ジョージ・A・フィッチ『中国での八十年』より
悲運の南京 一九三七−一九三八年(第一〇章)
アメリカ・イギリス・ドイツの領事館員が戻ってきた。しかし、彼らは日本軍に侮蔑的に扱われ、日本兵を統制するには無力だった。アメリカ領事のジョン・アリソンが「防止」を試みようとして、平手打ちを食らったのは、侮辱を受けた一例である。
しかし、われわれが最大の注意を払ったのは食料事情だった。塩漬けの白菜が不足していた。米のストックはまだ大丈夫なものの、急速に減ってきている。周辺地域は数マイル四方にわたって完全に荒廃していたし、日本人のためのものは別として、他の物は誰も市中へ運び込むことを許されなかった。脚気の兆候が出てきており、不幸な状況を打開するために、船一隻分の供給品を持ってくることが絶対に必要であった。
日本当局と長期にわたって交渉した結果、ついに私は英国艦ビー号で上海へ行く許可を得た。同号はちょうどイギリス領事と彼のスタッフを乗せて来たところだった。英国砲艦に乗ったのは何日であったか正確には思い出せないが、一月末であったにちがいない。(P345-P346)
上海における最初の昼食は、たいへん尊敬されている故ハリー・ヤーネル提督と彼の旗艦上でとった。彼も他の多くの人と同じように、南京にかんする最新の情報を知りたがった。私は時間をかけてその話をし、またインタピューにも応じなければならなかった。
しかし、その間にも南京ですぐ配るための船一隻分の大豆、米、小麦粉や少しばかり他の日用必需品を買い付ける手配をした。
私はまた、あるアメリカ人のグループから、できるだけ早い時期にワシントンヘ飛んで、南京の状況をわれわれの政府に報告するように求められた。しかし私は、日本当局に必ず戻るということを約束していたし、それが条件で南京を離れることを許可されたのである。もちろん、食糧品の積荷を無事に送り届けたかった。そこで、私は友人たちに、戻ったらすぐにまた南京を出る許可を得るために交渉を始めると約束をした。
帰路は、ヤーネル提督が手配してくれた米砲艦オアフ号に乗って長江を遡り、平穏無事であった。
南京に到着した私は、日本軍が前言を裏切って船荷の陸揚げを不許可にしたのを知って愕然とした。やむをえず、その船は交渉待ちのため蕪湖に向かった。
幸い二度目の許可をどうにか獲得することができたので、われわれの船は戻って無事にその船荷を受け取った。許可が下りたのはどうやら、日本人は現在民衆の生活を保護していると書いて市内中に張り巡らしたポスターのためらしい。
一つのポスターには、中国婦人と子供が微笑みながら、一かたまりのパンを与えてくれた日本兵の前にひざまずいている絵が描かれている。目玉のポスターには、「日本の軍隊、難民をやさしくいたわる。南京市に和気あいあいの雰囲気が楽しげに生まれている」と説明書きがあり、さらに、次のように驚くばかりの大ウソが書き連ねられている。
すなわち、人々はどのように反日の軍隊に抑圧され、そして苦しめられ、食べ物も医療援助も得られなかったかを述べ、しかし「幸運にも皇軍が入城して来て、彼らの銃剣を鞘に収め、慈悲深い手を前に差し出して・・・親切と寵愛を誠実な真の市民にあまねく与えている・・・流亡していた何万という難民たちは日本に反対するという愚かな態度を投げ捨てて、生命の保障を受け取った喜びに彼らの手を合わせて握りしめている」。
そして、そのようなへどが出るような文章が、絵とないまぜに何節か続いたあと、「日本兵と中国の子供たちは楽しく一緒になって公園で愉快に遊んでいます。南京はいまや全国のすべてが注目する最高の場所です。なぜなら、人はここでこそ、安全な住まいと楽しい空気を満喫できるからです」という文句で終わっている。(P346-P347)
これは、私のスタッフの一人に翻訳してもらったものだ。信じられないと思うかもしれないが、書かれてあることは正真正銘のものと保証できる。
南京の占領が開始されてからすでに二ヵ月過ぎたが、虐殺はまだ毎日続いていた。
