"バターン死の行進" 「パンティンガン川の虐殺」資料編


 本コンテンツは、「バターン死の行進 パンティンガン川の虐殺」に使用した資料のうち、長文のため収録しきれなかった資料を掲載するものです。



 「夏部隊」幹部の回想

※夏部隊 第六十五旅団(奈良晃中将)の通称。歩兵第百二十二連隊(松山、連隊長渡辺祐之介大佐)、歩兵第百四十一連隊(福山、今井武夫大佐)、歩兵第百四十二連隊(松江、吉沢正太郎大佐)などから構成。


今井武夫『支那事変の回想』  

(歩兵第百四十一連隊連隊長・陸軍大佐)


 九日バターン戦線の勝敗はすでに明かとなり、敵の指揮官キング中将は、バターン半島の全部隊に降伏を命じたので、十日朝から戦線各所のジャングルから、七万の捕虜が現われ、わが軍門に降った。

 わが聯隊にもジャングルから、白布やハンカチを振りながら、両手を挙げて降伏するものが俄かに増加して集団的に現われ、忽ち一千人を越えるようになった。
 
 この頃になって戦場のわれわれにも、バターン半島の米比軍が全面的に降伏したという噂さが伝わって来て、兵達は長い戦闘間の辛労を顧み、生き残った各自の生命を改めて確かめ、各所で歓声を挙げて楽しげであった。

 午前十一時頃私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。

 特に聯隊長を指名した電話である以上、何か重要問題に違いない。
 
 私は新らしい作戦命令を予期し、緊張して受話器を取った。附近に居合わせた副官や主計、其の他本部付将校は勿論、兵隊一同もそれとなく私の応答に聞き耳を立てて、注意している気配であった。

 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。

 それは

 「バターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、日本軍はまだ之れを全面的に承諾を与えていない。

 其の結果米比軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手許にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。

 貴部隊も之れを実行せよ。」


と、いうものである。

 戦闘間の命令は其の事の如何を問わず、絶対服従せねぱならぬことは、厳しい軍律である。しかしこの兵団命令は人間として、何としても聴従しかね、又常識としても普通の正義感では考えられぬことである。

 この時(P178)

 コン(門がまえに困)外の任を承けては勅命と雖も聴かざることあり

と、いう古い言葉が、頭をかすめた。

 私は自己の責任上避けられない立場に困惑したが、心を決めて直ちに応答した。

 「本命令は事重大で、普通では考えられない。従て口答命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達せられ度い。」

と、述べて受話器をおいた。

 私は直ちに命令して、部隊の手許に居った捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するように指示して、一斉に釈放して仕舞った

 私の周囲に居った渡辺中尉や杉田主計中尉其の他若い将校は、私の意外な指示に仰天してあっけに取られ、棒を呑んだように息を詰めたまま私を見詰めていた。

 戦後彼等の告白によれば、聯隊長の突飛な命令に吃驚りして、実際頭がどうかしたのではないかと、疑ったと述べている。

 私はこの時、兵団は恐らくこの非常識な筆記命令を、交付しないであろうが、たとえ万一斯かる命令が交付されても、其の時部隊には一兵も捕虜を管理していない状態にしておけば、多数捕虜の生命を擁護することが出来ると、思案した結果であるが、果して筆記令今は遂に入手しなかった。

 戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によればたまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻参謀が口答で伝達して歩いたものらしく某部隊では従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺戮した者が居り、アブノーマルな戦場とはいいながら、なお其の異常に興奮した心理を生む行動に、慄然とした。

 勿論戦後マニラの米軍戦犯軍事法廷では、本問題も審理の対象とされ、軍司令官本間中将の罪行に加えられたと聞き、側隠の情に堪えかねたが、同時に斯かる命令を流布した越権行為が、有耶無耶に葬られていることに対し、深い憤りを禁じ得ない。

 ここで大東亜戦後フィリッピンのロハス大統領が、中華民国の蒋介石総統に、助命の親書を送ったため、戦犯から解放されて問題となった神保信彦中佐の談話を附記する。

 神保はバターン戦で、われわれ夏兵団の右側に隣接して戦闘した、生田寅雄少将の指揮する第十独立守備隊司令部で高級副官をしていた。(P179-P180)

 生田兵団は中国大陸から比島に転用され、四月四日リンガエン湾に上陸し、四月七日オロンガポから前進してバターン半島西岸地をマリベレス山西麓に向って攻撃前進した。

 私が捕虜殺戮の命令を受けた同じ日、生田司令官は夏兵団の高級参謀から電話で、私が受けた命令と同じ内容の大本営命令を伝達された

 驚いた生田少将は、特に部下大隊長四名を招集して、この命令により約一万人に達する捕虜の処置を協議したが、もとより重大問題であるだけに、慎重に審議すればする程、異論が出て、決論が決まらないまま数日を経過した。

 其の間に神保は、自ら軍司令部に出かけて、この軍命令は、本間軍司令官の関知せざるものであることを偵知し、危うくこの蛮行の実行を中止することが出来た

 同時に神保は、戦闘間の軍命令の神聖性に深い疑惑を感じ、特に捕虜に関する命令には、怪しい偽作命令のあることを体験して、衝撃を受けた。(P179)


藤田相吉『ルソンの苦闘』

(歩兵第百四十二連隊副官)


『捕虜は認めない!』

 吉沢支隊の将兵五〇〇名は露営地の小川で三日振りに顔を洗った。小川は混雑したが、埃にまみれた顔でも洗えば少しは見られる。しかし、どの顔もすっかリ疲労困憊して、今はもう一刻も早く眠りたい。

 「当番、あれはあるか?」今日押収したブランデーのことだ。

 「あります」

 見れば大分中味が減っている。残り少ないブランデーをぐっと呑みほした私は、食事もそこそこに死んだように眠ってしまった。

 ぐっすり寝ている処を突如通信兵にゆリ起された。時計を見ればちょうど正子だ。

 「兵団の都渡参謀殿から電話であります」

 「よし、判った」

 私は電話に出るなり、(P81)

 「吉沢支隊の藤田であります」

と小さな声で言った。

 「都渡参謀ですがネ、吉沢支隊の明日の行動に就て、申しておきます。筆記をしないで下さい」

 参謀も何かはばかるものがある様な口振りだ。

 「判リました、言って下さい」

 「兵団命令の要旨を伝えます」

と前置きして、

 「吉沢支隊は、『明早朝、露営地を出発し、「レナチン」川支流右岸に適宜陣地を占領し、後退し来る敵捕虜を捕捉殲滅すべし』 細部は、出発の時に申します。以上です」

 私は一瞬我が耳を疑った。奇怪な命令である。驚くべき命令、私は暫く考えて、

 「それは出来ません」

と、はっきり言いきった。

 こんどは、参謀の方が驚く番だ。一聯隊附将校が、兵団命令を真向うから反駁するのだから、藤田の奴、気でも狂ったかど思ったに違いない。(P82-P83)

