「張作霖爆死事件 松本記録」より(2)


 アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915100


<特別委員会議事録>

張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録(一)

第一回会議 昭和三年九月廿二日(土)午前十時より午後零時半迄
         於外務省小会議室

出席者 (外務省) ○森政務次官 ○植原参与官 ○林総領事 ○有田亜細亜局長 岡崎事務官
      (陸軍省) ○杉山軍務局長 根本少佐
      (関東庁) ○藤岡警務局長
      (○印は特別委員会委員)

一、午前十時開会 出席者一同にて審議方法等に付意見の交換あり 午前十時四十五分田中総理大臣来場せられ本特別委員会の設置に付別紙の通り訓示の上退場せらる

二、総理退場後更に審議方針に付協議したるか兎に角本件に付最も詳細の情報を有すへき陸軍側調査の結果を聞く事となり杉山軍務局長より左の通り陳述あり


杉山軍務局長陳述

(イ)陸軍側従来調査の結果は本件か日本人の手により実行せられたるものに非すとの反証を挙げ得たるに止まり然らは何人か之を為したるかの点に至りては未た判明し居らすと述へ

(ロ)但し最近工藤鉄三郎なるものか小川鉄道大臣に宛てたる「爆破事件の真相」なる書類は種々矛盾の点もあれども事件の核心に触れ居るか如き節もなきり非す

 依りて陸軍側にては陸軍次官より右種々の矛盾点を指摘すると共に調査方針を示したる書類を峯憲兵司令官に授け満州地方に出張せしめ関東軍司令官と協議の上本件調査方を命じたるに付 同司令官帰京(十月八日頃帰京の筈)し其報告に接さは更に本件の真相を捕捉し得へきかとて

 右小川鉄相宛工藤書翰(二)並電報(一)及安達隆盛発工藤宛書翰(数通各写(原紙:小川鉄相の許にある由)を読み上げ 更に右書翰中に現はれたる伊藤謙次郎、安達隆盛、劉載明、某大佐(河本参謀の事なるへしと云ふ)、宮川代議士、工藤鉄三郎等の関係を説明し 尚小川鉄相は既に本件関係者に五千円を与へたる趣なりと附言せり。


四、次に本件に関し各人の有する疑問の点を披露する事になり 林総領事より

(イ)南方便衣隊と覚しき疑問支那人の刺殺は当初警察側も秦特務機関も六月三日午後十一時頃と云ひたるか後に至り司令部側は四日午前三時半と発表し其の間何等の打合せに齟齬ありたるか如く感せしむ

(ロ)東宮大尉は列車爆破当時展望所にありたるか爆音を聞き直に外部に出てたる処支那側衛兵の乱射ありたるに付応射の態度をとれりと述へ居れ共 警備の任に当れるものとして斯る爆音を聞きたる際は何を措きても直に爆破現地へ赴く事自然ならすや

 又同大尉は爆音と同時に支那衛兵か乱射を初めたる為爆破地点に到る余裕なかりし事を述へ居れ共前後の事情並嶬峨少佐の談等を総合するに右支那側射撃は爆破後数分間を経たる後開始せられたるものと認めらる

(ハ)鉄橋上に数個の土嚢ありたるを認めたるか之は如何成る用途に用ひたるものなりや調査を要すへし等述へたり


五、又爆破に用ひたる火薬の種類並装置個所に付ては

(イ)林総領事は松井(常三郎)予備中佐か爆煙を見て推定したる処によれは右は黄色薬にして約一〇〇乃至一五〇瓩位の数量を使用したるものなるへしとの事なり。而して自分の見る処によれは爆薬が「鉄橋上」に仕掛けられたるものなる事は一見して明かなりと信すと述へ、「鉄橋か脚上部」と詳記する方誤解なからん

(ロ)杉山軍務局長は関東軍側の報告書を読み上く(右には川越砲兵大尉の説として黒色薬若は「ヂナミット」を使用したるものならんとの意見を附し居れり)(「ゆう」注 川越大尉は犯人の一味であることがのち判明 信憑性なし)


