ジョージ・A・フィッチ『中国での八十年』より
ジョージ・A・フィッチ『中国での八十年』より


ジョージ・A・フィッチ『中国での八十年』より


 悲運の南京 一九三七−一九三八年(第一〇章)

 アメリカ・イギリス・ドイツの領事館員が戻ってきた。しかし、彼らは日本軍に侮蔑的に扱われ、日本兵を統制するには無力だった。アメリカ領事のジョン・アリソンが「防止」を試みようとして、平手打ちを食らったのは、侮辱を受けた一例である。

 しかし、われわれが最大の注意を払ったのは食料事情だった。塩漬けの白菜が不足していた。米のストックはまだ大丈夫なものの、急速に減ってきている。周辺地域は数マイル四方にわたって完全に荒廃していたし、日本人のためのものは別として、他の物は誰も市中へ運び込むことを許されなかった。脚気の兆候が出てきており、不幸な状況を打開するために、船一隻分の供給品を持ってくることが絶対に必要であった。

 日本当局と長期にわたって交渉した結果、ついに私は英国艦ビー号で上海へ行く許可を得た。同号はちょうどイギリス領事と彼のスタッフを乗せて来たところだった。英国砲艦に乗ったのは何日であったか正確には思い出せないが、一月末であったにちがいない。(P345-P346)

 上海における最初の昼食は、たいへん尊敬されている故ハリー・ヤーネル提督と彼の旗艦上でとった。彼も他の多くの人と同じように、南京にかんする最新の情報を知りたがった。私は時間をかけてその話をし、またインタピューにも応じなければならなかった。

 しかし、その間にも南京ですぐ配るための船一隻分の大豆、米、小麦粉や少しばかり他の日用必需品を買い付ける手配をした。

 私はまた、あるアメリカ人のグループから、できるだけ早い時期にワシントンヘ飛んで、南京の状況をわれわれの政府に報告するように求められた。しかし私は、日本当局に必ず戻るということを約束していたし、それが条件で南京を離れることを許可されたのである。もちろん、食糧品の積荷を無事に送り届けたかった。そこで、私は友人たちに、戻ったらすぐにまた南京を出る許可を得るために交渉を始めると約束をした。

 帰路は、ヤーネル提督が手配してくれた米砲艦オアフ号に乗って長江を遡り、平穏無事であった。

 南京に到着した私は、日本軍が前言を裏切って船荷の陸揚げを不許可にしたのを知って愕然とした。やむをえず、その船は交渉待ちのため蕪湖に向かった。

 幸い二度目の許可をどうにか獲得することができたので、われわれの船は戻って無事にその船荷を受け取った。許可が下りたのはどうやら、日本人は現在民衆の生活を保護していると書いて市内中に張り巡らしたポスターのためらしい。

 一つのポスターには、中国婦人と子供が微笑みながら、一かたまりのパンを与えてくれた日本兵の前にひざまずいている絵が描かれている。目玉のポスターには、「日本の軍隊、難民をやさしくいたわる。南京市に和気あいあいの雰囲気が楽しげに生まれている」と説明書きがあり、さらに、次のように驚くばかりの大ウソが書き連ねられている。

 すなわち、人々はどのように反日の軍隊に抑圧され、そして苦しめられ、食べ物も医療援助も得られなかったかを述べ、しかし「幸運にも皇軍が入城して来て、彼らの銃剣を鞘に収め、慈悲深い手を前に差し出して・・・親切と寵愛を誠実な真の市民にあまねく与えている・・・流亡していた何万という難民たちは日本に反対するという愚かな態度を投げ捨てて、生命の保障を受け取った喜びに彼らの手を合わせて握りしめている」。

 そして、そのようなへどが出るような文章が、絵とないまぜに何節か続いたあと、「日本兵と中国の子供たちは楽しく一緒になって公園で愉快に遊んでいます。南京はいまや全国のすべてが注目する最高の場所です。なぜなら、人はここでこそ、安全な住まいと楽しい空気を満喫できるからです」という文句で終わっている。(P346-P347)

