今井正剛『南京城内の大量殺人』より


「目撃者が語る日中戦争」所収

*元東京朝日新聞記者

見当らぬ民衆

 こうして準備された南京入城式は、なるほど豪華荘厳であったにはちがいないが、奇妙なことにこの"大絵巻″を見物するものといえば、兵隊と同じようなカーキ色の従軍服をきた新聞記者の他は、 一般民衆と名のつくものは唯一人いなかったことである。(P50)

 つまり入城式の沿道は、堵列の兵隊のほかは、ネコの子一匹たりとも通行を許さなかったからである。軍司令官閣下に、あるいは畏くも宮殿下のお通りに、万が一にも無礼なことをするフティの輩がいては一大事、 という考えの方が強かったのにちがいない。敵国民の憎悪の瞳をあびることは、皇軍の汚れであるとも思ったのかもしれぬ。

 歩武堂々たる閲兵の行列の両側に堵列した、部下の将兵の捧げ銃と頭右いの声の中を静かに進んでいった。 そしてそれをとりまくものはうちくだかれた瓦礫と死の空虚とがあるばかりだったのだ。(P50-P51)

 こういう入城式を挙行するために、二、三日前から南京城内に敵の一兵たりとも残存するを許さず、という軍令が入城部隊に厳達されていた。敗残兵が軍服をぬぎ捨てて便衣に着かえ、市内にかくれひそんでいるかもしれぬ。 徹底的にこれを調べあげて掃蕩すべし、というので、南京突入の十三日夜から、十四、十五日の両日は殊にこの〝残敵掃蕩〟が苛烈であった。

 十四日の日は、兵隊さん達も入城したばかりだったから、国民政府だとか、軍官学校だとか、市内の要所要所を経回っては万歳を唱えて歩くのに忙しかったが、十五日は、 いよいよ入城式を明後日にひかえて行動は掃蕩に集中された。南京大虐殺事件というのは、この十五日の夕刻から深夜にかけて行われたのである

 中山門を入ったばかりの所へ臨時支局を開設していたわれわれは、十五日になって市内もどうやら危険はなくなったというので、朝から三々五々見物に出て行った。

 国民政府の大きな門を入って、大礼堂へ行く渡り廊下のまん中辺の屋根がポッカリと大きく空いていた。爆弾のあとである。だが大礼堂は屋根瓦もこわれずに、うららかな冬の陽をあびていた。

「わが海鷲の爆撃で、ここは跡形もなくフッ飛んでいる筈だがな。オレはそんな記事を書いたぞ」

などといいながら歩きまわった上、戦前の朝日通信局のあった大方巷のあたりへ足をふみ入れたとたん、われわれは眼をみはっておどろいた。 メインストリートでは人ッ子一人見かけなかったのに、何とこのあたりは中国人でいっぱいなのだ。(P51)

 老人や女子供ばかりではあるが、どの家の窓からも、不安そうにおびえた瞳が鈴なりになっている。この地区一帯が、難民の集中区になっているのだろう。幾日かぶりでみる民衆の顔である。 社会部記者の興味がモクモクと頭をもたげてきた。(P51-P52)

 とある大きな洋風の家に二、三人の男がいるのをみかけてたずねてみた。

「この辺に兵隊はいるか」
「いない」
「ここは誰のいた家だ」
「唐先生」
「……? 唐生智か」
「そうだ」

唐 生智といえば、南京死守の部隊を指揮していた南京警備司令である。

「唐将軍はいつまでここにいた」
「十一日」
「陥落の二日前までだな」

 そこへ、ドヤドヤと銃剣の兵士が入って来た。

「記者さん、こいつら兵隊ですか」
「そうじやないらしい。ボーイか何かだろう」
「何だかわかるもんか、オイ帽子とってみろ」

 いきなり一人の兵士がその男の毛糸の帽子をひったくつた。額が白ければ兵隊、と断定するわけだ。

「フン、白くないな。まあいいや。こっちへ来い」

 兵隊はその男の肩をこづいた。(P52)

「そりや兵隊とちがうぜ」

「便衣隊がごっそり街へかくれてるってんでね。男は一応連れてゆくんです」


 銃剣の兵士たちはその男をつれて、又ドヤドヤと出て行った。(P53)

 


虐殺を眺める女子供

 以前の支局へ入ってゆくと、ここも二、三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。

 「おう無事だったか」

 二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持ちの昼寝だった。

 「先生、大変です、来て下さい」

 血相を変えたアマにたたき起こされた。

 話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。 まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。

 アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。 中村正吾特派員と私はあわてふためいて飛び出した。(P53)

 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四、五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。 その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二、三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。 ウーンと断末魔のうめき声が夕陽の丘いっばいにひぴき渡る。次、また六人である。(P53-P54)

 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみこんだ四、五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。

  そのまわりをいっばいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。 悲鳴や号泣もあげていただろう。

 しかし、私の耳には何もきこえなかった。パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳いっばいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだった。

 傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていった。

 「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」

 硬直した軍曹の顔は私をにらみつけた。

 「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
 「どいつだかわかりますか」
 「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」

 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。群集の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳くらいの青年が飛び出して来た。

 「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」(P54)

 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群集を解き放したのだろう。 私たちの外套のすそにすがって、群集が殺到した。

 「まだやりますか。向こうを見たまえ、女たちがいっばい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」

 私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。

 大量殺人の現場に立ち、二人の男の命を救ったにもかかわらず、私の頭の中には何の感慨も湧いて来なかった。これも戦場の行きずりにふと眼にとまった兵士の行動の一コマにすぎないのか。 いうならば、私自身さえもが異常心理にとらわれていたのだ。(P55)

