新聞記事より


「大阪朝日新聞」 1937.12.16付夕刊

廃都南京・頑敵の面影

四ヶ月振りととびつく阿媽たち 本社通信局に感激の社旗

【南京にて 橋本・山本両特派員 十五日発

(リード)
南京占領後市内の北部はなほ残敵を掃蕩中にてバンバンとかすかな銃声を聞くうちにわれわれは中山路を一路新街口に進み、さらに中山北路の方に向ひ、その一帯を観察した

(本文)

故宮飛行場を前にする励志社とこれに隣接する中央医院などは戦前のままに残つて防空のため灰色に塗つてあつたとの噂を裏切つてゐる、 この中山路より一路坦々たる道路を北に進むこと三町、冨貴山砲台下の中央軍官学校も一見もとのままに残つてゐる、

わが軍が南京攻略に際して武士道的見地から城内各重要建物を砲撃せず、なるべく保存するといふ建前はここに完全に成功してゐるのを見ることが出来る、

中山路を進んで泰淮河にかかる、逸仙橋を渡つて行くと右側の中国仏教協会とその隣側の敵の拠点となつてゐた小学校にはわが爆弾が命中してゐる、

その辺りから中山路の南側にはすべて交通壕を掘り完全な陣地になつて敵は市街戦の準備をしてゐたのだ、

右手に延びる南京の繁華街華牌楼一帯はその面影もなく各商店とも密閉されて「死の街」となつてゐる

新街巷一帯は防空壕が堅固に造られてゐる、中山路を北進すると高楼には赤十字の旗が立つてゐる、 空高く日章旗の上がるわが大使館の鉄塔に駆けあつて見ると鉄門中には「岡本(保)部隊十三日午後五時日章旗を掲ぐ」と大書されてゐる、

大使館の庭も結構な芝生が枯草となりテニス・コートもそのままだ、

大使館には「国民政府」の封印が厳重に貼られてあるが大使官邸には封印はないので内部をのぞいてみると応接間などもありのままで損じてゐる模様もない、

支那軍も退却に際してはかなり軍規を厳正にした様子だが、車庫にあつた大使館の自動車や本社通信局の預けた自動車は跡かたもない、支那軍が何れかへ徴発してしまったのであらう

正門前から見ると相も変らず紫金山が毅然と聳え立つて大南京城を見下してゐるのだ、鼓楼から外交部に進んで行くと「万国赤十字部」の看板が上り、南京政府外交部の門札と取替へられてゐる、 ■歩光といふ人が主となつて約千人の患者を収容治療してゐたが大部分は抗日戦に負傷した支那兵らしい、

懐しい本社通信局のある大方巷に足を入れる、この方面一帯は外人側、支那側が一方的に設定した避難地区で十万の市民が残つてゐるといはれてゐる

取敢へず通信局に行くとそこには数千名の避難民がうようよとしてゐるが

俄かに飛び出してきたのはそれは思ひがけなく数年にわたつて使用してゐた阿媽とボーイであつた、彼らは懐しさの余り我々に飛びつくのであつた、

社旗は我我が引揚げた八月十五日来、約四ヶ月ぶりに再び敵都南京に掲げられたのだ、

酷熱の中に南京を引揚げた当時が彷彿と思ひ出されて感慨なき能はざるものがあつた

(二面、五段見出し)


「東京朝日新聞」 1937.12.16付


死都を襲つた無気味な静寂

一番恐かつた大砲! この目で見た南京最後の日


タイムズ記者ら語る


【南京にて中村特派員十五日】死んだ首都南京は十四日朝来中山路方面からいぶきを回復して来た、丁度瀕死の病人の顔色が刻一刻と紅潮して行くやうな鮮やかな活気の活動だ、 中山路の本社臨時支局にゐても、 もう銃声も砲声も聞えない、十四日午前表道路を走る自動車の警笛、 車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るやうな錯覚を起す、住民は一人も居ないと聞いた南京市内には数十万の避難民が残留する、 こゝにも南京が息を吹返して居る、兵隊さん達が朗かに話し合つて往き過ぎる

南京目抜きの大通中山路と中正角新街口で北から真直ぐに走つて来たアメリカの国旗を掲げた自動車が記者の姿を見付けてばつたり停まつた 、中からアメリカ人二名が走つて来た 『日本の新聞記者君だらう、僕はニユーヨーク・タイムスの特派員、この男はパラマウントのカメラマンだ』

早急に紹介しながら記者の手をぐつと握つた 『アサヒ』といふと『おゝ、アサヒか』と喜ぶ、 大きい方がカメラマンでパラマウントのアーサー・メンケン君、 背の低い方がニユーヨーク・タイムスのテールマン・ダーリン君

『南京最後の日はどうだ』と聞く 『いやどうも恐ろしかつたね』と両君は次のやうに語る

南京市内の水道が切れたのは九日だ、電気が切れたのは十日だ この頃から南京城外の砲声と銃声は紫金山に谺して物凄く激しくなり同時に市内の中央軍の兵士の往来が神経的になつて来た、

