フォースターより妻への手紙
フォースターより妻への手紙



フォースターより妻への手紙


 十二月十九日

 『ニューヨーク・タイムズ』 のダーディン氏に届けてもらったこの前の手紙以来、手紙が書けるようになった。

 彼や他の特派員が去ってから、状況はさらに悪い地獄のようになってきている。起こったことすべてを書くのは不可能だが、まさかあのようにひどい人間を相手にしなければならないとは、思ってもみなかった。

 彼らは私たち外国人のことを快く思っていない、というのも、当地での彼らの蛮行を私たちに見られたくないのに、私たちが留まると言い張ったからだ。

 十五日と十六日、日本軍は兵隊を捜索し、小銃を持とうが持つまいが、かまわず群れをなして連行していった。彼らのほとんどが冷血にも殺害された。彼らは二、三百人が一グループになるように分けられて池まで連行され、一人一人射殺されると池に落とされたそうだ。

 別の大きなグル−ブは機関銃でとりかこまれ、無理やりひと塊にさせられると、ござで覆われて、生きたまま火がつけられた。

 数日前模範村の陳氏の会衆の中から連行された一四人は、まだ戻ってきていない。その中には陳氏の一六歳になる息子がいたが、彼もまだ戻らない。


 おまけに日本兵は思う存分、略奪・強姦をしている。ジョン・マギーと私は、日中は婦人や民間人の傷害者を病院に運んだり、私たちの信者やその他の人たち、おもに少女が避難している二ヵ所の住宅の警備をしている。私たちがそこにいることで、日本兵を寄せつけないでいる。私たちが寝るのもそこだ。(P299-P300)

 コラと夕タール人の彼の友人がここを警備している。私たちの家には仏教の尼僧を含む百人ほどがいる。数が増えたのは強姦が大規模になされているからと思われる。兵隊の統率がきいていないのは明白だ。

 将校が幾人か午後パトロールをしたらしく、きょうはどうやらいいようだ。しかし、午前中はひきもきらずに兵隊が住宅に押し入り、欲しいものは手当たり次第に持ち出していた。たくさんの民間人が殺害されている。

 ジョンはきのうの昼前、日本の大使館員と下関にでかけた。残っていたのは私たちの建物の揚子江ホテルとスタンダード石油の施設だけで、そこも略奪されていた。道路には何百という死骸が転がっていたそうだ。

 日本の大使館員は慎み深い人だが、軍部に対してなにもできない無能ぶりに面子を失っている。外国人や中国人の財産はことごとく略奪にあい、ひっくり返されて散在していた。少しは事態が良くなってほしいものだ。

 きょう午後、私は横浜弁天通りの商人だという日本の兵隊と随分ながく話をした。この兵隊が言うのには、南京に近づくにつれ、物資の補給ができなくなり、南京に到着した時には、兵隊の食料はほとんど底をついていたそうだ。そこで数日間は、兵隊たちは死にものぐるいになって食べ物を漁った。現在は長江の封鎖も解け、自動車道路も復旧したので、補給が再開されている。彼はたいへん温和で、興味ある話をたくさんしてくれた。

 もうすぐ外国人が南京に戻れるようになって、少人数の私たちの手に余る仕事を手伝って欲しいと願っている。

 三千人以上の婦女子が金陵女子文理学院にいるが、兵隊に連れ去られ、大学図書館や難民のたてこむ大学の建物の中で強姦されたりしている。昨晩は兵隊が数人、病院の看護婦棟に押し入り、大勢の少女が気を失わんばかりに脅かされた。きのうの午後は、模範村の婦人が一人強姦され、夜には、仏教の尼さんが強姦された。彼女たちは夕食を受けるため、私たちの住宅と路を挟んで住んでいたが、それからは、路上に兵隊がいるので恐ろしくて出てこれなくなった。

 ここはあらゆる情報が断たれているので、何が起きているのか分からないでいる。外国の大使館員が一人も戻ってきていないのは、おそらく、日本軍がしばらくの間はそうさせたくないからなのだろう。

 きょうは二十日だ。静かな一夜が明けた。私は今しがた住宅に戻ってきて、警備をしているところだ。屈することのない人生は、偉大だ。日本軍は電力会社が再び稼働するようコラにやらせようとしている。彼はまったく興味のわく賢い若者で、自分を状況に順応させて、みごとに何事も解決してのける。(P300-P301)



 十二月二十六日(ママ)

