河本大作大佐談


 森克己『満州事変の裏面史』より

 
『はじめに』より

(略)

 歴史の中でも裏面史となると、きれい事の歴史ではなく、いろいろ差し障わりがあって表に出せない歴史である。また当事者本人にとっても知られたくはないし、さらに人にもその結果迷惑をかけたくはないといった事柄である。 したがって裏面史の多くは文字となり文章となって書き残されてはおらない。当事者が胸の中に畳みこんで闇から闇へと葬られてしまうものなのである。

 したがってそれだからこそ書き残されたものよりも真実がこもっているといえよう、しかし文字に書かれていない秘話であるから、これを当事者一人々々に当って話を聞いて歩くよりほかは仕方はない。 仮りに話してくれたとしても、自分を飾るため、誇張して話すか、あるいは、自分に都合の悪いことは、事実を曲げたり省ぶいたりすることもあるであろう。したがってなるべく多くの人々の話を聞き、それらの話の喰い違いや記憶違いを訂正しなければならない。

 そこで私は、満洲にあっては笠原参謀長と橘憲兵大佐の紹介状を、特に笠原参謀長からは事件当事者、またはその上官の師団長などに、橘大佐には国境地帯の憲兵隊長や中国人要人に宛てて書いてもらい、 また内地に帰ると参謀本部の第一課の紹介によって、満州事変関係者を一人々々虱つぷしに訪問してまわり、秘められた話を聞いて歩いた。

 今記憶しているだけでも、 建川美次中将・長中将・橋本欣五郎大佐・板垣大将・石原莞爾中将・河本大佐・川島大佐・三谷憲兵少佐・小松中佐・天野中佐・本庄大将・二宮中将・小磯大将・土肥原大将・南大将・菱刈大将・筑紫中将・町野大佐・佐々木中将・甘槽大尉・大川周明博士・ 笠木良明・岩間徳也・鶴岡老人・田宮大佐・憲新・張慕賢・張燕卿・チチハルの朝日屋旅館主人・蒙古人・白系ロシア人・ブリヤート人のウルジン中将・ロシア革命のはじめ、ケレンスキー政府をつくつたケレンスキー以下五十数名を数えることができる。 恐らく私ほど多くの満州事変関係者に会って、直接腹蔵なく秘められた事実を聞きだした者は、ほかには一人もいないと自負している。

 私は以上の人々に、「伺った話はここだけの話にして、御存命中は、決して公けにいたしません。 唯歴史家として真実を何らかの形で後世に残さねばならないと考えますので伺う次第です。また調査の結果が国家に役立つ点があれば、参謀本部にも提出するつもりです」と話して了解も得た。そして今日までその約束を堅く守って来た。

(以下略)
 


 河本大作大佐談

昭和十七年十二月一日、於大連河本邸


 私事に捗るが、満州事変前の私と満洲の関係を述べると、私は日露戦争には第四師団の歩兵第三十七聯隊に属して出征(当時少尉)、三十七年九月二日、遼陽で負傷した。 翌三十八年三月中尉となり、第三軍第三聯隊付となって再び戦線に立った。そして蒙古地帯の法庫門まで進んだ時、平和になつた。

 私は満州で活躍したいと考え、戦後凱旋せず、満州守備隊を志願し、明治四十年十月まで残留し、満洲の田舎の視察族行をやったりして満洲認識を深め、満洲に興味を有つに至り、遂には軍人を廃めてそのまま満洲に残ろうかとさえ考えた程であった。 その後内地に帰還し、京都の三十八聯隊付となり、次いで陸大に入り、卒業後漢ロの中支派遣隊付となって赴任した。

 大正三年四川省に派遣された。これは当時察鍔が雲南で袁世凱に対して独立を宣言したので、日本政府はこれを援助することになり、自分は其任務を帯びて赴いたのであり、この計画は成功した。四川省には大正六年まで居り、 翌大正七年にはシべリヤ出兵に従軍し、浦塩におった。

