中島今朝吾日記 


―第十六師団長・陸軍中将―

  

『中島今朝吾日記』より

◇十二月十三日 天気晴朗


早朝20 i 将校斥候は中山門に入りて敵兵なきを発見し玆に南京は全く解放せられたりと知る

一、33 i は第一峯を下りて午前八時天文台を占領し次で各隊は逐次城壁に迫りたり 於玆砲兵をして万一に備へしめ歩兵工兵協同機堂(動)の上万全を帰(期)して徐々に城内の清掃に任ずべく処置す

 又昨日来佐々木支隊方向に於ては南京より脱出したる敵と鎮江方面より退却したる敗残兵とに会して進行遅延すると共に後方に相当の掩護兵を残置しあり

 下関に進出の時期を失するの憂あり 依りて33 i には速に大(太)平門に下りたる後主力を以て直に玄武湖東北側を経て旅団に追及するを命ず

(昨日既に一大隊を分派せり)

又前方を追及せんとする野砲軽榴一中隊を反転せしめて直に佐々木支隊を追及せしむ(P322)

一、騎兵聯隊は午後一時頃始めて下麒麟門に到着したれば直に佐々木支隊を追及せしむ

一、昼間に於ては敗残兵は仙鶴門附近より概して紫金山東側林道に進出して我後方部隊を騒擾せしめるものあり 依りて予備一中隊をして之を掃蕩せしめ紫金山西南南側は片桐部隊をして掃蕩せしむ

一、正午過20 i の先要(発)の大隊は城内に入りて掃蕩を開始す


○予は第九師団の先を争ふて入城せんとする当初よりの面白からざる心に不快を感じ居るものなれば 中山門よりの入城を止めて彼等百姓根性の奴に譲り、旁々下関方面の戦闘の進捗を指導する為め該方面に転進するに決し

 中沢大佐を草場少将の許に出し中山門方面の状況を確むると共に其後の処置を一任したる上出発することとしたる処 紫金山東方道路は敗残兵に遭遇する公算多く富貴山附近すら安全となれば此方面より転進するを可とするを以て之を待ちたるが

 午後一時中沢大佐の報告に依り大(太)平門は之を占領し富貴山の清掃に付いて此方面より転進するを可とする意見に同意し直に西山戦闘司令所に移転するに決す

 此日戦闘指導の為此地に躍進する為既に通信設備を完成しありたり

一、天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕へ彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷布設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ

一、斯くて西山郵便局に於て爾後処理中午後六時に達したれば今夜玆に宿営す

一、午後三時半佐々木支隊は下関を占領すとの報あり

一、正午前後の敵爆撃機は南京市内を爆撃す



◎昨夜33 i が第一峯を占領するや軍司令官宮殿下より賞詞あり 酒一樽ウヰスキー三、果物を賜りたれば之を33 i と之に協力せし砲兵隊に分贈せり

一、一昨夜第一線各隊の奮闘に対し聊か謝意を表する為南京攻略後の祝酒として携行せし酒を第一に追送分配したり(P323-P324)

一、本日正午高山剣士来着す 
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり


一、午後司令部は躍進して西山の麓にある郵便局に移り此処にて事後処理を為す

一、閑を得て西山の古戦場を視察す

 東側に鉢巻したる散兵壕陣地にして概して応急施設に属す 之に依りて見れば支那側も南京迄が攻撃せらるるものとは考へあらざりしならん 後に至りて聞く処に依れば南京の電灯会社も十三日朝まで運行しありたりとも云ふ

一、陣地内に猟用12番の弾薬あり収集し帰る 銃を探したるも見当らず後兵キ(器)部員大中少佐が12番のブローニングを発見し呉たり

 之れは近接防禦の為兵が携行したか 将又銃砲店主が自主的に戦線に参加したるか 何れにしても近迫戦に散弾を使用したる考案は予の天津、大連にて自衛用として猟銃を探したると相似たる点あり(P324-P325)

