊は「オードネル」収容所に至る九十哩を疲労と疾患と負傷の身なるに拘らず強制歩行せしめらる 歩行中病人及負傷者は路傍に落伍せるも無看護にて放置せらる

2.「オードネル」収容所に到着せる後病人も健康者も均しく三十六時間食事を与へられず三日間家屋内に収容せられず(P7)

3.日本官憲は傷病者に治療を為すの努力を為さず 米比人医師及看護婦の奉仕を拒絶して収容所に入らしめず

4.此等不注意の結果死亡率は二五%となる(P8)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

二、一九四四年二月五日附瑞西国特命全権公使より日本帝国外務大臣宛書簡

1.「バタン」より「サンフェルナンド」迄の行軍間日本兵は米人将校俘虜の靴を取上げ無靴にて歩行するを余儀なくせしめたり

2.俘虜は飲用水の欠乏に絶えず悩まされたるにも拘らず行進中水筒を取上げられたる者あり

3.比島に於ける俘虜の健康状態は悲惨なり

 一九四二年四月「サンフェルナンド」に於ける米国人及比人俘虜は鉄条網柵内に収容せられ睡眠休養不可能なる程度に密集せしめらる 又彼等の多数は病気なるも手当は殆ど施されず 其の場所一杯排泄物にて蔽はれたり(P8-P9)

4.「サンフェルナンド」は「バタン」より百粁以上離れ居り 同所に於ける残忍なる取扱振りは戦闘の事態に依り釈明せられず

 俘虜は此の距離を無慈悲に煽りたてられ七日間に亘り歩行せしめらる

 行軍中落伍したる多数の者は護衛兵に依り射殺せられ又は銃剣にて突かる

 又行進中日蔭に集合せしめ得たる時にも炎天下に曝されたり

 米人及比島人俘虜は路傍に生埋にせられたること判明したるが累次の報道に依れば彼等は墓穴より這上らんとすれば「シャベル」にて打倒され生埋にせらる(P9-P10)

5.「オードネル」収容所に於ては待遇不良にして収容開始後数ヶ月間に米国人二千二百人、比島人二万人以上死亡せりとの確報あり 日本官憲に於て若し最小限度の手当を施したらんには此等死亡の大部分は阻止し得られたること疑なし

 同所の於ける所謂病院なるものは全然事態に即応せず 俘虜は何等手当を受けることなくして憔悴の儘床上に病臥し疾患の余り自らの排泄物より身を動すことをも無し得ざりき

 病院は極度に満員となれる為米国人は灼熱せる日光に曝されたる儘戸外の地面に横臥せり(P10)

 収容所の米人医師は医薬は素より排泄物を洗ひ去る水すら与へられざりき

 「マラリヤ」罹病者は数千に及びたるにも拘らず偶々規那(キニーネ)の供与ありたるときは僅に十件を■するに足る量ありたるに過ぎざりき

 「オードネル」収容所の俘虜にして「バタンガス」に派せられたる労働分遣隊三百人中二百人以上は死亡せり

6.「オードネル」収容所に於ては一九四二年中多数の男子は遮蔽なき場所に生活せしめられたり

 或る場合は二十三名の将校に派幅十四尺、奥行二十尺の仮小屋に収容せらる

 飲用水は極度に乏しき為一杯の飲水を得る為六時間乃至十時間行列を為す要ありたり(P11-P12)

 将校は収容所に於て当初三十五日間沐浴(もくよく)せず その後初めて沐浴を為す為一人に付一「ガロン」の水を与へられたるのみ、■所備品は大釜及五十五「ガロン」入「ドラム」罐一箇なりき

 甘藷は大釜によりて煮られ一本の木片にて潰され各人一人当り食糧として一匙を給せられたり

7.「バタン」より「サンフェルナンド」へ行進中日本の護衛兵により虐待せられたり

 護衛兵は水を得んとする俘虜を殴打せり

 日本軍用「トラック」にて衝き倒されたる同僚を助けんとしたる為一俘虜は棒にて頭部を殴打せられたり(P12)