 ハウス二五で朝の祈祷を終えたところだ。ここで私は聖ステファンについて説き聞かせ、陳牧師に代わって、二人の赤ん坊に洗礼を施した。ジョンは模範村の信者に礼拝を行うため、私たちの住宅シュルツ・パンティン氏宅に残っている。彼はきのう七人に洗礼を施した。

 昨晩、彼がハウス二五で寝なかったのは、夕食を食べに家に帰り、その後もどる途中で滑って転び、一番下の脊髄をつよく打ったからだ。そのため私はハウス一七と二五を警備をすることになった。

 二人の兵隊がいたずらをしようとしてハウス二五の塀をよじ登ってきたが、呼出しがきてから私はなんとか間に合って、二人を追い出すことができた。二人が男性の腕時計を盗んだと分かっていれば、返していけと命令したのだが。二人は一、二の少女に目がとまったが、幸い私が到着したので、危険は避けられた。二人は私を見ると、おどおどしたように出ていった。

 ジョンは今朝元気になったようだが、転倒したショックはかなりのようだ。

 おまえ宛の手紙を託した兵隊がきょう昼前に発ったはずなので、もうすぐ私からのニュースが聞けるものと思う。

 メソジストの牧師が金陵女子神学校で行った礼拝に、明らかにキリスト教信者と思われる日本兵が五人参加して、五ドルの献金をしたことをきのう耳に入れた。

 根上氏は信者ではないが、私は彼に中国語で書かれた新約聖書を携行するようにあげた。それと、鰯二箱、石鹸一個に二ドルを餞別に渡した。彼は非常に慎み深く、好感がもてる人で、日本の家族になにか持ちかえりたがっていた。

 私たちは暫く供給が断たれているし、南京では果物とか魚、それに日本兵が慣れ親しんでいるような物は手に入らないので、彼らの食料調達は難しいのではないかと思っている。私たちが使う水は、井戸か池の水に頼っているので、彼らの飲料に適した水もまだないはずだ。

 私たちがここにいることが、現地の中国人の困窮を助け、福音書を大いに立証することになる。




 クリスマス

 おまえはどこでどのようにクリスマスを祝っているのだろう。ここは素晴らしい一日だ。

 ハウス二五のハンセン氏のところで、礼拝を終えたところだ。中国人信者たちが自身でこの偉大なキリストの祝日の意味を説くべきだと私は思ったので、張牧師と董博士に礼拝を執り行ってもらった。一方、私は権限をもたない兵隊を住宅に寄せつけないようにしたりして、まだ警備をしている。(P301-P302)

 この礼拝中に三人の兵隊が物色しに入り込んだため、私は行動をおこさなければならなかった。なかの一人がいくらか英語がわかったので、ぐずぐずと喋っている間に、別の二人の姿が見えなくなった。

 たしかに彼らは以前、ジョンも私も手が塞がっていた時ここに来たことのある兵隊で、コーヒーを飲み、何人かの中国人からシーツを取り上げたことがあった。彼らはきょう午前、コーヒーを所望したが、ハンセン氏のコックが言うことをきかないので、ぐずのその兵隊は紅茶に砂糖で我慢しなければならなかった。

 状況は日毎に好転してきているようなので、人々の家が見つかりさえすれば、帰れるようになるのもそう遠くないことだろう。とくに市の南部は全域が焼失している。太平路と白下路では、焼失を免れたごくわずかの、数のうちに入らないような小さな建物を除いては、私たちの建物だけがかろうじて立っている。

 私たちの建物がまだ被害を受けていないかどうかをみるため、木曜日に行ってみたところ、信者の婦人一人を発見した。他の者たちが立ち去る時、彼女は一緒に行くのを拒んで留まり、そのあと日本兵がやって来たが、殺されずにすんだという。私はその前の週に彼女を探していたが、見つからなかったので、おそらく別の場所に移ったか、それとも殺されたものと思っていた。

 砲爆撃や火災、略奪のあった一〇日間というもの、彼女は教会の塔内にいて、無傷で助かった。彼女は、以前、聖ポール寺院の伝道師をしていた人の未亡人だ。彼女は経験のある看護婦でもあるので、大学病院で奉仕してもらえないかと思っている。病院は病人や怪我人で、あふれんばかりに一杯だ。