 「何ですか、その言葉は。貴官は、支隊長に要旨命令を伝えればよいのだ」

 「それが出来ないのであります」

 「何故出来ないか。命令に反抗する気か」

 「命令には絶対服従せなくてはならん、それ位のことは知っています」

 「それなら吉沢支隊長に伝えろ、軍命令だ」

 「都渡参謀殿、私は、今日、何千という捕虜を見ております。敵の師団長とも会って話をしています。武器を捨てて、我が軍の命令通りに後退して来る捕虜を騙し打ちにすることは皇軍の道ではないと思います。第一、あの多数の捕虜を皆殺しにすることは技術的にも不可能です。後日必ず問題になります」

 「軍の命令だ、捕虜は認めない

 「吉沢支隊長殿にこの命令を伝えて、吉沢支隊長が実行されなかったら、支隊長が抗命罪となります。私を軍法会議にかけて下さい」(P83-P84)

 私は、ふとT参謀を頭に思い浮べた。T参謀は、マレー作戦の山下兵団の作戦主任であった人。今は、大本営からの派遣参謀として本作戦に加わっていて、盛んに軍の参謀部をかき廻していると聞いた。

 一部からは作戦の神様と言われ、又一部からは軍を誤る者は、T大佐であるとも言われている人である。彼には、東条首相も一目置くとか、軍司令官も、軍参謀長も、文句を言い得ないとか。兎角、問題の多い軍人、無惨、乱暴なこの命令もT参謀が勝手に出した私物作命ではなかろうか。T参謀が出したとしてもこれを直ぐ伝える兵団参謀もどうかしている。

 都渡参謀は"軍命令だ"と言ったが、本間軍司令官も、和知参謀長も、実行不可能の命令を下すことはないであろう。敵前抗命の罪で、銃殺されても構わん。この命令は撒回して貰わねばならない。

 「参謀殿、十名や二十名の捕虜を処分せよと言われるなら、出来ます。降伏して来る、何千名という捕虜を皆殺しにすることは出来ません。軍に意見具申をして下さい、お願いします」(P84-P85)

 支隊長も恐らく目を醒して聞いておられるに違いないが、何も言われない。暫く返事がない。私はもう一度

 「都渡参謀殿、も一度軍に言って考えて貰って下さい」

 「後で電話します」

 都渡参謀は立腹して電話を切った。凡そ兵団命令を一言の下に「出来ません」と言って揆ね返す奴がどこにあろう。勿論私は、軍法会議は覚悟の上だ。支隊長の許にいき、

 「支隊長殿」

と呼んだ。支隊長は起き上って、

 「聞いた、捕虜を皆やれと言うのか、軍は血迷ったことをいう。近頃の参謀は、何を言い出すか分らん。出来もせん事を平気でやれと言う」

大変な憤憑である。

 兵団から何と言って来るか。私に、出頭して来いど言って来るか。憲兵を派遣して来るか、どうしてもやれと言って来るか、一度命令した事を取消すことは余程の人物でないと出来ない事だ。(P85-P86)

 私は、興奮した。

 内山軍医かやって来て、

 「無茶を言いますネ」

と言って慰める。

 「藤田大尉殿、兵団参謀にあんなことを言っていいんですか」

皆起き上って私を取りかこみ"発狂者"の如く見つめる。

 「よくはないよ。だから俺は、明日は軍法会議だ。俺が引っ張られて、抗命罪で銃殺されても、後をしっかりやれえよ」

 「まさか、そんなことはありますまい」

 「わかるものか。狂人参謀のことだ。抹殺という術もある」

軍の一人の気狂い参謀の為に日本軍の歴史を穢してはならぬ。私は如何なる処分も甘んじて受ける覚悟だ。首を洗って待っている。

 約一時間を経過した。再び兵団から電話が来た。私は直ぐに受話機を握る。(P86)

 [藤田であります」

 「私は都渡です。先程の電話命令は、取り消します

私は、自分の意見具申が入れられ、明日の凄惨、阿修羅の場面を避け得た喜びを禁じ得ない。

 「判りました。有難う御座いました。参謀殿、先程の御無礼を深くお詫びします」

思わず、お礼をいう始末である。

 「いやあ、そこで、貴隊は、明日、戦場掃除に任ぜられる予定ですが、詳細は、明朝命令されます。そのつもりでいて下さい」

 「判リました」

 私は、聯隊長に委細を報告して安心して戴かねばならん。

「先程の要旨命令は、取り消しになりました。明日は戦場掃除をやるそうであります。命令は明朝参ります」

と報告した。之に対して、吉沢支隊長は、

 「よかった、よかった」

といって、至極満足の態であった。(P87)

 

※藤田相吉氏は、夏友会『バターン・ラバウル 夏部隊の足跡』にもほぼ同趣旨の文章を寄せています。

夏友会『バターン・ラバウル 夏部隊の足跡』より

"バターン作戦" 補充要員として追及

     第一四二連隊 藤田 相吉

「捕虜は認めない!」


 バターン作戦終了後、一四二連隊(吉沢部隊)の将兵約五〇〇名露営地の小川で三日振りに顔を洗った。埃まみれの顔、どの顔も疲労困憊した顔、今はもう一刻も早く眠りたい。食事もそこそこに死んだように眠ってしまった。

 ぐっすり寝ている処、突如通信兵にゆり起された。時計を見ればちょうど正午だ。

 「兵団の都渡参謀殿から電話です」と「吉沢部隊の藤田であります」と小さな声で言った。

 「都渡参謀ですがネ、吉沢部隊の明日の行動に就て申しておきます。筆記をしないで下さい

参 謀も何かはばかる様な口振りである。

 「判りました」「兵団命令の要旨を伝えます」

 「吉沢部隊は明早朝、露営地を出発し「レナチン」川支流右岸に適宜陣地を占領し、後退し来る敵捕虜を捕捉殲滅すべし」「細部は出発の時に申します。以上」

 私は一瞬我が耳を疑った。奇怪な命令である。驚くべき命令、私は暫らく考えて、

 「それは出来ません」とはっきり言いきった。それに対して「何ですか、その言葉は。貴官は吉沢部隊長に要旨命令を伝えればよいのだ」

 「それが出来ません」

 「何故出来ないのか、命今に反抗する気ですか」

 「命令には絶対服従しなくてはなりません。それ位のことは知っております」

 「それなら吉沢部隊長に伝えろ、軍命令だ」

 「都渡参謀殿、私は今日何千という捕虜を見ております。敵の師団長とも会って吉沢部隊長も話しをせられ、捕虜の扱いに注意せられました。武器を捨てゝ我が軍の命令通りに後退して来る捕虜を騙し打ちにすることは皇軍の道ではないと思います。第一あの多数の捕虜を皆殺しにすることは技術的にも不可能です。後日必らず問題になります。」

