有賀長雄『日清戦役国際法論』

 第七章 旅順口の戦役

有賀長雄『日清戦役国際法論』

第二十五節 旅順口要塞の進撃

 旅順口の戦役は諸外国の間に於て日本に対し多少の非難を来たすの原因となれり。

 或は曰、日本は此の場合に於て戦争の法例に違背したりと、而して此の事件に付き正当の判断を為すには当時の実況を知ること必要なれば此に之を略述すべし。(P105)

 
 
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 我軍は十一月六日より十五日までの間に於て金洲城攻略の事を了へ、十六日より旅順口に向へり。

 軍司令部は十八日の早朝に金洲城を発し、五里を進みて三十里堡に舎営し、翌十九日は十三里を長躯して土城子に到り舎営せり。

 此の途中に於て土城子に到る前二里許りに位する営城子と称する所に於て野戦病院を開設し又火葬場を作りて我が兵士の死体を焼くを見たり。

 因て斯く死傷を生じたる所以を探り左の事実を得たり。

 昨十八日我が軍司令部に直属して偵察に従事する騎兵二百を一隊と為し遙に軍の本隊に先き立ちて前進し、土城子の山上に到るとき 敵の伏兵急に起りて之を囲繞(いじょう)したり、(P105-P06)

 我が分隊は嘉数を以て敵の多勢に当り、大に苦戦し、遂に戦闘力を失ふ者三十余名に及べり。

 激戦二時間以上の後的は我が第二師団の本隊の遠方より進み来るを見て退却せり。

 其の退却するに当り彼等は清国人の死傷者を一人も残さず輸送し去りながら戦闘力を失ひたる我が兵士三十余名は悉く其の首級を到ちたり、

 且彼等は尚ほも残忍なる挙動に出でたり、即ち我が兵士の臓腑を切取り其の跡に土石を填めたり。(P106)

 
 
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 旅順口総進撃の朝は二十一日と定められたり。

 前夜に我軍は各種の大砲を適当の陣地に据へ、東天白むと同時に砲撃を開始せり。敵も直に応戦せり。

 軍司令部は各部隊の背後に於ける岳上に地位を占めて四方を観察せり、余は軍司令部を距る八十「メートル」の処に居て此の惨憺たる光景を目撃せり。(P106)

 
 
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 正午に至り旅順口の背後に在る各砲台は既に悉く我軍の手に帰し、唯だ海面に向へる二三の砲台のみ尚ほ辛じて防戦したり。(P106-P107)

 是に於て我軍の部隊は旅順口に在る敵の兵営に向へり。

 午後二時軍司令部は進て水師営に入れり。此の処には昨日まで数百の敵旗翻々たりしに今や敵の隻影を見ず。

 四時に至り旅順口に在る敵の兵営は悉く我が手に帰したるの報あり、因て軍司令部を進めて旅順市街より凡そ半里の前に在る敵の閲兵場に入り、此の処に於て軍司令部と各部隊の将官と会合し、部下の将校を集めて今日の戦勝を祝し君ヶ代を奏せしむ。

 此の時後方より急報あり、曰、敵の敗兵無慮二千人海岸に沿ひ逃れて我軍の背後に出て逆に金州城及大連湾を襲はんとすと。

 因て今夜直に一旅団の兵を督して金州城に向はしむ。((P107)

 
 
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 日没に至り閲兵場の厳粛なる将校集会は解散したり。旅順市街と其の南の海に面して此の時まで尚お抜けざりし黄金山の砲台とは明朝までに我軍の手に帰すべしと伝へたり。

 軍司令部は再び水師営に舎営す。

 二十二日各将校は午前八時を期して再び閲兵場に集合したり、而して旅順市街は昨夜既に攻略し了り、黄金山の砲台も敵之を遺棄したるに因り戦はずして我軍の占領する所と為りなる由を告げたり。(P107-P18)

 軍司令部は今日正午を以て旅順市街に入ることに決し、余は少しく之に先き立ちて午前十時市街に入りたり、

 而して世界の話柄と為りたる悲惨な光景は直に余の眼前に現われたり。(P108)