 木曜日は雨だった。婦女子が大勢避難している金陵女子文理学院では、屋外やそれに近い状況で休まなければならない難民たちにとり、雨は辛い仕打ちとなった。

 ヴォートリン嬢とトワイネンさんは難民の世話をするために、金陵女子文理学院に住んでいる。憲兵が数日警備にあたっているので、状況はよくなってきている。

 一〇日ほど前に兵隊に連行された男性が一人きょう戻ってきた。彼の話では、上海の全聖教会の信者の一人が、彼も同じ時期に連行されたそうだ。市の郊外でいまだに捕らえられており、そこで、日本兵の使役をしているそうだが、この男性は二週間は自由になったことを口止めされているということだ。

 捕まっている人の名前は祖安生(音訳)という。彼は私たちと一緒に住んでいた少年で、連行された時は、上海から避難してきたところだった。このことを全聖の魏(音訳)氏に連絡がとれるだろうか。戻ってきた人たちの話によると、私たちの知っている他の人たちもまだ生存している可能性があり、戻ってくることを期待したい。

 当地の外国人はみな無事だ。外界からの情報はないが、他の外国人たちが戻ればどれほど助けになるかわからないので、できるだけ早く帰還してくれるよう切望している。帰還の許可が下りるかどうかが問題だ。(P302-P303)

 新聞社の特派員は無事帰ったことと思う。彼らが立ち去ってからも、たくさんの事件が起きている。外交官は日本人以外、まだ一人も戻ってきていない。日本の外交官は最善を尽くしているが、軍部との関係には困難が伴うらしい・・・・

 兵隊が二人、私たちの住宅を訪れたので、これを見回るため、手紙を中断しなければならなかった。今朝の礼拝中にやってきた二人だった。一人は大阪の警察官。二人ともいま立ち去ったところだ。

 静かな平穏なクリスマスだった。主が救世主キリストを私たちに遣わしてくださっているのだから、もうこれ以上願うこともあるまい。



 十二月二十七日

 たった今、日本の軍曹が、一週間前に連れ出した少年の祖安生を連れ帰ってくれた。嬉しいことに、少年は放免され、扱いもとても優しかった。他に連れ去られた人たちの運命もこのようであって欲しいものだ・・・・

 きのうの午後、もう少し教会の物を持ち出そうと、張さんとセント・ポール寺院へ車で出かけた。私たちは教区会館のピアノを郭氏の家に運び入れた。このピアノは芝生に置き去りにされていて、郭氏のピアノはなくなっていた。

 教区会館を襲った砲弾は一つの方角から撃ちこまれたものだ。弾は屋根を突き破り、部屋から前面の壁へと貫通していた。壁は修復しなければならないだろう。床は痛んでいないが、しつくいがたくさん落ちている。

 もう一つの砲弾が教会の正門内側のコンクリート通路に落ちて爆発していた。壁の表面は破片で損傷がひどいが、なんとか持ち堪えて立っていた。木の扉はすべて倒れたため、構内は外から丸見えになっている。まだ通常の生活に戻っていないので、これらの整理には手が付かない。

 張さんは大学病院で、看護婦の仕事を引き受けている。きのうの午後は数時間をトワイネンさんに手伝い、家から持ち去られた物を探し回った。彼女は金陵女子文理学院に住んでいる。外界はどうなっているか、いろいろと耳にはするが、どれも噂の域をでない。

 ただ、鉄道がどうやら動いたらしいが、ほんとだろうか。もし動いているとすれば、外国人は戻ってくるだろう。私たちは依然として少数グループだ。




 十二月二十八日

 ハウス一七と一五でまた警察業務についたが、ありがたいことに、たいした問題がおきなかった。

 この二、三日少しばかり本を読むことができた。ジョンは二五で、私はここの一七で夜を過ごした。それから私が朝食をとりに家に行き、ジョンはそのあとで帰った。ジョンは普通八時まで寝ているが、その時間には私は朝食にする。ジョンがまだ交代に来てくれないので、今晩は中華の夕食をとり、家には戻らないかもしれない。(P303-P304)

 二人の使用人は元気だ。虞福(音訳)は回復したようだが、痩せて青白い顔をしている。家中難民で身動きもままならないという困難な状況だが、二人ともよくやっている。

 事態は一般によくなってきているようだ。そうとう多くの部隊が南京を去った模様で、中国人民は路上を前より自由に歩き回れるようだ。しかし、ふらつきまわる日本兵の略奪や強姦は引き続きおこっているので、みなまだ怖がっている。けれども、いろいろな点で以前よりよくなってきているので、とても救われる思いだ。