六、以上種々協議の結果調査方針及方法に付各委員一致したる点左の通

(イ)本件調査に当り互に他者の主管管事項に迄立入りて調ふる事は相互に意見の相違を生し面白からさるへきに付之を避くる事 従て例へは関東庁にて他者関係の事項に付調査を要すと認めたるか如き場合は先つ本委員会に報告し本委員会より夫々適当の向に調査を命する様取計ふ事。

(ロ)相当重要なる調書時には単に何某の言ふと云ふ如き漠然たる事を避け出来得る限り正確なる聴取書の形式をとり置く事

(ハ)陸軍側が憲兵司令官をして必要の調査をなさしめつつあるは適当なるも尚右と同 特に陸軍側の有する火薬の貯蔵量、使用量等を調査し実際の残高と帳簿上の数量と一致するや否やをも調ふる事可然。

(ニ)小川鉄相の所持する本件に関係ある書類原紙は散失を防ぐ為速に本委員会に譲受け保管する事 但し右は総理より鉄相に交渉方を依頼する事可然。

(ホ)関東庁にては本件調査に当り特に安達隆盛の身元、劉載明の現住地(大連なる由)及其の身元、劉の使用人(便衣隊として刺殺せられたりと称するもの)の遺族等の調査を行ふ事

(ヘ)本委員会成立の次第は陸軍省より関東軍司令官に通報済なる事

(ト)本委員会に対しては関東庁側よりも警務局長帰任後主任官一名を派遣帰京せしむへき事

(チ)本委員会の事務は差当り根本少佐及岡崎事務官をして整理せしめ関東庁側係官出京の上は更に右係官をも之に加ふる事

(岡崎記、陸軍省根本少佐清)

(0319〜0325)


昭和三年九月二十二日 於外務省小会議室 張作霖爆殺事件調査特別委員会に於ける田中内閣総理大臣訓示

 張作霖爆殺の件については事件以来関東軍、領事館及関東庁に於て夫々真相調査に力め居るも今日迄其真相突止め得さるについては更に一段の努力を以て各関係官庁に於て其の調査の歩を進むる事を希望するも同時に調査の便宜並統一の為時局以来外務省に開催し来りたる外務陸海軍連絡会議に於て一特別委員会を作り右委員会に於ては張作霖爆殺事件の真相調査の方針を定め其の方針の下に夫々各機関を激励して情報並証拠の蒐集をなし以て最短期間に本大臣宛報告書を作成せむ事を望む

 右特別委員会の構成は外務政務次官、外務参与官、外務省亜細亜局長、陸軍省軍務局長及関東庁警務局長とし報告書を成るへく十月中に取纏め得る様努力すべし

 尚右調査の為特別委員会を設け居ることは当分の中絶対これを極秘とすへし。

(0326)


張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録(二)

第二回会議 昭和三年十月廿三日午後二時より四時迄 於外務省小会議室

出席者 (外務省) ○森政務次官 ○植原参与官 ○有田亜細亜局長 岡崎事務官
      (陸軍省) ○杉山軍務局長
      (関東庁) 大場事務官
      (○印は特別委員会委員)

一、午後二時森政務次官開会を宣し先つ藤岡関東庁警務局長の本委員会に提出せる報告書(右は三通作成し一通は藤岡局長保管、一通は大場事務官保管、一通は本委員会に提出し目下有田局長保管す)に付大場事務官の説明を聴取す


二、大場事務官説明要旨

(イ)爆破事件当初関東庁側にても凌印清を疑はしと思ひ調査せるか大して関係する所無かりし模様に付其の侭放置し置けるか今般藤岡局長帰任し本委員会の協議の結果に基き更に凌及伊藤謙次郎、安達隆盛等の取調へたる結果か本件報告書なるか関東庁にては爆破其のものに付ては深く調査の方法なかりし次第にて主として其準備行為たる支那人雇入の経過に付取調へ大体左の如く判明せり

(ロ)第一次計画 本件の中心となりたるは伊藤謙二郎(大石橋居住、石灰販売並褐石販売業)にして彼は平常より満州問題等に口を出す男なりしか 本年五月張作霖の形勢非となるや満蒙懸案解決の為にも此際張に代わるに呉俊陞辺りを以てする事可然となし 五月十五日頃(正確なる日時判明せす)在奉天関東軍司令部に斉藤参謀長を訪ひ 此際激烈なる方法にて局面転回を計る事可然き旨を進言せるか 斉藤参謀長は単に之を聴取するのみにて相談に乗る模様なかりしに付