 大正十年北京の公使館附武官となり、大正十二年まで居り、その後中央に戻って参謀本部附となった。(P262-P263)

 大正十五年三月、関東軍高級参謀となって渡満した。来て見ると昔の満洲とは全く情勢が違っていた。明治四十年頃までの満洲は、満人達が日本を信頼して居ったので、旅行も出来たのであるが、今度来て見ると、満人の日本人に対する態度は、北京に於ける支那人の日本人に対する態度よりも悪い有様で、排日思想が瀰漫していた。

 張作霖の周囲には松井七夫とか、名前を忘れたが某大佐とかが居り、この人達の話を聞くと満人よりも日本人の方が悪いのだという。作戦の必要上、黒河・斉斉哈爾等各地を歩くと、 各地共排日傾向が濃厚で、路上で日本人が支那軍警に侮辱を加えられていることなどを目撃し、憤慨に堪えなかった。

 或は満鉄に対する包囲線が出来上ったり、或はまた現地を知らない日本内地の人々のうちには関東州を還附せよといった暴論を吐くものもあった程で日本の権益は蹂躙されて行く一方であった。 しかも当時の奉天総領事吉田茂が張作霖の所へ談判に行っても、張作霖は都合の悪い話になると急に歯が痛い等と言っては引込んでしまう、未解決の問題が山積する有様であった。実際支那本部の軍閥よりも排日的空気が濃厚であった。

 そこで私はこの儘ではならぬ、何んとか今のうちにしなければならぬと考えた。事実また当時奉天の近傍の新民府へ調査に行くと、この地に居った邦人達は次第に附属地に引揚げて居った。 というのは毎晩ピストル強盗が出没して日本商店を脅かしたからである。

 しかもその強盗は奉天軍の兵隊の仕業であった。日本商人達は危険なので妻子を附属地に避難させ、単身で居残って商売していたのであるが、如何にも商売が出来ないような状態になって来たのであった。(P263)

 こんな有様では旅行は勿論の事、居住すらも不可能である。商売も、居住も、旅行も出来ないとは怪からんというので、在満各地居留民から関東軍や領事館に訴えて来るが、領事は頼むに足らず、又当時の関東軍司令官は白川義則中将であったが、 白川中将は張作霖の顧問町野武馬大佐あたりから付け届けがあった。

 一体張作霖は横着者で、軍司令官や関東州都督児玉秀雄等に対しては、松井や町野を使として付け届けをして機嫌をとっていた。故に軍司令官や、都督の間には張作霖の評判が良かった。つまり軍は張作霖に誤魔化されていたのである。 私はこの事実を知ったので、白川軍司令官に注意したが、白川中将は聴き入れなかった。

 また張作霖は田中大将はじめ内地の要路の大官連に対しても付け届けを怠らなかったので、張作霖を悪く言い、張作霖と争う日本人は、むしろ日本人の方が悪いのだといって、私がどんなに注意しても、私の意見に耳を傾けては呉れなかった。

 ところが昭和二年、武藤中将が軍司令官として赴任して来られたので、早速また私の意見を申上げたところ、武藤さんは満露の事情にも通じて居られたし、また偉い人だったので、私の意見に同意された。

 当時内閣は田中大将が総理大臣兼外務大臣で、森格が外務政務次官であった。この森格に話をして、森格をして満蒙問題の重大性を主張させ、遂に昭和二年八月、東方会議を開かせた。

 武藤軍司令官もこの会議に出席され、満洲問題は外交では解決し得ず、武力に依る外か解決の道なしと主張された。この武藤軍司令官の意見が容れられて、同会議は適当な機会を見て、武力解決を断行するということに決議が一決した、 そして関東軍はこれに対する準備をせよとの内訓を受けた。(P264-P265)