城内の市民は九日には続々新しく造られた国際救済会の避難区に避難して行くのだ

僕等は南京陥落が愈近くなつた事を直感した、蒋介石はいつ南京から逃げて行つたかははつきり判らないが五六日頃まで軍官学校に頑張つて居たんぢやないかと思ふ、日本軍の爆撃と砲撃に危なくて外へ出られないくらい、 十一日から支那軍はドンドン退却を始めた、市中を通らずに城壁を伝はつて下関に向つて行く全く悲壮な退却行軍だつたよ

多分下関から船を利用して揚子江の対岸に落ちのびて行つたのだらう、この支那兵の退却は十二日になると少くなつた、主な部隊は十一日頃迄に逃げたのだらう

十二日には城外の激戦の音が稍衰へて日本軍の砲声が激しく紫金山天文台や富貴山にドンドン落下し一時は凄い唸りを立てゝ僕等の頭上をかすめ南京の北方にどかんどかんと落ちて行つた

一番怖いのは何といつても大砲だわ、支那軍は日本の大砲に随分悩まされてゐたやうですよ、十二日は市中の警備に当る少数部隊の支那兵を残すのみで街はそれこそ本当に死の街となつて無気味な静寂さだつた、 僕等もその時には南京ももう駄目だと思つた、世界の悲劇を見るやうな気持で何ともいへない悲愴な感じだつた


と感慨に耽る、

記者等の姿を認めて又自動車が止まる、現れて来るのは何れも南京の最後を見届けやうと一月も二月も頑張つてゐたA.・Pやシカゴ・トリビューンの特派員達だ、 APのマクダニエル君が四辻を見回し「やあ之は歴史的な新聞記者室だ」と朗かに語つた

(十一面トップ 五段見出し)



「東京日日新聞」 1937.12.16付

外人記者連、口々に 日本軍隊を礼賛 「第一チツプを取らない」


【南京にて十五日 浅海特派員発

十四日早くも米国の新聞記者三名が外人記者として南京一番乗りをした、 この日午過ぎ米国国旗を翻して二台の自動車でシカゴデーリーニュース記者ステイール、AP通信のマツク=ダニエル、ロイテル通信のスミスの三君が来た、 以下記者(浅海特派員)との問答である

「君達が東日、大毎の記者だつて? 余り服装が物々しいので軍人かと思つた」

「何時やつて来たのだ」

たつた今来たばかりだ、 僕等は三四年前から南京特派員としてここに住んでゐたんだが五週間前に上海に避難したんだ 日本軍が入城するといふので矢も盾もたまらず飛ばして来たんだ」

「何故避難したんだ」

「南京も最初は秩序整然としてゐたんで安心してゐたが、日本軍が南京追撃の形をとつてから急激に物騒になつたんだ、それに第一僕等のニュースソースたる支那人がさつぱり姿を見せぬといふわけだから上海落ちしたんだ 、こゝにゐたつて仕事にならんからね」

「日本軍の南京入城をどう思ふか」

「勿論僕等は大歓迎だ、これで秩序が保持されるからね

敗北の支那軍がゐた頃は実際不安至極だつたよ、日本軍のスピードは世界一だ、僕等は八ヶ月はかゝると見たが追撃戦に移つてからたつた一ヶ月、実に感服したよ、上海から陸路自動車で三ヶ月かゝつたよ」

「さうすると日本軍の真ッ只中を通つて来たわけだね、恐ろしくなかつたかね」

「日本軍の規律を信じてゐるよ、兵士諸君はみな星条旗に好意を持つてくれるからね、途中途が悪くて車が動かぬと多数で押してくれたよ、チツプを出しても絶対に取らんね、支那兵と雲泥の差だ、 三人とも今ぢやすつかり日本贔屓さ、戦場で受ける好意くらゐ嬉しいものはないよ」

「南京に来てどう思ふ」

「まだほんの入口だけで、よく見ないが案外壊れてゐないね、中山路なんか一発も弾を食つてゐないところ感心だ、サムラヒのイデオロギーの発露だな、城壁の爆撃と砲撃は物すごい、 抵抗線だけは徹底的にやるといふ式なんだね」

「これからどうするんだ」

「早速ニュースを送るだけだ、うんと日本軍の正義を宣伝するつもりだ、期待してくれたまへ」

*「ゆう」注 内容がデタラメ。本当にインタビューしたのか?


「東京朝日新聞」 1937.12.17付

南京陥落従軍座談会



今井 僕は南京を敗残兵の中に立ちながら見出したのだ、上方鎮から東村站を経て泰淮河へ抜ける道を僕達は自動車を走らせてゐた、 丁度この間六キロばかりの間が上海よりせめたてた○○部隊左翼と杭州湾上陸部隊右翼の中間にとり残されてゐる帯だつたのだ、

それを突つ切らうとしたのだから東村站附近で敗残兵に包まれてしまつた

もつとも全然抵抗しなかつたし、こちらもビクビクもので持つてゐたピストルを撃たずに済んだのだが、東村站で丁度正午ごろ人ツ子一人通つてゐない街の真中で車を止め、さてどうしようかな、と考へてゐるところへ、 街の裏の壕の中からヒヨツコリ顔を出したのが敵の正規兵だ、また一人、また一人

