世界戦争犯罪事典 |
『世界戦争犯罪事典』より シンガポール華僑の虐殺事件 一九四二(昭和一七)年二月一五日、日本の第二五軍(軍司令官山下奉文中将)がシンガポール占領の直後、残敵掃討作戦命令により同月下旬から三月にかけて三回(第一次は二月二一日から二三日、 第二次は二月二八日から三月三日、第三次は三月末)、華僑に対する検問を実施、敵性を有すると見なした人々を選別し、「厳重処分」(裁判なしの処刑)に付した事件。占頷下にあったシンガポールは昭南島と改名されたので、 「昭南粛清事件」と呼ばれ、華人からは「シンガポール大検証」とも呼ばれている。 戦後、この事件の関係者であった将官二人、佐尉官七人(近衛師団長西村琢磨中将、昭南警備司令官河村参郎少将、第二野戦憲兵隊長大石正幸中佐、同左翼隊長横田昌隆大佐、右翼隊長城朝龍少佐、 分隊長大西覚少佐、久松晴治中尉、合志幸祐大尉、水野圭治少佐。いずれも当時の階級)らは戦犯として指名され、シンガポール軍事法廷で裁かれた。 裁判は一九四七年三月一〇日に開かれ、四月七日に判決が下された。(P126-P127) 河村中将、大石大佐は絞首刑、西村中将、横田大佐、城中佐、大西少佐、久松大尉らには終身刑が宣告された(西村中将はのちオーストラリア捕虜殺害の責任を負わされ豪軍法廷で死刑判決を宣告される)。 合志大尉は別の事件で死刑の判決を受けていたので、この事件から除外され、水野少佐は裁判開廷までに到着が遅延したため分離裁判に付され、終身刑に処せられた。 昭南粛清事件は、シンガポール・マラヤの占領と軍政史における一大汚点となった。事件は現地人、特に華僑を恐怖のどん底に陥れ、彼らの反日感情を強めた 。またマレー人、インド人にも恐怖感を抱かせ、現地人の人心把握に深刻な悪影響を及ぼしたとされる。 第二五軍がシンガポールおよびマレー半島内の反日華僑に対する粛清命令を出し、各師団の検問部署を指示したのは二月一八日である。 そして第五師団はマレー半島、近衛師団はシンガポール市外、昭南警備隊はシンガポール市内の検問を担当した。 検問と厳重処分 この命令に基づき二月一八日、大石憲兵隊長は各分隊長に検問実施の要領を下達した。その概要は、(一)一九日、二〇日の間に華僑を指定の場所に集合させ、 (二)二一日から二三日の間に検問を実施、(三)検問対象者は華僑義勇軍、共産党員、抗日分子、重慶政府への献金者、無頼漢、前科者など、(四)検問資料として抗日団体名簿を使用する、などであった。 翌一九日、山下軍司令官から河村は「最も速やかに市内の掃討作戦を実施し、これらの敵性華僑を剔出処断し、軍の作戦に後顧の憂なきようにせよ」と指示された。 鈴木宗作参謀長からも「敵性と断じた者は即時厳重処分(死刑)せよ」と指示を受けた。 この「厳重処分」について、軍司令部に大石隊から慎重な対処をとの意見具申があったが、鈴木参謀長は「本件は種々意見もあるだろうが、軍司令官においてこのように決定せられたもので、本質は掃討作戦である。 命令通り実行を望む」と河村少将に語った。上司の命令は絶対服従という軍律下で、河村は命令に服さざるを得なかった。 昭南華僑粛清の企図がシンガポール攻略前からあったことは、一月二八日頃鈴木参謀長が大石隊長に、「軍はシンガポール占領後華僑の粛清を考えているから相応の憲兵を用意せよ」と指示していることからも察せられる。 軍の粛清企図の素因としては(一)マレー半島、シンガポールが南洋華僑の反日・援蒋運動の中心地であったこと、 (二)英軍に訓練された華僑ゲリラがマレー半島のセランゴール州、ネグリ・センビラン州に展開し、マレー作戦中の日本軍に抗戦行動を行なったこと、 (三)日本軍の第一線部隊や憲兵隊等において、厳重処分の思考と慣行が残存し、第一線将兵が実行、上級司令部もこれを是認する慣行があったこと、などが挙げられる。(P127-P128) 加えて、グリー戦闘隊と呼ばれる華僑義勇軍がシンガポール島のブキテマにおける攻防戦で勇敢に戦って、日本軍に多くの死傷者を出したことが、日本軍の華僑に対する敵意を強めた。 さらに第二五軍はシンガポール玖略後、スマトラ、ビルマ、南東方面に主力を転用させる予定であった。