 これより先張作霖は大正十四年の十二月、郭松齢事件起り、山海関より奉天の西の新民府まで叛軍が迫って来た。

 張作霖はこの叛軍に対し、武力討伐の自信を失い、一時は作霖はじめ、張作相・呉俊陞等までも皆日本内地へ亡命せんとするが如き悲運に立ち至った。張作霖は日本に縋ってこの頽勢を盛り返そうとし、 白川関東軍司令官に武器・兵力及び作戦指導官を貸して呉れるならば土地商租問題をも解決する、是非作戦指導をもして貰い度いということを懇請して来た。

 土地商租問題は既に日支間に原則が取決められていたのであるが、その後張作霖側がその細則を協定することに応じなかったので、これが実施することが出来ずしていたものである。

 関東軍では張作霖の懇請を容れ、呉俊陞には某騎兵少佐を、張作霖には、林大八中佐を、張作霖には儀峨中佐を付け、各方面で日本将校が作戦を指導した。また郭松齢に不利のように色々日本側が干渉を加えた。 その結果郭松齢は遂に敗死したのである。

 張作霖は日本の御蔭で危機を脱したのであるが、それにも拘らず、彼は旅順に来たって関東軍に感謝の意を表することもしなければ、また土地商租権実施細則協定の約束を履行しようともしなかった。

 しかも翌十五年、張作霖は曾ての敵馮玉祥と結んで呉佩孚を破り、関内に進出し、北京に軍政府を組織し、自ら大元帥を潜称するや、英米公使を通じて英米に借款を申込む等、日本に対して傲慢無礼な態度を示すようになった。

 楊宇霆もまた北京に乗込んで、日本に対し不遜な態度を示したのであって、彼は腹からの親日家ではない。作霖が英米の力を借りて日本を圧迫しようとする態度は昭和二年頃益々甚しくなって来た。(P265-P266)

 作霖は大元帥を潜称し、一時楊宇霆の如きは上海にまで進出し、南京までも取るに至った。しかるに昭和三年蒋介石の率いる国民革命軍の北伐軍は京漢・津浦両線より北上し来たり、途中済南事件を惹起したりした。

 蒋介石の北上は、我々としては寧ろ歓迎した。張作霖といわず、蒋介石といわず、一度満洲に踏み入って、満洲の治安を紊す場合には、日本の権益を擁護するため、何等かの手段に出るという東方会議の決議方針があったからである。 そこで今蒋介石軍に圧迫されて満洲に逃げ込んだなら、張作霖軍を断固武装解除せんとする決心を固めた。

 昭和三年五月下旬、関東軍は旅順より奉天に集中した。我が軍は七千、これに対し作霖軍は三十万、故にこの大軍を処置するには地形上の要点を占める必要あり。台北口、錦州の西高橋に進出し、以て作霖軍を武装解除しようとした。

 当時の関東軍司令官は村岡長太郎中将で、武藤大将と同郷人で立派な人物であった。

 ところで関東軍は附属地内では行動自由であるが、附属地外は外国であるから勅命がなければ出動させることが出来ない。そこで勅命の降下を待ったが、田中大将の意見が軟化し、米英の態度に気がねして事を決しかねた。

 参謀総長鈴木荘六大将が、関東軍の意を汲んで、奉勅命令を受けに行ったが、田中大将はこれに立会わない。しかも田中大将側には松井七夫、佐藤安之助の如き自由主義者が控えておったため、到頭駄目となった。(P266-P267)

 その結果、遂に我が軍を錦州以西に出させないことにした、当時奉天に呉俊陞が留守し三万の兵力を擁しており、その後関西より引上げて来た奉天軍は、六月頃には、六、七万に達した。しかもなおその後も続々引上げて来る 。従って関東軍は進退に窮するに至った。しかも当時済南事件直後で、排日の風潮をそそる有様で、満洲に於ける排日空気が一層悪化した。

 若し一度日支両軍の間に衝突を見んか、長春・遼陽・安東・営口等、旅順より七百キロの鉄道沿線至るところで済南事件の二の舞を繰返さんとする形勢であった。故に在満日本人の保護と、 満洲の治安維持に任ずる我々の責務は正に重大なるものがあったのである。