さすがに井上映画班氏も熊崎君も、もちろん僕も顔色はなかつたな




守山 皮肉な話を一つ披露しよう、十三日の未明太田部隊が南京城門を乗り越えて真先に軍官学校横の敵砲兵陣地を占領したが、 そこにあつた十五センチの大砲四門はどこ製であつたと思ふか? 「昭和二年大阪工廠」といふマークがついてゐるではないか、驚いたな、しかもここには占領される瞬間まで支那兵が頑張つて居て、 大きな弾丸をボカンボカンとぶつ放してゐるのだ

日本の兵隊さんも呆れてゐたが将校に聞くと昔支那に兵器を売渡したことがあつたさうだ、句容附近でも日本の三八野砲一門を支那陣地から鹵獲した

それからもう一つおやッといふ感にうたれたのは軍官学校の校庭にたつ国民党総理孫文の銅像だ、従軍した清水画伯は『これは拙い銅像だ』といつてゐたが、 裏の銘を読むと『民国十八年日本梅屋庄吉製造』とあるのだ、

この銅像の前で抗日の軍事教練をやつてゐたのかと思ふと感慨無量だつたね

(五面)



「大阪朝日新聞」 1937.12.17付

惨澹!敗敵狼狽の跡

長江突破、浦口へ見参 下関一帯に軍艦旗翻る

【下関にて十六日発 今井・中村両特派員】


保衛首都の最後の一戦にさすがの抵抗を見せた敵の第八十八師が南京包囲の皇軍に撃ちまくられ数万の敗兵雪崩を打つて揚子江の対岸浦口へ逃げようとした下関碼頭に立つ、

十五日今日も南京は麗かに晴れて至るところの街街は日の丸の旗の波だが、 坦々たるアスファルトの中山北路は外交部、民政部、鉄道部などの官庁街一ぱいに踏みにじられた衣類、軍帽、棄て去つた兵器などが洪水の後のやうに氾濫してその敗退振りがいかに物凄かつたかを物語つてゐる、

この敗走兵団を下関碼頭にがつしりと受け止めて、これに殲滅的銃火を浴びせたのは陸軍部隊南京奪取と時を同じうして揚子江を遡航、南京市の背後を衝いた我が海軍○艦隊の精鋭であつた

九日■山砲台にかかつた時は前面の同砲台および三江営砲台と両岸の掩蓋機銃座から撃ちかけて来るのに応酬しつつ海軍航空隊の空爆と相呼応してこれを撃滅し十一日鎮江に到着、 ここで陸軍部隊の激戦の真最中に飛び込みこれと共同作戦をとりつつ山田部隊の対岸渡河を成功せしめたのであつた、

下関は敗走兵が密集して無数の筏とジヤンクは水面を一ぱいに掩ひその数は約五万といはれてゐる、同艦及び後続の各艦は敗走する敵兵に対して徹底的な銃火を浴びせてこれを殲滅し、 対岸浦口を確保する山田部隊の戦闘に協力したのであつた、

敗残兵五万殲滅と同時に追撃下関に殺到してきたわが陸軍部隊が市内完全占領に掲げる万歳の轟き、揚子江から躍り上つて同時に万歳を絶叫する水兵達とここに皇軍陸、 海部隊の南京占領万歳が爆発する歓喜とともに揚げられたのだつた

揚子江上を堂々と圧するわが○○艦ほか○○隻は微風に軍艦旗をなびかせてゐる、 揚子江の濁水を蹴つて○○挺は進む江上に立籠める河霧、南京は今日もまた好天気だがガスが深くこの霧の中に獅子山が見えるのみで今日は紫金山もあの麗容をまだ現はさぬ

十四日わが山田部隊によつて占領されて以来この揚子江を渡り浦口に上陸したのは記者らが最初である、 わが軍の南京総攻撃戦開始以来敵の大軍は幾度かここを通つて潰走して行つたところだ、

浦口の桟橋といふ桟橋はみな敵の手によつて爆破され、あるひは焼却されて一つとして満足なものはない、焼け落ちた鉄道桟橋を板を通して漸く渡り敵が退却の後を見る、 江岸には急設の塹壕がまだ土の香も新しく長く連つてゐる、

その要所要所には荷造りのまま銅線やコールタールの樽や焼け落ちた家屋の木を引張り出して来てこれもまだ造つてまもない掩壕がある、土を被せる暇もなかつたのだらう、 鉄道駅に堆高く積んである石炭殻をその上に掩ひ被せてゐるのだ、

江岸の道路にはまだそこここに中央軍兵士の死体が転つたままだ、

倉庫の壁には『砲八団は浦鎮へ集合』だとか『五十八師は浦鎮で待つてゐる』とか白墨で走り書きしてある、あわただしい退却の一瞬が今眼の前に見えるやうだ

津浦鉄道の浦口駅メインビルデイングは全部灰色に塗り変へられてゐて表玄関口には『寒くなつた、兵士に綿衣を送らう』と書いた宣伝の大きな布がブラ下つてゐる、

プラツトフオームは爆撃を免がれて昔のままの姿であつた

『僕は思ひ出すよ、十年前孫文の遺骸が北京から到着した時、蒋介石ら国民政府のお歴々がヅラリと並んだところで写真を撮らうとしてウツカリ孫文の遺骸に尻を向けた時怒鳴られてネ、あれ以来二度目だ』 と同行の本社カメラマン井上君が感慨深く話す