 一大佐は路傍にて■の罐詰を見付け之を彼等の食糧として求めたるに彼の横面に日本将校より罐を投付けられ大佐の顔面に烈傷を受けたり

 一大佐は馬車を有する親切なる比島人を見付け歩行不能者を乗車せしめんとせる為顔面を打れたり(P13)


(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

第二 日本帝国政府回答の要旨

 第一に記述せる米国政府の抗議に対し既往に於て日本帝国政府の回答せる所の要旨左の如し(P13-P14)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

一、一九四四年四月二十四日附日本政府外務大臣より瑞西国特命行使宛書簡

1.日本軍の「バタン」半島占領直後にして治安の維持未だ回復し居らず

2.輸送機関の破壊等あり 加之米国軍の退却乃至投降前行ひたる焦土戦術に依り食糧及医薬品等を焼却せること

3.当時の戦■等に依り日本軍も亦食糧及医薬品の■足不十分なりしこと

4.米国軍投降俘虜の予想外に夥多なりし為俘虜に対する手当の予備を有せざりしこと(P14)

等の事実ありて比島に於ける米国軍投降時一時的に或は其の手当の十分ならざりしことは真に止むを得ざる事情に基くものなり

 帝国官憲は此の困難なる事情ありたるにも拘らず米国人俘虜の為に給養及医療に関し善処し来りたるものなり

 「バタン」半島にて捕獲せられたる米国人俘虜が「オードネル」収容所へ送致せらるるに当り徒歩に依るを余儀なくせられたるも前述の如く輸送機関破壊の結果自動車に依る後送に努力したるも事実不可能なりし実情なり

 而して右移送途中乃至移送後及其の他の虐待事例なるものは幾多の困難を排して行ひたる調査の結果に依れば之を発見せず(P15)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

二、一九四四年四月二十八日附日本政府外務大臣発在京瑞西国宛書簡


1.日本軍が比島を平定したる当時に於ける米国軍の給食は劣悪にして其の一般の衛生及健康状態は既に憂ふべき状態に在りたること日本軍の入手せる米国軍医の報告に依るも明なり(P15-P16)

 米国軍医陳述の要旨左の如し

一九四二年一月末一日二食となりたる以後の栄養悪化による病状

(イ)野砲部隊

 「ヴタミン」欠乏症を来し兵中には下肢の麻痺、浮腫、眼瞼及眼の周囲の浮腫を見るに至れり 而して兵は種々の野生植物を貪り食したるが中には誤りて有毒植物を食するもの出づるに至れり 兵の摂取「カロリー」は一五〇〇「カロリー」以下と推定せられ強労働の兵は次第に衰弱し行きしを認む

(ロ)第二野砲連隊(P16)

 多くの者は顔面蒼白憔悴し脚気を病み栄養不良に因る脚の浮腫を起するに至れり

(ハ)飛行隊

 兵の中には脚に浮腫を来すもの歯齦の出血するもの等出て来り 一般に体重減少し兵の三分の二は「マラリヤ」と栄養不良に因る病人なりき 三月下旬頃には「クーポン・ナット」や「バタン・ナット」を食ふものも出づるに及び前者の多く食ひし者は目眩を起し後者を多く食ひし者は下痢を起すに至れるが食糧不足に依り兵は之を知りながら中止せざりき

(ニ)野戦病院

 入院し来れる兵には「マラリヤ」を患ふもの、生色を失ひ衰弱して栄養不良に因る下腿の浮腫するものを多く認めたり


2.帝国政府の調査に依れば「カブカーベン」附近にありし米国野戦病院は降伏当日約六千の米比軍患者を収容しありしが米国軍は降伏と同時に糧食欠乏の理由を以て入院中の比人重症患者(戦傷患者の外「マラリヤ」の患者多し)を追放したる為に多数の死亡者を出したる事実あり