 


 
屠所にひかれる葬送の列

 電灯のない、陥落の首都に暗い夜がきた。かき集めてきたランプの灯影で、さすがに夕方のあの事件を、私たちはボソボソと語り合っていた。ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、 ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。しかもそれが、いつまでもいつまでも続いている。数百人、数千人の足おと。その間にまじって、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。(P55)

 外套をひっかぶって、霜凍る街路へ飛び出した。ながいながい列だ。どこから集めて来たのだろうか、果てしない中国人の列である。屠所へひかれてゆく、葬送の列であることはひと眼でわかった。(P55-P56)

「どこだろうか」
「下関(シャアカン)だよ。揚子江の碼頭だ」
「行って見よう」

 とって返して外套の下にジャケツを着込むと、私たちは後を追った。

 まっくらな街路をひた走りに走った。江海関の建物が、黒々として夜空を截っている。下関桟橋である。

「たれかっ」

 くらやみの中から銃剣がすっとにぶい光を放って出て釆た。

「朝日新開」
「どこへ行きますか」
「河っぶちだ」
「いけません。他の道を通って下さい」
「だって他の道はないじゃないか」
「明日の朝にして下さい」
「今ここを大ぜい支那人が通ったろう」
「―」
「どこへ行った」
「自分は知らない」
「向う岸へ渡すのか、この夜半に」

 拍子抜けのしたように、ボンボン蒸気の音が遠くから伝わってきた。(P56)

「船が動いてるね」
「そうらしい。部隊が動いてるのかな」

 気をゆるめたらしい歩哨が、足をゆるめて話しかけて釆た。

「吸わないか、一本」

 キャメルをポケットから出した。

「はあ、でも立哨中ですから」

 人のよさそうなその兵が、差し出した煙草を受けとってポケットへ入れようとしたとたんだった。足もとを、たたきつけるように、機関銃の連射音が起こって来た。

 わーんという潮騒の音がつづくと、またひとしきり逆の方向から機関銃の掃射だ。

「―」
「やってるな」
「やってる? あの支那人たちをか」
「はあ、そうだろうと思います。敗残兵ですから。一ペんに始末しきれんですよ」
「行くぞ」
「いけません。記者さん。あぶない。跳弾が釆ます」

 事実、花火のようにバッバッと建物の蔭が光り、時々ピーンと音がして、トタン板にはね返る銃弾の音が耳をはじいていた。

 何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった。揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、 少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。(P57)

「うっ、寒い」

 私たちは、近くから木ぎれを集めてきて焚火をした。

「さっき、支局のそばでやってるとき、自動車が一台そばを通ったねえ」

 中村君がそういった。

「毛唐が乗ってたぜ」
「あれは中国紅卍(まんじ)会だろうと思うな。このニュースはジュネーブへつつ抜けになるな」
「書きたいなあ」
「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」
「いや、もう一度見ようや。この目で」

 そういって二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が断えていたからだ。(P58)

  


 
 消えた二万人

 河岸へ出た。にぶい味噌汁いろの揚子江はまだべったりと黒い帯のように流れ、水面を這うように乳色の朝霧がただようていた。もうすぐ朝が来る。

 とみれば、碼頭一面はまっ黒く折り重なった屍体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、五十人、百人ばかり、ずるずるとその屍体をひきずっては河の中へ投げ込んでいる。

 うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パントマイムのような静寂。対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥棒のように碼頭一面がにぶく光っている。血だ。(P58)

 やがて、作業を終えた〝苦力たち″が河岸へ一列にならばされた。だだだっと機関銃の音。のけぞり、ひっくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちていった。終りだ。(P58-P59)

 下流寄りにゆらゆらと揺れていたボンボン船の上から、水面めがけて機銃弾が走った。幾条かのしぶきの列があがって、消えた。

「約二万名ぐらい」

 と、ある将校はいった。

 その多くはおそらく左右両方から集中する機銃弾の雨の中を、どよめきよろめいて、凍る霜夜の揚子江に落ちて行っただろう。その水面にまで機銃弾はふりそそいだが、さらに幾人かは何かにつかまり、 這いあがって、あるいは助かったかもしれない。しかしこれは完全な殲滅掃蕩である。

 南京入城式は、こうして大掃除された舞台で展開された。そして私はあの予定原稿を書きなぐった。みんな同じ日の出来事だ。異常心理にちがいない。

 勝ち戦の軍隊が行った行為だとは考えられぬ気が私はする。何か追いつめられた者の、やけくその大暴れだったのではあるまいか。事実、上海市街戦いらい、大場鎮の攻撃から南京攻略戦にいたるまで、 あまりにも勇猛果敢な中国軍の抗戦ぶりであった。

 何の支那兵とみくびっていたのが、こんな筈じゃなかった、恐ろしい敵だ、という恐怖に変わって、その恐怖が全軍を支配していたのだ。そして、さあこれで勝った、と解放された緊張が、恥も外聞もかまう余裕もなしに、あの恐ろしい殺戮行為となって現われたと私は考えている。でなければ、あの異常心理の持って行きようがない。

「記者さん、あたりなさい」

 機関銃をかまえていた兵士が、そこらから板ぎれを集めて火をつけた。共通の秘密を持つ者の親しさだ。くすぶる板きれの霜がとけて、ジュウジュウと鳴っていた。

(特集・文藝春秋/S・31・12)(P59)
 

(2008.8.18)


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