構内の駅長室にはピラミツド型に造つた素晴らしい土のトーチカがあつた、これは同時に防空壕でもあつたのだ

鉄兜や防毒マスクや軍服、食器類が一ぱいに散乱した駅長室を通り抜けトーチカに入り込む、電線を引張り込み椅子、テーブルなど軍事設備は中々行き届いてゐる、

トーチカの一室から次の部屋に通ずる木の扉を開けたトタン記者らは思はず立ち止まつた、まつ黒なトーチカの中、いま記者らがのぞかうとした部屋でヂヤンヂヤンと警報のベルが鳴り響いてゐるではないか、 敗残兵の温りがサツと不気味に流れて来た、総退却の警報は誰も止める暇がなかつたのだ、

まだヂヤンヂヤン鳴つてゐる警報、浦口陥落刹那の音を後に聞きながら記者らはトーチカを出て浦口に別れを告げたのであつた

(一面下、五段見出し)



「大阪朝日新聞」 1937.12.17付

"捕へられて嬉し"

わが南京大使館に籠城四月 支那人夫婦が語る感激

【下関にて守山特派員十六日発】


日支事変勃発して南京大使館が全員引揚げ以来南京占領まで四月間立派に留守を守り続けた支那人のボーイ長王義和夫婦が十五日外交官の一番乗りとして南京に入つた田中正一領事 に嬉し涙で語る報告は次の通りであつた、

大使館は南京政府の封印を施されたまま殆ど荒されずに保護されてゐたが、その保存をめぐる複雑微妙な南京政府の腹芸は興味深いものがある

去る八月十六日に日高参事官をはじめ大使館の皆様が南京を引揚られたその時は私に鍵を預けられ、留守中の大使館官舎の管理を委されました、

いよいよ戦争がはじまるといふので、ボーイ達はみんな逃げてしまひましたが、私達二人は重光公使がおいでになる時分から十年近くここでお世話になつてゐますので再びみなさんがおいでになるまではどんなことがあつても ここを去らないといふ決心をしました、

外へ出ると漢奸とみられて危いといふので、私達は大使館の傍の日高参事官の官舎にこつそり籠城してゐました、

しかし八月十八日支那の役人が来て私達にこの家を明け渡せといひます、しかし日本から管理を委されてゐるのだから嫌だと頑張りましたが、この家には湖北省の黄紹雄主席が入られるのだから出ろ出ろと、 たうとう私達を追出してしまひました、

やむなく別の官邸に移りましたがここも八月二十八日には警察庁、外交部内政部、憲兵司令部、市政府などの主任級の人々がやつて来て「日本大使館は支那側で管理する」といつてあちこちに封印をして去りました、

私達は大使館裏の奥田書記生さんの官舎に隠れ、時々人目を避けて大使館の周囲を見廻りましたが、門前にはいつも警備の兵隊が立ち、一般市民を寄せつけませんでした

日高参事官の宿舎は黄紹雄主席の役所になつたらしい、兵隊達がいつも忙しげに出入りしてゐました、

日本の飛行機がその後たびたび上空に現れては落してゆくごとに市中は大騒ぎで白眼でみられる私達はその度に三重の不安に襲はれました、

かうして十二月となり、いよいよ日本が南京に接近すると、市中は避難区に殺到する市民と負傷兵でゴツた返し人々は生きた気もありません、

ただ私達は日本人に会へるかも知れぬと胸を躍らしながら鉄砲の音のするところを注意してゐるうちに十三日午後城内に進撃して来た勇ましい日本の兵隊さんにとつつかまりました、とつつかまつて嬉しかつたです、

わけを話すと兵隊さんはうなづきました、私はまつ先に大使館に案内しました、兵隊さんは喜んで日の丸の旗をとり出して大使館の旗竿高く掲げました、四ケ月目に日の丸の旗があがつたのです、

それまでビクビクものだつた私達もホツと助かつた思ひをいたしました、それから前に働いてゐたボーイ達を呼び集めると、みんな大喜びで集つて来て、この通り今大使館の大掃除です

(一面左下、四段見出し)



『守山義雄文集』より


南京占領直後

 〔南京にて12・14発〕

 南京完全占領に明けた十四日の光景はまた忘れ得ぬ印象であった。その夜、空には半月が照り映えて感傷を唆る。

 南京市街のところどころは赤い焚火が燃えてゐる、家々の窓には蝋燭の灯がチラチラとゆるぎ、ほっと重い荷を下したかたちの兵隊さんたちの朗らかな話声が聞えてくる。 たとひ蝋燭の灯でも家の窓にゆらぐことは空襲の恐怖にあった昨日までの南京では想像もできなかったことであらう。

 われわれ朝日新聞特派員一同が臨時支局を開設した中山路の中央医院の屋上では、同じくここを宿舎にした恒広部隊の兵隊さんたちが星空の下に声をかぎりに万歳を高唱してゐる。 白布で包んだ戦友の遺骨を前にならべ部隊長が感涙とともに入城の訓示を述べる。