 ところで、支那軍というものは、いわば親分子分の関係のものであるから、親分さえ斃してしまえば、子分は自ら散り散りになってしまう。この緊迫した際のとるべき手段としては、 先ず親分たる張作霖を斃して彼等の戦意を挫くより外かに途はなしとの結論に到達した。

 村岡軍司令官は参謀鈴木数馬を北京に派遣して張作霖の退路を襲撃せんとした。私はこれを聞き込み、北支駐屯の軍司令官は器量人ではない。また北支の参謀にもたいした人物が居なさそうでもない。これは自分等が決行すべきであると考えた。

 そこで村岡軍司令官の使として北京へ赴こうとする鈴木参謀に対して、私は北京で軽々しくこの計画を言うな。唯張作霖の満州に帰る汽車の時間を此方に知らせよと、その任務をすり代えた。 鈴木参謀も同意し、当時建川少将が北京の公使館附武官であったが、建川少将と打合わせ、時間を知らせて来た。

 つまり村岡軍司令官にも張作霖襲撃の意図があったのであるが、私は軍司令官に関係なく、自分でやろうと決心したのである。(P267-P268)

 計画を実行する地点を何処にするか。はじめは大遼河の鉄橋にしようとしたのであるが、何分にも支那軍閥の汽車の編成は仲々警戒を払い、今日発車と称して急に翌日に変更したり、ダイヤを変更したり、 或は自分は乗込まずに乗用車のみを出すといったような遣り方をするのが常套手段なので、この先方の手に対しては、一週間位いの間、何時満州に帰って来ても捕え得る丈けの準備をして待機する必要がある。

 インスペクションは支那側にもある 。だから鉄橋に準備しても、敵に途中で捕まってしまえば、事は水泡に帰してしまう。これは如何しても満鉄線と京奉線とのクロスした地点以外には安全な場所はないと研究の結論が到達した。

 ところで、満鉄線の方が京奉線の上を走っているので満鉄線を壊さないようにしてやるのには、仲々やり悪い。そこで脱線器を三本取着け、若し失敗したら脱線させ、抜刀隊で斬込むことにした。

 当時満鉄担保のトウ(さんずいに兆)昂鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、 この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した。

 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、作霖の列車は北京天津間は速度を出し、天津錦州間は速度を落し、錦州には半日位いも停車したので、 予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった。

 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。 そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた。(P268-P269)

 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。

 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。

 ところが張作霖が仲々やって来ないので、現場の者達は一時は引上げようとさえした。私は藩陽館(奉天の軍用旅館)と現場との間を往来して連絡をとった。余り頻繁に往来したので大阪毎日の新聞記者に感付かれ、 事件が済んでから目星を付けられたりした。

 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。
※「ゆう」注 爆弾を仕掛けた実際の場所は列車上方の橋桁と目されている。
 奉天側では、ゾウ式毅が一切日本との衝突を避けた。

 張景恵はこの事件を嗅ぎ付けて、日本人を介して私達の方へ連絡を取って来、此方と相呼応して城内で旗挙げしようと企て、度々申込んで来たが相手にしなかった。

 荒木五郎元砲兵少尉が、黄慕と名乗って組織して居った奉天軍の模範団張作霖の護親軍を率いて内応しようとした。(P269)

 また別に我々はヤマトホテルの前に一個旅団を集合して、事件と同時に襲撃せしめようとしたが、これは軍司令官等も知らず、参謀の中に馬鹿な者があって、解散させてしまったので、この計画は水泡に帰した。

 此の事件後、自分の補助者として、石原中佐を関東軍に貰って来た。私はその頃から既に満州事変の案を練って居ったのだ。

 翌昭和四年自分は金沢の第九師団司令部に移された。板垣は当時満州駐屯第三十三聯隊に居った。私は石原と相談の結果、私の後代りに来て貰った。私は金沢に居ること一ケ月で浪人となった。(P270)