一、夕刻附近の独立家屋(医者の別邸らしきもの)に宿泊す



◎捕虜掃蕩

一、十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり

一、十二日夜湯水鎮附近にも敗残兵の衝突ありたりとて軍司令部衛兵、警備中隊が戦闘したりとて師団輜重の通行中、弾薬補給を要求せられたりと云ふ

一、宮殿下の御身辺を護衛するの必要を感じたるを以て参謀長は一−二中隊を増派せんとして之を軍参謀長に打合せしめたるに既に

*第九師団より歩兵一コ聯隊を出したりと云ふことを聞けり

己れの作戦地境内にはあらず又第九の隊は第十六の隊より近きにあらず 敗残兵に対する目的を以て歩兵一コ聯隊を派遣したる人の心の底は真に同情に値するものあり 依りて我方は手を引きたり

一、此日城内の掃蕩は大体佐々木部隊を以て作戦地境内の城門を監守せしめ 草場部隊の二大隊を以て南京旧市より下関に向つて一方的圧迫を以て掃蕩せしむることとせり

一、然るに城内には殆んど敵兵を見ず唯第九師団の区域内に避難所なるものあり 老幼婦女多きも此内に便衣になりたる敗兵多きことは想察するに難からず

一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり

  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり(P325)

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底其始末に堪へざる程なり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ
  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし

 之が整理の為には爾後数日を要するならん(P326)

(『南京戦史資料集』旧版)
 


 
『中島今朝吾日記』より

◇十二月十四日 西山高地野滞在

一、此日尚城内の掃蕩未完

 加之(しかのみならず)城外に分散したる部隊の集結、敗残兵の処理等に大多忙を極む

一、花岡より中山陵視察を進められたるも地雷の尚未だ整理出来ざる時万一の事でもあつた時師団長は見物に出て地雷で怪我したとありては武士の面目丸潰れなれば一切他出せぬこととせりP326-P327)

一、入城式の件、

 予は中山門よりの入城を肯んせず

 その功名を争ふ奴隷あり 之等と共に行動するを恥辱とすればなり

 十二月九日十日歩兵第三十五聯隊[第九師団]の一大隊は紫金山を占領せりとの報告せるものあり

 次で此聯隊は我作戦地境内に進入して十日−十一日突撃路を開きたる中山門の方向より一番乗りを企図したること是なり

 師団の正面は紫金山より流れたる併行せる稜線を越へ谷地攻撃に掛りて谷地攻撃を以てすると此攻撃は是非高き方より進まざるべからず 然るに第九師団正面は平地にして又敵の主防正面に非ざるを以て速に光華門に近づき且其扉の破壊せられたるをのぞきはしたれども入城する能はず 戦況発展せず加之護城河の障碍ありて進み難きを以て敢て他師団の区域に進入し来りたるは背信行為も亦甚し

 十三日朝我方20の一中隊が午前三時半突入するや引続き第35の件の大隊が進入せりとて20 i にては大に憤慨しありたり

 次て十三日夜湯水鎮にありたる軍司令部附近敗残兵の攻撃を受けたるとき第九師団は速に歩兵一聯隊を護衛の為に派遣したるが如きは第十六師団の作戦地境を無視し、たかが残兵に対して歩兵一聯隊を出すなり 之を巧言令色的行動と見ずして何ぞや

 以上の如き奴の団隊と共に南京に入城することは予の肯んずる処にあらず 依りて予は南京入城を彼等に譲りて下関に向つて転入せんとせり

 然るに幕僚間には異議ありたるものの如く 師団長は屈して師団将兵の名誉の為に先登に立ちて中山門より斉々堂々と入城すべしとの意見ありたれば是も尤のことなれば予は茲に中山門より入城せるに決せり(P327-P328)

*「ゆう」注 編者による誤字修正・補足は、そのまま文中に押し込めました。


 
『中島今朝吾日記』より

◇十二月十五日 晴天にして暖、中央飯店


一、既に一部掃蕩隊が入城しありたるも此日新たに入城式の形式を以て南京占領の一段落をつくることとせり

一、各隊は事後処理の任務遂行に差支えなき範囲に於て代表部隊を堵列せり 師団司令部各部隊長陪従の上午後一時三十分中山門より入城し

 国民政府庁舎を師団司令部に充当しありたれば 同庁舎に入り国旗を掲揚し各部隊長及将校の参列の上大元帥陛下の万歳を三唱し 今日こそ真に樽酒に口つけ飲まんといふことにして祝盃を挙げたり