 『いま、めざす南京にわれわれが入るのもみんな死んでいった戦友の尊い努力の賜物だ、ただけふの喜びを地下の英霊とともにできないのは残念に思ふ』

 と述べて支那酒の杯をあげ、兵隊さんたちと乾杯した。

 中山門一番乗りの誉れに輝く四方隊長が月影照らす窓により、即興の詩を高々と朗詠してこの詩人隊長の音頭の下にのどもさけよと軍歌を斉唱するのである。「ここはお国を何百里」―敵の首都に懐しい歌調が流れ、 大陸に上陸して以来はじめてお酒に酔った兵隊さんたちの黒い顔は仁王さん見たいにこはい。しかしこの恐ろしい歌がみな、いひしれぬ微笑みをたたへてゐる。 南京へ南京へと寝た間も忘れなかった敵の本陣へ到頭やって来たのだ。

 懐しい故郷へ南京からの第一報を書く兵隊さん、拾ったハーモニカを窓にもたれて吹く兵隊さん、支部の胡弓をむやみにこすってはしゃぐ兵隊さん、 まるで小学生の修学旅行のやうな無邪気なよろこびが南京の宿舎にみなぎってゐる。(P110-P111)

 しかしこの騒ぎも消燈時間が来るとバッタリ静まった、中山路をわが戦車が物凄い音をたてて走り廻ってゐるのが唯一の戦争の音だ。

 しかしわれらの宿舎の向ひにある政治区公園の一隅の焚火はいつまでも消えなかった。別に敵の空襲の心配はない、けれどもあの火は何だらうか、尋ねて見ると二人の兵士が戦死した戦友の遺骸を焼く火であった。 この戦死者は恒広部隊の小西信之助上等兵(京都府乙訓郡久我村)で南京城壁にいま一歩といふところで敵の地雷火をあび両足を吹きとばされながら万歳を絶叫しつつ戦死した英霊である。

 戦友の石田京一、中西宣次の両上等兵が銃剣の姿いかめしく語る言葉―

『入城の喜びを知らずに土に帰って行く戦友が可哀さうです、しみじみとこの火のなかの遺骸に話しかけたい気持ちです』

 遺骸はもう二、三時間も燃えつづけて鉄兜だけになってゐた。二人の戦友は遺骨を拾ひ、その傍らであすまた警備に立つであらう喜びの夜にこんな場面もあるのだ。(P111)

(掲載日不詳)


『守山義雄文集』より


日曜の南京市内

 〔南京にて12・19発〕

南京の街には早くも戦後の平和がかへって来た。皇軍が入城しててうど一週間目の十九日、支那人街をぶらぶら歩いて見る。南京に来て支那人街とはをかしいが、 日本の大軍隊が城内の隅々まで埋めて宿営してゐる。目下の南京市では日本人たちのうちにちょっぴり支那街があるやうなものである。

支那人が集ってゐるいはゆる貧民区は中山路と西康路で四面を囲まれた一部で城内の面積の十分の一もない。こゝに十八万人の支那市民が雲集してゐる。 しかしその大部分が逃げ遅れた貧民ばかりで知識階級は一人もゐないといってよい。

 文字の国の首府でありながらこの避難民のなかから字の書けるものを捜し出すことは困難だ。百人をればそのうちの一人がやっと文字を知ってゐる程度である。(P113)

はじめのうちはかれらも日本人を見るとこそこそと壁の蔭に隠れたものだが、このごろはすっかり日本の兵隊さんと仲よくなり兵隊さんが通りかゝると 『先生々々』とニコニコ顔で何か用事をいひつけてくれと寄って来るほどである。(P113-P114)

面子も何もあったものでない、敗残国の悲しい運命を大きく達観して笑ってゐるかれらの心理はむしろ理解し難いくらゐ不思議なものを持ってゐる。

 指導階級が逃げてしまった南京の街に「抗日」気配の片鱗だにうかゞへないのはかれらの抗日宣伝がどんな性質を持ってゐたかを物語ってゐるものではなからうか。 われわれの顔を見るとニッコリ笑ふ支那人を見ることは悲劇だ。

あらゆる環境に適応して行く支那人の生活力がこの戦争でもかれらにとっての非常時市場がすでに開かれてゐるのである。物価はべら棒に高い、燐寸一個が五銭、塩一握りが十銭、まさに戦前の十倍の高さだ。

 路傍に風呂敷を拡げて饅頭を売ってゐるぼろを纒った男がゐる。その横では土せうがを売ってゐる男、マッチや蝋燭を売ってゐる女、塩や茶を売ってゐる老人らがあり、 避難区の広場では支那人の散髪屋に見事に伸びた戦場髭を名残り惜しさうに剃らせてゐる兵隊さんもある。微笑ましい風景である。

住宅街では男の子や女の子が壊れた馬車に乗って歓声をあげて遊んでゐる。どこで見つけて来たのか、この貧しい子供らには持てさうもない玩具のタンクをアスファルトの上に走らせて戦争ごっこをしてゐるのもある。

教会からオルガンの音にのったのどかな讃美歌の声がもれて来る。アメリカ人のジョン・マギー牧師が戦火が去ってほっとした支那市民信者を集めて礼拝の最中で、 あゝけふは日曜だったかとこちらが教へられるほどの落つき振りだ。