3.此等の事実に徴するも米国軍の健康状態が其の投降前既に栄養不良衰弱、脚気、「マラリヤ」等の流行に依り憂うべき状態にありしものにして 右状態は更に米陸軍の焦土戦術即ち在庫食料品、薬品を焼却損失せしめたること、日本軍自身も当時の状況よりして食糧の余裕に乏しかりしこと 米国人俘虜が以外に多かりしこと 及一般民衆にも亦当時食糧難に陥り居り彼等よりの供給を得る能はざりしこと等の事実に依り 俘虜に対する糧食が不十分にして医療手当亦意の如くならざりしにも拘らず 帝国官憲は最善を尽し 俘虜の給養に勉めたり


4.其の後比島に於ける俘虜の健康状態が著しく改善せられたる事実は之を一九四三年の一年間に於ける俘虜の死亡数に見るも明なり 即ち一九四三年比島全島に於ける約一万人の米人俘虜の中死亡者の数は一六八人にして同年十一月中の如きは僅に一名の死亡ありたるのみなり


5.比島に於ては一九四二年十一月防疫調査班を組織し専ら防疫に関する措置を講ぜしめ其の結果比島俘虜収容所の衛生状態は著しく改善せられ 前述の如く死亡数の減少を見るの効果を上げ得たり 是れ日本軍衛生班の挺身的努力に因るものと云ふべし(P19-P20)


6.俘虜の輸送に於て「バタン」作戦終了直後の困難なる徒歩行軍を為すの止むを得ざりし事情に就ては前述の如し

 而して一九四二年五月十日より二十日迄に「リマイ」附近んて捕獲せる約二〇〇名の俘虜は給食したる後将校を附し全部自動車にて輸送せり

 又同年五月十二日より二十日迄に投降せる俘虜約三〇〇名は給養したる後弾薬補充の自動車の乗せ「バランガ」仮収容所に全部送致せられたり


7.其の他一九四二年四月比島に於て米国人俘虜が日本軍に捕獲せられたる当時其の身廻品を没収せられたるとの記述に関しては今日迄帝国政府の有する調査資料に依れば斯る事実発見せられず(P20-P21)

 又日本軍の比島占領当時発生したる各種俘虜虐待事件にして既に相当期間経過したる為現在調査困難なりしも今日迄の調査に依れば其の事実を発見せず(P21)


(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

第三 其の後に於ける調査の結果並に其説明

 「バタン」作戦終了後に於ける俘虜の取扱竝に「オードネル」に於ける俘虜管理に於て最も重大なる問題は

A.困難なる状況下に於て俘虜を長距離徒歩行軍せしめたること

B.「オードネル」に収容後多数の死亡者を出したることなり

 而して本問題に就ては前記帝国政府の回答に於ても其の止むを得ざる事情に基くものなることを累々説明しあるも以下更に当時に於ける全般の状況を明らかにし勉めて詳細なる説明をなさんとす

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

一、「バタン」作戦終了後に於ける俘虜の輸送

 「バタン」作戦終了後米比人俘虜は「バタン」より「サンフェルナンド」迄は徒歩行軍、「サンフェルナンド」より「オードネル」迄は汽車輸送せられたり(P22-P23)

 行軍及輸送間の給養竝に衛生、急救は諸般の困難なる条件に支配せられ不満足の状態にして其の結果は恰も俘虜虐待の意図に基くものなるかの如く観察せらるるもの絶対に然らず 本件誠に遺憾に堪へざる所なり

 当時に於ける諸般の困難なる状況に就き説明すれば左の如し

1.当時日本軍に於ては第一次「バタン」攻略作戦の失敗の経験と南部「バタン」半島に於ける米軍の防備状況とに鑑み之が攻略の為には約一ヶ月を要するものと判断し攻撃準備の周到を期したり

 従って軍兵站機関は専ら軍需品の造成、輸送、補給、集積等に手一杯にして攻撃初期迄に於ては俘虜の受入準備に十分の努力を尽す余裕なかりし状況にありたり(P23)