と「軍の命令だ。捕虜は認めない

 「吉沢部隊長にこの命令を伝えて実行されなかったら部隊長が抗命罪になります。私を軍法会議にかけて下さい」(P360-P361)

 「………」

 私はふと此の時T参謀を頭に思い浮べた。T参謀はマレー作戦の山下兵団の作戦主任だった。今は大本営から派遣参謀として本作戦に加わっていて盛んに軍の参謀部をかき廻していると聞いていた。

 一部からは作戦の神様と言われ、又一部からは軍を誤るT大佐であるとも言われている人物、兎角問題の多い軍人で、無惨乱暴なこの命令もT参謀の独断勝手に出した私物命令ではなかろうか、此れが事実としたらその命令通り実行した我が部隊は後の代に於て無暴無分別な行動として憂を残すことになる。私は命にかけても此の命令には服してはならぬと我が心に誓った。

 都渡参謀は″軍命令だ″と言ったが、本間軍司令官も和知参謀長も実行不可能な無分別な命令を下すことはないであろう。たとえ抗命の罪として銃殺されても構わん、この命令は撤回して貰わねばならぬと強く熱望した。

 「軍に意見具申して下さい。お願いします」

 暫らく返事がない。私はもう一度繰り返した。

 「後で電話します」と立腹したロ振りで電話はきれた。

 吉沢支隊長は傍で聞いておられた。「捕虜を皆やれと云うのか、軍は血迷ったことを云う。近頃の参謀は何を言い出すか分らん、出来もせん事を平気でやれと言う」と大変な憤懣であった。

 兵団から何んと云ってくるか一度出した命令を取消すことは余程でないと出来ない事だ。周囲の皆んなも傍で聞いていて心配してくれる。

 約一時間経過して再び兵団から電話が来た。

 「ハイ、藤田です」

 「私は都渡参謀です。先程の電話命令は取り消します」と

 「判りました。有難うございました。参謀殿、先程の御無礼深くお詫びします」と思わずお礼を言った。

 為に翌日起きるであろう凄惨阿修羅の場面が避けられ、日本軍の無暴な行為として歴史に残す汚点を防ぎ得た喜びを今でも私は時折思い出しかみしめると共に、その反面T参謀の無人格、無人道的なやり方に対し今思い出しても義憤を感ずるものである。(P361-P362)

 一四二連隊の名誉にかけても不幸な事態を避け得た事は誠に幸いであった。

 聞けば一四一連隊本部に於ても同様の電話があり、今井連隊長の思慮分別ある賢明な対応処置に依り無暴な命令を受諾せず、不幸な出来事を防ぎ得た事は誠に喜ばしい事であった。

 推察するにT参謀としてはコレヒドール島尚健在にて抵抗する余力ある当時として、ウエンライト将軍をして全面降伏の早期解決の手段として軍命令を利用し、口頭と云う形で証拠の記録を残さず隷下の各部隊が独自の責任行動としてバターン半島の捕虜を捕虜と見なさず捕捉殲滅している実態を見せしめにして、部下の大量犠牲を見るに忍びず敵将軍の降伏を迫る手段として利用する腹ではなかったかと想像せられる。

 目的は大局的立場、全面降伏の早期実現ひいては我が軍の犠牲も少くてすむ訳で甚だ結構な事であるが、その手段として右の行為は果して許さるべきであったろうか。

 若しと云う言葉は禁句で言うべき事ではないが若しも命令通りの事態が発生していたとしたら戦後に於て"バターン死の行進"以上に歴然たる事実として両部隊の責任者として部隊長はその責を問われての処置がなされたことであろう。

 T参謀は証拠なし、命令は必ず文書で出す筈、又自分は命令を出す立場でもないと平然と答える程の人物であり、誠に恐ろしい事である。(P362)



 被害者側の記録


マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 四月十一日、第九一師団ほか二個師団の生き残りはバターン半島西海岸のバガク近郊で投降し、日本軍の命今に従って東へ徒歩移動することになった。舗装されていない山道の八号道路をたどり、半島の中央を通ってバラッガヘ向かうのだ。

 四月十二日の朝、フィリピン軍の士官および下士官以下の兵員およそ一五〇〇人からなる捕虜は(フェリックスによれば、アメリカ人の軍顧問はバガクに残された)パッティッガン川まで移動し、そこで野営している日本陸軍第六五旅団歩兵部隊の管理下に置かれると決まった。

 日本軍の指示を受け、労働者として小さい本橋の修復を手伝った捕虜たちは、川を渡ってつづら折りをのぼり、サマット山麓の草深い丘の上で足を止めた。そこは川からおよそ二キロ半標高の高いジャングルで、八号道路ともう一つの山道の交差点だった。草の生い茂るその一帯に、大勢の日本兵が待ち構えていた。(P284-P285)

 正午ごろ、日本陸軍の司令車が八号道路をのぼってきて、捕虜数百人が待機させられている場所から三〇メートルほど離れたところに停車した。将校がひとり降りてきたが、その周囲の者たちの従順な態度から、フェリックスは彼を大物だろうと思った。捕虜のあいだに立っていた日本兵のひとりから聞いたところでは、この将校は実際、第六五旅団長の奈良晃中将だったという。

 奈良中将はここで同じ区域にいる将校全員―捕虜管理の責任者である四人と、行進の行程で野営していた歩兵部隊の指揮官数人―を集め、将校会議を開いた。話し合いのあと中将は立ち去ったが、間を置かず、捕虜は二手に分けられた。士官および下士官の集団と兵卒の集団である。

 約一一〇〇を数える兵卒は八号道路を東のバランガ方面へ歩くよう命じられた。一方、約四〇〇人からなるフィリピン軍の士官と下士官は三列に整列させられた。そこへ、日本兵がもっとあらわれ、電話用電線を運んできた。

 捕虜の士官と下士官は、手をうしろで縛られ、数珠つなぎにされた。一五人から三〇人ずつつながれると、谷まで行進させられた。一つなぎになった先頭グループは崖のほうを向いて並ぶよう命じられた。その他のグループも少し離れて並ばされた。

 すると、先頭グループの背後で日本軍の兵卒が銃剣を装着した小銃を構えた。また、日本軍の士官と下士官が軍刀を抜き放った。

 タガログ語を話せる日本人の民間人が前へ出て、捕虜にこう言った。

 友人たちよ、堪忍してほしい。あなたがたがもっと早く降伏していれば、殺すことはなかった。しかし、われわれの兵力は甚大な被害を受けた。だから、堪忍してほしい。最期に望むことがあれば、われわれに申し出てもらいたい。(P285-P286)