軍の宣撫工作も着々と進み、この日は日本大使館裏の広場で兵隊さんたちが菓子や煙草を避難民にも配給してゐるのを見た。赤子を抱いたおかみさんにはミルクの鎖を与へるといふ親切振りである。 この状景があまりに賑やかすぎて奈良公園の鹿が煎餅をもらってゐる図を思ひ出させた。

その横では軍の施療班が開設され赤十字の旗が翻ってゐる。 足を怪我したり、風邪をひいたりした支那人の男女がわが日本軍をすっかり信用した面持で診察をうけ薬をもらひ喜んで帰って行く様は敵の首都とは思はれぬ皮肉な朗かさである。(P114)

かうして抗日、排日のお題目を忘れた支那人たちと日本の兵隊さんたちとの交際は日とともに親密さを加へて行く。(P114-P115)


(1937.12.21 東京朝日新聞二面掲載)


「東京日日新聞」1938.1.7夕刊

南京城内の怪火は敗残兵の仕業
我が軍、一犯人を逮捕

【南京本社特電】
(六日 光本特派員)

南京城内では皇軍入城警備後も元旦のソ連大使館の怪火をはじめ城内の空家から頻々として怪火を発するので佐々木警備隊で厳重警戒中、五日午後三時ごろ中山路中央飯店北方の一民家に放火せんとした一支那人を発見、 直ちに捕へた、

犯人は敗残兵でこれによつて今までの怪火は避難民にまぎれ込んだ支那敗残兵の所為であることが愈々確認され引続き敗残兵に対し捜査を進めてゐる



「東京朝日新聞」 1938.1.5付夕刊

税金、物価高解消 甦つた”暗黒街”  南京外人の座談会

【南京にて三日守山特派員】


首都落城の歴史的戦火のなかに危険ををかして南京にふみとどまつた欧米人はアメリカ人十四名、ドイツ人四名、オーストリア人二名、白系露人二名、計二十二名を数えてゐるが、 東亜をおほふこの大戦火が彼らの目にどううつつたか、異なつた印象のうちでも籠城外人たちが口をそろへて一様に唱へるのは南京の陥落が意外に早かつたこと、 支那兵が優秀な日本軍に対して意外に頑強な抵抗を試みたことであつた。

記者は南京入城後にこれら外人に会ふごとにその談話をひろひあつめた、南京陥落をめぐる移動国際座談会である―


ベーツ教授 (アメリカ人、南京金陵大学歴史教授、在支二十数年)

永年支那に住んで若い学生たちに歴史を講義してきた私だが、この肉眼で今度の如き歴史の大きな動きを目認することにならうとは思はなかつた、南京落城は蒋介石が夢みた近代支那にとつて致命的な打撃であらう 、近代支那をここまで建設してきた蒋介石はたしかに一個のナショナル・ヒーローであつた、しかし支那民衆の目に映つた蒋介石は必ずしも完全な為政者とはいへなかつたやうだ、

民衆は彼に対して二つの不安を抱いてゐた、その一つは蒋介石のやり方はあまりに独裁的な色彩が濃厚であつたこと、 その二は抗日政策を実際的に指導する首領として彼が果して適切な人物であるかどうかといふ不安であつた、

だがすでに南京をゆづり渡した今日、国民政府の命脈は永くはない、上海から南京まで、いはゆる中国の財政的心臓をゑぐりとられた国民政府が早晩経済的破綻を来すのは目に見えてゐる


ラーデ氏 (ドイツ人、シーメンス商会在支代表社員、在支三十年、南京避難民国際委員会委員長)

日本の攻撃はすばらしかつた、われわれは南京がこんなに早く落城しようとは思はなかつた、私はアフリカに五年支那にすでに三十年住み数々の戦争を見てきた、 しかしこんどのやうに激戦に終始してしかもわずか四ヶ月の間に大国の首都を陥落させたかがやける歴史をいまだ知らない、

私にとつては十三日のあさ堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、 日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた、

南京が完全に日本軍の手に帰してから四、五日目のある夜どこからともなく「南京はまだ陥落せず、市中には電燈がつき水道も断水してゐない」といつた内容のラヂオ放送がきこえてきたが、 それは恐らく国民政府側の笑止な放送であらう。


ボシバロフ君 (白系ロシヤ青年、二十五歳)

戦争は愉快だつた、面白かつたよ、僕はどつちが勝つてもいい第三者だがまづ日本軍をひいきにしたね、といふのは支那の憲兵司令部が僕を一週間とりこにして監獄にぶちこみやがつた、

理由は簡単なんだ、ただ一冊の日本書物が僕の書棚にころがつてゐただけで引つぱられたんだ なぜ日本の書物を大切にしまつてゐるかといつて毎日責めたてるんだ、 その間毎日食物としては支那饅頭一つしかくれないんだよ、ひどいぢゃないか、

引つぱられたのは僕だけぢゃない、僕の女友達が哈爾濱で知りあつた日本の青年の写真をもつてゐただけでも拘引された、 僕と同じ中山路の江蘇銀行ビルにある李民華といふ日本留学生の歯科医などはいい人だつたが漢奸の疑ひで殺されてしまつた、