 
 
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 旅順市街は周囲に城壁を設けず又全く防禦の工事なし、唯処々に鉄門を設けたるも是れ平時に通行人を厳密に検し以て間諜の船トウに入るを防ぐ為に設けたる所なり、之を防戦工事と看做す可からず。

 市街の北の入口より其の中央に在る天后宮と称する寺(航海保護の神を祭る所)まで道の両側に民屋連列せり、

 而して其の戸外及戸内に在るものは死体ならざるなく、特に横路の如きは累積する死体を踏み越ゆるに非ざれば通過し難かりき

 中央の天后宮より東に折れて進むときば道台衛門及海軍衛門あり、並に巨大の建築なり、其の前に船トウの入口あり。

 船トウの前は広場なり、此の広場に沿ひて東西に走る長き街あり、又此の街と直角を為せる三筋の街あり 之を東街、中街、西街と云ふ。(P108-P109)

 此等の諸街は皆死体を以て満たされたり。市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中五百は非戦闘者なり

 湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、是れ水中にも多く死体を存せし所以なり。(P109) 

 
 
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 茲に注目すべき一事は市街の死体は大抵盛年の男子にして婦女幼児は極めて少なき事是なり。女子は水中に一人及途上に一人ありしのみ、孰れも男子の群衆に雑りて斃れおれり。

 余が市街に入りし時は日本兵士は既に各々其の部署に就き、街衛は静粛なりき。

 然れども二十二、二十三、二十四の数日間は稀れに日本兵士が縄を以て支那人を三々五々連縛して市外に引き行くを見たり、即ち日本軍に向て数多犯す所ありしに因り殺戮する為に引き行くものなりしと云ふ。(P109) 

 
 
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 請ふ尚ほ余輩の目撃したる二三の事実を叙せん。(P109)

 元来市街に於て支那人を見ること稀れなりき、然れども遇々市内を往来する支那人は皆首に我が士官の名刺を懸け、之に「此者は何々隊に於て使役する者なり殺すべからず」と書れあり、

 又戦闘以後に帰り来れて食物酒類を売る支那人の門には「此の家に居る者殺す可からず」の札を掛けたり。

 右は此の如き名刺なく、此の如き掛札なかりせば其の生命は安全ならざりしことを意味するものなり。(P110)

 
 
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 一軒の家に母と二人の娘と居り、長は十七八歳にて次には十三四歳なり、共に容色あり、

 由来天津の妓にして旅順口の旧官吏に聘せられ此の地に滞在せし間に兵戦起り帰路を失ひたるものなりと云ふ、

 即ち保護の為に軍司令部に連れ来りて別室を与へ扶持しおき、後之を行政庁に引渡したり。(P110)

 
 
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 中街に美麗なる観劇場ありて其の内に天津より来りし小児俳優百人余及之に随伴する大人二十余居り、大人の中十数名は二十一日の夜殺されたり

 小児俳優は其の俳優たることを証示せんが為め我軍の市街を攻撃する間も態(わ)ざと演劇を為したり。(P110-P111)
 
 二十四日後は此等の輩に軍司令部より毎日白米二俵を給したり。(P111) 

 
 
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 一屋に四十以上の夫婦と盲目の老婆と生存し 門に極めて粗造なる日本の国旗を樹て、日本兵士の入来たるを見ては夫婦は老婆を担ぎ出たして地上に坐らしめ拝伏して憐憫を乞へり。

 人之に何故戦乱を避けざりしやを問へば答へて曰、日本軍の到るを聞くや冨者は皆其の金力を以て官吏に賄賂して乗船の便を得 又は遠きに避くることを得たれとも 我等は赤貧にして此の便を得ず、

 依て日本の臣民と偽りて救命を乞はんと欲し敢て日本の国旗を樹つるものなりと。

 以上は即ち二十一日に次ぐ数日に於ける旅順市街の実況なり。

 進て我軍の挙動は果して戦律に合へりや否やを論究する前に少しく旅順市街の過去及現在に就き数言を述べざる可からず。(P111)

 
 
