「南京虐殺」を語る
ー夏淑琴さん事件の証言集ー


 「夏淑琴さん事件」に関して、国内の出版物で見ることのできる証言資料を、ここに集めてみました。

 同様の証言集としては既にK−Kさんが編んだものがありますので、ここでは、私のサイトに過去掲載したもの(マギーによる証言)以外は、 K−Kさんのサイトに未掲載のもののみを掲載しました。


 なお、これは本人が8歳(または7歳)の時の事件です。おそらく彼女が明確に覚えているのは、家族の大半が次々と殺されたという強烈な視覚的・聴覚的記憶、家の中に隠れていた時の恐怖感が中心で、 細部は彼女の頭の中で「再構成」されてしまったものである可能性も十分に考えられます。

 「証言」の細部の食い違いや誤りをほじくり返そうとする論をよく見かけますが、そのような「証言」であってみれば、「細部の間違い」を追及することに、あまり意味はないと思われます。 いずれにしても、「細部の誤り」を材料に、彼女が家族の大半を目の前で殺されるという、大変な体験の持ち主であることまで否定することは困難でしょう。




その1  マギーによる記録


『マギー牧師の解説書』より

(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。 戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。 馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

 夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

 何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。 兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。 年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。

 さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

 傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

 撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

 このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。 彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

 彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。 このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P176〜P177)

 
「極東国際軍事裁判」におけるマギー証言


○マギー証人
  一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起こつたのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番<地>の家で起つた事件であります。

○サトン検察官 それは何年のことですか。

○マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあつたのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。

 私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取つた母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。

 其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、 さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。

 約三十名の日本兵がやつて来まして入口の所で大きな声で怒鳴つたのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の後ろに跪づいて居る男を殺し、又其の妻を殺したのであります。(モニターによる修正後の文)

 
それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。

 先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。 其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。

 それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、此の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります。 (モニターによる 追加後の文)

 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。 男の子が女の着物を着て居つた為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。

 其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居つたのであります。日本兵はその女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまつたのでありますが、後程行つて見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあつたのであります。(モニターによる修正後の文)

 或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分かりませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります。(モニターによる修正後の文)

 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行つた時は丁度其の事件が起つてから約六週間のことでありましたが、到る処に血が散乱して居つたのであります。 若し私が色を出す活動写真の映写機を持つて居たならば、其の時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来ただらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居つたのであります。

 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行つて案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。 其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95〜P96)

 






その2  夏淑琴さん自身による証言


『南京大虐殺と原爆』より

 日本の友人の皆さま、こんにちは。私は夏淑琴と申します。

 私は南京大虐殺で生き残った一人です。また、虐殺されたおびただしい死体を収容していた人たちによって、死人の中から拾われた孤児です。

 九人家族の七人までが殺され

 私は南京で一九二九年五月五日に生まれました。

 一九三七年十二月十三日の冬の朝、大勢の日本軍が私の家にやってきました。日本軍というのは軍帽をかぶっておりまして、長い銃剣をかついで、革の靴をはいていたのを覚えています。 私の父が扉を開けたんです。そして、こんなに大勢の武装した日本人がやってきたのを見て、びっくりして中へ逃げようとした時、父は、日本の兵隊に、後ろから銃でいきなり撃たれて殺されました。

 私の母は、その時母屋の方にいました。母は、まだ乳飲み子である私の下の妹を抱いておりました。日本の兵隊は、私の妹を母から奪いとるなり、地面にたたきつけて殺したのです。 それから母は服をすべて脱がされ、その場で強姦されて殺されました。

 母屋の奥にもう一つ部屋がありまして、私と姉二人ともうひとりの妹の四人は、その部屋に逃げ込みました。そこには私たち姉妹四人を守るために、祖父母も一緒にいました。 祖父母は私たちをかばおうとして、私たちの目の前で日本の兵隊に撃たれて、二人とも殺されました。

 私の上の姉は、当時十五歳でした。私たち四人はお布団の中に隠れていたんですけれども、その一番上の姉が日本の兵隊に引きずり出されて、机の上にのせられ、はだかにされて、その場で輪姦されました。 それから祖母が使っていたつえを下半身に入れられて、そのまま無惨に殺されました。

 私の二番日の姉は、当時まだ十三歳でした。十三歳でもやはり上の姉と同じように、引きずり出されて、私たちが隠れていた寝台の上で、日本の兵隊たちによって輪姦されたのです。

 当時八歳だった私は、あまりのおそろしさに泣き叫びました。するといきなり、私は銃剣で刺されました。脇を一カ所、それから背中を二カ所です。 (夏さんは上衣をめくって傷を示された。)

 私は三ヵ所も刺されたために気絶してしまい、何もわからなくなりました。

 どのくらい時間が経ったのかわかりませんが、私は四歳になる妹の泣き声で意識をとりもどしました。妹は布団の中にいて、無事だったのです。でも、部屋の中には、殺された姉二人と祖父母の死体がころがっていました。家の庭の方にはい出てみたところ、父も母も下の妹もみんな殺されて、横たわっていました。当時九人家族だった私たち一家は、一日のうちに七人までが殺されたのです。

 私の祖父母は六十歳を過ぎておりました。日本の軍人はなぜ、無抵抗な老人まで殺すのでしょうか。なぜ、乳飲み児を殺すのですか。そして、もっともひどかったのは、まだ幼なかった姉たちに対して行われたことです。

  上の姉は当時十五歳、二番日の姉は十三歳でした。いってみればまだほんの子どもみたいな年頃です。そんな、抵抗するすべを持たない子 どもまでも見逃さないで、何人もで強姦して、あげくには殺してしまうという日本人の、当時の軍人の行動が、私には今でもどうしても理解できません。 なぜあのような残酷で悲惨な仕打ちを受けなければならなかったのか、それはどうしてもわからず、ただただ悲しかったです。


 一週間家族の死体とともに

 戦争が終わってからも、私の生活は本当に苦しいものでした。私は孤児になってしまったために、伯父の家に預けられました。親戚ですけれども、やはり人の家で生活するのは本当につらく苦しいものがありました。

 私は子どもでしたが、当時のことは忘れることができません。もう半世紀も経ちましたが、今でも鮮明に心の中に残っていて、一生消えることはありません。 私は悲しみのあまり、小さい頃から本当に泣くことが多くって、毎日毎日泣いていたために目を悪くしまして、ほとんど見えない状態になったこともあります。現在は治療によってずいぶん良くなりました。

 私たち一家が住んでいたのは、中国の昔の家なのですけれど、守護院(*1)といいまして、外部に通じる大きな扉と同じ中庭を共有する造りになっていました。 中で生活する部屋は家庭ごとに違うのですが、いわゆる共同生活のような暮らしをしていたのです。隣に住んでいた一家は夫婦と子ども二人の四人家族でした。その四人も、私たち一家が被害を受けた同じその日に、日本の軍人に全員が殺されました。

*1 守護院 ひとつの塀で周りを囲った長屋。共通の門を入ると、T字型の中庭の両側に何世帯かが間借りした部屋が並び、共同炊事場がある。

 隣の家は四人家族、私の家は九人家族です。それから当時その中庭に、大人の人二人が外から避難してきていました。それで同じ敷地内に十五人がいたわけですが、一瞬の間に十三人までが殺されました。かろうじて生き残ったのは、三 ヵ所刺された私と、布団の中にいて見つからずにすんだ私の妹の二人だけ、たった二人だけだったのです。

 私と妹は、恐怖のあまり外にも出られず、死体と同じ部屋でそのまま一週間過しました。 その間に何を食べたかといいますと、私たちは日本人がやってきたその日の、ほんとうにその瞬間まで普通に生活していたものですから、なべの中に残っていたごはんとか、そういったものを食べながら、一週間過したのです。 その時の気持ちは、ことばではとうてい言い表わせません。