九月までに南京で約二百人が日本のスパイの廉で殺されてゐる 無茶だよ、暗黒政治だよ、人心は戦々競々たるものがあつた、僕のボスのデンマーク人などびつくりして上海へ逃げて帰ったよ、

蒋介石なんて何の英雄なものか、戦争になつてからは臨時税の取立が大へんだつた、軒並みの小商人が月に三十円ぐらゐずつとられてこぼしてゐたよ、 飛行機を買ふといふ名目なのだが実はみな支那の大将どののポケツトに入るんだよ、彼らは戦争に勝つよりもポケツトをふくらますことが大切なので、

君、南京上空の空中戦はすごかつたよ、日本の飛行機があまりポンポン爆弾をおとすので初めは僕も防空壕へもぐりこんでみたが、あんな暗いせまいところで辛抱できるものではない、 しまひには飛行機がくると却て屋上へのぼつて見物したね、飛行機の爆弾なんか自分には中らんものと思へばいい


チール氏 (トルコ・タタール人、自動車技師)

我々にとつて生命を保護し職を与へてくれる土地が天国だ、そして物価は安いほどよい、日本の中支進出、大いに歓迎だね、

いま上海では砂糖一ポンド六シリングだとさ、戦争の始まる前は一ポンド二十シリングだつたから三分の一以下になつたわけだ、日本の砂糖が無海関でどんどん入つてくるのだから結構だよ、

早く南京もさうなつてもらひたいな、さうなれば生活費が安くなつて支那の民衆の生活も楽になるとおもふんだがどうだらうか



ジョン・ラーベ『南京の真実』より 十二月二十日

午後六時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、 どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」

(「南京の真実」文庫版P148)


『守山義雄文集』より

仕事熱心

墨田栄吉


 昭和十二年十二月南京陥落。私は少し遅れて上海から前線特派員の食料をトラックに積んで入城しました。

 当時は電灯もつかず水道も作用せず、夜は真っ暗で、朝になると新しい死体が、ちょいちょい見られる物騒な頃でした。 前線支局に沢山いた特派員連絡員など、ボツポツ、ロウソクをつけて夕食にかかろうとしたが、誰かが守山さんがいないといいだしましたので、皆が心配しだし、自動車で住宅方面を探そうじゃないかと決り、 懐中電灯とメガホンを各自が持って、朝日の守山さんと呼んで回りました。

 一向、返事がないので、どうしても分らんと皆んなが心配そうな顔をして帰って来ました。これは大変な事になった、どうしようかと、 さわいでいる時、真っ暗の中を右手に大きなピストルを突き出し、左手に懐中電灯をてらして、のっそり支局に入って来ましたので、皆がまたびっくり。

 一体、今頃までどうしていたのかと尋ねますと、本人は案外平気な顔をして、外人の宣教師のインタビューに行っていた。ピストルを持っていると、 案外こわくないものやなあといって、皆んなが心配したことなんか知らん顔で、外人の見た日本軍の話をしていました。仕事に熱心なあまり危険になる時間も忘れるとは守山さんらしい一面でした。

(朝日新聞客員)(P448)


「大阪朝日新聞」1938.1.9

「下着に夏物」の男
”待つたッ敗残兵
南京警備にかくれた苦心


兵隊さんの赤毛布座談会
南京にて 近藤特派員


清水上等兵 入城して直に市内掃蕩に着手したとき、よくまあこれだけの避難民たちがあの激烈極まる攻撃中、逃げもしないでじつと市内に固まつてゐたものだとつくづく驚いたり感心させられましたね、

入城した十三日などは敗残兵が出没するほかは良民らしいものゝ姿は一つとして見えなかつたのにもう翌日の十四日にはどこに潜んでゐたものかゾロゾロと群をなして現はれ気の利いた支那人のうちでは 早くも靴修繕や散髪屋をはじめ出したものまであつた、

それも千や二千といふ数ならいゝが七万も八万もといふ大勢なのでこの中から逃げ隠れた便衣の敗残兵を捜し出すのはなかなか骨のかかる仕事でしたよ

北支でも経験を積んだので、手に銃瘤のやうなものがある男、頭に帽子を被つてゐたらしい條の残つてゐるもの、それから下着に夏服を着てゐるやうな奴は大概敗残兵と見当はつくのですが、 なかには巧く化けてなかなか判別のつかないのがゐる。

われわれも良民を引張つては可哀さうだと思ひ避難民中から数名の巡警を連れてきて敗残兵か良民かの判別をさせることにしたが、これがまた実に頼りない

ちよつとこちらで臭いなと思ふ奴を巡警の方で「良民だ」といふので「出鱈目いふと承知せんぞ、敗残兵に違ひないと思ふが、どうだ?」と念を押すと 「はあ、この男は兵隊でした」と他愛なく答へる

(略)

記者 夜の歩哨はさぞかし辛いことでせうね、そんな時、たとへば暗闇から突然、敗残兵が現はれるとか、そのほか変つたスリルを経験された方はありませんか。

一同 ありませんね、それに相手が支那人である限り恐いなどといふことはちよつと考へられませんよ。

白須一等兵 ただ入城直後には血迷つた敗残兵がちよいちよい夜になるとウロウロするとは(ママ)ありましたが 「コラツ!」と一喝食はせれば十人、二十人といふ大勢ゐながら直に地べたへ坐りこんで命乞ひをする始末でした