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第二十六節 旅順市街

 旅順口は元と天然の港に非ず、唯だ海に接続せる一帯の沼地なりしを後に堀りて船トウと為したるものなり。

 其の築港以前の図面は収めて我軍の手に在り、此の図面に示したる設計に就き之を観るときは既に全体の工事の重要なる部分を卒へたれとも未だ完成したるものに非ず。

 千八百八十年に工を起し千八百九十二年に其の現形に達したるものなり。

 此の次第なれば旅順市街に本来土着の者とて一人も有りしに非ず。総べての住民は過去十四年以内に外より移住し来りし者なり

 其の移住者の十中の八は山東省より来り、他の二は天津より来りしものなり。其の天津より来りしは官吏並に築港工事、船艦及魚電の製造に従事する商人及職工なり。

 土地は概して官有物なり、即ち沼地の一方を堀りて他方を埋め、其の埋地を堅めて宅地と為し官吏此に家屋を築造して之を人民に貸し、又は地面の儘人民に貸して自ら家屋を築造せしめたるものなり。(P112)

 
 
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 旅順口攻略の後直に該地行政庁の行政官に任せられたる鄭永昌より大山司令官に差出されたる報告書中に旅順市街の当時の形勢に就き多くの点に於て重要なる事実を記せり、此に其の一部を抄出せば左の如し。

「旅順口に我が行政庁を設置せし当時市街に存在する家屋は全く空虚なりき、其の原因は唯だ今回の戦争に依りてのみ此の惨情を呈したるに非ず。

 其の重なる原因は旅順道台襲照コウが我軍既に花園口に上陸するを聞くや忽ち恐怖の念を起し、李鴻章に軍事上の面稟を口実と為し■に家族を引連れ芝■へ立去りたるを以て人心大に乱れ、

 紳士商民皆其の財産家族を取纏め帆船に積込み陸続芝■へ遁れ又は近村に移転する者其の数を知らず、

 依て商店家屋に存在せる物品財産の重なるものは日本軍進撃前已に運搬され 只残るものは価値なき雑物のみなり。

 支那兵が此地に屯在するや擅(ほしいまま)に民家に乱入し、家具を破壊し財産を掠奪せしもの少なからず、故に我軍の進撃せし時は市街既に空虚なり、

 当時市内に逃げ後れたる小商人及貧民等は敗兵と混入して類害を被り非命の死を致したるもの一千五六百名の多きに至りたりと云ふ。」(P13-P114)

 
 
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第二十七節 旅順口に於ける日本軍の挙動に対する世評

 茲に旅順口事件に関する余輩の判断を開示するに当り先づ説明すべき一事あり。

 元来日本は申告に向て清国が自ら負へるよりも更に重大に更に不便なる義務を負ふべきの理由なし、

 而して清国は実際に於て全く戦律を奉ぜざるものなれば、厳密に論ずれば日本も清国に対し全く戦律を奉ずるの必要なく、随て旅順口事件に対し如何なる責を負ふべき必要も無し
 
 然れども日本は前に述べたる如く清国の挙動如何に拘らず自ら進んで戦律に遵由せんと決定したるものなり、故に少なくとも其の自国の決心に対しては責を負ふべきものなり。

 且又日本は常に欧米の諸文明国に向ひ自らも一文明国の地位に立ちて対等の交際を為すの意志を表示するものなり、

 故に此の平生の外交主義に対しても戦勝を得るお妨げと為らざる限りは戦律を遵奉すべき義務あるものなり。P114-P115)

 
 
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 諸外国に於て旅順口に於ける日本軍の挙動に対し下したる批評は種々なりと雖、之を概括するときは左の三要点を出でず。

(イ) 日本軍は旅順市街に進入の当日、即ち明治二十七年十一月二十一日に於て平和なる人民と敵の兵士とを分別せず一混れて之を襲撃したること。

(ロ) 日本軍は二十一日の一戦を了り其の後に於て此に戦闘力を有せざる敵の兵士を殺戮したること。

(ハ) 市街の民屋に於て財貨を掠奪したること。


 以上三点の外に尚ほ多少の非難を為す者あり、例へば強姦を為したりと云ひ、婦女幼児に至るまで屠殺したりと云ふが如し、

 然れども此等は上文に記述したる所に依りて見るも其の事実に非ざることを察知するは易く、世間は既に其の疑を解きたれば、茲に論弁せざるべし。(P115)

