有賀長雄『日清戦役国際法論』
我軍は十一月六日より十五日までの間に於て金洲城攻略の事を了へ、十六日より旅順口に向へり。
軍司令部は十八日の早朝に金洲城を発し、五里を進みて三十里堡に舎営し、翌十九日は十三里を長躯して土城子に到り舎営せり。
此の途中に於て土城子に到る前二里許りに位する営城子と称する所に於て野戦病院を開設し又火葬場を作りて我が兵士の死体を焼くを見たり。
因て斯く死傷を生じたる所以を探り左の事実を得たり。
昨十八日我が軍司令部に直属して偵察に従事する騎兵二百を一隊と為し遙に軍の本隊に先き立ちて前進し、土城子の山上に到るとき 敵の伏兵急に起りて之を囲繞(いじょう)したり、(P105-P06)
我が分隊は嘉数を以て敵の多勢に当り、大に苦戦し、遂に戦闘力を失ふ者三十余名に及べり。
激戦二時間以上の後的は我が第二師団の本隊の遠方より進み来るを見て退却せり。
其の退却するに当り彼等は清国人の死傷者を一人も残さず輸送し去りながら戦闘力を失ひたる我が兵士三十余名は悉く其の首級を到ちたり、
且彼等は尚ほも残忍なる挙動に出でたり、即ち我が兵士の臓腑を切取り其の跡に土石を填めたり。(P106)
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