伊藤は更に河本参謀を訪ね先つ河本に如何なる決心あるやを確めたる処 河本は「国家の為ならは腹を切る覚悟もある」旨を言明したるに付 茲に其計画即懸案解決の為張に代ふるに呉を以てせむ事を述べたるに(当時伊藤等は右に付ては呉も多少の諒解ありと見込なりしか如し) 河本之に賛成す

 依て実行の方法として先つ呉俊陞と同じ考を有せる張景恵を説く事とし 張と義弟の拘ありと云ふ新井宗治(奉天貸家業)に相談し 新井より電話にて新京にありたる張に対し直に来奉方を求めたるも 張は来るを得さりし為 更に張の息を説き副官を赴発せしめ本計画を話さしめたるに 張之に同意したる為愈々実行の事に決したるものの如し。

(ハ)第一次計画の齟齬 然るに当時張作霖は六月十四日頃帰奉の見込なりしに付 其の積りにて計画を進め居たりしに 六月一日に至り急に六月三日帰奉のこととなりたることを知りたる為 慌てて呉俊陞を説き挙兵を促したるも呉は斯く時日切迫しては準備整はすとして承知せす 却て張作霖出迎の為山海関方面に出発し遂に当初の計画は失敗に終れり。

(ニ)第二次計画 依て伊藤は更に他の計画を以て当初の目的を達成せんとし茲に張作霖列車爆破を企て河本参謀に之を打明け且実行場所としては南満京奉「クロス」地点を選ふ事可然旨を進言せり 河本は其際金は出せぬ旨を述へたるも他方爆破には支那人か必要なれは四五名雇入し度しと云ひ伊藤之か周旋方を引受けたり。

 而して伊藤は河本より右雇入には伊藤自身之に当るへきことを云はれたるも平常支那人に交際なかりし為新井宗治に之を話し(但し新井は第二次計画には関係なしと云ひ居れり) 一応相談の上劉載明(元吉林軍馬営長、現在は奉天附属地遊郭に出資する匿名組合の一員)の手によることにしたるも 劉は平常安達隆盛と往来し居ることを知りたる為安達より邪魔されぬ様同人の口の軽き男なることは知りたるも安達にも本計画を洩せる由。

 劉は元部下のモルヒネ中毒患者リユウバンシヨウ及其の手を通しチヨウエイキユウ並王某の三名を雇入れ当初は表面日本天津軍密偵となるものなりとて
右三名に百円宛(但し右は伊藤の言、安達及劉載明は夫々百五十円宛を与へたりと申述ふ)を与へ、入湯、理髪をなし且衣服を整へしむ(彼等は乞食の如き姿なりしと)

 (尚彼等は六月三日午前四時頃遊郭内の福田泉なる風呂屋にて一度は断はられたるも強て頼み一人風呂に入れる由) 然るに王某は其後逃亡し結局残りの二名伊藤を訪ねたるに(三日朝)伊藤は彼等に実は列車爆破の為爆弾を投するものなる事を告けたるに両名共大いに狼狽し逃亡の惧もありたるを以て一旦安達の家に留め置き看視せり

 而して其際安達に本任務に成功すれは一人宛二千円宛又は死亡すれは遺族に五千円を与ふへしと云ひしか伊藤は斯ることを云へは後に困る事を生すへしとて止めたるも安達は一度爆破となれは支那側は発砲し日本側も之に応射すへく結局奉天は半戦争状態となるへく其の際は五千や一万の金は如何ともなるへしと答へし由。

 六月三日午前八時過き伊藤、安達及劉載明は右二名の支那人に劉載明書きたる手紙二通を携帯せしめ奉天、瀋陽館(関東軍幕僚宿舎)に伴ひ河本参謀に引渡したり 而して伊藤は更に現場に同道せむ事を望みたるも河本之を謝絶し両名の支那人のみを自動車に同乗せしめ出発せり
 従て伊藤等は其の後の模様に付ては何等知る所なしと。

(以上、伊藤、安達及劉載明の言の大体一致せるところなるか唯新井のみは第二次計画に関係なしと云ひ又雇人支那人に与へたる手付金額に付ては伊藤と安達及劉の所述に相違あること前記の如し)