 
 
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 日本に対する非難の諸外国の新聞紙に現はるるや日本に剳在する某々外国の公使は我が外務省に来りて風聞の実否を問合せ、(P115-P116)

 又之と同時に其の本国の士官にして我が遠征に従事する者に訓令を伝へて此等の点に就き詳密なる報告を為さしめたり。

 今日以前に旅順口事件に向て与へられたる弁解論の中にて所謂日本軍の不法なる挙動の責を軽減するの効力最も大なるものは他無し、

 凡そ此の事件の場合に類似する場合、委(くわ)しく言へば一国の兵士が其の敵の卑劣なる所為に対し太しく激昂する場合に於ては同様の光景は殆ど常に起るものにして

 不法は則ち不法なりと雖、止み難き形勢として咎むべきに非ずと云ふ是なり。

 所謂敵の卑劣所為とは土城子の小衝突に於て支那兵が我が死傷者の臓腑を奪ひて其の跡に土石を填めおきたることを指すものなり。

 又茲に同様の思想に連繋する一の事実にして従軍中に在りし外国公使館付武官の一名が余に語りし所のものあり、

 曰、第一師団の一部分が旅順口の各兵衛を抜き旅順市街に向て進軍する途中に於て 日本兵士の首級三個を路傍の柳樹に掛けあるを見たり。(P116-P117)

 日本兵士にして如何に冷血なりとも為に憤然たらざるを得んや、

 前に土城子に於ける敵の実に暴戻なる所為を記憶し今又目前に旅順口の戦友の死体に此の侮辱を加へたるを見ては如何して其の平気を保つことを得んや

 切歯憤激して一刀の下に敵を屠尽せざれば則ち止まずと誓うに至るは此の如き場合に於て自然至当の感情なりとす、之を非難する者は共に戦闘の実況を談ずるに足らざる者なり。

 現世紀の後半期に於て欧米国民の間に起りたる戦役に際しても同様に野蛮なる挙動(土城子の虐殺を指す)に因り同様に慨嘆すべき結果(旅順口の惨状を指す)を生じたる実例は多々あり、

 而して文明国の軍隊が半開人民又は野蛮なる種族に対して行ひたる遠征に於ては同様の事実は更に多々たるべしと。(P117)

 
 
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 以上は自ら一種の弁解なり。然れども此の類の弁解に十分の価値あると否とに拘らず、本書の目的は純然たる学理上の講究を為すに在るを以て、此の事件に対し厳密なる判断を下さざるを得ず、

 蓋し人情止むを得ざるの憤激は日本兵士の此の如き挙動あるに至りし所以を説明するに足るべし、(P117-P118)

 然れども之を以て戦律違反を正当とする十分の理由と為す可からざるなり。(P118)

 
 
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第二十八節 大本営に対する第二軍司令官の答弁

 旅順口に於ける慨嘆すべき事件を聞くや、大本営より使者を第二軍に派して実況を推問せられたり。其の使者は参謀総長熾仁(たるひと)親王殿下より大山大将に宛てたる書簡を齎したり。

 而して此の書簡に対し大山大将の為したる回答は則ち此の事件に関する公然の解釈なり、換言せば日本軍隊の見解を代表するものなり

 此の回答は機密書類に属するを以て未だ世に公にせられず、然れども是れ日本の戦史上に於て特別に重要なる所以のものあるに依り茲に第二軍司令部の許可を得て其の要領を開示せんとす、

 左の如し。(P118)

 
 
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(イ)に対する答弁

 左記の事実を以て推究せば二十一日に於て市街の兵士人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況なるを知るべし。(P118)

一、旅順口は敵の軍港にして市街は多くの兵員職工より成立せし事

二、敗余の敵兵家屋内より発砲せし事

三、毎戸に兵器弾薬を遺棄しありし事

四、我兵の同市に進入せしは薄暮なりし事(P119)

