F・T・ダーディンからの聞き書き(1)
日時: 一九八六年九月十五日
午後二時三〇分−五時三〇分
場所: カリフォルニア州、ラホーヤのダーディン氏の自宅
質問者: 笠原十九司
通訳: 八木良子・伊原陽子
英語テープ起こし者: シャール・ウェストランド
―いま何歳でいらっしゃいますか。
七九歳です。
―健康そうですね。
一九八〇年に上海で心臓発作を起こし、一ヵ月入院しましたが、その後、問題はありません。
―最初に、新聞記者としてのあなたの仕事の概要をお聞かせ願えますか。
一九三〇年に世界を見たくて中国に行き、上海で『シャンハイ・イブニング・ポスト」の記者の仕事につきました。二、三年後に『チャイナ・プレス』に移り、三二年にマネジング・エディターとなりました。この間、『ニューヨーク・タイムズ』のいわゆる非常勤通信員となり、正規の上海特派員が留守の時は、『ニューヨーク・タイムズ』に記事を送るようになりました。
一九三七年、日中戦争が始まり、『ニューヨーク・タイムズ』は早急にもうひとりの特派員が入用となって、私が雇用されたのです。おもに中国側の取材をしました。日本側の取材はアペンドが上海で行いました。
私は中国政府のあった南京に赴き、中国側から日本の攻撃を取材し、南京陥落後、上海に戻りました。そして香港から飛行機で漢口に飛ぴ、再び中国側の取材を続けたのです。日本軍の攻撃で中国政府が重慶に退却するまで、漢口に留まりました。日本陸軍が外国人特派員用に飛行機を調達し、上海に舞い戻ったのです。
一九三八年に重慶に行き、重慶で戦争取材を続けている時、太平洋戦争の勃発で、従軍記者としてアメリカ軍と行動を共にすることになりました。一九四四年六月には、中国の成都を発ったB29が夜福岡を空襲しましたが、その最初の爆撃機に同乗して、長い報告を『ニューヨーク・タイムズ』に書いたことがあります。終戦となって、私は中国に戻り、一九四六年、南京の以前のポストに就きました。
一九四八年、ハーバード大学の奨学金を得て、一年間をハーバードで送り、それからコミュニストが南京を奪取してからは、香港に本拠をおいて、中国の取材をすることになりました。
ベトナムで抗仏戦争が起きると、これも取材しました。私はアジア地域のいろいろな所に行きました。一度北アフリカでアルジェリアの独立を取材したこともありましたが、その後は、香港の古巣に戻りました。東京、韓国にも何度か行きました。コミュニストが支配する中国には、七一年に訪れました。(P556-P557)
一九七四年に香港で『ニューヨーク・タイムズ』を退職し、それからハワイ、ワシントンDC 、ラホーヤに住居を構えました。
―中国における記者生活について、アペンドやイタリア人のルイギ・パルジーニのように回想録のたぐいを書いていたら教えてください。
何度か勧められたことはあったのですが、私の中国体験については書いたことがありません。パルジーニといえば、彼はパナイ号に乗船していました。彼を初めて知ったのは、彼が中国のチーフ特派員の時でした。私が『ニューヨーク・タイムズ』に採用される時、何かと援助してくれました。彼が退職して私がチーフ特派員になりました。
―フレダ・アトレイの"China at War",London,1939および"Last Chance in China",London,1947に、一九四六年に重慶でダーディンに会ったと書いてありますが。(P557-P558)
漢口が陥落してからひと月後に、私は重慶に行き、三九年、四〇年、四一年とそこに留まりました。その後シンガポール行きを申し出てそちらに行き、十二月七日に真珠湾が爆撃された時は、シンガポールにいました。そこも同様に爆撃を受けました。
一九四六年にアトレイに重慶で会った記憶はありません。三八年に漢口で会いましたが、彼女は重慶に行っていないと思います。この年に中国を出ているからです。私たちは三八年、漢口でコミュニズムやその他の多くのことで話し合いました。私の記憶に間違いがなければ、重慶で彼女に会っていないはずです。
―E ・ F ・カールソンの"Twin Stars of China"に漢口戦を取材した外国人ジャーナリストは「漢口ラスト・ディッチャーズ
」を結成して最後まで踏みとどまった、という記述がありますが。(P557-P558)