 そうして私たち二人は死体を収容しにきた人たちによってやっと発見されて、その後、老人堂というところ、これは孤児院なのですが、その孤児院に入れられました。

 南京市内に当時、外国人が避難できるように作られた「安全区」という地域がありました。南京市内の状勢がずい分安定してからですけれども、私の母方の伯父が、その安全区から私たち二人を迎えに来ました。 そして、孤児院から私たちを引きとってくれました。

 あとになって知ったことですが、私たちの家族だけではなく、私が住んでいたのはほんの小さい地域ですが、その地域だけで一日のうちに二百人前後もの人がいっペんに殺されたのです。赤ん坊から老人まで無差別に。


 南京で何があったのか、正しく知って下さい

 日本軍が私の故郷である南京で行なったことを、私は一生、決して忘れることはできません。 日本軍がその南京でどれだけ多くの人を殺したか、またどれだけの建物を壊し、幸せな生活を破壊したかということを、私はどうしても忘れることができず、日本軍を強く恨んでいます。戦争によって、私のような不幸な民衆は、とても悲惨な被害を受けました。 ですから、このような悲惨なことをもう二度とくり返さないようにと、願っております。

 私は日本の人に、一人でも多くの方に、南京で何があったかということを、どうか正しくはっきりと認識していただきたいのです。そのために私は、南京で言い尽くせぬ被害を受けた数多くの人々を代表して、日本へ来ました。

 今回証言することにあたって、私が一番言いたいことは、戦争はふつうの民衆をもっとも酷い目に遭わせるものだから、もう決して戦争をしてはならないということです。 戦争によって、数え切れない人々が、かけがえのない家族や親戚を奪われました。私と妹も家族のすべてを殺されて、悲しく辛い思いで生きてきましたから、これからはいつまでも平和で、みんなで一緒に生きていてほしいと願っています。ありがとうございます。

(P14-P19)



 
早乙女勝元氏『南京からの手紙』より

 日本軍が南京を侵略した十二月十三日のことを、お話しなければなりません。

 私たちは当時、新路口というところに住んでいて、私は七歳でした。

 一家は、九人家族で、父は労働者でした。といいましても特別にどこかへ勤めるというのではなくて、日雇いというのでしょうか。 その父を中心にして、母と、十五歳の上の姉、十二歳の下の姉、そして私、四歳の妹、生まれてまだ数ヵ月しかたっていない末の妹と、女ばかりの五人姉妹です。それに、祖父母と。

 日本軍は、十三日に南京市内に入ると、至るところで、かたっぱしから虐殺を始めました。ええ、中国人とみれば殺さずにはおかない、といわんばかりに、です。

 その日本軍が、あっというまに、私たちの家にも押しよせてきました。

 十三日の昼近くだった、とおぽえています。家に入る中庭には門がありましたが(門のなかに何軒かが長屋ふうに並んでいる)、日本軍をはじめに見たのは、お隣のおじさんでした。おじさんは驚いて、日本語がわからず、あたふたしているうちに撃たれて倒れ、それから私の父も!

 父は、その場で、日本軍の一発で殺されてしまったのです。

 そばにいた母は、赤んぽうを抱いてましたが、妹といっしょに殺されてしまいました。

 私は、父が血を噴いてあおむけにのけぞって倒れたとたんに、家のなかへかけこんだのです。ですから、母が殺される現場を見たわけではないのですが、母の死体は下半身はだかの痛ましくもむごたらしい姿で、中庭に横たわっていました。犯されたあとに、殺されたのです。小さな妹の死体が、そのそばに投げ捨てられて。・・・・

 家にかけこんだ私は、たいへんだ、たいへんだと、祖父母に中庭での出来事を伝えました。

 おじいさんとおばあさんは、あわてて、私たち四人姉妹を、家の奥の一間に隠れるようにいいました。それは、祖父母の部屋で、右の奥まったところにベッドがあり、左の壁に食卓用の机がありました。

 私たち四人は、かたまってベッドにもぐり、頭からふとんを、すっぽりと。

 けれど、四人ももぐりこんだふとんが、日本兵に見つからぬはずはありません。

 まもなく日本軍の皮靴の音とざわめきとが、どやどやと聞こえはじめたとたんに、バーンと銃声一発。入口のところにいたおじいさんが、問答無用とばかりに殺されたのです。

 そして、おばあさんは・・・・。祖母はかれらに殺される理由はなかったのでしょうが、日本軍が銃剣の先で、私たちのかぶっていたふとんを引っペがしたとき、私たちをかばおうとして、かれらの前に立ちはだかったのです。

 「この子たちに、手を出さないで!」

 と、いい終えぬうちに、私たちの見ている前で、息の根をとめられて・・・・。

 そして、大人たちがだれもいなくなったところで、日本兵は、ベッドの上から二人の姉の腕をむんずと取りました。

 私は、恐怖の声を上げました。四人は、ひしと抱き合いました。

 それが、かれらには邪魔だったのでしょう。私は銃剣の先で乱暴にこずかれ、三、四ヵ所刺されて、気を失ってしまいました。まだ、そのときの傷跡が残っています。背中と、左肩と、左の脇腹と。

 気がついた時、四歳の妹と私と、たった二人だけになっていました。私は妹の張りさけるような泣声で、意識を取り戻したのです。

 二人の姉は、すでに冷たい屍となっていました。

 上の姉は、机の上に上体をあおむけにして、下半身をはがされ、はだかのまま。下の柿はベッドの上にこれまたあおむけになって、はだかの両足をだらんと床に垂らして。 姉たちは先ほど申しましたように十五歳と十二歳。まだ子どもといっていいような年頃なのに、大勢の日本軍によってたかって犯されたあとに、惨殺されたのです。

 私たちが、日本軍に対して、いったいなにをしたというのでしょうか。なに一つしていません。なのに、犯された女たちは、たいてい日本軍が証拠をあとに残さないよう、殺される運命にありました。

 私はまだ七歳でしたので、なんとか生きのびることができましたが、それでも銃剣で刺されてぐったりし、これで静かになったとかれらは思ったのでしょう。妹は私のかけぶとんの下にいましたので、かろうじて、難を逃れました。

 私の家は、こうして家族九人のうち、七人までが不法に殺されたのです。しかも、母と二人の姉は、女としてのおそろしい辱めを受けた上で。・・・・

 家のお隣は四人家族でしたが、だれ一人として生き残りませんでした。

 日本軍のために、私たちは、このように非人問的な残虐な殺され方をしたのです。思い起こすたびに、涙をおさえることができません。いくら涙があっても足りないくらいの気持、おわかりになりますか。 しかも、以上のような目にあったのは、私たち二家族だけではなく、南京市内で日本軍の残虐行為のため命を失った人は、数かぎりなく何万何十万にもなるのです。

 町中が壊され、奪われ、焼きつくされて、生き残った者は住む家もなく、食べるものも着るものもなしで、南京はそこいらじゅう無残な死体が散乱する死の町となったのでした。

 かろうじて一命を取りとめた私と妹は、それから二週間も、死体だらけの部屋ですごさなければなりませんでした。

 まだ幼かった上に、かばってくれる身内はだれもいなくなってしまったのですから、それからは、ほんとうに、言葉や文字でいいつくせぬような苦労を・・・・。

 ですから、あの日のことを考えますと、どうしようもないほどの怒りがこみ上げてきて、日本人を見ると殺してやりたいと、思うことがあります。

 しかし、それはいけません。

 いま中国人民とあなたたちとは友好的な関係にありますし、いついつまでもそうでなければならないからです。そして、私たちは、私の一家のような悲劇を二度とくりかえさないために、つらいけれども必要があれば語らなければ・・・・と思います。