一、次で午後四時頃師団司令部宿舎に充当したる中央飯店に入り宿泊す

一、敗残兵掃蕩

 十三日夜より各方面を掃蕩するの必要を感じ軍より各師団に区域を配当して之を行ふことなれり

一、十五日より直に実行すべきも 一と先入城の上各隊の宿舎に落付かせ爾後軽装して全員を以て之を実行することとし十五日は宿営の応急設備とせり

一、十六日十七日二日間を以て掃蕩することとし両旅団に区域を配当し各隊は各併行路に一部隊を進ましめて隘路の出口に至りて一泊し翌日又同様にして宿営地に帰還せしむることとす

 爾後は両旅団より各一警備大隊を出ささしめ他の二大隊は城内外に近く宿営し何時たりとも一大隊宛の増援をなし得る如くして待機姿勢に移る(P328)



 
『中島今朝吾日記』より

◇十二月十九日 薄曇り


一、此日中央飯店より軍民学校内校長(蒋介石)官舎に移る 警備の為の歩兵一小隊あり

 別に趣味生活の相手として天竜寺村上和尚、花岡萬舟、高山剣士、浄土宗黒谷本山派遣白崎軍僧と映画班の二名と当番及宮本副官と共にす

一、戦勝後のかっぱらい心理 (P331)

 我々が入るときは支那兵が既に速くより占領したる処である 彼等には遺棄書類によつて見れば大体四、五月以降給料は払ふてない 其代りかつぱらい御免というので如何なる家屋も徹底的に引かきまわしてあるから日本軍の入るときは何ものもなく整頓しては居らぬ

一、そこに日本軍が又我先にと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して住く 此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結局ずふずふしい奴が得といふのである

 其一番好適例としては

 我ら占領せる国民政府の中にある 既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く

 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である 翌々日入て見れば其内の是はと思ふものは皆無くなりて居る 金庫の中でも入れねば駄目といふことになる

一、日本人は物好きである 国民政府といふのでわざわざ見物に来る 唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にかつぱらつて行く 兵卒の監督位では何にもならぬ 堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである

 自己の勢力範囲に於て物を探して往くといふならばせめても戦場心理の表現として背徳とも思はぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然も既に司令部と銘打ちたる建築物の中に入りて平気でかつぱらうといふのは余程下等と見ねばならぬ

一、中央飯店内に古器物の展覧会跡あり 相当のものがあつて之を監視したが矢張りやられた とうとう師団長が一度点検した上錠をかけて漸く喰止めた位である

一、軍官学校校長官舎は蒋介石が居たとのことで予が占拠する筈にしてあつた 第九聯隊を出してまで取りて置いたのに自己の宿営区域にもあらざる内山旅団〔野戦重砲兵第五旅団〕司令部が侵入して之も亦遺憾なく荒して仕舞つた (P332-P333)

 とうとう中央飯店の家具を持ち運びやつと住へる様にしたのである

一、戦場には所有権否定案が如実に表現して居る 我々も支那人に対しては怖られて居るが日本人仲間の間所有権否認は之れ亦功利主義利己主義個人主義の発達した一大現象を見ることが出来るだろう

一、軍隊で自動車を捕獲して検査小修理を兵卒がやつて居る

 通りかかりたる将校が一寸見せろとのぞき込む つづくつて其儘乗り逃げして往く

一、最も悪質のものは貨幣略奪である 中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがある そしてそれは弗に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する 此仲介者は新聞記者と自動車の運転手に多い 上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある

 第九師団と内山旅団に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い そして金が出来た為逃亡するものが続出するといふことになる 内山旅団の兵隊で四口、計三、〇〇〇円送金したもの其他三〇〇、四〇〇、五〇〇円宛送りたるものは四五十名もある 誠に不吉なことである (P333)

(『南京戦史資料集』旧版)


 


 
『中島今朝吾日記』より

◇十二月二十七日より三十一日に到る行事


(略)

一、大晦の夜七時南京に電灯つく

 入城後南京に最も必要のものは水道なり 晦頃は漸次石油の欠乏を訴ふるに至る

 大連より積込みたる焼却戦用の一万缶の石油は一たび行衛不明となりたるも 此頃上陸して逐次追及し来るとの報ありたるも未だ入手せず

 
南京の電灯と水道は十三日朝迄運転しありたりとのことなりしも軍隊の入城掃蕩の際技師も職工も片付けたらしく之を運転する要員なし(P341-P342)