 これは、私のスタッフの一人に翻訳してもらったものだ。信じられないと思うかもしれないが、書かれてあることは正真正銘のものと保証できる。

 南京の占領が開始されてからすでに二ヵ月過ぎたが、虐殺はまだ毎日続いていた。

 一月十八日、二人の男がわれわれのところへやって来た。二人とも腕を撃ち抜かれていた。それは、日本兵が金を要求したのに満足させてやれなかったためである。

 また、重たい荷物を運ぶ力がなかったために、顎と首を撃ち抜かれた別の男が病院へ運び込まれて来た。さらに、別の男が頭に銃剣による重い傷を負わされて連れて来られた。


 彼らは、自分たちの残虐な行為に嫌気がささないのだろうか。あるいは、陸軍は統制と規律のしるしを見せようとしないのだろうか。私には分からない。いずれにせよ、私はすぐ南京を離れることになっていた。

 上海のホリス・ウィルバー(Hollis Willbur)から電報で(事前に手配しておいたもの)「二十三日前に上海に到着を乞う」と言ってきた。

 この電報の援護によって、私は再び南京を離れる許可をもらい、翌朝六時四〇分に上海行きの日本軍の軍用列車に乗った。その列車は三等列車で、考えられるかぎりの不愉快さをともなった兵隊たちの大群で満員だった。

 私はそのとき、灰色のラクダの毛のオーバーの裏地に、虐殺場面を撮った十八ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気を使った。

 上海に着いたならば、私の荷物は疑いなく軍当局に念入りにチェックされるであろう。もし彼らが、これらのフィルムを発見したら何かおこるだろう。

 幸いにして、それらは見つからなかった。上海に着くとただちに、フィルムを複写するためにコダック営業所へ持っていった。そのすっぱ抜きのフィルムの大部分は、アメリカ聖公会のジョン・マギーによって撮られた(彼はのち、ワシントンの聖ジョンズ・アメリカ聖公会の司祭になった)。

 虐殺はあまりにもおぞましかったので、それを信じてもらうためには、フィルムを見てもらう必要があった。コダック代表は急いで四セットを作成してくれた。もちろん私は、そのフィルムをアメリカン・コミュニティ教会と他の二、三の場所で見せるように求められた。

 英国のレコンシィリィエイション(復聖の意味−訳者)の会員(the Fellowship of Reconcilliation)のミス・ムリエル・レスター(Muriel Lester)は、その上映会のひとつをたまたま見て、これを日本でクリスチャンや政治指導者の何人かが見ることができれば、彼らはただちに戦争停止のために動くだろう、という思いつきを述べた。

 もし、われわれがコピーを提供すれば、彼女はそれを持って日本へ渡り、特定のグループにそのフィルムを見せたいと申し出た。彼女の計画が成功するとはあまり信じなかったが、それでもそのとき持っていたコピーのひとつを彼女に渡した。(P347-P348)

 何週間かのち、彼女はそれを東京の指導的キリスト教徒の小グループに見せたところ、このフィルムをさらに多くの人々に見せようとすれば、危害が加えられるだけで何の利益もないと言われ、彼女の計画を断念せざるをえなかった、と報告してきた。

 たくさんの人々が南京問題のことで私に会いにきた。それからようやく虹橋路の我が家を見に出かけることができた。そこは租界の外にあり、日本兵が周りじゅうにいたので、正直のところ、そこへ行くのはビクビクものだった。

 庭の片隅に直径一〇フィートくらいの焼け跡があり、一九〇二年からつけてきた私の日記のすべてをはじめとして、合計一五〇〇冊を越える私の蔵書(南京に持っていってそこで駄目になったものは除いて)が焼失していた。

 近くに浴槽がころがっていた。これは三階の浴室から剥ぎ取ってきて、どこかへ持って行こうとしたからにちがいない。家の中はすべてめちゃめちゃに荒らされていた。私は急いでそこを立ち去った。

 未来はどうであろうか。当分は明るいものではない。しかし、中国人は他の多くの素質とともに、受難や苦難に耐え忍ぶたぐいまれな才能をもっている。そして、正義が最後には勝利するはずだ。ともかく私は、彼らと運命を共にすることをいつでも喜びとしよう。(P348)



ジョージ・A・フィッチ『中国での八十年』より


ワシントンヘニュースを連ぶ 一九三八年(第一一章)

 二月二十五日、ドイツの旅客機グナイゼナウが香港へ向け離陸した。私は同機の予約ができていた。香港からは、私が合衆国およびワシントンヘ最もはやく着ける、パン・アメリカンの「クリッパー(大型旅客機)」に乗れることになっていた。