(同書 P77〜P81)
 



落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より


 今回の取材で会った証人たちのうち、八〇年代にある日本人ジャーナリストからインタビューを受けた者がふたりいる。ひとりは蘇州で会った呉水金氏、もうひとりがこれから登場する夏淑琴女史である。

 その日本人ジャーナリストは当時ある新聞社の記者で南京問題にかなりカを入れ、虐殺についての本も書いている。その中で呉氏と夏女史とのインタビューに基づいた記述があるのだが、話の内容が今回私が聞いたものと多少違う部分があるのである。

  これは通訳の能力の問題もあるだろうし、語る人自身の言葉があいまいであるため辻つまを合わせるために書き手が補足してしまうということもある。または語り手が当時のことを忘れてしまっていて想像力を働かせているという場合もあろう。

(中略)

 夏女史の話にもこういった矛盾点が所々に出てくる。しかし、それらの矛盾点をいちいち挙げつらうのが私の目的ではない。

 ここでは彼女の言ったままをそのまま再生してみる。

 夏淑琴女史は一九二九年生まれで当年六十六歳。日本軍が南京に入ってきたときは八歳だった。

 そのときの模様を彼女は次のように語る。



「一九三七年十二月十三日の午前九時か十時頃だったと思います。当時、中華門のそばに住んでいた私の家に大勢の日本兵が入ってきたんです。みんな戦闘帽をかぶって日の丸をつけてたのですが、私には何だかわかりませんでした。 初めて日本軍というものを見たわけですから。

 ドアがパンパンパンと叩かれたので父が開けに行ったのです。開けた途端、日本兵が何やら言いながらなだれ込むようにして入ってきました。父はピックりして逃げようとして日本兵に背を向けた途端射殺されました。 父の後ろについて行った大家さんの哈さんという人も逃げようとしたのですが背中を撃たれてしまいました。二人とも即死でした。

 その頃私の家族九人と哈さんの家族四人は同じ屋根の下で生活していたのです。近所の人々はみな難民地区に逃げてしまったのですが、われわれは子供が多いし、老人もいるから逃げにくかったのです。

 家の中にある机を全部集めてわれわれはその下で生活していました。なぜかと言うと、その頃は空爆が多かったんです。だから机の下を防空壕がわりにしたわけです。

 父と哈さんが殺されたとき私たちは外側の部屋にいたのですが、怖くなっておじいさんとおばあさんと一緒に内側の部屋に逃げ込んだのです。外側と内側の部屋の間には庭がありました。母はわれわれと一緒に逃げずに外側の部屋で机の下に隠れていました。 まだ一歳にもならない乳飲み子の妹を抱いていたんです。

 内側の部屋の窓と言っても木で作った格子のような窓ですが、そこから見ていると日本兵が外側の部屋に入ってきて母を机の下から引きずり出して、ひとりの兵士が彼女が抱いていた赤ん坊を彼女の手から引き離そうとしたんです。

 でも彼女は必死に赤ん坊を抱いていたため、ひとりではだめだと思ったのか、数人の兵士が加わって彼女から取り上げたのです。そしてその赤ん坊を中庭に投げて、銃尻で突いて殺しました。

 それから母の服を全部脱がせてその場で強姦したのです。哈さんの奥さんと子供二人は机の下から出て来なかったので銃剣で刺されました。哈一家は全部即死だったわけです。

 これを見ておじいさんとおばあさんは私たち四人姉妹をベッドにもぐり込ませてふとんをかけました。おじいさんとおばあさんはベッドのふちに座っていました。日本兵は有無を言わさずにふたりを撃ってしまった。ふたりはその場で死んでしまいました。

 われわれがかぶっていたふとんがはがされ、十五歳の一番上の姉がまずベッドから引きずり出されて着ていた服を全部はがされました。そしてベッドのそばにあったちょっと低い机の上で強姦したのです。 二番目の姉は十三歳だったのですが、やはり衣服を脱がされてベッドの上で犯されました。

 私はそのとき必死になって叫んでいたんです。それがうるさかったのか日本兵は銃剣で私を三度刺しました。今もそのときの傷跡が腰と肩に残っています。刺された痛みとショックで私はその場で気を失ってしまいました。

 目が覚めたとき四歳の妹がふとんの中に隠れて泣いていました。一番上の姉は机の上で、二番目の姉がベッドの上で真っ裸になって横たわっているんです。それにおじいさんもおばあさんも。 私は体中血だらけで痛みもひどかったけれど這いながらひとりひとりを揺すってみたんですが反応はありませんでした。みんな死んでたんです。おじいさんとおばあさんは脳みそが散ってました。

 私は這いながら母を探しに外側の部屋に行きました。でも母もやっぱり死んでました。

 その後その家で妹と十日間いたんですが、食べ物は防空のために用意しておいた保存食のおこげでした。水は大きな水ガメから取りましたが、高いところにあったので箱を積み重ねて踏み台にしました。 でも食べたり水を飲んだりしたのは夜の間だけです。昼間は日本兵がうろうろしているので怖くて机の下に隠れてじっとしていました。そばには哈さんの奥さんと子供ふたりの死体がありました。

 十日ぐらいしてから紅卍字会の人々が死体探しに来たんですが、そのとき私と妹を見てまだ生きていることに気づいたんです。それで助けられて孤児院に入れられました。もちろん私は歩けなかったので背負ってもらいました。

 その後何日かして母方のおじが私たちふたりを探し出してくれて引きとってくれたんです」


 おじの家に引きとられてしばらくしてから、ひとりのアメリカ人が訪ねて来て彼女と妹をアメリカに連れて行きたいと申し出た。そのアメリカ人は救援組織団体の幹部らしかった。もちろん彼はおじに金をオファーした。

 しかし、おじはその申し出を断ったという。


 一九四五年八月十五日、日本軍が降伏したとき夏女史は十六歳になっていた。


「あのときは、ああやっと苦しみが終わるんだなあという感じでした。だけど、うちのおじは、日本兵を殺してやる、自分たちが味わった苦悩を味わわせてやると言ってました。でもそういうことは決してやってはならないと国民党から指示が出ていたようです

 ただ中国人の子供たちが日本軍に向かって石やレンガを投げつけているのは見たことがあります



 一九五四年に彼女は解放軍の兵士と結婚し三人の子供をもうけた。夫は七九年に他界したが子供たちはみな結婚し子供もいる。現在、彼女の孫は四人。

 時々、虐殺記念館に来ては、訪れる若者たちに当時のことを語り継いでいるという。

 あれから五十八年の歳月が週きたが、あのとき受けた精神的、肉体的苦しみは癒されてはいないと彼女は訴える。


「まだ体にあのときの傷跡があって風呂に入るときなどは痛むんです。しかし、それ以上の痛みはあのときの家族の殺され方を思い浮かべるときです。九人の家族の七人が瞬時に日本軍に殺され、三代にわたる世代が失われてしまったのです。

 でも私は今日まで生き永らえてこられてつくづく良かったと思っています。なぜなら私の体験したことを、これから生きる人たちに伝えられるからです。そしてあのようなことが二度と起こらないようにするために、わずかながらでも貢献できるからです」



 昨年、夏女史は虐殺記念館の朱成山館長とともに日本を訪れた。そのときいろいろな日本人に会って当時のことを語ったが、印象深かったのはある元日本兵と会ったとき、彼が言った言葉だったという。


「その人は南京虐殺に参加していたというのです。あのときの真実として彼が語ったことに私はピックリしました。彼が言うには当時の南京で日本軍は殺人競技会を行っていたというのです。 誰がどれだけ多くの中国人を殺すか、殺した人数によって勝負が決められる。そして一番多く殺した人が英雄だったというのです。それは軍の中で大っぴらに伝わっていたんです。初めて聞いたことなので本当にショックでした」