 以上の外関東庁の探知したる本件関係事項左の如し

(ホ)王某の行動 逃亡せる王某は支那側に捕はれ同人の口より日本側計画爆露せりとの風説ありしに付探索せるも判明せす 但し伊藤等は王には単に天津駐屯軍の密偵となるへき旨を語りたるのみなれは右風説事実なりとするも介意を要せさるへき旨を述へ居れり(右に対し植原参与官は王は楊宇霆の許に在りとの風説ある旨を披露せり)

(ヘ)劉ハンシヨウ及チヨウエイキユウ「クロス」地点にて刺殺されたるは此の両名なりとは遊郭の風呂屋の使用人の口より洩れ且つ現場にて死者を見たるものも確に然る旨を述へたるし故にて右は奉天地方一般の風説となれり。

 伊藤は両名共「モヒ」患者にして家族等はなしと雖も安達及劉はリユウハンシヨウの家族は開原にチヨウエイキユウの家族は皇姑屯に在り共に劉戴明より毎月二三十元を給し目下の処は右は彼等か密偵となり得たる金を送り居れるなりと称し居れるも何時迄も斯る状態にて糊塗し置き得す 早晩彼等の死を告けさるへからさるも其際は例の五千円の問題起るへしとて困り居るか如き口吻なり

 惟ふに右問題生するとは伊藤は之より逃し得へしも安達は死亡支那人に家族ありとせは逃れ得さる関係に在るに非すや 然るに安達は之を口実に金を得むとするものに非すやとも考へらる。

(ト)刺殺支那人所持の手紙 右は三通あり 内二通は劉戴明書きしものなるも他の一通は凌印清の用紙にて封筒も凌使用のものらしきも凌は自分の手蹟に非す又知人中にも斯る手蹟の者なしと云ふ 右は恐らく王清一か凌を訪ひたる際用紙及封筒を盗みたるものらしきも手紙は王の手蹟には非さる由。

(尚王清一は井田哲及菅原堅郎(退役尉官、兵工廠に物品を納め居れり)等と共に別派の浪人団体に属し凌、王清一の紹介にて之等とも親しくし居れる由)

(チ)劉戴明、支那側に於ては劉を捕ふれは日支側の計画判明すへしとて頻に其所在を探り居れる故 関係者一同は極秘裡に劉を奉天附属地南大明街、井上骨董店裏の借家(安達か井上より借りたるもの)に置き家賃三〇円生活費月三〇円を給え然し将来は金を工面し大連其他の安全地帯に蟄る積なりと

 而して伊藤及安達は共に金を欲しかり居り 伊藤は三千円位使ひたりと称し安達も大に中心となりて働きたるに付金か入用なるも何分にも陸軍等より一文も貰はすと称す、彼等は右様の事を頻に吹聴し居れり

 以上本件調査には奉天警察署長及奉天領事館警察高等係伊藤警部之に当れるも総領事にも別段報告を提出せす 書類は関東長官、藤岡警務局長及大場事務官のみ閲覧し大場事務官上京後は本件関係にての電報往復は同事務官自身暗号に組み発電す 但し同事務官状況後は本件調査を一時中止し居れりと。


二、以上大場事務官の説明に対し森政務次官より本件報告書は前記三通限りに止め之以上作成せさる事を希望し更に各委員より質疑を出し大場事務官回答す左の如し。

(イ)杉山軍務局長より

(一)伊藤か第一次計画に関し河本を訪問せる日時如何との質問に対し右は正確なる事判明せす 五月中頃斉藤参謀長を訪ひ其の後河本参謀を訪ひたることのみ判明し居れる旨回答ありたり。

(二)河本は其際爆破は自分の方にて引受くるに付支那人四五名連れ来れと云ひたる点は聴取書中にありやとの質問に対し右は聴取書中にありと回答せり。

(ロ)有田亜細亜局長より
 問、本調査前より本件報告の如き風説ありたるや
 答、本調査前は雲を握む如き所謂後方撹乱計画に関する風説ありしか爆破事件後は伊藤・安達に関し別段の風説なし。

(ハ)森次官より

(一)問、宮川一貴氏は東京にて本報告の如き話をなし居れる処奉天にては斯る風説行はれ居れるや。
   答、宮川氏は伊藤と親交あるに付彼より聞きたるものならむか 私見にては同氏は相当詳しく知り居れるものと認む。