(以下略)

(森克己『満州事変の裏面史』)



 河本大作大佐談

 満洲皇帝の事は、満洲事変後宜統帝(「ゆう」注 溥儀)を担ぎ出す相談をした。

 昭和五年七月予備となり、自由の身となったので、私は満洲に来て画策して居った。これを宣統帝が聞き込まれたと見え、炭田七郎を使に差向けて来た。

 当時私は京都に居ったところ、炭田は京都にやって来て、御願がある。是非天津に来て戴き度いとのことであった。これは昭和五年九月頃のことだった。

 私は今迄支那に経験がある。又張学良と楊宇霆は張作霖の死後未だ錦州(石家荘の誤りか)に在り。袁金鎧をして臨時奉天治安維持会長とした。袁金鎧は裏面では頻りに張学良へ使を出していた。これは支那人の癖である。

 この張学良や蒋介石に通じない人は皇統帝のみである。また満洲にも関係があり、国際的にも尤もらしい人は宣統帝である。この宣統帝から使が来たので軍務局長小磯中将にこれに関する意見を具申した。というのは協議して置く方が都合がよいと思ったからだ。

 小磯中将は賛成した。そこで旅順に赴き、板垣・石原に相談して賛成を得て天津に赴いた。

 宜統帝からは是非共学艮を殺って呉れという話があった。(P270-P271)

 私はこれに対し、自分は頼まれなくともやっつける。やった後で満洲へ来るか如何かといったら、宜統帝は来るという。そこで旅順に立寄り板垣・石原に話し、又小磯中将にも報告した。

 天津から帰途、安東通過の際は憲兵隊に捕えられ、ピストルと皇統帝の写真を持っていたために怪まれた。河野伝一と変名していたが、トランクにK・Tとあったので見付った。

 天津の旅館へ宣統帝の側近のものから族費を届けて来たが、これは拒って受け取らなかった。

 翌年大連に来た時、大連の浪人仲間からゆすられた。宣統帝は毛皮や真珠を軍用金として売った。だから二十万円位いは貰っているだろうというのである。

 鐚一文も貰っていないのにそんな噂を立てられてはやり切れないと、前に貰っていた御墨付も宣統帝のところへ返してしまったところ、宣統帝から山崎貫一が使となって詫びて来た。

 此時にはじめて宣統帝の側近のものの腐敗していることを知った。満洲建国後皇族を置かず、また直ぐに帝制を施かず、執政としたのもその一因はここにあるのである。側近の李とかいう者がいい加減なことをやっていた。(P271)

(森克己『満州事変の裏面史』)


 河本大作大佐談

 満洲事変前、張作霖爆死事件では内地では自分の事を国際上大罪悪を犯した者のように言い蝕していた

 これでは駄目だと森格や大川周明博士等と結び、内地で満洲問題は武力で解決せねばならぬということを要路の人々に説いたが、南大将などは自分を狂人扱いにし、陸軍省へ出入りするのを禁じたりした有様であった。

 そこで私は機会ある毎に遊説して歩いて大いに輿論の喚起に努めた。

 荒木大将一人丈けは流石に理解し賛成して呉れたが、他かの者は皆恐れていた。片倉大佐なども自分が関東軍へ出入するのを怪んで居った程だ。(P271-P272)

 二・二六事件は私達の計画通りのことをやったものである。柳条湖事件直後、若し陸軍省が反対し、関東軍を孤立させたなら、陸軍省を占拠すべしとの計画を樹てた。ところが根本博(現少将)が内通して陸軍次官の杉山元に漏らし、杉山がこれを南に通じた。

 陸軍省では驚いて橋本・和知等を箱根・千葉等に監禁した。当時青年将校等は機関銃を自宅に持ち帰ったりして事を挙げようとしたのである。これが所謂十月事件である。これによって内閣が変り、国内の情勢が変った。(P272)