 煙草を吸いたいという者もいれば、食べ物と水をほしいという者もいた。多くの者は命乞いをした。

 先頭グループの最後尾にいたペドロ・フェリックスは、小銃か機関銃での銃殺を希望した。せめて「前を向いて」つまり処刑者のほうを向いて死にたいと訴えた。

 日本軍はこれを拒否した。

 そしてひとりの将校が合図をした。

 列の左端にいたペドロ・フェリックスは三つの頭がはねられるのを目の端にとらえた。

 彼は大きく息を吸いこみ、止めた。

 最初の一刺しで右肩をやられた。二度目には胸を刺し貫かれ、彼は膝をつき、横に倒れた。三度目には刃が背骨にあたり、がつんと音がした。四度目は二度目と同じようで、そのあとはめった刺しだった。

 彼は谷に転がり落ちた―I数珠つなぎにされたまま突き落とされた。やがて、斜面の途中で止まった。彼は身動きしないよう努力した。日本兵があたりをうろつき、動く者がいればとどめを刺した

 フェリックスは唇を噛み、息を止めた。その右側には若いルシアーノ・ヤシント中尉がつながれていた。体をよじり、足をばたつかせていたこの同僚は、断末魔の苦しみのなか、ちょうどフェリックスの体の上に下半身を乗せる格好になった。おかげで、フェリックスは斜面を徘徊するハゲタカ部隊に目をつけられずにすんだ。

 その夜、死体の下からそっと這い出たフェリックスは、頭を少し上げてようすをうかがった。あたりは静まり返っていた。ひとりぼっちだ、周囲は死体ばかりだ、と彼は思った。(P286-P287)




鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』

米比軍第九一師団の悲劇

 ペドロ・フェリックスさん(当時二九歳)は、当時米比軍第九一師団に属していた。現在マニラの繁華街から数十分のところに妻と二人で住んでいる。一〇年後の今回、さらに詳しく聞かせてもらうためと、その後の消息も知りたくて、マニラの自宅を訪ねた。愛煙家だった彼は、いまは肺気腫になり、吸入器をはなせない。苦しくなったら話は次回にするという約束で、数日間おじゃました。(P59-P60)

 私が何日も訪問するうちに、ペドロ・フェリックスさんは不思議そうに、「どうしてあなたはそんなに戦争のことを知りたいのですか」と聞いた。父親か親戚の男性がフィリピンで戦死したのかとも聞かれた。私が細部にわたって質問するので、当時のことが思い出されて、フェリックスさんには苦痛だったと思う。

 執拗さをわびながらも、一人の日本人として、この十数年間フィリピンと関わるうちに感じたことを私は話した。太平洋戦争中あるいは占領下に、日本軍からフィリピン人が受けた出来事を知るにつけて、私のできる範囲で日本人に伝えていきたいためだと言った。その後、フェリックスさんは、はっきり覚えていないことがあれば「次回までに思いだすようにしましょう」と、こころよくつきあってくれた。

 一九四二年、パターン半島が陥落したとき、フェリックスさんはバガック近くにいた。上司であるコルデロ大佐は、「第九一師団まで行け。あなたたちはフィリピン人だ。日本兵たちは殺したりはしない」と言った。事実、第九一師団の本部に着いたとき、日本軍将校たちはフェリックスさんたちに暴力はふるわなかった。「戦争は終わったんだ。あなたたちはやがて家に帰れる」と言われた。前年のクリスマスイブにパターン半島へ行く途中、わずかに立ち寄った我が家で、数十分間話しただけの妻と、顔を見ただけの幼い三歳と二歳の子どもを、フェリックスさんは思い出していた。(P60-P61)

 フェリックスさんの連隊一五〇〇名は、投降後、緑色のトラック約二〇台に乗せられた。乗りきれなかった者たちは、バランガにむけて行進した。フェリックスさんたちはトラックでパンティンガン川まで来た。この川はパターン半島の南部に位置しているマリベレス山からの支流で、タリサイ川へと合流して、半島の沿岸、バランガ市周辺からマニラ湾に流れ出る。川は橋が壊れていたために渡れなかった。全員がその日は川の土手に寝て、次の朝、橋の修理をさせられた。

 修理を終えたところへ、日本軍の立派な車が着いた。ある日本兵が、彼が第一四軍第六五旅団の奈良中将だと教えてくれた。日本軍の将校たちも一緒だった。フェリックスさんたちは「そのまま行進しろ」と命令された。何かあるのかわからないままに、川の土手を歩いた。一時間ほど歩いたところで、日本兵が「止まれ」と命令した。

 そのとき、日本人将校が叫んだ。「気をつけ! 佐官以上は手をあげろ」。中佐以上はいなかった。三人の少佐が手をあげた。次いで尉官も手をあげさせられた。フェリックスさんは大尉だった。「二等兵と市民はバランガヘ向けて歩け」と言われた。そのとき、ある少佐が「私の祖母は日本人です」と申し出た。日本兵は「一緒に歩いて行け」と別あつかいにした。彼はとっさのウソで危機をのがれた。(P61)

 数人の日本兵が、丸めた電話線を持って現れた。数十人がつながれるような長さに切ってある。これから殺されるのだと思った。パターン半島が陥落したとき、生きていられるとは思わなかったから静かな気侍ちだった。

 日本兵たちはフィリピン人捕虜を三つのグループにわけて、それぞれを離れさせた。約三〇人から三五人ほどを後ろ手にして一列につないだ。

 アメリカ兵たちは別につながれる。約二〇名ほどいた。彼らは日本兵に、「私たちは降参したんだから、こんなことをしてはいけないんだ。なぜなんだ」と怒っていたが、日本兵は答えなかった。「日本兵の電話線の結び方は下手くそだ」「俺たちはこんな結び方はしない」などと言い合っていた。彼らは別の場所につれて行かれたので、虐殺されたかどうかは定かでない。

 ある兵が、「なぜこんなことになるのですか。私の母は日本人です」と通訳に言った。名前を聞いて、通訳は日本兵に告げた。しかし「残念ですが……」と通訳はその兵に言った。彼の母は本当に日本人だった。つながれなかったフィリピン人少佐もいた。二人は体が衰弱しきっていた。彼らが銃殺されたことは後で知る。フェリックス大尉は端につながれた。

 それからフェリックス大尉たちは再び歩くように言われた。少し歩いてから、軍服を着ていない日本人がタガログ語で「止まれ!」「座れ!」と命令した。四列が一グループとされた。フェリックス大尉は一列目の左端だった。他の二グループは別方向に歩かされた。のちに彼らの悲痛な叫び声を聞いたので、それほど離れていなかったと考えられる。夕方になる少し前だ。まわりには木々が繁っていた。(P62)