(二)問、町野武馬、江藤豊二両氏も東京にて同様の事を話し居れる処右情報の出所如何。
   答、右は世間の風説(ヒソヒソ話より種を得たるものならむ。

(三)問、赤塚代議士(前公使)の赴奉は本件調査の為なりとの事なるか如何
   答、赤塚代議士は左程詳しくは知り居らすと信す。

三、以上質疑応答後杉山軍務局長は本件に付ては過般峯憲兵司令官も取調へたる結果陸軍側にも相当に材料あるも未た辻つまの合はさる処もあり 且関東庁の報告に基き更に取調へたき点もあるに付陸軍側の報告は暫くご猶予ありたしと延ふ

四、依りて森次官より然らは陸軍側の報告は次回に聴取するへき旨を述へ大場事務官に対し本日の会議に付関東庁に報告せらるる場合は同事務官より藤岡委員報告に付説明をなし之に対する質疑に答へたりとの程度にて報告せられたく又関東庁側の調査は当分此の程度に止め報告書写も之以上作成せられさる様致したき旨を述へ散会せり

以上

(0328〜0337)



<外国紙の反応>

奉天本省 昭和三年六月三十日到着
田中外務大臣 芹沢公使

第九七〇号


六月二十一日附在奉天総領事発大臣宛機密公第四四五号に関し、三十日「ジユルナル、ドベカン」主筆「ナシユボウ」は鉄道関係者及一宣教師より得たる情報として安東宮神に対し 

当時張作霖の列車は車中に装置せる火薬を電気仕掛にて爆発せしめたるものにして 展望車の天井及暖房装置中に約一噸の火薬を仕掛け右列車の「クロス」通過の際前方(恐らくは機関車)より電気の「スイツチ」を押したるものなるへく 展望車及之に連結せる食堂車及寝台車は滅茶苦茶に壊れたるにも展望車の前に在りたる貴賓車は四十尺許り前進し張作霖は遭難の際其の中に在りたる由なるか 右火薬は通州にて右列車組立の際装置したるものと認めらるる旨内話せる由なり

佛国側は張作霖の列車爆破及重傷並に張学良の帰奉等に関し迅速正確なる情報を入手し居りたる事実もあり時節柄何等御参考迄

奉天へ転電せり

(0307〜0308)



公第九二二号 昭和三年八月七日(八月十五日接受)
在支那特命全権公使 芳沢謙吉

外務大臣男爵 田中義一殿

張作霖遭難事件調査に関する件

最近「ノース・チヤイナ・デーリー・ニュウス」上海「タイムス」紙上に七月十六日上海電「ルーター」通信として張作霖遭難事件に関し日支共同の事実調査委員会の報告は支那側委員の署名を拒みし為未た発表せらるるに至らさる趣なるか本事件は之を共産党或は南方便衣隊の所業として葬り去るへきものに非されは事件の真相を独自の立場より審査発表すと

冒頭に張作霖列車の編成、事変場所の状態、目撃者談話、爆破の効果及爆破原因等に就き詳細説明し

事変に関する日本側説明として

(甲)爆弾説(南方便衣隊か投けたるものとし其証拠として現地附近に発見せられたる手榴弾及日本守備兵により射殺せられたる二名の支那人を挙げたるもの)あるも作り話に過ぎす

(乙)京奉線上爆薬装置説(高度の爆発物を京奉線上の橋柱下(on the foot)に装置したりとなすもの)は橋柱下及車台の損傷無きを以て事実に非さる事明なりと述へ

(丙)列車内爆薬装置説(日本総領事は六月七日奉天交渉署宛の抗議に於て此の見解を取れり)あるも車台に破損なく且橋柱及橋梁の破壊の大なるを見れは之を信する能はすと云ひ

進んて事変の際の守備の責任に関して橋梁の地点の守備に関して日支各其の鉄道線路を守備すへき約束をなしたる旨日本側は称し居れるか 

支那人は支那の守備隊は橋梁の二百「ヤード」以内に立入る事を許されりし旨主張し居れり 橋梁か日本人により有効に守備せられ居りたる事は目撃者の証言する所なりと論し其陰謀及事変の責任共に日本側にあるか如き口吻を弄し居れるに対し