 ただ、さらに多くの外国人が戻って、手伝ってくれるなら、現在の混乱した状況に大いに救いとなる。金陵女子文理学院だけでも、一万人以上の婦女子がいるにちがいない。南京を自由に出入りできる日がいつになるかは分からない。

 大勢の食料の調達が急務となっている。市外の農民も穀物、家畜、農具を失い困っているそうだ。火災は依然としていくつかの地区で発生しており、南部はそのためほぼ壊滅状態だ。地上の祈りは何の役にもたたないようだ。私たちのことは心配するな。みな元気だ。



十二月二十九日 

 毎朝、全員で祈りを捧げている。私は新年と日曜日のために、賛美歌をいくつか選び、練習している。大晦日に礼拝を計画しているが、おそらく、連祷、悔罪詩編の形式からとった瞑想と相応しい賛美歌を採り上げることになろう。

 難民の中に五つの初心者のグループがある、と聞けば、おまえは喜んでくれるだろう。また信者のバイブルクラスもあり、大勢の人が綿入れの服作りを手伝ってくれている。これはとても必要な物だ、というのも、日本兵が暖かい服や夜具を略奪してしまい、大勢がこれを必要としているからだ。部隊の移動で、こういった点はかなり良くなってきている。

 市内の男子は全員が日本軍当局に登録することが要求されている。これは兵士の嫌疑のある者を全員選び出すことを兼ねている。

 きのう機関銃がまた使われた。訓練か、中国軍の弾薬を破壊したのか、人が処刑されたのか、わからない。

 無数の人々、民間人や兵士が殺害されている。まもなく終焉するよう、主の御加護がありますように。主はいつもすばらしく優しく、私たちはすべてを主にゆだねています。



 十二月三十日

 きょうも静かな一日だった。

 難民は全員がけさ早く登録に出かけたところ、男性だけが登録を要求された。兵士という嫌疑のあるものを組織的に選り出している日本軍は、名を変えてはいるものの依然として「掃討」しているのだ。(P304-P305)

 一八歳から四〇歳の男性は南京を出る許可がおりないという報告がある。彼らが南京にいるあいだ、日本軍が彼らを虐殺しないというなら、それもよいだろう。日本軍は、彼らが兵士になって、同胞に対して攻撃するよう強制しているそうだ。

 私は午前中の大半を、新年の夜の礼拝の準備に費やし、今は一七でモートンの”ln the Steps Of the Master"を読んでいる。




 十二月三十一日

 ジョンがいま来て言うのには、国際委員会が私に、難民用の米の在庫が切れそうなので、米の倉庫を検査するのを手伝って欲しいということだ。

 悲しい知らせがある。けさ起きると、蘆氏のメモと彼の財布があった(彼は湯山と銅陵で伝道師として活動していた)。彼は現状にたいへん悲観的になっており、メモには溺死自殺をはかるつもりだとあった。彼はきょう登録することになっていた。四〇歳をこえており、この点では心配はなかったのだが、けさ早く、一人で出ていってしまった。私は近くの池をいくつか探してみたが、死体は見つからなかったので、彼の気が変わってくれたらいいがと思っている。

 彼は最近このような考えを抱いていたようなので、昨晩床に就く前に、主が望んでいるかぎり、中国のために「生きる」ようにと勇気づけたばかりだ。彼はたいへん物静かな優しい人だが、いったんこれと決心したら、容易には変心しないのが気がかりだ。

 ラーベ氏、ジーメンスの南京代表で、国際委員会委員長が、上海在住の妻から三通の手紙を、日本領事を介して受け取った。それからすると、日本の占領以来、南京に起こっていることがなにも知られていない、と私たちは受け止めている。

 アメリカ領事館員が当地に向かっているそうだ。私たちの存在も受け入れがたいものであるので、彼らの出現は、当地では歓迎されないにちがいない。しかし、全般的に事態は良くなってきているようだ。

 一時近くになるというのに、三千人収容のキャンプをまだ一ヵ所しか検分していない。なんとかみられる状態だが、全体として人々は厳しい状況にあるようだ。登録に行った使用人が帰って来たので、私たちも彼らも、なにより安堵した。今晩の礼拝用のコピーを同封している。なんの妨害もなく執り行いたいものだ。