 同乗者にはジョン・フォースター・ダレス、カルダー・マ−シャル(イギリス総商会の会長、一時外国人YMCAの会長)、編集者のランドール・グールド、中国赤十字会長のF・C・顔博士らがおり、彼らはみな三日間の旅をたいへん楽しいものにしてくれた。

 私の旧友のジム・ヘンリーが会いたいと無線連絡をくれ、到着するとわれわれはすぐに列車で広東へ向かった。

 広州では、広東省政府主席の呉鉄城将軍(私のもうひとりの旧友であった)が、私のためにレセプションを市のホールに設定してくれていた。

 そこで私は、南京の陥落と占領について話すように求められる。ホールは満員だった。

 三月八日、私は「フィリピン・クリッパー」に乗り、私にとっては初めての太平洋越えの飛行に旅立った。それはパン・アメリカン航空の初期の定期飛行の一つだった。同機の最大乗客収容人員は一八名で、われわれはちょうど一八名だった。(P348-P349)

 グアム、ウェークそしてミッドウェー島にはパンナム専属のゲスト・ハウスがあり、そこにはアメリカ人のマネージャーがいて、彼の妻がホステスとして接待してくれていた。そして、食事時には四人編成のバンドが演奏をしてくれた。もしもテニスや水泳、釣りを楽しみたければ、それもできた。

 われわれは首尾よく日没前に着陸し、翌日の夜明けに、飛行機が整備・点検され、燃料が補給されてのち離陸した。飛行中、もし望めば旅客係がタイプライターを持ってきてくれたし、ブリッジ・ゲームもセットしてくれた。それはすべて快適だった。

 ミッドウェーでは何万というアホウドリの巣がほとんど全島をおおい、それぞれに柔毛のはえた雛鳥がいるのを見た。さらに、成鳥の奇妙なダンスが見物できたのは、もっと驚きだった。

 ホノルルではわれわれが到着した晩は、ある中国人グループと夕食を共にし、翌朝の朝食は海軍の中庭で一五〇人と一緒にとった。それから長い夜間飛行をつづけてサンフランシスコに到着した。

 サンフランシスコでは、中国総領事と私の姪と会い、それから中国人の友人と一緒に、とびきり美味い昼食を食べにチャイナタウンヘ連れていかれた。私は妻と息子に会うために、ロスアンゼルスとパサディナヘ行きたくてしかたがなかったが、それはその翌日に実現した。

 私には二、三の講演会が用意されていた。そのひとつで、私のフィルムを見せたところ、かなりセンセーションを引き起こし、聴衆の何人かに気分が悪くなった者がでた。

 私はまた、『ロスアンゼルス・タイムズ』 のノーマン・チャンドラーやオーエン・ラティモア、P・C・チャン、その他から多くのインタビューを受けた。

 (四月−訳者)十八日、私の主要な訪問先であるワシントンに着く。ここで、国務省次官のスタンレー・ホーンベック博士(博士とは中国で知合いになった)のコスモス・クラブの客となり、多くの要人に会う機会を与えられた。それは、ヘンリー・L・スティムソン大佐、ジュリアン・アーノルド、ジョージ・ソコルスキー、赤十字職員、王正廷大使らであった。

 私はさらに下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者やその他に、持参のフィルムを見せた。それらは四日間に詰め込むには多すぎたが、講演旅行(それは中国に戻るまで続けられた)に出発するために、二十二日までにニューヨークに着いていなければならなかった。

 私はフィルムを稀にしか使わなかった。というのは、私の友人の何人かが、フィルムはあまりにもおぞましすぎて、ときには聴衆を気分悪くさせると考えたからだ。(P349-P350)

 六月の末、モンタナ州のビリングズの日程を終えた後、私の娘のマリオンと彼女の夫がアルバニーで待っていてくれ、ジョージ湖のシルバー湾まで車で送ってくれた。そこで私は、私の妻と彼女の家族のいろいろな人たちと素晴らしい二週間を過ごし、またYMCA活動家会議にも参加した。

 再び西海岸に戻って、サンフランシスコの連邦クラブの集会で演説をした。その集会が終わった後、ひとりの日本紳士(同会場にいた唯一の日本人)が近づいてきて、私の南京残虐事件の話は本当ではない、と言った。