 然るに攻撃の結果は一週間足らずにして米比軍の降伏となり而かも其の兵力は当初約四万と判断せられたるも事実は七万以上に及びさらに多数の避難民をも含めり 此の厖大なる兵力の一挙投降に遭遇し之が輸送、給養、衛生其の他収容所の設備等に関しては前項作戦推移判断にも鑑み万般の受入体制は未完成なりき

 斯くの如く不十分なる俘虜受入態勢下に於て各兵站機関は倉■として俘虜の管理に方り努力を尽したるも此の困難なる条件の克服に成功するに至らざりし実情にありたり

2.米比人俘虜は受入態勢完了迄「バタン」半島に止めしむるは俘虜給養の為厖大なる糧秣前送の不可能なりしと■■の地に在りて収容其他の給与不十分なりしを以て速かに中部呂宋(ルソン)に移動せしめざるべからず(P24-P25)

 之が為「サンフェルナンド」迄困難なる行軍を為さしめしたり 当時輸送用自動車は「コレヒドール」の作戦準備竝に第十六師団、第六十五旅団及永野支隊等の転進作戦に即応する為軍需品移動等の為使用せられ 七万に上る厖大なる俘虜を輸送する為には之を使用し得ざる状況にありたり

 而して困難なる徒歩行軍を為せるは俘虜のみに非らず 即ち第六十五旅団は「バタン」より北部呂宋へ又第十六師団は「バタン」より南部呂宋へ夫々一層難儀なる行軍を強制せられたり(P25)

3.俘虜の移送間に於ける護衛兵は数百人に付一人の程度にして厳然る(ママ)統制の下に行軍せず 従って俘虜自体の行動には相当の自由ありたるものにして故意に炎天に曝し或は水の採取を妨害したるが如きことはなきものと思惟(しい)せらる

 又護衛兵の惨虐行為を数々列挙せられありも当時護衛兵自身も疲労困憊して俘虜と共に行進し惨虐行為を為すの気力も無かりしものと判断せらる 殊に俘虜落伍者を生埋にするが如き悪虐なる行為は無きものと判定す

 只日本兵が俘虜の時計や水筒を掠奪せりと抗議せられたる件に関しては確証なきも戦闘終了直後第一線附近に於て此の種事件の発生せることは之を保し難し(P26)

 尚上記の如く俘虜は大部分自由なる状態下に行軍せる為逃亡せる者は相当数に上りたるものと認めらる 従って護衛兵が此等を制止する為或は威嚇的に発砲せし疑あるは否定し得ざる所なるも俘虜を射殺せる事実は目下の所調査不能なり

 米国政府の抗議文中には護衛兵の惨虐行為を羅列しあるも護衛兵の中には自らの疲労にも拘らず路傍の砂糖黍を採りて俘虜に供与する等の状景を目撃せる者ある状況なり


4.俘虜移送間の給養(P27)

 当時に於ける逼迫せる食糧事情に関しては後述の如くなるも約七万の俘虜(バタン作戦に従事せる日本軍の給養兵■よりも大)に即応する給養の事前準備なく俘虜移送間応急の炊出等を実施せるも全般的給養は勢ひ不十分なるを免れざる実情にありたり


5.俘虜受入態勢の未完成は建築物竝に食糧の集積に於て特に然り

 「オードネル」に於ける諸施設は荒廃し又而も狭隘なりし為当初の間相当数の俘虜は止むを得ず露営せしめたるものと認めらる

 食糧の集積又不十分なるを免れざるのみならず七万人に応ずる炊事用具に不足し給養の円滑を欠きたるは甚だ遺憾とする所なり(P28)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

二 衛生一般の状況

 俘虜の衛生は当初の間不良状態にありしことは事実にして帝国政府の「バタン」作戦に参加せる第四師団、第十六師団、第六十五旅団、永野支隊、及軍直部隊等にして衛生機関を有するものは第四、第十六師団のみにして衛生機関は著しく不足し現地人、台湾人等を以て臨時衛生機関を編制し又軍司令部の人員を此等第一戦兵団に配属せざるべからざる状況にありたり(P28-P29)