「漢口ラスト・ディッチャーズ」は最後の一瞬まで居残った自分たちにつけた名前であって、例えば、サンディエゴの人、カリフォルニアの人というようなニックネーム、あるいはスラングのたぐいと同じで、組織のようなものではありません。私たちは記者として、新聞に全貌を書こうとしたにすぎないのです。
最後まで居残ったのは、『ニューヨーク・ヘラルド・トリピューン』のピクター・ケイ、 UP のジャック・ベルデン、彼は私の親友ですが、たぶんスティールもいたと思います。おそらくマッコーリーも。ロパート・キャパ
? 彼は重慶ではなかったかな。それにロシアのスパイとして東京で死刑になったゾルゲも漢口にいました。
―そもそもなぜ中国に行ったのですか。
中国については、かなり本は読んでいました。しかし、中国に行くことになったのはまったくの偶然で、行くつもりがあってそうなったのではありません。本来はパリに行くつもりでした。当時パリはヘミングウェイのような作家がいましたので、野心的なアメリカ人の作家の多くはパリに行きたがっていました。
私は友人と二人で、貨物船の仕事を見つけました。船はヒューストンを出発し、西海岸を通り、横浜、門司に寄りました。友人は東京で『ジャパン・アドパタイザー』の仕事に就きましたが、私は引き続き航海を続けました。しかし船内の掃除係の汚い仕事にも飽きたので、船から逃げ出したのです。一人でロープを使い、船腹のサンパンを降ろして上海に上陸しました。当時、上海に行くのには旅券など書類は何も必要ありませんでした。
すぐに職について、中国が気に入ったのでそこに居残ることになったわけです。大学では英文学を専攻しました。スペイン語とフランス語を少し勉強しましたが、中国語はなにも知りませんでした。しかし、流暢ではありませんが、なんとかやっていくほどに話せるようになりました。
中国語の先生について勉強もしたのですが、南京、漢口、重慶などと、ニュースを求めて出かけることが多く、不規則にしかやれませんでした。それでも中国にいるあいだに喋ることは覚えましたし、上海の方言もたくさん覚えました。中国語の新聞はほぼ理解でき、一時はほとんどの中国新聞を読んでいました。
―次に南京のことについてうかがいたいと思いますが、あなたはいつ南京へ行ったのですか。
日中戦争が勃発し、上海でも戦闘が始まってからおよそ二、三週間後に『ニューヨーク・タイムズ』の外国特派員として南京に向かいました。『ニューヨーク・タイムズ』で与えられた最初の仕事です。上海からは南の道をつかって行きました。戦闘に遭わずに南京に行くためです。(P558-P559)
日本軍の南京攻撃が始まった時、私は南京ホテルに住んでいました。イタリア大使館にいたとアメリカ大使館員の報告にあるそうですが、イタリア大使館に行ったことはありますが、そこを住居にはしていません。
― 一九三七年十二月十二日のパナイ号事件で取材道具を失ったと『ニューヨーク・タイムズ』に書いてありますが、当日、パナイ号に避難しなかったのはなぜですか。また南京市内ではどんな様子でしたか。
パナイ号に乗せた私の所持品のほとんどを失ったのは事実です。ライカも一緒に失いました。あとでカメラに二〇〇ドル、他の所持品に数百ドルの弁償を日本軍から受けました。
南京攻略に私が居残ったのは、特種になると思ったからです。私のほかにも、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボルド・スティールとロイター通信社のスミスが残りました。
アメリカ大使館員は、ジョージ・アチソン以外は全員避難していましたが、彼は安全区内にあるアメリカ大使館に我々を招いてくれました。南京市は爆撃を受けましたが、私のいたところは、危険な目に遭いませんでした。戸外で何が起きているか見ようとして、出歩いたりもしました。
パナイ号が最後に南京を離れた時、前に話した三名の特派員が南京市内に残り、あとの特派員たちはパナイ号に乗船しました。ほかにも南京残留の特派員がいたかどうかは私には分かりません(AP のマクダニエルが南京にいたが、ダーディンらとは別行動をとっていたらしい―訳者
)。居残った私たちは、いちばん危険な道を選んだのですが、結局は、パナイ号に難を逃れ、安全を期した者が危険な目にあったのです。