 彼は、私がしゃべったことの或る部分を撤回するように求め、そうすることが私のために最善であり、もしそうしなければ私の演説を東京に報告しなければならない、と脅した。


 私は彼に対して、私は多くの日本人の友人をもっており、ほとんどの日本人は私が話したような行為はできないことを知っている。「しかし」と私は言って、「不幸なことに私が話したことはすべて事実であるから、なにも撤回することはできない」と述べた。

 彼は明らかに彼の威嚇を実行し、彼の報告は東京の外務省にある私に関する書類の一式に加えられた。それ以後、長い年月にわたり、日本の友人に宛てた私の手紙や、彼らから私への手紙は、決して配達されなくなった。

 一方、連邦クラブ理事長のスチュワート・ワードは数日後に手紙をくれ、「あなたの講演は、われわれがこれまで聞いたなかで、最も印象的な話のひとつであると考えます。それは、国際的な重大性をもった恐るべき事実についてであり、恐怖と悲劇が極限のかたちで現れた話である。しかも抑制の効いた語り口によって、それはいっそう現実的でした」と書いている。

 まったく異例な経験といえば、サン・ガブリエルでのアメリカン・リージョン(American Legion)(右翼団体−訳者)の集会において、私が講演を始めてまもなくだった。話の途中で、私の心は空白になってしまったのである。私は自分がどこにいるかも、次に何をしゃべるかも思い出せなかった。

 幸い、私はフィルムを持ってきていることを思い出し、それをスクリーンに写せば、話すことができるようになるだろうと考えた。それはまあまあうまくいったが、最後にはパサディナの私の妻のアパートヘ帰るという問題がおこった。そのとき、義兄弟のトゥカー博士が一緒にいたが、自分の記憶喪失について彼には言いたくなかった。

 そこで、私はすぐにドライブをしたいと思った。もし、私が間違ったドライブをすれば、彼が注意してくれるであろう。彼は何がおこったかも気付かなかったし、そうこうしているうちにわれわれは家に着いた。しかし、全コース中、道路や道路名、たとえばコロラド通りさえも、私には初めてに思えた。私は何か起こったかを妻に知らせないでベッドに入り、翌朝には再びよくなった。(P350-P351)

 後日、まったく同じことが、ニューヨークのスカーズデールの集会で話している最中に起こった。そのときはフィルムを持っていなかったが、まごつきながらも何とかぎこちなく、結びまでもっていった。しかしそのとき、私はおそらく頭を検査してもらう必要があろうと決心した。

 ニューヨークで私は神経科のところへ送られて三日間入院させられ、その間に脳のレントゲン写真を撮ってもらい、ある種のテストを受けた。たいへんホッとしたのは、医者が私の脳には悪いところはなにもなく、神経性疲労にかかっているだけだと報告してくれたことである。

 もちろん、私はきわめて緊張した日々を送ってきたし、南京の日々の恐ろしい記憶が、おそらくなにかそれに関係しているようだった。ともかく、物事をもっと簡単に考えることに決めた。

 中国へ帰るために、十一月十日にロングビーチを発ち、マニラ、イロイロ、セブ経由で香港へ向かうデンマーク貨物船に予約をとった。それでも私にはまだ、いくつかやらなければならない講演があった。そのうちの一つは、ノーベル賞受賞者のアーサー・コンプトンを議長とするシカゴのギルド・ホールにおけるものであり、もう一つは、チャールズ・タフトを議長とする、オハイオ州コロンバスの体育クラブにおけるものだった。

 ローゼヴィレの旅行は、私の必要とする休息と変化を与えてくれた。同号はなんとも昔の船で、太平洋を端から端まで運び続けたコプラ(乾燥したココヤシ)の積荷がかもしだす、いくぶん徽のはえたような臭いがしみ込んでいた。しかし、一一人の同船者は気心が合うことが分かったし、船の乗組員はこれ以上望めないほど親切で思いやりがあった。さらに、海がそれ以上に穏やかであった。(P351)

*本書三五四ページのティンパレーの手紙には、彼は二月四日にはすでに上海でマギーのフィルムを見たとあるので、フィッチは一月末の第一回の上海行の時にフィルムを持ち出したと思われる。ここはフィッチの記憶違いであろう。


(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」所収)




※フィッチの講演内容については、下記「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」記事を参照。

《サウスチャイナ・モーニング・ポスト》一九三八年三月十六日

 ◇アメリカ人目撃者、侵入者の放蕩を語る
  非武装の中国人虐殺さる


 三月初旬、広東の呉鉄城省主席がこじんまりした茶会を主催し、最近南京から戻ったアメリカ人が日本軍の占領の模様 を語った。外国人も数名出席していたが、新聞関係者は一人も招待されていなかった。