 
 
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(ロ)に対する答弁

 二十二日以降に於て捕虜中間、殺戮せられたる者是れありたるも此等は皆頑愚不覚、或は抵抗し或は逃亡等を計りたる徒を懲戒する為万止むを得ざるに出てたるのみ({119)

 
 
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(ハ)に対する答弁

 人民の財貨を掠奪したる事実は全く無根なり、

 但し当夜同市に投宿したる軍隊の其の宿営用具、則ち机、腰掛、火鉢、茶碗、薪炭等の類を徴用したる事実は之れあるべきも財貨の掠奪に至りては断じて之れ無し、

 已に一二心得違の者は夫々処分を終へたり。(P119)

 以上三点の中其の三は敵地住民の財産に関するものなれば之を後章に譲り、此処に於ては(イ)(ロ)の二点に関し余輩の所見を述ぶべし。(P120)

 
 
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第二十九節 大山大将の答弁に対する批評

 (イ)の疑問則ち二十一日中に市内の兵士と人民とを分別せず混一して殺戮したる件に付きては大将は其の事実の信なるを承認し而して之に弁解を下せり。

 此の弁解は其の弁解せんとする所を果して十分に弁解し得たるか。余は答へて曰、然りと

 抑々(そもそも)旅順口は人民の通商の為に自然に発達したる市邑に非ずして一の軍港なり、

 随て此処に居住せし者は仮令軍人に非ずとするも敵の魚電及戦艦の構造に従事する職工なれば間接に敵の防禦に関与せしものなり。

 故に自然に通商を目的とする市邑を襲撃する場合に於ける如く綿密なる手段を施すの必要なしと云へる弁解論は十分に酌量すべき価値あり。

 旅順市街の非闘戦住民は譬へば従軍の非戦闘者、則ち新聞通信者、酒保、軍用達人の類と同様に看做すべきものなり、

 換言せば兵戦上止むを得ざる場合は我れより其の居る場処に向て襲撃の方便を使用するも不可なきものなり。(P120-P121)

 
 
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 敗余の敵兵民屋に入り内部より発砲せし事及毎屋に兵器弾薬の遺棄しありし事も真の事実なり。余の知る士官は家屋の内より発射したる銃丸の為に脊に負傷したり。

 敵兵の多数が師団と旅団との間に挟まれて逃路を失ひ民屋に入り兵器を捨てて或は床の下或は竈の内に隠れたるは事実なり、翌日及翌々日に至りて見出されたる者も少なからず。

 則ち軍司令官の答弁は敗余の兵士が民屋に隠れて間、抵抗したる事実を以て我が軍隊が非闘戦住民の居る家屋内に向ひ襲撃の方便を使用したるの理由とするものにして此の点に関する弁解論として十分の道理あり。

 又此の襲撃を行ひたる時は薄暮なりしことも事実なり、随て兵士と非闘戦住民とを弁別する事の難かりしも理解すべし、

 況や兵士は直に兵服を脱し人民の家に入りて常服を奪ひ之を着用したる者も多きに於ててや、是れ後に死体を検するに至り証明し得たる事実なり。(P121-P122)

 
 
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 以上大将の説明は我軍の挙動に因り其の結果として起りたる事実を弁解するに於て不足なきものなり、然れども未だ此の挙動の原因に対し弁解する所なきに似たり。

 謂ふ意は他なし、大山大将の説明は未だ二十一日に於て果して此の如き激戦を為すの必要ありし所以を証明せざるものなり

 若し此の日を延べずして此の戦闘を為すこと大体に於て必要なりしなれば、以上の事実は以て旅順口に現はれたる悲哀なる光景の不法ならざるを証するに足るべし、

 之に反し若し其の必要なかりしとせば以上の事実は我軍の挙動より生じたる結果を弁明するに足るも未だ我軍は戦争の目的を達するに必要なるよりも余分の加害を為したりとする非難を破ること難し。