そうなると、シンガポールの警備兵力は憲兵と僅かな後方部隊のみとなり、 民衆に紛れこんだ義勇軍兵士、共産党員、抗日分子が決起する事態が発生すれば、手薄となった警備兵力では治安維持は困難になると予想された。掃討作戦命令を出したことは、あながち杞憂ではなかった。 検問実施時に、戦火を逃れてマレー半島から流入した避難民でシンガポールの人口は八〇万人にふくれあがっていると推定された 。その大多数が華人であり、彼らを三日間に言語不通、地理不案内の少兵力でいかに検問するかが問題であった。 結局、現地人警察官、密偵、探偵局員を動員し、抗日団体名簿を基準として、共産党員、義勇軍、ゲリラ加盟者を厳重に検問、調査する方針をとることにした。 検問は三ヵ所に分けて行なわれた。第二次検問には覆面をした現地人協力者を配置し、被検問者を通過させ、協力者に容疑者を指摘させた。第二検問所では、指摘された者を個別に憲兵が調査し、 第三検問所では第二検問所を通過した者を更に検問し、容疑の晴れた者には良民証を交付した。 三月末に行なわれた第三回の検問は容疑者を絞りこんで実施したので比較的公正であったが、短時間で行なわれた第一回、第二回の検問はかなり杜撰で、敵対行為と関係のない多数の市民が犠牲となった。 しかも憲兵隊が第一回、第二回に重点的に調査し逮捕をめざした共産党員、抗日団体幹郎等は取り逃してしまう。二回の検問で逮捕したのは「雑魚ばかり」であった。 検問の結果、「厳重処分」と決まった人々はトラックに乗せられ、そのまま行方不明となった。 「厳重処分」は極秘裡に行なわれたので、処刑から生き延びた人々の戦後の証言や遺骨の発掘により、処刑の状況が明らかになった。 戦犯裁判の証言によると、「厳重処分」された容疑者はチャンギー海岸、ボンゴール海岸で機銃掃射され、射殺された死体は埋められた。 一部の容疑者はブラカンマティ島(現在のセントサ島)の沖合まで艀で運ばれ、海に突き落とされ機銃掃射されたようである。(P128) 粛清事件で問題となっているのは、粛清の発案者と犠牲者の人数である。粛清命令の発案者については、種々推論されている。 山下軍司令官の発意という説もあるが、山下はマレー作戦時に部下の将兵に軍紀の遵守を厳しく指示しているくらいだから、粛清命令が彼の発意とは考えにくい。 しかし、軍司令官として軍命令案を承認し、軍命令を出した以上、その責任は免れない。 当時の関係者、研究者の意見を総合した上で信頼性の高い説は、辻政信作戦主任参謀が粛清を発案し、朝枝繁春作戦参謀が命令を起草したのではないかという推定である 。両参謀が粛清実施中ほとんど同道し、現場を指導督励していたことから見ても、その可能性が高い。 犠牲者は六〇〇〇か二万か 犠牲者の規模については、日本側と華人側から様々な数字が提出され、双方の主張する数に大幅な差異がある。憲兵隊関係者は一〇○○人、水増し報告数を含め多くても二〇〇〇人説を主張している。 『大本営大東亜機密作戦日誌』(昭和一七年三月三日)では「第一期粛清ニヨリ約五〇〇〇ノ不良分子ヲ検挙処分」したと記録している。 戦後、旧陸軍省がまとめた「シンガポール華僑処断状況調査」(昭和二〇年一〇月二三日)によれば、義勇軍、抗日団体幹部、共産党員にして「三月末迄ニ厳重処断ヲ受ケタルモノ約五〇〇〇名ナリ」と、 連合国側の俘虜関係調査部に報告していた。当時警備司令部の通訳として協力し、昭南特別市政庁の厚生科長を務め、終戦後にこの事件の証人にも立った篠崎護は、 シンガポール攻略戦の最中、砲撃で死亡した市民、占領中に処刑、獄中死した犠牲者の数を合算して、一万九〇〇〇から二万人という人数を挙げている。 一方、華人側は英軍検察官が日本軍によって虐殺された者は六〇〇〇人と断定したことに反発して、新加坡華僑集体鳴冤会(シンガポールかきょうしゅうたいめいえんかい)は、 四万人の犠牲者家族に賠償金支払いをと叫んだ。元南洋大学の許雲樵教授が一九七八年一二月八日に発表した『付録馬来亜華僑殉難者名録』によれば、犠牲者数は八六〇〇余人となっている。 この名録には、粛清時期以外にマレー半島方面で処断された人々が含まれている。