 アメリカ人の話を次に要約する。それによると、民間人や非武装の兵士の虐殺、略奪、放火、強姦など、南京で目撃したおぞましい残虐行為が生々しく語られている。

 一九三七年十一月二十八日までは、各国大使館と中国軍司令長官唐生智の間で、南京の安全区に関する交渉が行われていた。その数日後、外国大使館の強い要請に折れて、日本軍は安全区を尊重する協定に調印した。南京市の北西にある、南北二マイル、東西一・五マイルのこの地区から、中国軍・中国政府機関がすべて移動を開始した。

 十二月十日、市内に砲弾が落ち始めた。この日には、唐将軍は安全区からの移動をすべて完了していた。市の南部は激しい砲弾に見舞われたが、安全区には、境界に二〇発の砲弾しか落ちなかったことからみても、日本軍が区を避けて大砲を撃っていたことは明らかである。

 十二月十三日、日本軍が城内に入ってきた。安全区の境界でアメリカ人役員が日本部隊に会い、彼らが所持する地図に安全区の印があるのを確かめた。その役員らが背をむける間もなく、この部隊による安全区への一斉射撃が行われ、二〇名の民間人が死亡した。しかしながら、総体的にみて、入城一日目と二日目は安全区は攻撃の対象からはずされていた。(P530)

 しかし、市の南東部では安全区に避難しなかった多数の民間人が虐殺された。

 南京の防衛軍司令長官は十二月十二日に逃亡した。彼の逃亡が判明するや、防衛軍は急速に統制を失っていった。しかし、退却中の中国兵は、市民に迷惑をかけることも、略奪を働くようなこともなかった。わずかに米屋から当座に必要な食料を持ち出したくらいである。

 兵士のなかには安全区へ逃げ込んだ者もあり、武装を解けば一般市民の扱いを受けることは保証されたので、区の本部に武器・制服を差し出した。
 

難民の死

 下関方面に逃走した中国軍は、真近に日本軍が迫ってきているものと思いこみ、市内のいたるところにトラックや手荷物を放棄していった。乗り棄てられたトラックが燃えだして、すし詰め群衆が多数焼け死んだ。

 日本軍の占領から数日して、用事で下関門の通行許可を貰った安全区の委員は、三フィートの厚さに積まれた死体の上を車で通ることを余儀なくされた。ほかに門を出る手だてはなかったのである。

 門にさしかかると、炎上中のトラックが出口を一部ふさぐように立往生していた。

 逃げようとした難民には焼死した者もおり、混雑のなかで窒息する者はさらに多かった。あるいは、城壁をよじ登り、飛び越えようとして殺された者もいた。また、ジャンク船には折り重なるように群衆が乗り込み、その重みで沈む船もでた。
 
 川を下る者はもっと多かったが、下流からきた日本軍に見つかり、機関銃で掃討されてしまった。

 川沿いにある中華工業国外貿易協会の建物の下手には、このように死んでいった人たちの遺体が二万五千体も見うけられた。これとは別に、統制のよくとれた一部隊が北に進んで日本軍と衝突して殲滅された、と唯一の生き残りであみ男が話してくれた。

 十二月十四日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げこんだ六千人の元中国兵−彼の情報ではそのようになっている−の身分と居場所を教えるよう要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国軍の制服の山を見つけだし、近辺の者、一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。

 安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないと言われたので、今度は日本大使館に抗議に行った。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は一三〇〇人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。

 彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の川岸で処刑された。(P532-P533)

 日本軍入城の四日目、さらに千人が安全区から拉致されて虐殺された。そのなかには、市が以前、安全区に配属した警官四五〇名のうち五〇名が含まれていた。強い抗議がなされたが、日本大使館そのものが軍隊の前では無力であった。

 髪の毛が短いとか、船こぎや人力車引きが仕事のため手にたこがあるとか、ほかに力仕事をした形跡がある者は、身分を証明するこのような傷によって、死ぬ保証を得ることになった。


 痛ましい光景

 日本の捜索部隊によって、安全区のこれらの男たちが妻から引き裂かれる光景は痛ましかった。キャンプでは、夫や息子(すべて民間人)を連れ去られた婦人は千人にのぽった。

 とくに卑劣な例が金陵大学で起こった。そこには三万人の難民が避難する安全区キャンプがあった。占領から二週間たった日、日本軍がやってきて、そこに寝起きする中国人の名前を登録することになった。