2 日本軍の衛生装備も亦不備にして第二次「バタン」作戦開始に先立ち薬剤の統制配給に当りし軍司令部勤務薬剤軍医将校は薬物量の絶対不足に対し苦慮の結果神経衰弱を起し遂に死亡するに至れり

 特に「マラリヤ」剤は不足にして其の予防内服剤の如きも効果を十分期待し得る数の服用不可能なりしのみならず 医薬品、衛生材料全般に亘りて極度に欠乏しありたり(P29-P30)

 輸送機関の不足は日本軍第一線部隊の栄養を極度に低下せしめ一部に於ては浮腫、下痢、心悸亢進等栄養失調症状を呈するもの多発し 之に対する薬物なき為椰子実を焼きて炭秣を製し柑橘類を絞りて「ビタミン」Cを補給する等手を尽したるも不足は如何とも為し難く 一部の部隊に在りては土人の教ふる所に従ひ苦味ある樹皮を煎用して規那に代へたる状況なり

 患者の後送又は困難を極め為に衛生機関は第一線近く進出して治療に当りたるも病院にて死亡する者多かりし状況にありたり(P30)

3 四月中旬在呂栄島日本軍部隊就中「コレヒドール」攻略部隊に「マラリア」患者多発を見るや一旬余にして二万五千、五月末迄に五万の患者一斉に爆発せり

 而して四月下旬に於ては患者多発の為一時「コレヒドール」作戦を中止せざるべからざるの危機を招来し内地、台湾等より軍医、医薬品を緊急空輸して続く此の危機を克服し得たり

4 前項の如き患者多発の状況に鑑み各病院共超満員の状態にして兵站病院の如きも第一線に之を開設し千名を収容すべき病院に五千余の患者を収容し薬物の不足給養の粗悪に悩みたり

 薬物は経口用「アテブリン」を注射用に用ひ砂糖を転化糖として静脈注射する等応急処置を講じたるも其の不足は改善せられず為に「マラリア」による死亡者多数に昇り惨たる状況を呈したり(P31)

 此等惨たる状況は給養の不足と形影相伴へるものにして全般状況の改善に伴ひ一九四二年九月頃より逐次好転せるも其余波は一九四三年末に及びたるものと認められたり

5 日本軍の悲惨なる衛生状況如上の如く当時日本の作戦目的の達成の為衛生部員、医薬品の大部を日本軍自体の為に指向するの止むを得ざる状況にして勢ひ米比人俘虜に対する手当が十分行届かざりしは洵に遺憾と謂ふべきなり

 尚茲に注意すべきは米比部隊が一月「マニラ」撤退以降四月に至る約百日間「マラリヤ」病の猖獗地にして諸施設の不十分なる「バタン」半島に立籠り衛生上大なる危険に曝され投降前既に多数の疾患に犯され居りし事実にして本件は前記帝国政府回答に明かなり(P32)

 而して此の事実が彼等の投降直前に日本軍に通告せられありせば患者の輸送、看護等に就て一層の注意を払ひ悲惨なる結果を幾分なりとも防止し得たるべし

 本件は「カブカーベン」に於ける米軍野戦病院が日本軍の作戦行動上の幾多の不便ありたるに拘らず米軍の申出に依り他へ移動を差控へたる事実に於ても実証せらるる所なり

6 俘虜の衛生状況は当初の間以上の如く不良なりしも作戦全般の進捗と補給の改善竝に関係各機関の努力とにより時日の経過と共に逐次好転し来れり(P33)

(註)一九四二年九月十三日比島正式俘虜収容所長より中央宛報告に依れば

「八月間に於ける患者八七五五名即ち約六〇%、死亡者は三〇三名約二.五% 目下病院を開設収療に努め漸く患者減少に向ひつつあり

 主要患者は「マラリヤ」、赤痢、栄養失調症なり 八月に入るや「マラリヤ」剤は充分に補給せられ患者死亡者激減す 赤痢は大部「アメーバ」性と考へらる

 赤痢特効薬僅少にして死亡率約三五%なり 軍より防疫班派遣せられ防疫に努む」

 又九月十九日附報告に依れば目下死亡率減少し米人は一日約十人位なり

 「オードネル」収容所に於ても後述する如く関係機関就中同収容所長の懸命の努力により逐次衛生状況は改善せられ死亡者も激減するに至れり(P34-P35)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