日本軍攻撃前に、中国防衛軍司令長官唐生智将軍にインタビューをしましたが、彼は「南京を死守する、南京を後にするのは天国に行くときだけだ」と言い切っていました。私の印象では、彼は大風呂敷屋で実力のない指導者のように見受けられました。
日本軍が城壁を破壊して、城内に進入したとき、唐生智将軍は、戦闘を続ける将校と兵隊を置き去りにして、汽車で逃走した後でした。中国軍の司令部はしだいに戦場から姿を消していったので、応戦力はたちまち崩壊していきました。
『ニューヨーク・タイムズ』の私の記事を読んでいただいたと思いますが、何年も経っているので、私の記憶は記事ほどはありません。南京滞在中の数日間の虐殺や事件に関していえば、記事で述べていること以外に、私の知っていることはありません。とにかく、それは残忍で野蛮な占領でした。
日本軍の南京占領から二日目に、『ニューヨーク・タイムズ』に記事を送るために上海へ行こうと試みたことがあります。パナイ号が沈んでしまったために南京には送信手段がなかったのです。(P559-P560)
私は私の車で上海に向かいました。かなり首尾よくいって、道路を行進中の日本軍やキャンプ設営中の日本軍の間を抜けて一五−二〇マイルほど行ったのですが、とうとうある高級将校に車を止められました。「ここで何をしているんだ」と聞かれ、「上海へ行こうとしているところです」と答えると、「戻れ、戻れ」と追い返され、やむなく南京に戻りました。
―危ない目に遭いませんでしたか。
日本軍の前線を通り抜けようとして車を止められた時は、たしかに恐ろしかったですよ。撃たれると思いました。彼らは私をスパイと思ったにちがいありません。しかし、戻れとだけしか言いませんでした。私は新聞記者で上海へ行きたいと言いましたが、それは不可能だと言われました。
占領後の南京に三日ほど滞在した間は、市内を回ることができました。いたるところに日本軍を見ましたが、私を咎める者は誰もいませんでした。
アメリカの砲艦が長江を下ってきて、南京を出て上海に行きたいと思っているアメリカ人全部を乗せてくれました。『ニューヨーク・タイムズ』の記事でその光景を書きましたが、川岸では日本兵が捕虜の中国兵を何百人かずつ連れ出しては銃殺して処刑しているのを目撃しました。
当時、日本軍の指導者たちは「中国との戦争に勝利してこれを屈伏させるには、暴力的な手段で力を見せつけてやることが必要だ」と言明していました。中国兵を残酷に扱えば扱うほど、他の中国軍は降伏しやすくなるだろうと考えているようでした。しかし、思惑は外れて、中国軍はますます強硬に抵抗するようになりました。
日本のスローガンは「暴戻な中国人を膺懲する」ことでした。日本人を彼らの主人、征服者として受け入れるように膺懲するということです。その目標はすべての中国人のように思われました。
― 一九三七年十二月十六日付の『ニューヨーク・タイムズ』に南京残留の外国人記者が日本の軍艦「勢多」で南京を離れたという、日本の支那方面艦隊司令長官からアメリカ海軍アジア艦隊司令官へ宛てた報告が載っています。それに東京国際軍事裁判では南京大使館参事官だった日高信六郎氏が、日本軍側から便宜を提供して外国人記者を上海に送ったと証言していますが。
いや、私は日本の軍艦には乗りませんでした。私は日本の軍艦が輸送に提供されたということは全く知りません。もしそのような申し出があったとしても、私の耳には入りませんでした。私はアメリカの砲艦に乗って上海へ行ったのですから、日本の駆逐艦で上海へ行ったというのは間違いです。
蕪湖ではイギリスの軍艦のレディーパード号が砲撃されましたが、我々が乗船したオアフ号の上海行きには何も起こりませんでした。あるいは一度だけ空爆があったかもしれません。(P560-P561)
レディーパード号事件といえば、橋本欣五郎があの地域の日本軍の指揮官のなかで最も凶暴なリーダーと考えられていたことを思い出します。
一方、これは聞いた話ですが、南門(中華門)付近にいた日本軍指揮官は、市民を守るため日本兵が中国市民を銃殺するのを阻止しようと努力したそうです。もっとも、効果はなかったとのことですが。その指揮官の名前は、何といったかな・・・・河合とかいったかな?