(森克己『満州事変の裏面史』)


 河本大作大佐談

 十一月、私が浪人していた駒井徳三を、小石川のアパートにごろごろしていたから満洲に連れて来たのだ。

 満洲事変挙事の軍用金のことは、私が七万円を調達し、三万円を持って飛行機で飛んで、九月九日に奉天に来た。ところが挙事は取止めたという。今田や三谷は、板垣・石原の腰が砕けたというので憤慨して私にやって呉れという(三谷氏談参照)。

 石原の所へ行って訊して見たら決行するのだ。唯噂が拡まって来たので表面は取止めた風を装った。板垣も自分も決して変心してはいないと本心を打明けた。

 柳条湖事件発生の翌十九日、私は満鉄側の協力を求めるために大連に赴き、星ケ浦で、十河に会った。また二十日には飛行機で京城に飛び、朝鮮軍を説き付けて、新義州より軍を満洲に進めさせた。林銑十部は越境将軍として有名だが、事実は仲々躊躇題巡して越境しなかった。(P272)

 事変勃発当時、関東軍の機密費は一万円しかなかった。

 土肥原は饒舌だというので敬遠した。事変勃発当時土肥原は内地へ出張して、当時箱根に居った。事変の真相は私と板垣と石原以外に知っているものがない

 荒木五郎と趙欣伯とが事変前、中村震太郎事件の諒解を求めるための張学良の使者として私を頼って来た。私は上の者に態と会わせず、私の所に留め置いたが、愈々挙事の時期が切迫して来たので、議会の選挙のために一寸国へ行って来ると偽って、二人を置き去りにしたまま奉天へ飛んだのである。

 張作霖爆死事件の時は大石橋の伊藤建次郎という浪人者を使ったところが、伊藤が後になって、伊沢多喜男等に自分達のことを売り込んだ。(P273)

 (森克己『満州事変の裏面史』)


 河本大作大佐談

 満洲事変の時には、神兵隊事件で捕った者などを工兵隊へやって爆破のことを練習させた。

 十七日には中野虎逸・片岡駿等が、遼陽鉄橋を爆破しようとして失敗した。

 十八日の柳条湖の爆破は、小倉の第十聯隊で私の部下だった、川島正大尉、当時虎石台の第三中隊長だったが、この川島大尉にやらせた。

 軍用金の七万円は重藤の親戚の者から借りた。ところが返済の段になって、奉天の官銀号には三千円位いの現金しかなかった。

 翌年の三月頃には催促を受けた。仕方がないので駒井徳三に頼んで利権をやって貰うことにした。ハルビンの方の株が二円位いのものが一株に就き二十円位い儲るという話だったが、駒井は仲々やって呉れぬ。借金の催促は益々急となって来た。

 そこで和知が福州炭坑の株何万円かを渡したところが、相手はこれを三井・三菱に売込もうとした。(P273-P274)

 この利権のことを駒井が本庄に告げ口した。板垣は本庄に叱られて浮かない顔をしていた。そこで自分が夜本庄の処へ出かけて、本庄に言ってやった。

 一体今度の事変は如何して起ったか知っているかといったら、本庄は柳条湖事件によって起ったと答えた。そこで私は云ってやった。上に立つ者がそんな風な簡単な考えでは駄目だ。こういうように事が運んだというのは決してそんな生易しい簡単なことではない。これには色々の準備も必要だし、また沢山の費用も入用だ。

 その入用の金の工面を板垣や下のもの達が皆苦心惨澹してやっておったのだ。利権屋を呼んだというのも皆その後始末のためなのである。

 然るに下の苦心をも知らず、事を簡単に考えて下を責めるとは何事か、更にまた閣下と自分達との関係は長い年月を経ている間柄ではないか。しかるに年来の関係を忘れ、未だ関係の浅い駒井の如き者の言を信じ、年来の関係を打捨てて、自分達を信じないというのは怪からぬではないか。