 「残念だが、こうならざるを得なかった。あなた方と戦ってから私たちは部下をずいぶん亡くした。諸君がもっと早く降参していればこんなことにはならなかった。これがあなた方の運命だ。いま、欲しいものがあれば言いなさい。さしあげよう」

 タバコが欲しいと言った兵がいる。日本兵は口にくわえさせて火をつけた。水を欲しがった兵が何人かいる。フェリックス大尉も水を要求した。だが、「水はない」と言われて望みはかなえられなかった。

 日本兵たちは日本刀を抜いた。フェリックス大尉は通訳に頼んだ。

 「殺すなら前から拳銃で撃ってくれと頼んでくれませんか。後ろから刀で切られるのはいやです」

 「申しわけないが、それはできない」

と、通訳は答えた。

 これから何か起こるのかは誰にもわかっていた。日本兵たちは日本刀を侍って列の後ろに立ち、右から順番に兵の首をはねていった。はねきれなかった兵もいる。何度も日本刀で刺されて、苦しそうにうめき声をあげた兵もいた。フェリックス大尉は、右につながれた兵の首が二つ落ちたのを見た。

 次はフェリックス大尉の番だ。彼の場合は首をはねられずに、いきなり刺された。何人もの首をはねていたので、日本兵は疲れていたのかもしれない。右脇腹を続けて二回刺された。日本刀が体を突き抜けた。(P63-P64)

 刀が抜きとられると、フェリックス大尉は前かがみになった。今度は肩胛骨の下を二回剌された。どういう拍子にか、右隣のハシント少尉の足が大尉の首筋にのっかった。痛みにもがいているうちに足がかぶさってきたと思われる。そのうちに彼は動かなくなった。

 フェリックス大尉はそのまま声を出さないように唇を固く閉じた。日本兵たちは手をかけた兵士たちの間を動きまわっていた。うめき声をあげて、ふたたび刺された兵もいる。大尉は死んだと思われたようだ。

 大尉は神に祈った。

 「神さま、もし、私を殺したいのなら静かに死なせてください。もし生きていて欲しいと思われるなら、強い力をお与えください」

 前かがみになった姿勢で「もうこのまま死にたい」と思い、地面に鼻をつけて息をせずにいた。自殺しようとしたが、死ぬことはできなかった。これは神が「生き長らえよ」と言っているのだと、大尉は思った。

 それからは、生きていることが日本兵にわからないように動かないでいた。隣の兵の足が首にかかっているおかげで、フェリックス大尉は日本兵の目から隠れることができたのだ。そのうちに日本兵たちの気配がなくなった。それでもしばらく動かなかった。

 (P64)


上田敏明『聞き書きフィリピン占領』

 前出『フィリピンの勝利』(Triumph in the Philippines)でC・A・アンチェタは、マリベレスで二五人のフィリピン人兵士が銃剣の餌食になったと伝えている。日本人将校が眺めるのにうってつけなように、捕虜を木にくくり付け、殴り、ツバを吐きかけ、そして剌殺した。

 アンチェタによると、こうした嬲り殺しはマリベレスのみならず、別の地点でも降伏した部隊に対して行なわれた。半島西部オリオン山(四八九ノートル)山麓の八号道路にあった第一軍フィリピン陸軍第九一師団もそうだ。

 一〇日の深夜、師団は降伏命令を受け、定められた降伏地点へ向かい、徒歩で移動し始めた。途中、日本軍の車が後ろから隊列の先頭に追い付き、将校に止まるよう命じた。約四〇〇人の将校と下士官が残り、両手を縛られ、さらに戦場電話の通信線で一列の隊列につながれた。六号道路と二九号道路の交差する辺りまで歩かされ、近くの渓谷に沿って立たされた。

 日本兵たちは列の後部から銃剣で、日本軍将校は列の頭から日本刀で、捕虜を刺し殺しだした。虐殺は午後三時から始まり、五時過ぎに終わった

 またピラー町−バガック町間の道路(二〇号道路)では、第一一師団の捕虜の多くが生き埋めにされた。歩けない米比兵を埋めるよう、日本軍の軍医将校が命じたのだった。

 こうした捕虜の殺害は、前に触れた辻正信参謀の越権行為が主因だった。大本営の命令と称し、「米比軍投降兵を一律に射殺すべし」と辻参謀が口頭で各部隊へ命じたのだ。

 ただし全部の部隊が従ったわけでなく、例えば御田重宝が著した『バターン戦』によると、第六五旅団の第一四一連隊の隊長=今井武夫大佐や同旅団第一四二連隊の副官=藤田相吉大尉は、命令を拒絶している。

 個人の生命を優先したのか、国家からの命令を優先したのか。個人の戦争責任とは、ゆき着くところ、その人が戦時中いったい何を最優先に行動していたのか、ということではないだろうか。そして国家に強く帰属意識を抱き、国家を最優先に考えられる人は、いつの日か再び戦争に巻き込まれる可能性がある、といえるのではなかろうか。(P68)





 現場兵士の証言


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 歩兵第一二二連隊で軍馬の世話を担当していた長井義明二等兵は、マラリアにかかり、四月十日の朝には馬具にすがらなければ立っていられなかった。

 歯を食いしばり、脈打つような頭痛にも玉のような汗を流しつつ耐えていたが、パンティンガン川沿いの連隊の野営地でとうとう倒れてしまった。仲間のひとりが濡れ手ぬぐいを額に乗せてくれて、まもなく彼はぐっすりと寝入った。

 翌朝、分隊長に言われて軍医に診察してもらうと、キニーネ一服を与えられた。その夜は熟睡できたが、朝になり、仲間と朝食をとるために起き上がると、しっかり立つことはまだできなかった。

 四月九日午後以降、フィリピン兵と米兵が三々五々投降し、パンティンガン川の岸辺に続々と集まっていた。こんな光景を見たことがある者はいなかった。中国大陸での戦闘を経験している者でさえ、こんな状況は初めてだった。

 「なんと大勢の捕虜だろう」と彼らは口々に言った。(P288)
 
 長井の見たところ、捕虜たちは飢え、「消耗している」ようだった。痩せおとろえ、無精ひげをたくわえ、なかには暑さでふらつき、足もとのおぼつかない者もいた。ほとんどは背嚢を背負ったり南京袋を肩にかけたりしていた。彼らは山道をたどり、茂みをかきわけてあらわれると、荷物を地面に下ろし、両手を上げた。その人数があまりにも多く、際限なくわき出てくるように思えた。