 去年の正月は私たちは長崎だったのを覚えているかい? 正月中にここで日本兵がやり過ぎないよう願っている。私たちにできることは、中国人にできるだけ屋内にいるよう注意することぐらいだ。当地と上海間の通常交通が回復して、情報や人が往復するようになってほしいが、再び平常に戻るまでには残念ながら時間がかかりそうだ。

 日本の商人がトラックや車で物資を運び込んでいるようなので、品物が手に入るようになるかもしれない。私たちは揚州から運び入れた食料品でほとんど遣り繰りしているが、ミルクや砂糖といった重要な食品がまもなく品切れになる。卵は相変わらず入手が困難だ。虞福がクリスマス前に持ってきた三個のうち、二個でチョコレートケーキを作ったが、他の人たちの困窮を思えば、文句はいえない。新年の喜びと幸が多からんこと、主のみ恵みのありますように。(P305-P306)

 追伸 当地の状況についてのデマには惑わされないように。日本軍は真相を覆い隠そうとやっきになっている。




 一月二日

 ジョンと私は元気なことを知らせる。外部との接触がほとんどないので、上海へ行く人に伝言を頼むという、めったにない機会に依存せざるをえない。今回は、小規模な運送業を仕事にしていて、日本軍に物資を持ってくることになった商人にたまたまお願いする。

 気候がそう厳しくないのが幸いだ、さもなければ人々の苦痛はいっそう大きくなっただろう。

 ジョンと私はほとんどを警察の任務をして過ごしている。ここ数日、私は難民センターの調査の手伝いをしていて、難民が十分な食料を手に入れているかどうかを見てきた。

 きのうは祝日で、たくさんの旗が掲げられ、爆竹がたくさん鳴らされた。後者はどこから手に入れたものか分からないが、大勢の人にとって、爆竹はこの二週間の緊張を和らげた。状況は次第に統制されてきている。

(日本人メッセンジャーが届ける)




 一月三日

 委員会は午前中、二ヵ所の難民センターを視察に出た。

 南京市自治委員会の就任式のため、何ヵ所かで集会がもたれていた。中国五色旗が日本国旗とともに掲げられ、国民政府の旗が見当たらなかったことは、重要なことだ。集会は実際閑散としたもので、演説する者たちは国民政府の罪をことごとく暴き、人々は新政府から祝福を受けると宣言した。

 ジョンと私は金陵大学での新年の晩餐に招かれていたが、私だけが行き、ジョンは行かずに警備をすることにしていたが、ジョージ・フィッチがともかく晩餐に出席するようジョンを説得したため、彼も出ることになった。

 ところがちょうど食事が終わった時に、伝道師の范とポール・董が飛び込んできて、日本兵がハウス一七に侵入して婦人を強姦しているといってきた。私たちはフィッチの車ですぐに飛び出したが、日本兵は一足違いで立ち去っていた。後を追ってはみたが、無駄だった。経緯は次のようである。

 日本兵二人が妻の部屋に押し入り、セーターと手袋を盗んで行った。二人は妻の夫人が目に入っていたので、あとで彼女めあてに戻ったものの、彼女はかろうじて便所の戸から逃げ出した。すると一人の兵隊が三階に行き、そこにいた未婚の少女を強姦しはじめた。彼女は抵抗して小股をすくうことに成功して難を逃れた。(P306-P307)

 それから二人の兵隊は二階で既婚の若い女性二人を襲った。私たちは、この二人を処置するため病院に連れていった。日本兵が二人の女性のうちの一人を打つと、周夫人は銃剣を持って彼女をかばおうとした。

 蘆氏は、どうも自殺を強行したらしい。彼は、十二月三十一日早朝から戻っていない。近所の人が、近くの池で彼らしき死体を見たと言っているが、私たちはその死体引揚げの許可を当局からまだ受けられないでいる。残念なことだ。彼はしばらく自殺を考えていたようだ。そして、南京陥落以来の人々の苦痛を見て決心が固まったらしい。

 きのう、私はキリスト教徒模範村で説教をした。とてもよい礼拝で、みな熱心に開いてくれた。昼食後、私はハウス一七へ行き、下関の信者とセント・ポールの信者に礼拝を行っていたジョンと交代した。午後は調査の報告をタイプして過ごした。