もうひとつ驚かされたのは、日本の学生や若者が虐殺の話をあまりにも知らなすぎるという事実だったという。


「ある会合で私が話を終えるとひとりの若者が私のところに来て、自分はそういう話を聞いたことがなかった、全く初耳だと涙ながらに言うんです。彼のように歴史の真実を知らぬ若者が日本には非常に多い。残念なことです」



 これからも機会が与えられれば日本に行って自らの体験を日本の若者たちに伝え続けていきたいと彼女は言う。そして最後にこう結んだ。



「八歳のときのあの日、日本軍が入ってきておじいさんやおばあさんを目の前で殺したとき、私はなぜですか、なぜこんなことをするのですかと叫びました。その問いは今でも心の中で繰り返しています。 あのときの日本兵がひとりでも生きていたら私は声を大にして言いたい。なぜあんなことをしたのですか、と。ですから今でも私は痛恨の気持ちで日本軍を憎んでいます。これは全く変わりません。

しかし、今の日本の若者たちに罪はありません。彼らはただ知らないだけなのです。年寄りのやったことの責任を彼らに押しつけては可哀そうです。でも彼らに教えることは大事だと思います。あのような悲惨な戦争を二度と繰り返さぬためにも」


(同書 P113〜P119)



星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 夏さんは筆者の取材要請に快諾し、二〇〇二年五月一四日に私の滞在するホテルを訪問してくれた。

 夏さんは、「私に関する本多勝一さんの記事は、家の見取り図を含めてかなり正確です。 ただ、私の悲惨な過去について記者に打ち明けたのは戦後は本多さんが初めてで、それからかなり時聞が経っているので、補充することもあります」と言い、これまで発表されたこと以外の証言もしてくれた。

 そこで、本多氏の夏さんに関する記事(『南京大虐殺』二三〇〜二三五ページ/以下「本多ルポ」とする)を土台に、私が今回の取材で得た事実を加えて、以下に報告する。

 本多氏の報告と細部で異なる部分もあるが、基本的に私が今回の取材で得た証言を優先した。また、夏さんが後に人づてに聞いたことについては、文末に(聞)と記した。


夏さんの被害証言

 夏淑琴さんは、一九三七年一二月当時は満八歳で、南京城内南部・中華門ちかくの新路口(現在の馬道街)に家族とともに住んでいた。家族は、父(四〇歳)・母(四〇歳)・長姉 (一五歳)・次姉(一三歳)・長妹(四歳)・末妹(乳児)のほかに、母方の祖父母も合わせて九人だった(年齢はおおよそ)。

 一家の住居は、一つの塀で囲まれた長屋のなかにあった。共通の門を入ると、T字型の中庭の両側にそれぞれの間借り住居があり、六〜七世帯分が並んでいた 。しかしながら、日本軍が南京城に到着したころ(一二月上旬)には、六〜七家族のうち夏さん一家と「家主」一家(夫婦と二人の子)以外は、難民区(安全区)へすでに避難していた。

 夏さんの家には叔父(母の弟)夫婦と二人の子も一緒に住んでいたが、事件の二日ほど前にここを出て難民区へと向かった。

 一二月一三日(南京陥落の日)の朝九時ごろ、夏さん一家の朝食がすんで、それぞれの家事をしていた。すると、長屋の敷地入口の観音扉(両開き)を激しく叩く音が聞こえた。 夏さんの父は何ごとかと扉のほうへと向かい、同時に「家主」の男性も向かった。そして扉が開けられると(もしくは、こじ開けられると)、そこには日本兵が二〇〜三〇人(おおよそ)立っていて、うち一人は日章旗を担いでいた。

 日本兵がなにかを日本語でしゃべったが、父と「家主」は何のことか分からぬままいると、いきなり二人とも銃撃されて殺された。(*この場面については、以前の証言と若干異なる部分があるので、簡略化した。)

 この一連のことを、夏さんは少し離れたところで目撃した。夏さんは恐ろしくなり、あわてて自分の家へと逃げ込んだ。 家のなかには母と末妹(乳児)以外の六人がいて、母は乳児を抱いて中庭の突き当たりにある「避難所」(机を四つ並べた簡単なもの)に隠れた。この「避難所」は、日本軍機による空襲時の隠れ場所として普段は使われていた。

 日本兵らはすぐには夏さん宅に来ないで、まずはこの「避難所」のほうへと向かった。祖父が窓越しに、これから起こる惨劇を見ていた。 そのとき自分の娘(夏さんの母)の姿は見なかったが、末の孫(乳児)が一人の日本兵につかみ上げられ、地面に叩きつけられるのを目撃したという。

 祖父はそれを見て、「大変だ! 大変だ!」と叫びながら末の孫の惨事を皆に伝え、残った四人の孫娘をいちばん奥の自分たちの部屋に避難させた。

 この部屋は八畳ほどの広さで、寝台と机が一つずつあるだけだった。夏さんら四人姉妹は、寝台の上にかたまって横たわり、ふとんをかぶった。そして祖父と祖母は、孫たちをかばうようにして、その寝台の端に腰かけた。

 まもなくして、木の床を踏みならす靴の音やざわめきが聞こえ、家のなかに大勢の人が入ってくる気配がした。夏さんらが隠れる部屋にも、ついに日本兵が現れたのである。

 日本兵らは、寝台の端に陣取る祖父母を怒鳴りつけてどかそうとしたが、二人は孫たちを守るために必死に抵抗した。しばらくもみ合ったあと、数発の銃声が聞こえ、それ以降は祖父母の声は聞こえなくなった。 (*このあたりの前後関係は、「本多ルポ」などと若干異なるが、今回の証言に従った。)

 その直後、ふとんがはぎ取られた。すると、夏さんの目の前には、狭い部屋に「ぎっしりとかなりの数の日本兵」が立っていた。その何人かはまず一五歳の上の姉をつかまえて、むりやり机の上に仰向けにのせた。 彼女は激しく抵抗したが、多勢に無勢でなすすべもなく、ズボンを脱がされそうになり、今まさに強姦されようとしていた。そして一三歳の下の姉もまた、寝台の上で日本兵らに押さえつけられ、同じように強姦されようとしていた。

 このような突然の蛮行を自の前にして、夏さんは気が動転して「キャーッ!」と悲鳴を上げたり、「ワーッ!」と叫んだりした。すると、近くの日本兵に「うるさい!」などと怒鳴りつけられ、銃剣で左脇腹・背中・左肩の三カ所を刺され、夏さんは気を失った。

 どれほど時間が過ぎたのか分からなかったが、四歳の妹の泣き声で夏さんの意識は戻った。妹は寝台の壁際につくね(無秩序に放り重ね)られたふとんの下で、「お母さん! お母さん!・・・・・」と泣き叫んでいた。

 「妹が無傷だったのは、小さくて、ふとんのいちばん奥にいて、日本兵に見つからなかったからではないか」と夏さんは推測する。その時はもう日本兵の姿はなかった。夏さんの身体中には激痛が走り、全身は血まみれだった。

 部屋のなかを見まわすと、そこは恐ろしい光景に変わりはてていた。寝台の前には祖母の死体が、戸口を入ったところには祖父の死体が横たわっていた。あたりには白っぽい脳みその固まりが飛び散り、ベッド横の壁にはその小さな固まりが点々と付着していた。

 同じ寝台の一方には、下の姉(一三歳)が上半身をのせてグッタりしていた。ズボンが脱がされ下半身を裸にされて、両足が床に投げ出された状態だ。夏さんは彼女を揺さぶってみたが、何の反応もなく、死んでいることが分かった。

 寝台とは反対側の窓ぎわの机に目を転じると、そこでも上の姉(一五歳)が上半身をのせたままグッタリしていた。彼女も同じように下半身を裸にされ、両足が床に投げ出された状態だ。