 惨めな捕虜たちの姿は勝利の確かなしるしだ、と長井は思った。

 「われわれは勝った」と歩兵たちは言い合った。「戦いに勝ったんだ」

 彼らは、自分たちの幸運を考えるにつけ、運に見放された仲間のことを思わずにいられなかった。隊では戦死者がきわめて多く、彼らの亡骸はさまざまな木の箱や金属の缶に納められ、日本に送られるのを待っていた。そしていま、川岸にやってきて両手を上げているのは、そういう損失、そういう悲嘆の原因をつくった者たちだった。

 この捕虜たちは、以前には銃弾と砲弾の「雨」を連日降らせていた。アメリカは工場をもって戦ったが、日本は自らの「血と肉」をもって戦った、と長井は思っていた。

 彼の思うに、長いあいだ危険と隣り合わせだったため、彼自身も、仲間たちもすっかり変わっていた。山中から姿をあらわす捕虜たちを見て、長井は「嫌い」どころか「大嫌い」だと思い、憎悪をいっそう募らせていた。

 それまでの数か月間、彼は一般的な概念での敵、悪としての敵を憎んできた。だがいまや、パンティンガン川の岸辺にあらわれた、実際の敵を憎んだのだ。

 それまでの山あり谷ありの日々、苛酷な日々、悲惨きわまりない日々の原因そのものである者たちが目の前にいた。彼はたしかに規則を知っていた。「戦陣訓」と題する軍法を読んでいた。そこには「投降者を罰せざること」とあったが、「規則に従いきれるものだろうか」と彼は思った。仲間が殺されていた。松山の気のいい若者たちが虐殺されていたのだ。(P289-P290)

 「簡単に許せるだろうか」と彼は自問した。

 しかも、捕虜たちは恥をさらしていた。戦闘中に武器を放り出し、両手を上げたのだ。軍人の名折れである。そんな連中を、敬意をもって迎えられるのか? 「歓迎、風呂、休息」を、彼らは期待しているとでもいうのか?

 彼は復讐を望み、仲間も同じ考えだろうと思った。歩兵たちは訓練の中で敵を「殲滅」せよと教えられていた。ひとり残らず殺すのだ。そして、敵は目の前にいた。

 そんなある日、朝食の少しあとにある命令が伝えられた。それが誰の、どこからのものかは不明だった。命令は小隊から小隊へ、中隊から中隊へ、上流から下流へ、山中で野営する兵士たちへと伝わっていった。

 「殺すのだ」。捕虜を皆殺しにしろ、というのである

 これは敵同士の「殺し合い」の「延長」だ、と長井は思った。戦闘の終局ではなく、延長なのだ、と。戦闘と虐殺とは異なるとしても、彼にはその差がわからなかった。彼の仲間のほとんどもそうだった。

 捕虜の生命と権利の保護に関する国際法を、彼らは少しも気にしなかった(大半はそういうものを知らなかった)

 権利? 捕虜には権利などなかった。いまや大日本帝国陸軍は彼らの命を掌握し、しかるべき行動をとる必要があると考えていた。

 「彼らを突き殺せ」というのが歩兵への命令だった。「各部隊はその作業のための使役を出すこと」(P290)

 正確に言えば、これは命令ではなかった。またとない好機だったのだ。捕虜の殺害は、なすぺき作業だった。連隊の各部隊から数人ずつがその実行にあたるのならば、それは適当である、妥当であると思われた。

 すぐに自分から名乗り出る者もいたが、ためらう者は多かった。

 「降参した者を殺すのは気が引ける」と彼らは言った。

 「一度やってみろ」とその仲間は言った。
 
 遠慮する、と言って、彼らは従おうとしなかった。

 「じゃあ俺たちがやる」

 そう言った者たちは、出かけていった。少したつと、数人が戻ってきた。当惑顔で、交替してもらいたいという。

 「俺にはできない、誰か、かわってくれ」

 長井義明は捕虜の殺害に参加したいと思った。九九日間の戦闘のあいだ、「毎日」が「狂気に始まり、狂気に終わった」。殺すか、殺されるかの日々を送るうち、彼は「何も感じずに」人殺しができるようになっていた。

 彼は、「自分も仲間と一緒に捕虜を殺したい」と思ったものの、悪寒と発熱で体がまだ弱っていて、立つこともおぼつかなかった。構うものか、せめて見物してやろう、殺すところに立ち会おう、と彼は考えた。

 彼は、山道を這いのぽって崖の上に出ると、「道端にひっついた蟇蛙のように」、「すべてを見わたせる」場所を探しあてた。(P291)

 殺戮が始まったのは朝食のすぐあとだった。人気のない山道の一画に集められた捕虜は、一五人から三〇人ずつ並ばされ、山道を数百メートル歩かされて処刑場にやってきた。処刑場は山道の崖に沿ったところだった。集合場所と処刑場とのあいだは隆起していたので、歩かされていった一団がどんな目にあっているのか、あとに残った捕虜には見聞きできなかった。

 最初に連行された捕虜の一団は、崖のほうを向いて座らされた。そのひとりずつに日本兵がつき、襟首をしっかりつかんだ。その背後には処刑役の別の日本兵が立ち、小銃、銃剣、軍刀を構えた。合図とともに襟首の手が離れると、処刑役は心臓のありかの見当をつけ、うしろから深々と刺し貫いた。そして、死んだ捕虜、あるいは死にかけている捕虜を谷へ蹴り落としたあと、次の一団を連れてきた。

 次の一団は、地面に血が流れ、谷底に死体が落ちているのを見て動揺し、襟首の手が離れるやいなや崖から飛び降りてしまった。体をあちこちにぶつけながら険しい斜面を転がり落ち、骨が砕ける者もいた。谷底の岩盤に、じかに叩きつけられる者もいた。

 「いちかばちか、飛び降りるしかなかったんだろう」と、遠くで眺めていた長井は思った。「殺されるとわかっていたんだから」

 それからは、捕虜は崖を背にして座らされた。刺殺、あるいは斬首されたあと、手足を抱え上げられ、「一、二、三」の掛け声とともに谷に投げ落とされた。

 長井が見ていると、ときおり捕虜の中にアメリカ人が交じっていた。白人は日に焼けると肌が赤くなるので(ザクロの色だ、と彼は思った)、容易に見分けられた。

 そんなアメリカ人のひとりに若い士官らしい人物がいて、一度刺されたが死にきれず、うつぶせに倒れ、苦痛にのたうち回った。「蛙が泳いでいるようだ」と長井は思った。士官のそばにいた歩兵は、復讐心をたぎらせていたらしく、彼に近づくと、大きな石をもち上げた。(P292-P293)