戦後、国民政府のもとに送られて裁判にかけられて処刑されたので、中国人のなかにはああいう人を処刑したのは正しくなかったと言っていた者もいた(ダーディンが河合と言っているのは、熊本第六師団長の谷寿夫中将のことと思われる―訳者
) 。
しかし、このことは私が実際に目撃した話ではありません。私がいた難民区やアメリカ大使館区域から南門まではそうとう離れていたので、南門付近でどういうことがあったかは見ていないのです。
―ところで、あなたが南京を離れなければならなかった理由は。
南京を離れたのは南京からニュースを送る手立てがなかったからです。すでに南京攻略戦も終わったわけですから、それ以上南京に留まる理由がなかったのです。私は仕事を続けなければなりませんでしたし、読者に私の特報を送る必要がありました。
―日本軍から圧力のようなものはありませんでしたか。
私が南京を離れる時は、日本軍部の圧力はありませんでした。ジャーナリストはニュースが記事にならないことには仕様がありません。とにかく、私の特種記事を送信する無線が必要だったのです。
それでも、もしそこに留まってさらに取材を続けた場合、じゃまだてがあったかもしれません。日本軍は、南京でおきている虐殺行為を世界に知られないようにせねばと気づき始めていました。私は日本軍の圧力なしに南京を離れましたが、もし留まっていたなら、そうしたことがおこったかもしれません。
まだ南京に留まっていた時に、私は南京の日本大使館から情報を集めようとしましたが、なにひとつ入手できませんでした。私の感じでは、大使館の人たちは南京における日本軍の行為に当惑しているようでした。彼らは市民の銃殺を肯定はしていなかったようでしたが、それについては話したがらなかったので、私の推測です。彼らは軍に対して何の影響力も持っていませんでした。
― 実際には、あなたが南京を去った後で南京虐殺はひどくなっていますので、もう少し残っていたらもっと南京大虐殺の報道ができたと思いませんか。(P561-P562)
そうですね、私はもっと南京虐殺の事実を目撃できたでしょうね。ただし、ニュースを外に送れなければ何にもならなかったのも事実です。私はパナイ号の無線を使って南京戦のニュースをアメリカへ送っていました。パナイ号が沈没しなければ、その無線を使うことができたので、南京に留まっていたと思います。
そう、私が南京を出なければならなかった最大の理由はパナイ号事件にありました。もしパナイ号が撃沈されなければ、私はさらに何週間か南京に滞在して、もっと多くの虐殺事件を目撃できたと思います。
―もしも南京にもっと留まって南京虐殺の報道を続けていたら、日本軍の虐殺行為を何らかの形で抑制できたと思いませんか。
いや、私はそう思いません。もし南京に留まってニュースが送れたとしても、日本軍の虐殺行為の継続を抑止する効果はなかったでしょうね。実際、南京で何があったかを記したスティールや私自身の記事は上海から世界に伝えられたわけですから、それ以上のことはできなかったと思います。
しかし、そうですね、あなたの言うとおり、東京の日本政府がそうした行為を停止せよ、秩序を回復せよとの命令を出させるように影響を与えられたかもしれませんね。たしかに、日ごとに南京事件の報道ができたら日本陸軍参謀本部と政府に影響を与えたことは考えられます。でもやはり、外部との通信手段がないことには、日報を送るのは不可能でした。
―パナイ号が沈んだというニュースを知ったとき、どんな気持でしたか。
まず驚きましたが、不思議な感じもしました。安全のために戦場から逃れて行った特派員に比べて、スティールやスミスや私のように殺されるかもしれない戦場に留まった者たちは、どちらかといえば愚かだと思われていました。ところが、避難した彼らが爆撃にあい、私たちは無事だったのです。危険を選んだほうが安全だったというわけです。
―あなたが南京に留まったのは・・・・
私が南京に留まったのは若かったからです。『ニューヨーク・タイムズ』に雇われたばかりでしたし、いいところを見せたかったので戦闘を見るために留まったのです。そして思い通りになりました。大スクープ記事が書けたのです。私は間違っていなかった。私の記事は『ニューヨーク・タイムズ』に八段抜きで報道されました。
南京大虐殺については、南京に残留していた宣教師のジョージ・フィッチとシール・ベイツの二人が、献身的に情報を集めていましたし、写真もとっていましたから、ずっとよい情報を残しています。(P562)
―ジョージ・フィッチの印象は。
ああ、フィッチはいい人でした。勇気のある人でした。たぶん中国で生まれたと思います。中国語を非常に上手に話しました。南京に行く前は上海のYMCA
を指導していました。
―これは南京安全区国際委員会のメンバーのリストですが、知っている人は・・・・
このリストでは、リッグズ、スマイス、ミルズ、フィッチ、ベイツを知っています。