 二人の姉は、日本兵に輪姦されたうえで殺害されたのは明らかだった。しかし、彼女らがどのように殺されたのかは、その時は外見からは分からなかったという。

 この惨劇の現場を目の当たりにして、夏さんも妹と一緒に「お母さん! お母さん!・・・・」と泣きながら叫びつづけた。そして母を探すために、夏さんは痛みをこらえて部屋から這い出し、やっとの思いで中庭までたどり着いた。

 「避難所」の方へすこし進むと、いちばん下の妹(乳児)が地面の上で死んでいた。そして「避難所」の前までくると、母がズボンを脱がされ下半身を裸にされた状態で死んでいた。 先の祖父の目撃談と合わせて考えると、日本兵は「避難所」に隠れる母子を引きずり出し、乳児を地面に叩きつけるなどして殺害し、母親を強姦(輪姦)したうえで殺害したのは明らかだ。また、「避難所」の机の下でも「家主」の妻とその二人の子どもが死んでいた。

 夏さんと妹は、それからずっとこの長屋の敷地内にとどまった。夏さんが重傷を負っていることに加えて、周辺にはまだ日本軍がいることもあって、身動きできなかったためだ。 実際、この惨劇の直後から、門のすぐ向かい側の建物に日本軍が宿営し、昼間にときどき夏さんらのいる中庭を近道として通る日本兵がいたのである。そういった日本兵の靴音が聞こえると、夏さんと妹はあわてて「避難所」の下に隠れて死んだふりをしていた。

 だから、昼間はこの「避難所」からあまり離れて動くことはできなかった。 しかし、暗くなってからは、共同炊事場の大ガメに水を汲みにいったり、家の鉄鍋で作られた厚い層の焦げ飯を取りにいっては、妹と二人で「避難所」の下で飲み食いをしていた(焦げ飯は長持ちさせるための非常用食料であり、 夏さん一家も難民区に避難すベく用意をしていたのかもしれない)。夜は「避難所」にもぐり込み、家から持ってきたふとんをかぶって、「家主」の妻と二人の子どもの死体の横で寝泊まりした。

 あの惨事から一〇日ほど(*1)たっただろうか、数人の老人が敷地内に入ってきて、生きている人がいるかどうか調べたり 、何か探し物をしているようだった(夏さんは、彼らは何か食べ物を探しにきたのではないか、と推測する)。夏さんと妹は人の気配に気づいて「避難所」に隠れたが、その老人たちが中国語で話していたので、大丈夫だと思いそこから飛び出した。

*1 以前は「二週間ほど」と証言することが多かった。事件当時の状況から言って、一〇日と二週間の区別は難しいだろう。

 すると、近くにいた老婆が「あっ! まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。

 夏さんの血まみれの衣服は、とても臭くなっていた。それからしばらくのあいだ、夏さんと妹は、この「老人堂」で保護されていた。その日数については、夏さんは「かなりの日数があったので、数週間になると思う」と証言する。


 「マギー牧師の解説書」との同一性

 年が明けて三八年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。

 それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。

 そのころ、夏さんが刺された三ヵ所の傷のうち、左脇腹と左肩の傷はだいぶ良くなっていたが、背中の傷だけは腫れて悪い状態だったという。

 夏さんは叔父にかつがれ、その「老人堂」をあとにして、難民区へと向かった。もちろん、妹も一緒だった。当時、難民区で生活するには、南京市自治委員会で「登録証」の手続きをしなければならなかった。食糧などの配給を受けるためらしい。

 そこで夏さんは、自分がこれまで体験した惨事について、担当者(中国人)に大まかな話をした。その担当者がその話を上司に報告したところ、「これは大変なことだ」ということになり、南京安全区国際委員会にそのことが伝えられた(聞)。 それでラーベ同委員長がマギー牧師にそのことを伝え、現場に派遣したのである(聞)。

 マギー牧師は夏さんと妹とその叔父を連れて、彼女たちを保護した「老人堂」の老婆にも同行してもらい、夏さん宅の惨殺現場を訪れた。そして、一六ミリフィルムで現場を撮影したのである。

(*その時のフィルムは現在でも残っており、十数体の遺体が戸外に並べられている場面も見ることができる。 そして、マギー牧師の「日記」の三八年一月三〇日欄には、ここ一週間の出来事の一つとして、この現場撮影のことが記されていり。また、ラーベ氏の日記の一月二九日欄には、マギー牧師のこの取材について書かれている。 このことから、マギー牧師らが現場を訪れたのは、一月二三〜二九日のあいだと推測できる。)

(以下略)

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P147〜P155)



笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より

夏淑琴 
二〇〇二年四月二日午後、中山門外石象路四六号一八幢四号の自宅を訪ねた。家は紫金山の麓にある緑多い郊外住宅。 日本で出版された本で自分がニセの証言者であると書かれたことに対して、江蘇省人民法院に提訴した名誉毀損裁判が当時はまだ受理されていなかったことや(その後、受理されて二〇〇四年一一月から審理が開始された)、 日本で自分の証言を否定する言論が放任されていることなどから、それはみな自分に学歴がないために一人前に扱われていないのではないかというコンプレックスに陥っているようだった。 最初は焦燥感で落ち着かない感じだったが、ヒヤリングを通して次第に落ち着きを見せるようになった。最後は人なっこい笑顔を取り戻し、バス停まで送ってくれ、にこやかに手を振ってくれた。
 南京城を占領した日本軍は、一二月一三日から南京城内で徹底した残敵掃蕩戦を展開した。そのため城内の自宅に残っていた多くの家族が犠牲にされた。 当時まだ七歳(数え年八歳)だった夏淑琴さんは、家族九人のうち七人を殺害された。しかも、母と姉二人は強姦されたうえに殺害されたのである。


 私は一九三〇年に生まれ、日本軍が来たときは七歳でした。私の父は夏庭恩といい、南京の人でした。父は普通の労働者でした。母は夏聶氏といいました。当時、私の家族は、中華東門新路口五号に住んでいました。私の家族は回族ではありません。

 一九三七年に父が殺された時は、三〇歳から四〇歳の間でした。当時私はまだ小さかったので、はっきりした年齢はわかりません。父は痩せていて背が高かった。母は背の小さい人でしたが、母の年齢については分かりません。

 一九三七年当時、私たち親子は、母方の祖父母と叔父夫妻と一緒に住んでいました。日本軍がやって来る二日前に叔父と叔母は、難民区へ避難していきました。私の家族はそのまま避難しないでいました。

 当時、私は七歳でしたが、小学校へは行けませんでした。文字を学習したのは成人してからで、解放後の一九五一年の識字運動の時になります。

 私には二人の姉がいて、当時、上が一五歳、下が一三歳でした。私にはさらに四歳の妹がいました。さらに日本軍に殺害された満一歳にならない妹が一人いました。

 私の家族の悲劇について、最初に話してくれたのは叔母でした。いま話したような家族の状況は、私はまだ小さかったので、叔母が話してくれたのを聞いたのです。私は、時には叔母を恨むことがあります。 もしも彼女が私の名前を他人に言わなければ、南京大虐殺被害証言者として、いろいろな辛い、嫌な目にあうことにはならなかったはずですから。

 一九三七年一二月一三日、午前一〇時ごろ、私の家では、姉が米を洗い、野菜を洗い終わって、これから昼食の支度にかかるところでした。銃剣を持った日本兵が私の家に侵入してきたのです。 父が最初に日本兵を見て、家の中に向かって逃げようとしたところを、日本兵の銃で撃たれて殺されました。その時、私の家の近所は、私の家族と哈という姓の大家さんの家族だけが家に残っていて、他の家族はみな避難、逃亡していました。