一月十八日、二人の男がわれわれのところへやって来た。二人とも腕を撃ち抜かれていた。それは、日本兵が金を要求したのに満足させてやれなかったためである。
また、重たい荷物を運ぶ力がなかったために、顎と首を撃ち抜かれた別の男が病院へ運び込まれて来た。さらに、別の男が頭に銃剣による重い傷を負わされて連れて来られた。
彼らは、自分たちの残虐な行為に嫌気がささないのだろうか。あるいは、陸軍は統制と規律のしるしを見せようとしないのだろうか。私には分からない。いずれにせよ、私はすぐ南京を離れることになっていた。
上海のホリス・ウィルバー(Hollis Willbur)から電報で(事前に手配しておいたもの)「二十三日前に上海に到着を乞う」と言ってきた。
この電報の援護によって、私は再び南京を離れる許可をもらい、翌朝六時四〇分に上海行きの日本軍の軍用列車に乗った。その列車は三等列車で、考えられるかぎりの不愉快さをともなった兵隊たちの大群で満員だった。
私はそのとき、灰色のラクダの毛のオーバーの裏地に、虐殺場面を撮った十八ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気を使った。
上海に着いたならば、私の荷物は疑いなく軍当局に念入りにチェックされるであろう。もし彼らが、これらのフィルムを発見したら何かおこるだろう。
幸いにして、それらは見つからなかった。上海に着くとただちに、フィルムを複写するためにコダック営業所へ持っていった。そのすっぱ抜きのフィルムの大部分は、アメリカ聖公会のジョン・マギーによって撮られた(彼はのち、ワシントンの聖ジョンズ・アメリカ聖公会の司祭になった)。
虐殺はあまりにもおぞましかったので、それを信じてもらうためには、フィルムを見てもらう必要があった。コダック代表は急いで四セットを作成してくれた。もちろん私は、そのフィルムをアメリカン・コミュニティ教会と他の二、三の場所で見せるように求められた。
英国のレコンシィリィエイション(復聖の意味−訳者)の会員(the Fellowship of Reconcilliation)のミス・ムリエル・レスター(Muriel
Lester)は、その上映会のひとつをたまたま見て、これを日本でクリスチャンや政治指導者の何人かが見ることができれば、彼らはただちに戦争停止のために動くだろう、という思いつきを述べた。
もし、われわれがコピーを提供すれば、彼女はそれを持って日本へ渡り、特定のグループにそのフィルムを見せたいと申し出た。彼女の計画が成功するとはあまり信じなかったが、それでもそのとき持っていたコピーのひとつを彼女に渡した。(P347-P348)
何週間かのち、彼女はそれを東京の指導的キリスト教徒の小グループに見せたところ、このフィルムをさらに多くの人々に見せようとすれば、危害が加えられるだけで何の利益もないと言われ、彼女の計画を断念せざるをえなかった、と報告してきた。
たくさんの人々が南京問題のことで私に会いにきた。それからようやく虹橋路の我が家を見に出かけることができた。そこは租界の外にあり、日本兵が周りじゅうにいたので、正直のところ、そこへ行くのはビクビクものだった。
庭の片隅に直径一〇フィートくらいの焼け跡があり、一九〇二年からつけてきた私の日記のすべてをはじめとして、合計一五〇〇冊を越える私の蔵書(南京に持っていってそこで駄目になったものは除いて)が焼失していた。
近くに浴槽がころがっていた。これは三階の浴室から剥ぎ取ってきて、どこかへ持って行こうとしたからにちがいない。家の中はすべてめちゃめちゃに荒らされていた。私は急いでそこを立ち去った。
未来はどうであろうか。当分は明るいものではない。しかし、中国人は他の多くの素質とともに、受難や苦難に耐え忍ぶたぐいまれな才能をもっている。そして、正義が最後には勝利するはずだ。ともかく私は、彼らと運命を共にすることをいつでも喜びとしよう。(P348)
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