 軍に於ても考へはあるとのことなるも手足持たぬ考案は何時実現するとも明ならず、予は之に関せず直に着手するに決し師団内に於て曽て電灯又は水道会社に勤務せし技師技手職工を調査せしに四十五名を得たり 工兵隊に技師少尉あり 依りて之を召集して検査、運転を命じたるは十八日頃なり

 下関の発電処は米式にして日本にては多く独式なれば技師等は稍々不慣の点あるやに見へたるも 之を激励して試運転せしめんとし 結局城南の小発電処より着手し送電の上下関の発電処のロストルの散炭機を動かすこととして着手せり

一、然るに努力の結果此大晦日の夜七時半宿舎の電灯一時に点火したるときは天下光昭となりたると思ひにて言ふに言はれぬ喜悦の感に打たれたり

 早速管理部に命じて酒壱樽を贈りたるが是又大に彼等を喜ばしむることとなり 翌日技師少尉は年賀と共に礼に来れり

一、斯くて数日間は線の整理の為時に消へることもありたれども送電は逐次整理拡張せられて南京の夜は漸次明くなれり

一、一月七日頃には下室には水道も出ることとなり十五日頃には二階にも又水が出づる如くなり、欠乏して供給不足を訴へたる南京の水問題もかくして其大部を解決することを得たり

一、併し世間誰独り師団の此努力に対して礼を言はざる迄も賞賛する者はなし

 人間も斯く簡単になれば呑気にてさぞかし長命することならん、あなかしこあなかしこ(P342)
 


 
『中島今朝吾日記』より

◇昭和十三年戌寅正月元日 晴天 暖


(略)

一、元日と同時に早朝より久し振りに始りたるは敵の空襲なり 但し彼等は二三千米以下に降下せず

 且又目標とする処は上海、杭州、蘇州、南京共に飛行場のみにて他に及ばず

 此頃より南京市街の各所に支那人の放火あり 実につまらぬ家の火災なれども、注目すべきは其が朝火事なること、重要建築物の近所なることより判断して、何等か空襲と直接関係あるらしく思はれたり(P344)

 


 
『中島今朝吾日記』より

◇一月二十三日 晴 昼少のもやあり 比較的寒し

(上海にて)

一、午前十時松井大将面接といふので新市街企業地にある音楽学校を占拠する方面軍司令部を訪ねた、自動車で約二十五分、新市街といふが碌々家屋はない。其片隅の一軒屋 交通極めて不便、建築も余り立派でない処に能くも方面軍司令部を選定したものと思つた

 空襲を避けた積りか 何れにしても隷下部隊の出入は極めて不便である、自動車を持つものは何とかなるとしても然らざるものには一日仕事である

 高等司令部は団隊ありての司令部なりとの考の足らぬものなりと言はれても致方はあるまい

一、松井大将に面会して隷下を離るるの申告をした、次で第十六師団に対する挨拶の辞があった、声が極めて小さいのと時々細く切れる様になるのと、小生少しく耳が遠くなりて居るので半分しか明瞭に聞き取れず

 もう声量がなくなつたのか或は小生の前なれば消極的声音になりたのか、尤も少し顔が振れる様である

 何と言ふかと思ふて聞ひて居たが

(第十六師団は南京攻撃の中堅と成り)

といふ言葉丈は聞き取れた(P352)

(略)

一、午後六時より方面軍司令官邸に於て会食を催さる、此夜の御馳走はさすが上海が長崎に近い丈ありて料理人も相当のもの材料も中々珍しきものあり

 鰯の生の塩焼と瀬戸の鯛のちりとは極めて美味にして

 南京の朝香宮様の処が御気の毒に感じたり

一、話中かっぱらいの話あり

 予が軽重機の分捕品と小銃を以て装備強化のことを語りたるに対し、大将は其は軍に差出して呉れねば困るといふ様なことを述べたり、此男案外つまらぬ杓子定規のことを気にする人物と見えたり

 次に国民政府の中のかっぱらいの主人は方面軍の幕僚なりと突込みたるに、是はさすがにしらばくれて居りたり

 家具の問題も何だかけちけちしたことを愚須愚須言い居りたれば、国を取り人命を取るのに家具位を師団が持ち帰る位が何かあらん、之を残して置きたりとて何人が喜ぶものあらんと突ぱねて置きたり(P353-P354)
  

(2005.6.19)


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