 私の家族と大家さんの家族は一緒に住んでいました。泣き叫ぶ声がすごかったので、大家のおじさんが様子を見に外に出たところ、おじさんも日本兵に射殺されてしまいました。

 母は、日本兵が家の中まで侵入してくるとは思わなかったので、テーブルの下に隠れていました。というのは、それまで日本軍機の爆撃がさかんで、私の家の裏のさらに裏の近所の家が、日本軍の爆弾をあびて、全部焼けてしまったことがあったからです。 だから、日本軍の攻撃から身を守ろうとして私の家族がとった避難行動は、飛行機の爆弾から身を守ることでした。

 私もテーブルの下にもぐりました。その当時、近くに防空壕はありませんでした。私の父が射殺された時、母はテーブルの下にもぐっていましたが、日本兵は部屋に侵入してくると、私をテーブルの下から引っ張り出して、その部屋の外に押し出しました。 それで私は、別の部屋で、妹と祖父、祖母と一緒になって隠れていました。

 母のいた部屋の方から、恐ろしい叫び声と悲鳴が聞こえました。そのとき母は、まだ満一歳にならない妹を抱いていました。後で分かったことですが、その私の妹を、日本兵が母から取り上げて壁に投げつけ、殺してしまったのです。 しばらくすると、外の音がしなくなりました。

 日本兵たちが、私の母を強姦したあと、私たちのいる部屋に入ってきました。その時、私たち.四人の姉妹は、祖父と祖母のベッドに座り、祖父と祖母はベッドの頭の所に座っていました。

 日本兵は部屋に侵入してくると、祖父と祖母をピストルで撃ち殺しました。それから一人の日本兵が上の姉をテーブルの上に引っ張っていって強姦したのです。下の姉は日本兵にベッドの端に引っ張っていかれて強姦されました。

 私と妹は、泣き叫んだので、私は日本兵に三ヵ所を刺されて、気を失ってしまいました。だいぶたって気がついてみると、妹が母の名前を呼びながら泣いていたのです。 私は妹の手を引いてその部屋を出て家の中を見回りましたが、家にいた人たちはみんな死んでいました。

 私は、日本軍国主義がこのように残忍だとは思ってもみませんでした。大家さんの家族も四人いましたが、四人ともみんな殺されてしまいました。 大家さんの奥さんは、力持ちで、テーブルの下にもぐってテーブルの脚をしっかりと抱えたまま、日本兵が引きずり出そうとしても駄目だったらしく、私が見たときは、テーブルの下にもぐったまま殺されていました。

 おばさんの二人の子供も一緒に殺されていました。日本兵はあまりにも残酷でした。

 この一家殺戮の中で、私と妹だけが生き残ったのでした。妹がお腹がすいたと言い出しましたが、ご飯はありません。当時、私はまだ小さかったので、何もできませんでした。 しばらくして母が鍋巴(保存食で一種の焦げ飯)を作って家においであったのを思い出し、それを少しずつ水でふやかしては妹と一緒に食べました。

 当時、大虐殺の最中にあって、死ぬ人がとくに多く、各家に殺された人がいたので、人々は外出せずに、家の中に潜んでいました。

 その頃、街にはどこにも死体があり、現在その当時のことを思い出すたびに、心がえぐられるような気持ちになります。その後、各家の中にあった死体を外に運び出し、一緒に積み上げました。 そのため多くが、誰の死体か識別できなくなってしまいました。私の家族の死体も後になって探し出せなくなりました。

 当時、日本軍は人を見ると殺害したのです。しばらくすると日本軍は人を見ても殺害することがなくなりました。 そんな時になって"老人堂"の人たちが各家を見て回り、私と妹がまだ生きているのを発見して"老人堂"ヘ連れていったのです。"老人堂"とは、現在の養老院のことです。

 当時、私の家族は哈おじさんの家を借りて住んでいましたが、哈家の四人とも全員が日本兵に殺害されてしまったのです。 私は"老人堂"でしばらく世話になっていましたが、その後、叔父が難民区から家に戻ってきて、よその人から私たちが"老人堂"にいるということを聞いてやってきて、私たちを連れ出しました。 私の傷は、当時は薬などはなかったので、綿着の綿を引き出して火であぶって消毒して傷口に貼り付けました。

 叔父が私の家の惨事を外国人に報告したので、外国人が私の家を見に来て、その外国人は私の写真を撮っていきました。(机の上にあった分厚い写真集を見せて)これらの写真はその時にその外国人が撮ったものです。 その外国人 ( のちにマギー牧師であることを知った)は、私を連れて行こうと考えましたが、叔父が同意しなかったのです。

 私たちの家族で生き残ったのは、私と妹だけで、そのとき妹はすでに孤児院に連れていかれていました。叔父が同意しなかったのは、叔父には三人の子供がおり、私に家事、育児を手伝わせようと考えていたからでした。

 私はその時の外国人(マギー牧師 ) に感謝しています。彼は、私の当時の状況を撮影し、さらにその写真を送ってくれました。私は当時まだ小さかったので、何も分からなかったのですが、これらの写真記録によって、私の証言の事実を裏付けてくれるからです。 もし、それらの外国人が私たちを撮影してくれていなかったら、私たちは当時の状況を詳しく知ることができなかったでしょう。

 私は特に、華姉さん(ミニー・ヴォートリンをさす)の印象が好かった。私は彼女の背が高かったことを憶えています。


 実際、当時はあまりにも残酷でした。人は殺され、家は焼却され、しかも食べる物がなかったのです。私は叔父に"老人堂"から連れ出されてから、難民区ヘ行きました。難民区でしばらく生活しました。 叔父には三人の子供がいたので、私を入れると四人の子供になりましたが、私が叔父の一番上の子供よりも四歳も年上だったので、妹は孤児院に入れたのですが、私は放そうとはしなかったのです。

 その後、南京城内も落ち着くと、叔父は難民区から出て、野菜売りの商売を始めました。私は叔父の家の家事を手伝い、一二歳になると、叔父と一緒に野菜を売って歩きました。 妹は孤児院に預けたまま、その後生涯にわたって一緒に生活することはありませんでした。私には妹を養って生活することはできないし、叔父を助けて家事をするほかはなかったのです。

 日本が降伏して以後、米が食べられなくなりました。米は米屋で行列をして並ばないと買えなくなったのです。 そこで、私と叔父は一緒に行列に並んで米を買って商売をしようとしたところを国民党軍の兵士に発見されて、革の鞭で頭を打たれ、赤く腫れ上がったことがありました。

 その後、叔父は私に一緒に米を買いに行かせるのを止めさせました。そして、私をよその家に連れて行き、住み込みの家事手伝いをさせたのです。そのころには叔父の子どもも大きくなって、私が世話をする必要はなくなっていました。

 家事手伝いになってから二年もたたない、一九四八年頃、お手伝いしている家の奥さんが亡くなりました。そこで私はその家の主人を助けて、子供の面倒をみることになりました。その主人は下関の姜家園に住んでいて、平底船を持って運送の仕事をしていました。 私はその家で解放を迎えたのです。



 一九四九年の解放以後、私は地域の運動に参加し、一九五一年から五四年まで、文盲を無くそうという識字運動に参加し、三年間学習しました。そして一九五四年の一月に結婚しました。結婚当時、私は二四歳でした。 夫は張鴻章といい、その時三〇歳で、当時下関の公安分局(南京市の行政区の六分局)の仕事をしていました。

 私の妹は、孤児院にいましたが、解放前にある一家が妹を引き取って育ててくれ、小学校に行かせて勉強させてくれていましたが、卒業する前に解放になりました。 解放後は、紡績工場の織工となり、その後試験を受けて機械学校に合格、卒業後は木造機械工場に配属されて仕事をしました。