 「隊長、見とってください!」

 その歩兵は戦死した指揮官の名前を叫び、手にした石を振り下ろして、傷を負っているアメリカ人の頭をぐしゃりと叩きつぶした。

 午後遅い時間になり、熱のせいで気分が悪くなった長井は、それ以上見ていられず、所属中隊の野営地まで這い戻った。日本兵はかわるがわる処刑役を務めていた。実際にやってみると、殺戮は苛酷な作業だった。交替し、飲食のため野営地に戻ってきた兵士たちは、自慢話を披露した。

 「俺は七人殺した」
 「七人? それだけか。俺は一二人だ」

 午後から夕方になり、夕方から夜になった。横になって月を眺める長井の耳に、山道の先のほうから処刑役の大きな気合いが聞こえてきた(一刺しするたび、彼らはくやあ!〉と叫んだ)。それから、谷間に響く捕虜たちの悲鳴も。

 「まだやっているんだな」と、野営地で焚き火を囲む歩兵たちは言った。

 翌朝、連隊の大部分は移動した。川岸から山道をのぼるとき、彼らは処刑場のわきを通った。

 谷底には死体が祈り重なっていた。

 「崖上の道の高さにまで積み上がっている」と長井は思った。「崖のふちに座って手を伸ばせば、死体に触れるだろう。一〇〇〇体はありそうだ

 頭が「割れるように痛み」、めまいにも苦しめられていた彼は、小隊長に言われてトラックの荷台に乗った。司令部を通りかかると、歩兵が整列し、野営地の引き揚げと勝利を記念する式典を行なっていた。歩兵が気をつけの姿勢をとり、ささげ銘をした。そして、ラッパ手が国旗掲揚を合図する曲を奏でた。(P293-P294)

 その朝、長井義明の耳にはラッパの音色がとりわけ「明るく」聞こえた。ラッパは高らかに鳴り響き、大小の山々にこだました。

 「われわれは勝った」と彼は思った。「われわれは勝った」(P294)


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 村上勇二等兵は、父親 ―農業、漁業、林業によって生計を立てていた― のことを、少なくとも当時としては、変わった人だと思っていた。息子の出征のときに、たいていの親は「生きて帰るな」とか「お国のために命を捧げよ」などと言った。だが、彼の父親は戦争を憎み、軍を非難し、このままでは日本は敗北し、破滅すると言っていた。

 長男の勇が召集され、外地へ行くために歩兵第一二二連隊第二大隊第五中隊軽機関銃分隊に出頭する当日には、目に涙を浮かべていた。

 「余計なことはするなよ」と、父親はすすり泣いた。村上は父親が泣くのを初めて見た。「きっと生きて帰ってこい」

 本人いわく、軍隊と戦争を嫌悪しながら、兵士として真面目に働いた村上勇は、四月九日に銃声がやんだときには大いに誇らしく思ったが、「敵兵」と味方の「歩兵」の死体の散らばる戦場を見わたすと、歓喜は鳥が飛び立つように消え失せ、安堵ばかりが残った。

 「どうして生き延びられたんだろう?」と彼は思った。

 運命だったのか、幸運だったのか。彼にはわからなかった。ふたたび周囲を見回すと、もう一つの考えが浮かんできた。(P294)

 「どうして戦争をしなければならなかったんだろう?」

 のどか渇いていた彼は、パンティンガン川まで歩き、水を飲んだ。上流ではフィリピン兵数人が水を汲んでいた。まだ投降していないようだった。彼は、彼らをしばらく見ていたが、放っておくことにした。

 「俺はのどか渇いている。彼らも同じだ」と考えていた。「彼らを見たことは報告せずにおこう」

 連隊は、パンティンガン川沿いで野営し、新しい命令が届くのを待った。一日、二日と過ぎていった。歩兵たちは武器の手入れをし、川で水浴びをし、昼食のために飯を炊いた。三日目に、村上勇を含む五人が中隊長に呼び出された。

 中隊長の説明によれば、各中隊に命令があって、「特別任務」のために銃剣の扱いに優れた者数人を出頭させなければならなかった。

 迎えにあらわれたひとりの中尉に連れられ、選ばれた四人は小山をのぼってジャングルに分け入り、谷を見わたせる崖の上の道にやってきた。そこには大勢の捕虜が集められていた。数百人にのぼる捕虜は、大半がフィリピン人だったが、一握りのアメリカ人も含まれていた。目隠しをされ、ロープや鉄線で縛られていた。

 村上勇は不穏な空気を感じとり、いやな気持ちになった。他にも不安そうな顔をしている者がいた。

 「何をすればよろしいのですか」とひとりが尋ねた。

 「処分」とひとりの将校が答えた。「捕虜を殺せ」という意味だ

 その将校は村上の名前を呼び、一歩前へ出るよう命じた。

 村上はためらった。(P296)

 「ひとり殺せば隊に戻ってよし」と、村上の所属中隊の軍曹が言った。

 村上はその場に立ち尽くした。

 軍曹はふたたび□を開いた。

 「ここには他の中隊の将校が何人もいる」。その口調は穏やかだった。「彼らの部下はすでに捕虜を殺している。中隊長どのは、われわれの隊にもできる者がいることを示したいのだ。できるだけすばやくやれ、ひとり殺せば戻ってよし」。そして、曹長はこう付け加えた。「できなければ、中隊長どのに殺されるぞ」(P297-P298)

 苛立った将校が軍曹を怒鳴りつけた。

 「貴様、早くやらせろ! これは天皇陛下のご命令なのだ!」

 村上勇は「選択の余地はない」と思った。

 訓練では大きいわら人形を相手にしていたが、それと現実とはわけが違った。

 彼は小銃を構えて前に出た。目の前の捕虜はフィリピン人で、真っ青になり、目に恐怖の色を浮かべていた。

 村上勇は小銃をぎゅっと握りしめ、腰を落とし、捕虜の心臓のあたりを狙って銃剣で突いた(〈やあ!〉)。

 すると、ごつっという音が聞こえた。彼は、あばら骨を突いたに違いないと考え、銃剣をぐいとひねって深く押しこむと、捕虜の体から引き抜いた。

 フィリピン兵は膝をついた。傷口から血があふれ出ていた。

 彼は「終わった!」と、反抗的にも聞こえる口調で言った。

 「蹴れ」と少佐が大声で言った。蹴り落とせ、と。

 村上は倒れて痙撃している捕虜の体をかかとで道の外へ押し出し、谷に落とした。

 少佐は「次は貴様がやれ」と別の者に言い、そこに来ていた歩兵たちに、順番に同じことをさせた。

 銃剣がくりだされるたび、悲鳴が上がり、山々にこだました。大勢の捕虜が横たわっている谷底からも、苦しそうな声が聞こえてきた。呻き声と泣き声の合唱である。(P298-P299)