 ジョンはハウス二五に戻り、一夜を過ごし、二件の事件がおきたと報告した。四時三〇分ころ、日本兵が五人の子持ちの母親を強姦しようとした。夫が在宅中で、兵隊と格闘し、妻は難を逃れることができた。兵隊は憤慨して立ち去ったものの、小銃を持って戻ってくると夫を撃ち殺した。

 
ジョンはこの件を報告しようと出掛けたが、フィッチがこの件を報告のため、すでにラーベのところへ出掛けたことが分かった。その後二人が相談しているところに、近所の者があわてて入ってきて、日本兵が近くで婦人を強姦しようとしていると報告があり、ジョンとフィッチが行って兵隊を引き離した。

 金陵女子神学校では日本兵はかなりの強姦、略奪を働いている。随分抗議があってから、憲兵隊が駐屯することになった。しかしある晩、憲兵の一人が侵入して、強姦しているしまつだ。

 きのうの午後に数人がやって来て、漢西門の外側にあるテキサス石油の施設での事件を報告してくれた。日本兵がそこで略奪を働き、アメリカと日本は敵同士であるから国旗を揚げてはならないと言いながら、二旗のアメリカ国旗を下ろしてしまったそうだ。

 彼らは使用人に銃をつきつけて脅し、略奪品は金と引換えに日本兵に売ったものであるという書面に署名と拇印を押させ、使用人と六三歳になるその父親をテキサス石油会社の車とトラックに押し込んで、別の場所にむりやり追い出した。彼らは三日間に一度食事にありついただけだった。

 日本兵は施設の中および周辺で、かなりの数の人を殺害した。ある九人家族のなかで、逃げのびたのは婦人と子供の二人だけであった。日本兵は人々の身体に火をつけ、それから小屋にも火を放った。この婦人は赤ん坊ともども厚い毛布を被り、炎の中を走り抜けた。これらはここで起きている事件のほんの一例にすぎない。(P307-P308)

 日本の軍隊も官憲も、どちらも兵隊を掌握できていないことは明白だが、事態はなんとか良い方向に向かってきている。これまで起きていた当地の事件は、残念ながら未だに続行されつつあるといえる。

 昨日、中国機が飛来して下関と南門近くの飛行場に爆弾を落とした。ほんの暫くのあいだ対空射撃があったのち、再び静かさを取り戻した。泰州、宜興、泰興などと同様に、揚州も日本軍の支配下にあるという噂があるので、どうやら最悪の事態になりそうだ。

 この何週間以来はじめてきょう電灯がついた、ということはラジオ・ニュースも聞けることになる。残念なことにジョンのラジオは壊れている・・・

 昼食を終えて、私は婦人を一人、処置のため病院に連れていった。

 茹源(音訳)が、脚を膝から切断した人力車夫の友人に会うため同行した。病人は元気になっていた。私はいろいろ考えるところがあって彼を使用人として連れて帰ることにした。もっと役にたつ仕事もあろうし、実際のところ、今後生活のために人力車をひけないことも確かだ。私たちの措置を、彼はとても喜んでいる。

 お前からの知らせが本当に待ちどおしい。ドイツとアメリカの外交官が誰か戻って来るらしいので、たぶん手紙を期待できるだろう。クリスマスに、ラーベ氏が私たちめいめいに、ジーメンスの挨拶の入った革綴じの日記帳を下さり、そして正月には、表に安全区の紋章、裏に南京在住の外国人全員の署名の入った特製のカードを下さった。この体験のよい記念になるだろう。

 根上氏に頼んで送ってもらったメモはもう受け取っただろうか? それとは別に、私たちは元気だ、心配するなという簡単なメモを日本の商人に頼んでいる。




 一月七日

 きのうは大使館に着任したアメリカ人外交官からロバーツ司祭、アルシー、レスリー、スティーヴ、KPらの手紙を受け取り、最高に嬉しかった。手紙はすべて十二月十二日から二十日付の古いものだった。しかし、この手紙で、おまえが無事に香港に着いたことが分かり、本当に安心した。

 事態は多少良くなってきている。通信手段が平常の状態近くまで復旧することが期待できそうだ。

 私たちはこれまで、完全に隔離されていたので、揚州やその他のところで何が起きているのか皆目見当がつかない。私たちの蕪湖の財産は無事であること、ランフィアー、コンスタンス尼らも無事で元気でいるということを、アメリカ大使館員が報告してくれた。