三、給養の一般状況

1 日本軍の比島占領後に於ては治安不定、交通途絶等の為米の集荷、輸送の円滑を欠き平時に於ても困難なる比島の食糧事情は頗る逼迫し軍隊は素より一般住民に於ても食糧の不足に悩み軍に於ては約十万屯の西貢(サイゴン)米を輸入せんとせるも船腹の不足は重要を十分充すに居たらざりき

 殊に「ミンダナオ」島に於ける食糧事情は危機に頻し軍需食糧を空輸せるも全般の不足は之を改善する能はざるの実情にありたり

2 俘虜の給養が当初不満足の状況にありたるは前記の如く俘虜の受入態勢未完にして「バタン」に於ける日本軍の給養兵額より大なる俘虜の食糧集積に多大の困難ありたるは誠に止むを得ざる事態と謂ふべし(P35-P36)

 尚俘虜の給養に際し一隘路を形成せるは炊事用具、食器にして日本軍司令部に於ては飛行機より散布せる 投降票に必ず食器を携行すべき旨を記載せり

3 以上の如く初期に於ける俘虜の給養は粗悪なるを免れざりしも一九四二年後半期に於ては治安の逐次安定、食糧改善施策の推進並に俘虜の釈放に依る給養兵額の減少等の為漸次良況に向ひたり(P36)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

四、「オードネル」収容所に於ける俘虜管理の状況

1 「オードネル」収容所に於ける俘虜の取扱、管理は先にも述べたる如く諸般の準備不十分の為初期の間に於ては十全を期し得ざる実情にありたり(P36)

 特に当初約一月の間は予備役大尉を長とする少数の人員を以て之が管理に当りし為不行届の点を生じたり

 然らば何故少数人員を以て之が管理に当りしかと云ふに当時兵站各部隊は軍需品の補給、俘虜の管理の外に殆んど銃を採り得るものは全部武装して各地の警備、米比「ゲリラ」部隊の討伐に当り日も尚足らざる状況にありて著しく後方兵力の不足を来しありし実情にありたり

2 五月上旬「コレヒドール」作戦並に各兵団の全比島戡定作戦の基礎配置を終り軍司令部幕僚等「オードネル」収容所を視察して俘虜の管理が憂慮すべき状態にあるを現認し之が改善の施策を講ぜられたり

 即ち先づ有能なる現役中佐を収容所長(英語に堪能にして且人格者を選定せらる)に任命し所員を若干増員せられたり(P37-P38)

 爾来新収容所長は懸命の努力を払って給養、衛生の改善就中死亡者の絶滅対策に邁進せり

3 給養の改善

 A 主食の増量

 当時我日本軍に於ても主食は其の数量減少せられあり 俘虜に於ても減少止むなき状態にあり 成し得る限り日本軍と同量ならしむることに努む

 B 副食物

 就中肉類、野菜類の不足著しかりしを以て牛、豚類の飼育配当野菜の現地自活を計ると共に「マンゴ」類の果実を配給す(P38)

(註) 比人は米人に比し「バタン」方面に於ける栄養失調者多く収容所に収容時に於て既に体力気力著しく消耗しありて「マラリヤ」赤痢等の為死亡するもの多き実況にあり

4 住居施設の改善

 A 収容所は管理人員の節減を図り警戒の便を得る為広地域に分散することを得ず 勢ひ狭隘となるの止むを得ざる事情にありたり 然れども其の後兵舎の増築改築を計り住居の改善拡張を期せり

 B 水道管の施設

 収容所の水便は十分ならざる所あるを以て水道管施設により給水の便を図る(P39)