 元兵士は名前を登録してはいけない、と三回繰り返し通告があった。もしこの命令に反して登録をすると、発覚次第に射殺する。が、この命令に従って登録を思いとどまり、列から一歩前に出るなら、命は助けてやる。以前に中国軍に雇われて働いた経験のある者にも同じことが言える。

 こうした命令、おどかし、命令に従った者には助命の約束を何度もはっきりと繰り返した。そして合計二四〇名が列から一歩前進した。彼らは縄につながれて連れ出され、その晩に処刑された。

 このような大量殺戮が、無雑作に、しばしば行われた。一人の男が目を焼かれ、安全区に戻ってきた。乗っていた車が焼け落ち、男の頭は黒こげであった。彼は連れ去られた一団の一人で、ガソリンを浴びせかけられて火をつけられたのだそうだ。初めに機関銃で撃たれたかとの質問には、覚えがないと答えた。

 ところが、やっとのことで病院に辿り着いたもう一人の負傷者は、ひどい火傷を負い、あごを弾丸が貫通していた。這いずって戻った別の一人には銃剣の傷痕が五ヵ所あった。火傷がひどく黒こげの別の負傷者は、長い距離を這いずってきて、路上で息絶えていた。

 処刑者の遺体を焼くのは、日本軍の常套手段である。よって、この事実に示されるような、火傷を負った生存者は、奇跡としか思いようがない。


 略奪と放火

 十二月十九日、商店への放火が大々的に始まった。略奪品はトラックに積まれ、がらんどうの店に火がつけられた。周囲の建物はひとつもやられなかっただけに、YMCAビルの焼失は計画的であった。

 クリスマス・イブかあるいはクリスマスの当日であったか、南京にとどまった外国人二二名のうちの一四名が一団となって日本大使館に行き、YMCAの焼き打ちを抗議したところ、大使館側は、兵士は手に余ると弁明した。が、なにはともあれ、日本の部隊が上官の指揮に従い、略奪、放火を組織的に行っているのを代表団が目撃したと、大使館に通告することはできた。(P532-P533)

 こういった情況が一ヵ月続いた。商店の八割、住民の五割が略奪され、焼き払われた。

 公共の建物は交通部を除いて難を逃れた。日本軍の一連の行動とは対照的に、公共建物に手をつけなかったことを考えるならば、どうして交通部が焼かれたのか、また、誰がやったのか納得のいく答えは見つからない。交通部は特別の理由があって、退却した中国軍に破壊された可能性もある。

 一月六日、アメリカ大使館員が南京に戻り、安全区委員会はこれから正規の手続きで抗議できるようになった。

 これより以前には、外国人には日本語で書かれた財産保全のポスターが日本大使館から配布され、他の言語で書かれたポスターといっしょに貼ったのだが、荒れ狂った部隊には、その日本語でさえ効果がなかった。アメリカの星条旗を引き裂いたり、切り刻んだり、燃やしたりの事件は一四件にものぽる。外国人財産の略奪は三週間に及んだ。

 一月九日、イギリスの砲艦ビー号から、イギリス、ドイツの両領事が上陸を許可された。彼らは一月六日に到着していたが、アメリカ大使館だけが再開を許可されていた。


 婦人の強姦

 占領三日目の十二月十五日明け方から、強姦は目立ってきた。安全区委員会の抗請文と事件のリストが日本大使館に提出された。

 その日、海軍士官がパナイ号沈没の報を携えてきて、同時に南京にいるアメリカ人全員を上海に送ると申し出た。しかし、安全区を管理する委員が、自分だけがこの恩恵を受けるのは気が進まないとみるや、士官の表情には失望がありありと浮かんだ。

 しかし、新聞記者二名が同行することになり、障害物になっている死体の上を通り、下関門を出て日本の駆逐艦のところに連れて行かれた。途中、国防部の前にいる銃殺部隊をやり過ごした。

 それからは、勢いを増してきた強姦事件の抗議提出のため、日本大使館に通うのが日課となった。大使館側は、秩序はいずれ回復する、といつも委員たちに請け合ったけれど、外交官が無力なことはわかりきっていた。