ミルズの娘さんは、いまミシガン大学の教授をしています。ハリエット・ミルズという名前です。彼女は中国で生まれ、上海のレユニオンの学校で学び、アメリカのモントレイ大学を卒業して、今は中国語の教授です。
彼女のお父さんが資料を持ってきたでしょうから、もしかしたら彼女のところにいい記録があるかもしれませんね。ミルズは南京で有名な神学者でした。彼が本を書いているかどうかは分かりませんが、合衆国にむけたキリスト教関係の出版物に記事を書いていることは考えられます。
―ジョージ・アチソンとアリソンについては・・・・
アチソンはたいへん有能で、人好きのする陽気な人物でした。南京ではよく非公式なパーティを開いてくれ、大きな皿に大盛りの鶏と麺を用意して、大勢の人に小皿を渡し、「さあさあ遠慮なく」と勧めてくれたものでした。とても人に好かれる人物でした。彼は、アメリカが日本を占領していた時、国務省の代表で東京に駐在していましたが、太平洋で飛行機事故にあい、亡くなりました。
アリソンについては、よく知りませんが、インドネシアの大使になった人です。
そういえば、アメリカ大使館員にパクストンという人がいて、彼はパナイ号に残って負傷したのですが、陸に揚がってから陸路を漢口まで行き、事件を領事に告げたのです(パクストンが漢口まで行ったというのは誤り―訳者)。彼は後に新彊の領事になったのですが、第二次世界大戦が勃発したために、彼は山脈を越えてイランまで行かざるをえなくなったのでした。それは一週間もかかった長旅となりました。
―話は変わりますが、南京の中国軍について印象を聞かせてください。
南京の中国軍の装備は貧弱で、指揮もお粗末でした。蒋介石は南京を守れるとは思わなかったのでしょう。ですから、そこには最精鋭の部隊を残さなかったのだと思います。
兵隊は地方の民兵かなにかを集めたものだと思います。訓練されておらず、指揮も粗末なものでした。軍隊は戦う意志はあったと思うのですが、指揮がなっていませんでした。指揮系統がなっていなかったので、組織的抵抗は不可能でした。(P563)
彼らはおそらく戦闘意欲はあったと思います。中国軍は上海ではよく戦いました。師団の多くに膨大な死傷者が出て、師団の全兵員を二度、三度と補充しなおすほどでした。南京でも指揮がきちんとしていたら、中国軍はよく戦ったと思います。
南京の防衛軍は、老人と若年者だったというのが私の印象です。急いで駆り集められた、にわかづくりの部隊でした。その彼らが最後は城壁の内側に閉じ込められた状態で、逃げることができないまま、日本軍に殺害されたというのが、事実のようです。追い詰められた中国兵が軍服を脱ぎ捨てて民間人の間に逃げ込んでいるのも見ました。
―南京では日本兵の略奪を見ましたか。
ええ、いくらか目撃しました。しかし、私がいた三日間は、日本軍はもっぱら中国兵の掃討に専念していました。略奪は私たちが去った後、激しくなったと聞きました。
―安全区の印象は・・・・
南京に留まっていた三日間、安全区は難民でごったがえしていましたが、食料はたくさんあるように思われました。事態は私が南京を去ってからひどくなったようです。
―南京のアメリカ大使館が残留アメリカ人にガスマスクを配った資料がありますが。
ええ、思い出しました。中国政府が日本軍は毒ガスを使うと言っていました。私たち新聞記者は、それは催涙ガスにちがいないと思っていました。そういえば、私もガスマスクを渡されました。
―『東京朝日」一九三七年十二月十六日付に、朝日新聞の中村という特派員が、中山路であなたと会ってあなたから南京陥落の夜の恐怖を聞いたと書いています。もっとも、ダーディンではなくダーリンと書かれていますが、記憶はありますか。
いいえ、朝日の特派員と語り合った事実は覚えていません。特派員は自由に市内を歩けましたから、たまたま会ったということはありえますが。ただ、そういう場所に日本の特派員がいたという記憶はありませんね。ところで、彼は南京虐殺についてなにか書いていますか。
―もちろん、書いていません。当時の日本国民は南京虐殺を報道した外国新聞も見ることができませんでした。
現在の『朝日』」は、中国で日本軍がやったことに対してどういう態度をとっていますか。日本の文部省は教科書検定などで、南京事件のような歴史的事件についての情報を統制しようとしているようですね。日本のなかのこうした要素がだんだんと歴史を書き換えてしまうことにつながると思いませんか。
―『朝日新聞』は、現在、日本の侵略戦争について最も熱心に報道している新聞のひとつです。とくに本多勝一という記者は南京大虐殺について証言を集め、本を書いています。話は変わりますが、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティール記者はどういう方でしたか。(P564-P565)