(註) 「オードネル」収容所は高原地帯に在る高燥なる米比軍野営地にして東西千米、南北二千米の地域内に在る臨時構築物を利用 家屋の大部分「ニッパ」藁製にして中に若干の木製あり 然れども「スコール」等の為倒壊せるものありて収容が十分ならざりしを以て増、改築し一九四二年七月末日迄に五十人乃至百人収容家屋を約六〇〇を整備せり

5 衛生施設の改善

 当初に於ては衛生施設見るべきものなかりしを以て病院の施設と薬物の補給消毒の励行等幾多改善施策に努力せり

 A 病院

 一九四二年六月中旬以降「リットルバギオ」に於ける米陸軍病院の当地移動に伴ひ衛生状況は著しく改善せられらり(P40)

 赤痢患者は速に離隔収容し主として米比人衛生部員をして之が看護に当らしめ以て他への伝染を防止せり

 B 排泄物の消毒

 赤痢患者の排泄物の不潔なるは病魔を増長せしむるものにして之が予防の為には排泄物の消毒を第一義なりと認め石灰其の他薬物による消毒を行ふ如く衛生員を督励せり

 又 便所の増築に努む

 C 「マラリヤ」治療の為「キナ」其の他薬物の取得に努めたるも其の最小くして当初の間所望の域に達せざりしも日本軍に於ける薬剤の補給円滑化に伴ひ俘虜に対する支給も漸次円滑となり「マラリヤ」も逐次終息し死亡率亦減少せり

6 死亡調査表作成(P41)

 毎日米比人毎に死者調査「グラフ」を作製せしめ死者の状況を明ならしめ之が原因を探求して減少を策する資たらしむ

 死亡率は当初多かりしも六月中旬病院施設の実現と住居及給養の改善に伴ひ著しく減少し愁眉を開くを得たり

7 娯楽施設

 ■■、運動器具(野球用具其の他)を備付け之が利用により娯楽を得しむると共に体力、気力の増進を図る

8 其の他

 米比人毎に死者に対する墓地を整理せしめ死者の弔を厚からしむ

 以上の施策の実現に努め漸次好結果を収めたるものと認む(P42)


(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

五、俘虜収容所の移転と比人俘虜の釈放

1 米人俘虜は五月より逐次「カバナツアン」に移送せられたり

 七月東京より特別の教育を受けたる少将を長とする正式俘虜管理機関派遣せられ八月一日より「カナバツアン」及其の他の米人俘虜の官吏に当ることとなり

2 比人俘虜は六月頃より身元確実なる者より逐次釈放を開始す

3 「オードネル」に於ける俘虜管理の負担を軽減し且一層管理の改善を図る為七月より多数の者を「ストッチェンバーク」の兵営に移し軍政監部より相当数の職員を増援し俘虜に若干の訓練と職業の輔導を為したる上之を釈放せり

4 斯くして一九四三年一月全部の比人俘虜は釈放せられ同年同月「オードネル」竝に「ストッチェバーク」の収容所は閉鎖することとなれり(P43-P44)

 尚釈放に際し「マラリア」■患者に対しては若干の規那を携行して帰郷せしめられたり(P44)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

結 言

 以上の如く「バタン」作戦終了直後に於ける俘虜の取扱管理は諸種の困難なる事情に依り欠陥を生ぜしは洵に遺憾とする所なり

 然れ共此の事たるや日本軍に於ても同様苦難の底にありたるものにして事態の緩和に伴ひ俘虜の管理も漸次改善せられたること事実の明証する所なり

 想ふに「バタン」「コレヒドール」作戦は苦節難行の作戦にして日米両軍の出せる犠牲も亦多大なり 殊に戦ひ終りて後「オードネル」に病没せる多数の米比人俘虜は彼等自身に何等の罪なかりしを思へば洵に痛恨の極みなり

 当時に於ける比島の日本官憲は比律賓行政機関と相計り「オードネル」に弔魂碑を建立し十一月遺族の参列を求めて追悼の式を挙行し棒歿将士の霊を慰めたり(P46)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)

(2013.12.14)


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