 書き溜めしてあった手紙をおまえに送るつもりだ。手紙の内容を人に知らせる時には、現地の私たちに危害が及ぶかもしれないので、慎重にするように。私たちはそもそも日本軍の厄介者だ。もし手紙などがいまの時点で「公表」でもされたら、私たちの立場が危うくなるかもしれないし、ここの中国人たちはまだまだ大いに私たちを必要としている。お前なら分かっててくれるだろう。(P308-P309)




 一月十日

 これは、私が無事であり、なんの心配もいらないことを知らせる手紙だ。ずっと機会を待っていた一束もの手紙を先日送ったところだ。こちらの状況がすべて分かることと思う。

 きょうは午前中、いろいろな人を病院、教会、住居にと車で運んだ。古寺院(朝天宮か−訳者) の一部が爆撃されたが、大したことはなかった。あらゆるものが略奪されているが、取り残したものも多く、散らかってごたごたしている。

 午前中、兵隊一人をシムズ女史・・・・の家から追い出した。やっこさんの驚いたことといったらない! 

 それから、着任した館員にまだ会っていないので、大使館を訪ねた。以前済南の領事だったアリソン氏と談笑した。

 外国人が住み込まないかぎり、さらなる略奪はまぬかれないと私たちは思っている。見回りのできる私たちの人数はあまりに少ないので、住み込むのは容易ではない。けれども物より人間のほうが大切だ。イギリスとドイツの大使館員も着任したので、状況はよくなってくるはずだ。

 きのうは終日一七と二五に詰めていた。朝の礼拝を二五で行い、そこでは浦鎮の牧師が説教した。参会者は信者でない人も大勢いて、盛会だった。ジョンはきのうの午前中は大学で礼拝を行い、午後はユニオン・チャーチで英語で礼拝を執り行った。私はその場に出そびれてしまった。

 十二月三十一日に近くの池で自殺した蘆氏の遺体が発見された。悲しいことだが、たとえ今回彼を引き止めることができたとしても、いつかはきっと実行したと思う。ジョンと私の消息について、誰かが国務長官を通じて知らせたようだ、とアリソンが言っていた。おそらく司祭かウッド博士だろう。二人とも元気だ。



 一月十一日

 素晴らしいクリスマスプレゼントだ。きのうの午後、ジョンから十二月十六日、二十六日と一月五日付の手紙を受け取った。司祭とベティー、ソフィーからの手紙も一緒だ。ジョンが包みを持ってきたとき、ちょうどアルシーやKPらに手紙を書いている最中だったので、郵便を受け取ったときはそれは嬉しかった。おまえが無事上海に着いたことや漢口からの旅も首尾よくいったことが分かって本当に安心した。

 たぶん知っているのではないかと思うが、おまえが漢口を離れる前に、私は長距離電話をかけたところ、フランシス・ルーツが伝言を受けてくれた。(P309-P310)

 毎日がほとんど変わりなく過ぎていく。今晩も平穏な一夜だった。ジョンと一緒にシェルツの家に朝食に戻り、それから、私は無錫のセント・アンドゥリューで訓練を受けていた看護婦を同行して、大学病院へ出向いた。彼女が看護婦試験を受ける前に祖母が病気になって亡くなったので、卒業はしていないが、四年の訓練を受けていたし、病院側は手が足りないので、彼女に機会を与えるつもりでいる。

 それから、ルーシー・陳と一緒に難民に寄せられた衣類をとりにプレスビテリアン女子学院に回った。それから大使館へ行き、手紙を置いて、質問のあったテキサス石油会社所有の建物に私たちが住んでいることを告げた。

 こう書いてみると、午前中の仕事は大したことがないようにみえるが、そのつど待たされる時間がある。ジョンも私も、教会ニュースには喜んだ。大勢の人が具合悪くなったとは気の毒だが、おまえやみなさんの行動にはなにより関心がある。

 みなさんによろしく。こちらの食料については、どうか心配しないように。まだ蓄えはあるし、もうすぐ補給もありそうだ。大使館もいくらか回してくれるといっているので、ジョージ・フィッチを通じて注文をしている。フィッチが上海の兵站部から購入する予定だ。

 使用人は二人とも元気だが、日本兵がまだ肉体労働をさせる男手を探し回っているので、彼らは一人ではめったに出歩かないようにしている。きのう病院で人力車夫に会った。とても明るくなって、よくやっている。傷もほとんど治っていた。命を助けてもらったことをとても喜んでいる。