彼は力量のある新聞記者で、『ニューヨーク・タイムズ』にも勤めていたことがあります。その後『ニューヨーク・ヘラルド・トリピューン』で仕事をした。アジアの各地を旅行して、素晴らしい記事を書いた。彼は文学者だったから本も書いているはずだ。私より年上で、いま健康はすぐれないらしいが、アイダホのボイジィに住んでます(その後、アリゾナのセドナに引っ越した―訳者) 。
ところで、あなたはロイター通信社の L・C・スミスが書いたものを何かもっていますか。
―雑誌『ライフ』に載ったのがありますが、『タイムズ』紙などには意外と載っていませんでした。
彼の記事は、ロンドンのロイター社に送られて、それからよそへ配給されたんでしょう。『ロンドン・タイムズ』や『デイリー・テレグラフ』、『マンチェスター・ガーディアン』などは彼の材料を使っていると思うのですが。
スミスはたいへん好人物で、誠実な特派員だった。まだ若くて、経験が浅かったようだが、彼がどのようにうまく報道していたか、私は知りません。彼はその後、ロイター社を辞め、香港にあったイギリス政府の情報サービスの仕事を長くやっていました。
そこを退職した後は、フリー・ランサーのライターとしてニュース雑誌に記事を書いていました。彼は三年前に亡くなりました。
―『マンチェスター・ガーディアン』について、なにかご存知ですか。
ティンパレーはジャーナリストとして評価の高かった人です。後に長いあいだ東京に滞在しました。彼は新聞社の正規の特派員になったことがなく、フリー・ランサーの記者として、どちらかといえば、厳しい生活をしていたと思います。彼は極東に長くいて、事件の背景や状況に通じており、彼から事件の背後の情報を得ることができました。
―南京事件は中国人にどんな影響を与えたと思いますか。
南京事件は中国人の抵抗を強める役割を果たしました。南京における日本軍の暴行は、中国人に侵略を阻止しなければという決意をもたらしました。それは、南京で残虐行為を誇示すれば、中国は屈伏するだろうという日本軍の指導者たちの思惑と逆になりました。
―パナイ号事件がパール・ハーバーの序曲であったという説についてどう思われますか。
私は日本の中国全土に対する侵略がパール・ハーパーへの序曲になったと思います。日本の大東亜共栄圏構想じたいが、結局はその地域の権益をもつ合衆国と戦わざるをえなくなるものでした。南京事件やパナイ号事件だけでなく、全中国への侵略がパール・ハーパーへの道となったのです。(P565-P566)
私は当時合衆国にはおらず、漢口や重慶を転々としていましたので、外部からのニュースはあまりはいりませんでした。正確なことは分かりませんでした。しかし、パナイ号事件の結果、ルーズベルト大統領が戦争に備えて準備をしたというのは、当然でしょうね。アメリカと日本が戦争をする可能性がかなりあると判断したのは、論理上、当然だと思います。パナイ号事件は日本人が知っている以上に重要な意味をもっていたことは疑いありません。
―日本では南京大虐殺の犠牲者の数がいま論争の的になっていますが、あなたはどう考えますか。
犠牲者の数はおそらく一〇万あるいは六万を越えないと推定されるが、ただし、私はわずかばかりしか南京にいなかったのでよく分からないが。ところで、あなたはどう考えますか。
―中国兵の捕虜の殺害も虐殺と考えて、中国兵で虐殺されたものが約六万、それに民間人で虐殺されたものが約六万と、おおよその推測ですが。
*その後の訳者(笠原)の研究により、現在では、約八万余人の中国兵が犠牲になったと考えている。詳細は、笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聾社、一九九二年)を参照されたい。
あなたの推計の数字は妥当に思えますね。
―最後に日本軍、あるいは日本人に対する感想は・・・・
日本人は偉大な国民だと思っています。しかし、こんどの戦争では指導者が誤りを犯したと思います。そしてとくに中国においては、たいへん残虐にふるまうことが許されていました。日本の侵略をうけたアジアの他の地域にくらべて、中国では最も残虐であったようでした。
―現在の軍事大国となった日本についてはどう思いますか。
ソ連の軍備増強が脅威となって、日本が強大な軍事力を必要とし、アメリカがそれを援助したのですが、私はアメリカが日本の再軍備を促したのは誤りであったと思います。日本が中立でいることは困難かもしれませんが、しかし、米ソ間の戦争がおこれば、日本のような小さな島が主要な役割を果たせると思うのも難しいでしょう。
―どうも長時間インタビューに答えていただきありがとうございました。
いえいえ、お役にたつことがあればと思っています。(P566)
(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収)
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