七月廿四日「ノース・チヤイナ・スタンダード」は大要左の如き論説(別紙切抜参照)を載せたり

「ルーター」は張作霖遭難事件に関する匿名の陳述を報道し居れるか右は上海の新聞に現はれたるのみにして未た当地若は満洲に達せさるものの如し

然れとも「ルーター」か日本人を攻撃する見解に与して詳細に事実を報道するの態度を執るは公正にして紳士的態度と云ふへからす

右陳述の出所を明かにするか然らされは「ルーター」自身か其の報告中にある乱暴なる推論の原動力なりとの批評を甘受せさるへからす

右報告中最も問題となるは匿名通信者の陳述中爆発か車中に起りたるものにあらす及事変発生前支那側守備兵か其の地点に接近するを妨けられたりとなす点なり

「専門家の意見」なるものは右匿名通信者の報告中に挿入せられ車台を破壊せすして事件の爆破を行ふ事は不可能なりとし従つて満鉄橋柱中に爆薬を匿されたるものなるへきを推論し居れるか

之に対する回答としては如何なる爆破技師と雖も車外に爆薬を装置して特別に張及呉の二人を殺し他を生かす事を得さるへく

又仮令張を殺す意なりとするも事変当時如何なる車輛を張及呉か使用し居りたるかを知りて外部より爆破発せしむるを能はすさるへしと考ふへきのみ

且又近時爆薬の智識を有するものは車台を破壊せすして車内より爆破する事可能なるを知れり

日支共同の事実調査委員の報告は支那側委員の其内容同意なるに拘らす国民より批難及責任の問はるるを虞る為之に調印せさりしものなり

右何等御参考迄茲に報告す

本信送付先 上海、天津、奉天

(別紙省略)

(0308〜0311)


海牙本省 昭和三年発月十五日発電 十六日到着
田中外務大臣 廣田公使
第三五号


左記八月十四日附北京発路透(「ゆう」注 ロイター)電報当国民新聞に掲載せらる 御参考迄

極東政治通「プトナム、ウィール」は張作霖の葬儀に対し帰来路透代表者に張の最後に付「センセーシヨナル」の説明をなし自分の事実調査に依れは張の暗殺は日本秘密結社の一員の所為なりと信すと声明せり

(0312)



北京本省 昭和三年八月十六日到着
田中外務大臣 芳沢公使
第一二〇九号


往電第一二〇七号に関し張作霖暗殺事件は予て当地支那人及外国人中には右事件に日本人若は日本軍人か加入し居らさるや 又日本官憲の取調に徹底を欠く処無きや等の疑惑を抱くもの鮮からさりれか

「シンプソン」「ステートメント」は爆破は日本の不良分子の所為にして日本軍人之を助けたりと断定し日本官憲の徹底的取調を要求し居るか故に「クラブ」及外国新聞記者間の空気より見るに鮮からさる「センセイシヨン」を惹起したるものの如く

十六日「リーダー」に「日本秘密結社か日本陸軍幇助の下に張作霖を暗殺せり」との見出しの下に一面二欄に亘りて之を掲載したる外

「ジユルナルドベカン」及漢字新聞の多数も亦之を目立ちたる場所に載せたり

「タイムス」の「フレイザー」も日本の満洲政策に対しては世間の中尉益々敏感となり居る関係もあり爆破事件に付ても事件発生場所に行政権を有する日本官憲に於て今少しく事態を明はくにし置く方得策なるとの意見を述べ居れり

奉天、上海に転電せり

(0313)



上海 本省 昭和三年八月十六日到着
田中外務大臣 矢田総領事
第五四九号


張作霖座乗列車爆破事件に関し事件の直後王正廷に面会の節 王は其の方法残忍且用意周到にして然も科学的なる到底支那人の能くなす所に非すと述べたる事ありしか 其の後金交渉員も本官に対し右爆破事件の勃発の為満洲問題は一変して世界的大問題となれりと意味あり気に述べたる事ありしか

其の後「ウイクリー・レビユー」には右爆破を日本軍憲の援助に依る浪人の所為なりと断定し朝鮮閔妃殺害事件と共に東洋に於ける二大罪悪なりと論したる奉天特派員の通信掲載され 之と前後し路透の独立調査書発表せられ 右調査書は表面より日本に責任ありとは断定せさるも 読者自身をして■く結論せしむるか如き事実の配列解釈をなし