 ジョンと私はまだ警備の仕事をしているが、それももうすぐ不要となるだろう。ジョンも私も元気でいる。

 きのう家族(モートンとフィリス)に、私たちが元気なことと、おまえが上海に行く旨を電報で知らせておいた。おまえのほうが、先に着いていたとは知らなかった。今日はウッド博士に電報を打つつもりだ。

 さて、クリスマスの日だが、ハウス二五にある大広間に飾り付けをした。万事が素晴らしかったよ。穏やかこのうえない日だった。私は一日中警備にあたった。

 クリスマスにジョンは、陳牧師の会衆の何人かに洗礼を施した。私はクリスマスの翌日に、二人の赤ん妨に洗礼をした。おまえも、どんなにかこの場にいたかったろうと思うが、状況はまだあまりに不安定で、おまえの許可が下りるかどうか、保証できない。さて、急いでこの手紙を大使館に持っていかないと、船便に間に合わなくなる。




 一月十二日

 十一月一日以来、散髪をしていないので、髪を切ってもらうのを待っているところだ。第一に、床屋を探すのが困難なこと、第二に、暇をつくることと、適当な散髪場所を見つけるのが難しい。(P310-P311)

 ジョンと二人でいま朝食を終えたところだ。九時には再生計画を練る会合に出席する予定だ。様々な難民センターを調査した委員会が報告と勧告を行ったところ、委員会自体が再生委員会となって、難民を自宅に戻らせ、仕事につかせるように依頼された。

 きのうの午後は、医療品を大学病院に運ぶので忙しかった。以前、南京市政府の厚生課が、私たちに下関で使うように、所有品の大方を託してくれたものだ。私たちが南京に来たとき、携行したものだが、使い道がなかったので、大学病院に寄託することにした。小型車しかないので、幾度も往復しなければならなかった。

 それから、陳夫人に同乗してもらい、古着がしまってあるプレスビテリアン女子学院に寄った。夫人は、また必要な時に使えるようにと、少し残すことにしている。

 何事もなかったので、ジョンと一緒にシェルツ氏の家に夕食を食べに帰ることができた。こうして二人一緒に帰れるのは、この数週間で初めてのことだ。変わってきたのは、アメリカ、ドイツ、イギリスの大使館員の存在が大いに関係していそうだ。

 日本軍は部隊がらみで、恥じも外聞もなく外国人財産(大使館所有のものさえ)を略奪する。外交官が外国人の財産状況を見回っているとき、その敷地内で日本兵が略奪を働いているところにたびたび出くわすが、こういう時は、略奪を中国人のせいにすることができない。

 日本兵は車はあるだけ盗みだしてしまったし、安全を期してアメリカ大使館に保管しておいた車さえ持ち出してしまった。現在、面子をたてるため、日本大使館は必死になって軍部から車を取り返そうと努力しているところだ。しかし、外国の外交官の心証をよくするとは思えない。

 もし、このようなことが引き続き行われるとすれば、想像を逞しくしなくても、今まで揚州などで何が起こっていたかは自ずと知れるものだ。もちろん、揚州、鎮江のニュースはなにひとつこちらには入ってはいない。

 機会を見つけて送った手紙がそちらに届いたかどうか、非常に気になっている。一度は日本兵に、もう一度は日本の商人に頼んでみた。

 キリスト教徒模範村の老婦人がけさ病院で亡くなった。彼女は六九歳で、病名は分からないが、病気だったという。

 大使館の計らいで、ジョンと私はウッド博士にきのう長文の電報を打つことができた。私たちに関する彼の電報による質問に答えたものだ。

 日本軍は難民たちが安全区を出て、各自の家に戻って欲しい意向だという。言うは簡単だが実行は難しい、というのも大勢の人たちは、瓦礫以外になにも残っていないところに帰らなければならない。それに輸送手段は日本兵に持ち去られて、皆無に等しい。

 人力車はどうか、といえば、タイヤのないものか、ボンコツのものしかない。自転車も同様の運命にあるか、そうでなければ、持ち去られている。自動車も同じ。幸いのことに、私とおまえの車は残っている。下関からたいがいの物は持ってこれたと思うが、肘掛け椅子二脚は重くて取り残した。まだ他に残っているものがあるかもしれない。(P311-P312)

 二セント切手を幾枚か送ってくれないか。こちらでは買えない。シェルツ氏の住宅にも電気が入ったが、水道はまだ出ない。(P312)

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収)


(2012.4.22)



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