 今其の必要の有無を究めんと欲せば市内に潜伏したる敵の戦闘力を計測せざるべからず。

 若し敵勢大にして且我が襲撃に抵抗するに足る堅牢なる工事に拠る場合には我軍は多少の強烈を以て之に当るの止むを得ざりしを理解すべし(P122-P123)

 
 
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 是れ則ち市街戦の場合にして明治二十八年三月四日牛荘攻略の場合の如き其の著明なる一例なり。

 牛荘は元と周囲の城壁なしと雖 敵は市街の出口に厚き約三十「サンチメートル」の■壁を築き、之を以て其の第一防御線に充て、更に市内の大家を利用し其の煉瓦の外壁に銃眼を穿ち、之を以て複郭に備へたり、

 而して其の兵数は約五千人に達したり。

 戦闘の後敵の死体千八百余を発見し、翌日(五日)午前までに我軍に降る者一千人を越へたり。

 此の如き形勢に際しては市街戦の必要なりしこと明瞭なり。(P123)

 
 
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 然るに旅順口に於ては形勢全く異なりしに非ずや、此の場合は市街戦に依りし敵兵の数遙に少なく、団結して強烈の抵抗を為したる形跡更になし

 又支那の家屋に普通に見る所の石又は煉瓦の外壁すらも此の市街の民屋には有らざりしなり。

 是に於てか旅順口の場合に市街戦を為すの必要真に有りしや否やを疑ふ者ありは自然の勢ならずや

 前後の形勢を以て察するに我が軍は此の如き強烈を以て動作するの必要更に無かりしに似たり。(P123-P124)

 而して余は戦律上より旅順口の事件に関し頗る痛嘆せざるを得ず

 然れども此に明認すべき一事あり、曰、

 此の必要の有無は寧ろ戦術上の問題にして法律上の問題に非ざる事是れなり、故に余は此の事に就き敢て断言することを為さざるなり。(P124) 

 
 
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 (ロ)の点則ち捕虜の中間殺戮せられたる者ある儀に付きても、大将は其の事実たることを承認し、而して此等は抵抗し或は逃亡を計る等の所為を懲戒する為なりしとの事由を以て之を弁解せり。

 此に注意すべき一事あり、此の答弁に於ては旅順口に於ける捕虜の殺戮を以て叛逆鎮圧の必要に帰し、之を以て戦数又は返報の孰れにも帰せざること是れなり。

 夫れ然れども此の事変は直に是れのみにて以て其の捕虜を殺したる十分の理由と為すに足らざるべし

 凡そ捕虜を殺すには一定の条件あり、又一定の形式あり、此の条件の有無を問わず、又此の形式を踏まずして専断的に殺すは戦律違反なり。(P124)

 捕虜に向て武器を使用することを得へきは彼れ現在力抗し自ら兵器を振て防闘する場合に限るなり

 仮令抵抗を企てたるも、未だ之を実行せず、又は既に実行したるも更に縛に就きたる後は唯だ之を軍法会議の審判に付するの一あるのみ

 即ち日本の陸軍治罪法第25条に曰、「俘虜降人の犯罪は軍法会議に於て之を審判す」と。(P125)  

 
 
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 又逃亡の場合に至りても捕虜が現在逃走しつつありて将に保管者の権力の及ばざる処に脱し去らんとするを見て之に対し兵器を使用するは戦律の許す所なり、

 之に反し仮令逃亡を企てたるも未だ之を実行せず又は現に実行しつつありて中途に於て再捕せられたる者に至りては唯だ更に厳重に之を監禁するは可なり、

 之を殺戮することを得べからず、ブルッセル宣言の第二十八条及国際法協会提要の第六十八条に於て規定する所即ち此の如し。

 故に捕虜支那人中抵抗又は逃亡等を計りたる者ありたるは事実なりとするも尚ほ果して直に之に対し兵器を使用するを正当なりとする場合なりしや否や究定するに非ざれば其の殺戮を弁解することを得ず、(P125-P126)

 大山大将の回答は此の点に就き詳密の説明を与へざるに似たり。(P126)

 
  (2021.3.22)
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