次て十五日の英字紙(上海タイムスを除く)は奉天より帰来せる「シンプソン」の北京に於ける会見談なる路透電を発表せり

右は日本軍憲の所為なりと匂はせたる長文の記事にして全文各支那紙に掲載されつつあり

次て翌日の英字紙は在支公使発閣下宛電報第一二〇六号路透特電を掲けたり 右の如く爆破事件か近頃特に英国系宣伝機関に依り一般の注意を惹起し来り 対日反感情の結果を馴致しつつあるは注目に値す

在支公使、奉天へ転電せり

(0314〜0315)


北京 本省 昭和三年八月十六日到着
田中外務大臣 芳澤公使


先つ奉天は平穏なるも政局は極めて紛糾し居れりと述へたる後林特使は張学良との会見に於て第一に満洲と国民政府との関係を明確にし第二に本年初北京に於て張作霖部下の仮に署名したる鉄道契約の実行を迫れるものの如し

右鉄道契約は満洲に於て反対を受けたるか此の反対こそ其の後支那及満洲に起れる悲惨なる出来事の原因を為したるものなりと論し 日露戦争以後の日本の満洲に於ける鉄道契約及支那の之に対する対抗を叙し次て満洲に於ける日支の葛藤は常に鉄道を中心とするものなるか日本は北満を南満の如く日本の優越権の下に置かむとするものなりと断し

最近の政局に関しては日本か満洲に大兵を擁して奉天当局に対し国民政府との妥協に反対したる事実を叙し 転じて張作霖の暗殺に及ひ張の北京退去直前満洲地方当局の承認を条件として鉄道契約作成せられたるも 満洲関係当局は之を承認せさりしか為 日本と張との関係益々疎隔したりしか間もなく 張は五月九日和平通電を発し 終に五月十八日日本の覚書により退京の已むを得さるに至れるものか故に 六月四日の暗殺は誠に偶然にあらざるを知るへし

爆破に関しては日支委員の共同調査行はれたるも真の調査未た行はれす

尚右調査報告中には偶然にも奇怪なる事実暴露され居れり

一は即ち事件発生前は日本守備隊長は京奉線の警備を支那側に許可したりと言ふに反し支那側は支那兵か現地より二百米以内に入る事を禁せられたるを述べ居る事実にして

他は北京奉天間に於て屡々列車の編成替行はれたりと言ふも事実は全く之に反し居る事是なり

公平なる観察者は
列車は多分十二個の「ダイナマイト」装置に依り爆破せられ其の「ダイナマイト」満鉄陸橋を支へる橋柱に■箱に入れて仕掛けられ線にて連結せられ居たるものなりとするに一致す

附近材木置場の支那人の言に依れは当時現地附近の日本番兵の絶えす人形動き居たるを目撃したる由なり

 又事件直後日本総領事館は或壮士を追放したる事実より観すれは当時の日本守備隊関係者を取調ふれは容易に事件の真相判明すへく事件は或不良分子の行為にして日本陸軍の或る者か之を援助しくるものなりと述へ

次て朝鮮王妃暗殺事件に於て日本官憲か厳重に事件を審査し犯人を処罰したる事実を叙し 更に日本に於ける黒龍会及壮士の活動に言及したる後

張作霖か或日本の計画に反対したるため終に暗殺の悲運に到れる事実は全く是を容れさるもの如く 唯彼の死か必すしも避くへからさるものにあらさる事は同列車にありし儀峨少佐か殆と何等の傷害たに受けさりし事に観るも首肯し得へし

更に現地より三百碼の場所に「フオード」の自動車ありし事、二里を距る点にある署名なる官吏か事件当日未明に起き自家の屋上より双眼鏡を以て現地を眺め居たる事、一日本顧問か天津にて下車したる事、其他奇怪なる事実其の後続々発見せられたりと述へ

最後に日本官憲か往年の王妃暗殺事件の際の如く本事件に対し厳重なる審査をなし以て総ての疑惑を一層せむ事を望むと結へり

(0316〜0318)  


 (2008.1.12記)


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