この他、華人側では五万から一〇万説を唱えている団体もある。 いずれにせよ、これらの人数は確証に基づいた数字ではなく、推定であるため、昭南粛清事件で厳重処分された人員は確定できないのが実情である。 憲兵隊が言う最小限一〇〇〇人説の是非は別として、シンガポール陥落後の数週間に多数の華僑が処断されたことは疑えぬ事実である。無抵抗の市民を無差別に敵性分子と断定し、 処断したことは、たとえ作戦命令による軍事行動の一環であっても、人道上からも国際法上からも許し難い違法であり、無謀な行為だった。(P129-P130) シンガポール華僑の粛清事件と関連して、マレー半島各州で敵性華僑の剔出、処断が行なわれ、各地で華僑抗日軍に協力したという容疑により多くの住民が敵性分子として処刑された。 粛清事件は、戦後の日本・シンガポールおよび日本・マレーシア関係に深い傷跡としこりを残した。一九六二年一月にシンガポールのチャンギー海岸地区で犠牲者の大量の人骨が発掘されたことから、 中華総商会が日本商品ボイコットを展開し、賠償を求める「血債運動」へと発展した。 この運動はマレーシアにも波及し、血債を要求する運動が各地で起きた。六七年に日本政府は、その補償としてシンガポール政府に対し造船所の建設や機械類などに二九億四〇〇〇万円、 マレーシア政府に対して貨物船二隻、病院の提供などで、同額の二九億四〇〇〇万円を支払った。 シンガポールでは発掘された遺骨を荼毘に付し、六七年に建立した日本占領時期死難人民記念碑に安葬した。同様に殉難者慰霊牌がマレーシア各地に建立された。 また、両国政府は初等教育の教科書で粛清事件を詳しく説明し、歴史の教訓として後世に伝えている。 (明石陽至) |
『世界戦争犯罪事典』より アレクサンドラ病院の惨劇(シンガポール) シンガポール陥落の前日と当日、日本軍が英軍のアレクサンドラ病院(Alexandra Military Hospital)を襲撃、軍医、ナース、患者などを殺害した事件。 この病院は一九三八年に建設され、四五〇ベッドを持ち、ピーク時には九〇〇人の戦傷病者をかかえる大病院だった。 山下奉文中将の指揮する第二五軍(三個師団)が、大英帝国の極東における最大拠点であるシンガポール島に上陸したのは、一九四二(昭和一七)年二月九日である。 防衛する英軍との間に激しい戦闘がつづいたが、西南正面を担当した第一八師団は二月一四日、病院を挟んだ形で交戦していた。(P125-P126) 日本兵の一団が赤十字マークを付した病院の建物へ突入してきたのは午後二時頃で、非武装の軍医、衛生兵、ナース、患者の区別なしに小銃と銃剣で殺傷する。 手術台の上に横たわっていた患者さえ銃剣で剌された。軍医たちは赤十字の旗を振ったが、利きめはなかったらしい。 三〇人ばかりを殺傷したのち、日本軍は降伏した二〇〇人余の一団をひきつれて近くの建物へつめこんだ。そして翌日、建物から引き出した病院のスタッフを次々に殺害した。 数人がすきを見て逃亡、のちにこの惨劇の証言者となるが、正確な被害者数は不明である。病院を攻撃したのは第一八師団の歩兵第五五連隊だったらしいが、彼らは時計、指輪、シガレットなどを掠奪したという。 やがて日本軍の軍医が来て病院の治安は回復、牟田口師団長は一六日午後、病院へやってきて病院長のクレーブン中佐へ部下の暴行を謝罪している。 この事件は、戦後になって英軍の戦犯調査班によって調べられたが、「犯人」を特定できなかったこと、英印軍第四四旅団の兵士が病院の一角にたてこもり、日本軍を射撃したのが、 事件を誘発したらしいという事情が判明したせいか、正式の裁判にはかけられなかった。(P126) (ヘンリー・フライ) 《参考文献》 Jeff Paitridge, From British Military to Civilian Institution 1938-1998(Alexandra Hospita1,Singapore,1998) |
(2010.12.4)
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