 私と妹はずっと長い間、離れて別々に生活してきたために、私と妹の間は疎遠になってしまいました。私はむしろ叔父の家族と比較的に親しくしてきています。妹は現在、河北省の方に住んでいます。

 毎年、清明節の頃になると、各家ではそれぞれ家族そろって墓参りに出かけますが、私だけはお参りする家の墓がなかったのです。だから、毎年清明節の頃になると私は大変悲しく、寂しく、かつ辛い思いをしました。 私は私の父母の墓がどこにあるかも知らないので、一度も墓参りに行ったことがありません。

 私は一九五七年から小蘇州の加工工場の臨時工になって働いていましたが、一九六〇年に中山陵に引っ越した後は、家から工場があまりにも遠いので辞め、一九六一年から陵園の造園の仕事につきました。 一九七九年に退職しましたが、ちょうどその年に私の夫が病死してしまったのです。脳の血管に病気があったのです。

 私には三人の子どもがおり、一番目は男で、一九五四年一二月一三日に生まれました。二番目は娘で、一九五六年一〇月五日に生まれました。三番目も娘で、一九五八年五月一八日に生まれました。

 三人とも仕事をもっていますが、息子の嫁と、長女、長女の夫の三人は下崗(一種のリストラ)の身でいます。私は現在、八〇〇元から九〇〇元の退職年金をもらっています。 南京市のいくつかの企業から慈善事業として、南京大虐殺の生存者に毎月四〇〇元の生活補助金を支給してくれているのです。私に生活補助金を支給してくれているのは、鳳凰台飯店です。

 李秀英さんには、広告会社が生活補助金を支給しています。そのほか、それぞれの生存者に各企業が補助金を支給してくれています。

 日本の右派は私を偽の証言者だと言っていますが、それはでたらめです。私は九人の家族のうち、父母と姉妹をふくむ七人を殺されたのです。このような目にあっても、私たちは日本に対して賠償を要求しませんでした。 それなのに、彼らは私をニセ者だと言っているのです。

 私は時に、私の家族の悲惨な過去を話したくないと思います。それは、話すたびに心が傷つき、心理的に耐えられなくなるからです。どうして私の家族が日本軍に殺されなければならなかったのでしょうか。私の家族は、貧しい平民で、無辜の市民だったのです。

 もしも、私の家族が戦闘に参加していたのであれば、それは別に論じる余地がありますが、そんなことは無かったのです。

 ですから私は、このことを考えるたびに大変心が痛むのです。日本の右翼勢力が、あのように私たちに対するならば、私たちは、彼らに告げてやらねばなりません。彼らは私を精神的に傷つけたことに対して、慰謝料を払い、謝罪すべきです。 しかし今は何もしていません。

 私の二人の姉、一人は一五歳、一人は一三歳、まだ子どもでした。日本兵が姉たちに対してあのように酷いことをしたことは、私にとって痛恨の極みです。 私は教育がないので、話すのはうまくありませんが、私たち中国人が恨んでいるのは、全ての日本人ではなく、過去の日本軍国主義者です。

 私は、戦後に育った若者たちには私たち被害者の心情を理解して欲しいと思います。しかし一方では、私は、このような被害証言をもう話したくないとも思います。それは、話しても何の役にも立たないし、何も変わらないからです。

 当時、私の家族が住んでいた家は、現在の馬台街一一〇号にあたります。(私の証言の街名が違うといって)日本の右派は何ゆえに私をニセ者というのでしょうか。私は正真正銘の南京大虐殺の生存者の一人なのです。 私のこころは、どうしようもない苦痛に苛まれます。

 私は教育も能力もありませんから、嘘の物語を創作することはできません。南京大虐殺は確かな事実であり、私自身みずから体験したことなのです。私は日本政府が私に対して謝罪と賠償をしてくれることを望みます。 しかし、このことはほとんど不可能であることも分かっています。

 しかし、私が証言したことが嘘だと言って私を馬鹿にしている右派分子に対しては、私に対する謝罪と私の精神を傷つけ、名誉を毀損した賠償を要求します。私は小さい時から多くの辛酸をなめ、あらゆる苦労を味わってきました、飲食できないこともありました。

 とにかく苦難の連続でした。彼らは私を馬鹿にすることはできないはずです。私たちは実際に大変な苦難を味わったのです。私たちは貧しい一介の平民であり、生涯何も悪いこともしてきませんでした。

 日本政府は、私たちに対して戦争被害の補償をしようとしません。私は私を誹謗している日本の右翼に対して八〇万人民元の賠償を要求します。日本円に換算するとおおよそ一二〇〇万円になります。

 私だって、この金額が彼らにとって大金であることは知っています。しかし、いったい誰が彼らに私を罵らせているのでしょうか。私は小さい時からあらゆる苦労をさせられたのです。現在の生活は私が苦労の中で獲得したものです。 私の夫は早く亡くなりました。その時は、長男が仕事をしていたとはいえ、二人の子供はまだ仕事をしていなかったから、並み大抵の苦労ではありませんでした。

 私はあなたのような日本の友人が来てくれるのは非常に嬉しいのですが、でも、一度過去のことを話すと大変辛くなります。だから過去のことを思い出すのは嫌なのです。 あの当時の七歳の時からはじまって、今まで、私は苦しみを一つ一つ積み重ねて生きてきたような気がします。

 解放前は誰も私たち南京大虐殺被害者のことをかまってくれませんでした。解放後一九八五年になってはじめて、南京大虐殺犠牲者である私を捜し出して、政府が注意をはらってくれるようになり、南京大虐殺記念館も注意をはらってくれるようになったのです。 その時、南京大虐殺の被害者として私を訪ねてくれたのは、段月ペイ副館長でした。私は彼女に大変感謝しています。

 私の訴訟案件は、提訴してからすでに一年余が経過しましたが、何の連絡もありません。不成功であったとしても、私に一言あってしかるべきです。 提訴してからこんなにも時聞がたつているのに、現在も何も知らされていない。こんなことならば、私にとって提訴は何の意味もなかったといえます。

*二〇〇四年一一月二三日、江蘇省の人民法院で、夏淑琴さんをニセ証言者とした前記の書籍の著者と出版社に対し名誉毀損で訴えた損害賠償訴訟の審理が開始された。 中国人戦争被害者の対日訴訟が中国の裁判所で受理され、審理が行われたのは、これが初めてである。

 私個人の事情をいえば、私がこれまで話してきたことは、無駄であったような気がして、現在では話すことに少し煩わしささえ覚えることがあります。現在は、日本政府に対して訴訟を起こし、私たちに対して補償金を支払わせることは不可能でしょう。 すでに亡くなっている人には補償金を支給できないとしても、せめて私のようにまだ生きている者には補償すべきではないでしょうか。

 彼らは私がでたらめを証言していると言っていますが、私がどうしてでたらめなのか。私の周囲の人はみな、私が南京大虐殺の被害者の代表の一人と言っていますが、私は何の代表なのでしょうか?
(同書 P132〜P145)





2011.2.20追記 夏淑琴さんの「隣人」だった哈夢鶴さんの証言

『南京大虐殺と原爆より

哈夢鶴さん (六十九歳)

 叔父の家族四人が虐殺される

 私は、イスラム教を信仰している回(フイ)族です。一九三七年目本が南京城に侵攻してきた時、私はその城門の側の馬道街というところに住んでいました。現在もここに住んでいます。(P20)

 日本軍が攻めて来るという知らせが入ったので、一週間ほど前に父と二番目の叔父と相談して、避難した方がいいのではないかということになり、南京から一〇キロ離れた沙州ウに避難しました。

 農歴の十九日だと記憶しています。三番目の叔父は、「家にいろいろ物があるし、家から離れるのは困る」と言い、しばらく難民区に留まり様子を見ようというので、三番目の叔父の一家族だけが避難しませんでした。