 「誰も上官の命令に従わないんだ」。なんのてらいもなく一人が言った。日本の軍隊は直属の指揮官の権限をもってしても、取り締まることはできなかった。

 二ヵ月の間、昼も夜も残虐行為は続いた。初めの二週間がとくに多く、その数が多少とも減ったのは、現地に最初に到着した五万人の無軌道な部隊が、新しい一万五千人の部隊と入れかわったときぐらいであった。(P533-P534)

 占領三日目からは、日に千件の割で強姦事件が起きた。幾度も強姦されたあげく、殺された婦人も多く、それも残忍な手口のものがしばしばであった。被害者の年齢は一〇歳から七〇歳と様々であった。

 金陵女子文理学院は難民の避難所となり、当初は女性千人を収容していた。これは日本兵の宿舎からは最も離れた、安全区の西にあって、夜は、国際委員会のメンバーが入口で眠り、日本軍の強制侵入を防いでいた。

 酒の入っていない日本兵は、特別勇猛な兵士でもなさそうだった。押し入ろうとして委員会のメンバーに見つかり、「カイレ(出て行け)!」「ハヤーク(さっさとしろ)!」と大声をあげられると、みなきまって立ち去って行った。

 ところが、銃剣の刃先で暴行に夢中になっている酔っ払い兵が相手のときは、ことはそう簡単にいかなかった。日本軍の上官の管理の仕方も不思議と変わっていた。

 あるとき、日本兵が建物を壊して中に押し入り、暴行を働いているところに安全区委員会のメンバーが出くわした。すると、たまたま日本軍の連隊長も通りかかったので抗議すると、この上官は一人の兵士に平手打ちを喰らわして、アメリカ人が部下をぶったかどうか荒っぽく尋ねた。ぶたないと答えるや、道隊長は、そこにいた兵士たちをぶって、さらに続けてむこうずねを蹴とばした。

 似かよった事件としては、日本兵が民間人の家に押し入っているのを、安全区委員会のメンバーと日本軍の将校の一人が同時に見咎めて、後者が違法行為に注意をむけたのだが、彼は兵隊たちに出ていくように頼んでていねいに頭を下げると、兵隊たちはお辞儀を返して立ち去って行った。すると将校は、立ち去る兵隊の背に向かって、頭を下げて見送ったのである。


 奇妙なポスター

 二月に、日本当局は中国人を安心させようとするポスターをもち出した。それは子どもを抱いたキリストの両脇で、男と女が祈っているキリスト教徒のポスターを模写したものであった。

 キリストのかわりに日本兵がおさまり、中国人の子どもが抱かれて、パン、塩、砂糖の包みをぶらさげている。左側の中国人の父親は首を垂れて感謝し、右にいる母親は米櫃のかたわらに脆いている。下には「日本兵を信じなさい。皆さんを守ります。」と書かれていた。

 このころには、駐屯部隊は一万五千名から六千名へと大幅に滅少した。この新規の縮小部隊と松井大将の入城によって、なんらかの秩序が回復した。明らかに罪となる行動や、野卑でサディスティックな傾向のある兵士が高率を占める部隊に対して、当局のとりうる方策は、兵士の数を減らす以外になかった。(P534-P535)

 その機をとらえて、安心感を与える政策やポスターの時期が熟した、と日本当局は最終判断をしたと伝えられる。恐怖の九週間が過ぎた二月の十七日、それまで路上に出るのをはばかっていた人力車一四台が、初めて街頭に現れた。

 安全区で行われた日本軍の残虐行為にもかかわらず、安全区の保持はそれなりに意義があった。残留の中国市民の安全確保にある程度は役に立った

 金陵女子文理学院では、アメリカ人の安全区委員が門で見張りをし、中にいた三千人の女子を虐待から守った。安全区域内にある二五のキャンプは、泥とはぎ板でつくった小屋や家であったが、七万人が分散して寝起きしていた。

 南京を撤収するにあたり、市政府は安全区の難民に、三万袋の米を送る決議をした。また、日本軍が入城してくる前に、米一万袋、小麦一千袋が引き渡され、これらが二ヵ月の間に、難民の命をつないだのである。

 日本軍の占領で、一三万袋の米を保有する食料品店はことごとく閉鎖された。日本軍は石炭も封鎖し二千トンの石炭の山を燃やしてみせさえした。安全区では石炭の使用は許可されなかった。(以下略)(P535)

(2012.4.22) 


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