 「どうしてこんなことをしなければならないんだ」と村上勇は思った。

 彼は、服についた血をぬぐい、銃剣をきれいに拭いたあと、手ぬぐいを谷底に投げ捨てた。

 「よし、戻れ」と少佐が言った。

 村上は走った。全速力で走って振り返ると、何人もが同じように走っていた。処刑場から誰か、あるいは何かが追ってくるかのように。

 野営地に戻った彼は、自分が殺した捕虜のために、そして谷底で呻き、泣いていた捕虜たちのために経文を唱えた。だが、気持ちが休まらなかった。その夜、殺された捕虜たちの夢を見た。死者が次々こちらへ向かってくる夢である。

 「俺だけを責めないでくれ」と夢の中で彼は言った。「なんなら天皇陛下のところへ行って、陛下のご命令で命を奪われた者を前にしてどんなお気持ちか、聞いてみてくれ」(P299)


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 捕虜を殺すだって? と、歩兵第一二二連隊第一大隊の砲兵重田竹貞一等兵は思った。そんなことをしても意味がなかった。

 「両手を上げてジャングルから出てきた捕虜を、どうして殺すんだ?」彼には疑問だった。「戦いは終わっている。殺し合いをする状況ではなくなったのに

 四月十二日、パンティンガン川のほとりに野営していた歩兵第一二二連隊の兵士たちは、いつになく大量の酒を支給された。しかも、飲めるだけ飲んでいいという。それから少したって、捕虜の殺害を命じられた。(P299)

 下士官が言った。「捕虜を殺したい者は前へ出ろ。どの捕虜でも、好きなだけ殺してよし」

 その任務を進んで引き受けた者は、他の者を説得しようとした。

 彼らの主張はこうだった。「あの捕虜たちは厳密に言えば捕虜ではない。まだ拘束されていないのだから、捕虜だとは言えない。収容所の捕虜を殺すのはまずいだろうが、彼らはまだ敵兵で、日本は現在も交戦中である。彼らを殺さなければならない

 殺戮は正午近くから始まった。処刑役の者はいくつかの班に分かれ、川辺や丘の上の野営地に集合したあと、どこかへ行進していった。川辺の兵士の動きを見ていた重田竹貞には、処刑は複数の場所で行なわれ、それに関わる歩兵は数百人にのぼると思われた。

 兵士たちは、はっきりそうと告げられたわけではなかったが、殺戮はどこかからの命令によるものだと思いこんでいた。

 「誰かが命令を下したに違いない」と重田竹貞も思っていた。「連隊長か誰かが命じたのだ。命令がなければ、捕虜を殺すはずはない」

 彼らは午前中から昼過ぎにかけて働いた。交替しながら任務をこなし、酒を飲んでは捕虜を殺した。

 川辺の野営地に残った重田竹貞は、処刑班の者たちが往来するのを眺めていた。彼らは汗だくになり、のどか渇き、血まみれだった。

「俺はひとり殺した。ひとりだけだ」とひとりが言えば、「俺は六人だ」と別のひとりが言った。

 午後の早い時間までに、酒樽の中身は半分に減っていた。

 「酒を飲んで、行くぞ!」彼らは気勢を上げた。(P300)

 「よし、行くぞ!」ひとりの兵士が言った。

 重田竹貞は、参加したいとは思えなかった。

 「降伏させただけで十分なのに」と考えていた。

 同じ考えの者はほかにもいた。

 「俺も殺したくない」と、何人もが口にした。

 ところが、時間がたつにつれ、処刑役の者の一部がそういう態度に腹を立て、ひとりが重田に突っかかるようになった。やがて、重田とその男は睨み合い、怒鳴り合いはじめた。すると、軍曹があいだに割って入った。

 重田はこの軍曹に、処刑場へ行くか、丘の上で機関銃を持って見張りに立ち、谷底の捕虜が這って逃げないよう目を配るか、どちらかにするよう言われた。

 重田竹貞は、やはり処刑役をいやかっていた親友の服部幸三に声をかけた。

 「見張りをしよう、でないと捕虜を殺さなきゃならない」

 丘の上で見張りについたふたりは、谷を見下ろして言葉を失った。

 谷底にはたくさんの捕虜が折り重なって倒れていた。彼らの発する声は容易に忘れることのできないものだった。それは聞いたこともない声だった―苦悶、苦痛、悲嘆のこもった合唱は永遠にやまないように思えた。

 その日はひどく蒸し暑く、谷から微風が吹いていたので、それほど時間がたたないうちに、ぞっとするほど強烈な血の匂いがふたりの歩兵の腰を下ろす丘の上まで漂ってきた。

 最初、ふたりはただ見ているだけだった。捕虜は処刑場になっている崖の上の道に五、六人ずつ連れてこられた。ぼろ布や手ぬぐいで目隠しをしている者もいた。処刑者のほうに顔を向け、前方をじっと見つめる者もいた。(P302-P303)

 重田竹貞は思った。「捕虜の前に立って、相手の目を見ながら銃剣を突き刺すなんて」

 その光景をしばらく見ているうち、彼は一種の催眠状態におちいった。

 彼は何度も自分に言い聞かせた。「戦いは終わった……戦いは終わった」

 ずいぶん時間がたってから、機関銃を撃たずにいれば軍曹を不審がらせるかもしれないと気づいたふたりは、日没の少し前、反対側の何もない斜面に弾を数発撃ちこんだ。だが、発砲のあと谷からの呻き声がいっそう大きくなり、不安な気持ちが募ったので、もう撃つのをやめてしまった。

 殺戮はとっぷりと日が暮れるまで続いた。

 重田竹貞と服部幸三が呼び戻されたとき、大隊はすでに荷物をまとめ、出立の準備をしていた。そこから北のアボアボ川沿いの野営地に移動するのだった。

 その夜、新しい野営地で焚き火を囲んだ兵士たちは、誰も殺戮のことを一言も口にしなかった。

 「あいつら、ほんの数時間前までは得意顔だったのに」と重田竹貞は思った。「『こんなに殺してやった』と自慢し合っていたが、もう話題にしようとしない。あれが正当な行為ではなかったからだ

 彼はまだ麻痺したようになっていて何も感じられず、同情心も恐怖心もわかなかった。翌日、歩兵第一二二連隊は戦死した仲間の死体を集めた。荼毘に付し、日本に送るためである。その翌日には、バターンから次の野営地へ移動するべく準備をした。

 重田竹貞はパンティンガン川での体験を忘れようとした。だが、夜になって、ジャングルの血に染まる山道や、大勢の捕虜が倒れていた谷底のことを「じっくり考えた」。ようやく目を閉じたが、なかなか眠れなかった。あの気味の悪い声が耳について離れなかった。呻き声と泣き声の入り交じる、いつまでも途切れない合唱である。(P302-P303)



(2013.11.30)


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