 それからだいたい一週間ぐらいたった時に、近所に住んでいた人に出会うと、「門東(中華門の東)でたくさんの人が死んでいるよ」と、聞かされました。

 当時、私は十二歳でしたので、詳しいことを記憶しているわけではありませんが、実際に見た状況をそのままお話したいと思います。

 日本兵に見つからないようにひそかに細い道をぬけて行き、なんとか家にたどり着きました。叔父が残っていたので、その安否が心配になり、家に帰って確かめようということになったのです。それで父と二番目の叔父と私の三人で家の状況を見に行きました。

 家に帰ってすぐ中を見てみると十一人が既に死んでいました。後で、家を出ようとすると、もう二人死んでいるのが見つかりました。実際にその時に家に残っていた人は十一人だけのはずなのですが、どうしたわけか死体が十三体ありました。 入口を入ってすぐの扉のちょうど裏のところで、見知らぬ二人が死んでいたのです。

 入る時にはその死体は気づかなかったのですが、おそらく外から家に避難しようと、飛び込んできた人が、叔父たちと同じく犠牲になったのだろうと思います。あわせて十三人が死んでいました。 三番目の叔父の一家四人全員と、同じ建物に住んでいた夏淑琴さん一家のうち七人が虐殺されていたのです。(P21)



叔父の家族と夏淑琴さん一家十一人の惨劇

 その状況は、その場で実際に私たちが死体を片付けましたので、今もはっきりと覚えています。

 叔父は、家から中庭にでた所で、コップを二つ持ったまま殺されていました。おそらく、日本兵が来たので、お茶でも出そうとしていたのでしょう。コップの中に水が少し残っていました。

 家の中には八方卓という八人がけのテーブルがありましたが、そのテーブルに四つのコップが置いてあり、叔母は、そのそばで足を斬り落とされて倒れていました。

 一番かわいそうだったのは、小さな下の妹(従姉妹)です。頭の額のところを真一文字に斬られていました。おそらく銃剣で斬られたのでしょう、傷口がばっくりと開いて、脳みそが見えるほど斬り開かれていました。

 上のお姉さん(従姉妹)も、死人の山の中で死んでいました。このように叔父の一家四人は全員が虐殺されていました。

 当時、この建物は私の家の所有で、家主として何家族かに部屋を貸していました。その時にちょうど入っていたのが、夏淑琴さんの一家です。 夏さんはあの惨劇以来、この家に何十年も戻ってきたことがなかったのですが、一九九四年七月に、ある訪中団に同行してこの家に来ました。私はその時に五十数年ぶりに、夏さんと再会することができたのです。

 当時、父と叔父と三人で家の様子を見に戻りましたけれども、まさかこんな状態になっているとは思ってもいなかったので本当に驚きました。私たち回族はイスラム教を信仰しておりますから、イスラム教のやり方でお葬式をしなければなりません。 その日のうちに葬式をせずに、アーホン(イスラム教の僧侶)に来てもらって、葬儀を執り行い自分たちで埋葬も行いました。

 夏淑琴さんの家には、ちょうど十数歳になる女の子が二人いましたが、その子たちも虐殺されていました。一人には瓶が、一人にはステッキが下半身に差し込まれているという、あまりに残忍な殺し方でした。 本当に目を覆いたくなるような、人間とは思えない残忍なやり方でした。

 当時、南京では遺体を埋葬するいろいろな団体が五つあったと聞いています。また、南京大虐殺による死者の数は三十万人と言われていますが、私は、これより多いことはあっても決して少ないことはないと思います。

 と言いますのも、私たち回族は、自分たちの親族の遺体の埋葬をする場合は、埋葬をする団体には任せずに自分たち自身で行ないましたので、回族の中で虐殺された人の数は、その三十万人の中には含まれていないからです。
 


 雨花台付近での惨状

 次に、私が実際に見たいろいろな虐殺の状況について話します。

 私たちは、大通りを通って日本兵に見つかるのが恐くて、小さな裏道しか通ってこなかったのですが、来る途中、雨花門付近に二〇〇〇人ぐらいの死体がありました。(P23-P24)

*「ゆう」注 「雨花門の虐殺」は不確実。戦闘による軍人の死者?


 その付近で生きている人は二人だけでした。一人はおじいさんで身体の前の部分に七カ所、後ろに七カ所の傷を受けていましたが、まだ生きていました。その人は一九五〇年頃まで生きていました。もう一人はおばあさんです。 この人も一九四〇年頃まで生きていました。見渡す限り生きている人はその二人だけしかいませんでした。

 江東門一帯は、本当に血糊が固まるといった状況でした。あれだけの血糊が固まるためには、どれだけの血が流されたのか。本当におびただしい人々が殺されたということを、物語っていると思います。



 中国人の首斬りを目撃

 今まで述べたのは、虐殺された後の死体の状況ですが、私の避難していた沙州ウで、実際に日本の軍人が中国人を殺すのをその場で目撃したことがあります。

 その当時、沙州ウというところは農村で、そこに幅十メートルぐらいの川が流れていました。その川を渡るには、三キロぐらい行かないと橋がないという不便なところです。

 当時の私たちは日本人と見たら本当に恐れていたのです。日本人が来ると、殺されるか引っ張っていかれるかのどちらかです。若い青年たちは日本人を恐れて遠くへ逃げる。そして、我々のような子どもや年寄りは家に逃げ込んで隠れている。

 ある時、東の方から二人の日本兵が来ました。当時の私には兵隊の階級など分かりませんが、一人は長い軍刀を差していたので、おそらく階級が上の人だったのでしょう。 日本兵が東から来たというので、西に向かって、二〇〇人ぐらいがみんな必死で逃げ始めました。私は子どもだったので家の中に隠れて、戸の隙間から外の様子を伺っていました。二人の日本兵が何か叫んでいました。(P24)

 何を言っているか分からなかったけれども、逃げようとしていた人たちは立ち止まらされました。

 日本兵は、その中から二人の人を引きずり出すと、頭を押さえつけて、その場に膝まづかせました。すると軍人の一人が長い軍刀を抜いて、いきなり首を斬り落としたのです。斬り落とした後、もう一人の日本兵は親指を立てて見せました。 おそらく、「お前の腕はすごい」とか、あるいは「刀がよく斬れる」というようなことを言っていたのだと思います。

 引きずり出されたもう一人の中国人の方は、そのまま膝まづかされた状態でした。中国人を一人殺した後、その二人の日本兵は立ち去って行きました。 膝まづかされたまま残された人は、恐怖で身動きもできず、日本兵が去っていった後、とにかく這うようにしてその場を逃れました。これは実際に私の目の前で起こった殺害の状況です。



 友好の前提

 戦争というのは、中日両国に大きな災難をもたらしました。中国と日本は本来は友好を続け、一衣帯水の友好的な隣国であってしかるべきはずなのに、日本軍国主義のために南京だけでも三十万人以上の人が犠牲となりました。 そして、同時に日本人にも多くの犠牲がでました。どうしてこうした犠牲がでたのかというと、やはり軍国主義による侵略の結果です。このような侵略戦争は二度とあってはいけません。

 しかし、残念ながら日本の一部の人々は過去の侵略戦争を認めない、南京の大虐殺を事実として認めようとしないということは、これは明らかに過去の教訓を忘れたものにほかなりません。

 誰にでも、父親も母親もあり、兄弟姉妹があり、家族があります。歴史の事実を承認しないということは、殺された三十万人の南京の人々ばかりでなく、全世界の人々が許さないことでありましょう。 この地南京であがなわれた教訓を、学ばない方向に進むことになるのです。(P25-P26)



(2006.7.8)


 
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