 そんなことでは到底上に立つ資格がないではないかときめつけてやったら、本庄は青くなって、自分が悪かった。以後一切御任せすると詫びた。

 そこでこの借金の埋め合せを機密費から出させようとしたが、橋本参謀長は優柔不断で決しなかった。私は荒木陸軍大臣に話したところ、流石に荒木さんは始末を付けて呉れた。(P274)

(森克己『満州事変の裏面史』)


 河本大作大佐談

 荒木大将は張作霖事件の時、参謀本部第一部長で、私を認め且つ理解して呉れた。荒木大将の態度は武士的態度である。私は間に立って森格と荒木大将とを結び付けた。

 満洲事変挙事計画が中央に洩れ、建川少将が奉天に赴くとの情報に、大川博士が、建川少将の後を逐わせた使は中島だ(建川中将談参照)。(P274-P275)

 満洲事変画策の中心人物は、現地では板垣・石原の二人、内地では、私が板垣・石原の意を汲んで大川博士・橋本欣五郎等を動かし、内地の輿論を喚起することに努めたのである。

 十月事件後、大川・橋本等が国内の政治運動に走り過ぎてしまったために、板垣・石原等は大川博士等にソッポを向けてしせった。

 満洲の甘糟達からは、内地派に対して、満洲が改革を決行したのに何故内地はやらないのかと電報で催促して来た。しかし当時既に内閣の性格が変って居り、その必要がなくなったのである。

 私は上京の途中、岐阜に立ち寄り、帝都を爆撃しようと計画していた岐阜の飛行隊長阿倍一郎を引止めて、その計画を中止させた。そして上京して牛込の金波に居り、内地改革派を抑え、十月中頃に満洲に来た。

 この年春の三月事件には、私が調停役に立った。そんな関係で右翼の人達に信用を得た。大川博士は余りに理想に走り過ぎる。従って浪人共は私に接近して来た。(P275)


(森克己『満州事変の裏面史』)


 河本大作大佐談

 事変後私は満洲に往来し、炭坑のことに関係した。

 満洲国の独立には、満人側ではゾウ式毅、煕洽が尽力した。煕洽は自分の財産から二百万円投出している。

 昭和七年一月八日、犬養内閣が成立す。荒木大将が陸軍大臣となる。犬養首相は仲々建国には賛成しない。そこで私は荒木陸軍大臣に頼んだ。

 荒木さんは書面を以て犬養首相に説いたが、首相は孫逸仙の例など引いて反対した。荒木さんは書面を突き付けて説き付けた。私は風邪だったので、この時には立ち会わなかった。(P275-P276)

(森克己『満州事変の裏面史』)


 河本大作大佐談

 三月事件というのは、宇垣陸軍大臣・二宮参謀次長・建川少将等が議会を弾圧し、クーデターを行って軍部内閣を造ろうとした計画で、大川博士がクーデターをやることになっていた。

 ところが、西園寺の側近の中川(立命館大学長)が、右の計画を嗅ぎ付けて、そんなことをせずとも政権は宇垣にやるということを内示したので、宇垣は遽に豹変した。

 大川博士は、宇垣が変心しても、自分達は飽くまでも決行するといきり立った。そこで私が間に立って、

一、今迄使った軍用金は、軍が負担すること。和知などは良い気になって牛込で使い散らし、芸者を落籍したりして、大分脱線していた。

一、宇垣が政権を取っても、主義は変更しないこと。

一、軍が大川博士に陳謝すること。

という条件で、落ち着いた。

 満州を独立国とした理由は、日本の領土内での日本人のだらしなさに懲りたからだ。朝鮮など正にその例だ。

 南、小磯等の野心家達は復辟運動をやった。板垣は湯崗子に宣統帝を説き、ようやく執政となることを承知させた。(P276)

(森克己『満州事変の裏面史』)


(2006.5.26)

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