このごろは夜になるとそれこそ猫の子一匹街を通ることもなく却つて手持無沙汰ですよ。ただ有難いことには寒さが思つたほど酷くないので徹宵の歩哨勤務も比較的に楽でどうにか頑張つてゐます

(五面、全面)



「支那事変実記第六輯」

米領事殴打事件に関する当局談

米国の在支権益侵害問題に関する抗議内容がワシントンにて発表された折も折、昨日南京に於てわが兵士の米領事殴打事件が起つたが、これに対して、軍当局は本日左の談話を発表した。


〔軍当局談〕去る廿六日南京駐在米国領事アリソン氏は、某捜査事件調査のためわが憲兵と同行、一支那人住宅に赴きたる処、同所には偶々我軍一小隊駐屯警備しあり、アリソン氏は同中隊長の制止するを聴くことなく、 無理に家屋内に進入せんとせるため、伍長のためアリソン氏及び同行の米人一名は殴打せられたり。負傷なし。

右に関しアリソン氏は、これを日本総領事館に抗議し来り、日本軍の陳謝を期待する旨述べたるを以て、大隊長は憲兵と共に事実の徹底的調査をなすとともに、 殴打事件のみに関し取敢ず参謀を派遣し陳謝の意を表したり。

これアリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に出でたるに起因するものにして、 軍の頗る遺憾とするところなり。軍は事件の性質上地方的問題として解決の方針なり。

(『南京の実相』P119)



「東京朝日新聞」1938.1.27

戦線から帰つて

−E−

この生活力 今井正剛


(略)

 南京には寂とした死の沈黙が、うつろにひろがつてゐるばかりだつた。すべての屋根、すべての壁は暗い泥色にぬりつぶされ、そして破壊されてゐた。

 崩れ落ちた中華門の前で、私はライカを首からぶらさげた外国人と立話してゐた。その数日間、日本の兵隊さんと、戦死した支那兵の顔ばかり見つづけて来た私にとつて、彼は久しぶりに会ふ世間の人だつた。シカゴデーリーニュースの特派員ステイール君だつた。

 「南京はもう空つぽなんだらうか?」

 二週間前に北京から陥落直前の南京にもぐり込んで来たといふステイール君に、私は先づそう訊ねた。

 大体において空つぽだね、残つてゐるのは戦争なんかどうでもいい連中ばかりだ。

 どれ位?

 三十万

 三十万 ― 私は立止つてステイール君の顔を見つめた。



 一刻の後、私とステイール君とは、鼓楼の裏通りを金陵女子大学の方へ向つて歩いてゐた。なるほど―

 すべての横町から、丁度、押へつけたスポンヂから水がにじみ出て来るやうに、支那人が、南京市民が現れて来るのだ。しかも、にこにこ笑つてる連中さへもあるのだ。

 私は、自分の着てゐるカーキ色の制服をかへり見て、少なからず狼狽した。十二月十四日、兵火はなほ街の方方に残り、私のまはりには「いざ」の場合を護つてくれるべき一兵もない―。

 だのに、出会ふ南京市民諸君は私の顔を見ると、一寸立止つてはにこりと笑つて、さつと右手を挙げる。日本の、軍隊式敬礼である。

 いつ覚えたか。この驚くべき訓練の見事さ。支那人のあざやかすぎるこの転身ぶり―。

 ステイール君は私をかへりみて、にやりとした。そして

 光輝ある日本軍のために!

 彼はかう云ひながら、ぴん、と直立して挙手の礼をして見せた。にこにこと。

 まはりに群つた支那人達が、彼にならつて、もう一ぺん手を挙げたのだ。さつ、と一斉に―。

(三面左、六段囲み記事)


「東京朝日新聞」1938.1.29夕刊

米・対日抗議
「南京・抗州の権益侵害」


【ワシントン特電二十七日発】

米国国務省は二十七日米国政府が去る十七日グルー駐日大使を通じ日本政府に南京、抗州その他各地に於ける日本軍の米国権益侵害に対し抗議を提出せる旨発表した、

右はパネー号事件に関し日本より提出された十二月二十四日附文書における誓約に反するといふのであるが、同日グルー大使より国務庁に達したる公報によれば 日本政府は米国政府の抗議に基き高級武官を南京に特派して調査せしめ適当なる処置をとるべく命令を発したる旨が併せて明かにされた、

尚米国の抗議と併行して英国政府も同様の行動をとつたものと解され、また発表が抗議の時から十日間も遅れた理由については何等の説明はなかつたが 日本軍の外国人権益侵害に関する公報が年初以来頻々と到着 国務庁では事態を憂慮してゐる



東京朝日新聞」 1938.2.14付

鍋炭の偽装も不要 今や咲出す南京美人  平和の光に描く点景


【南京にて守山特派員 十二日発】

(略)

この超非常時の支那避難民の間にも最近ぼつぼつ花が咲いてきたといふのはこれまで支那人の美しい娘達は顔に鍋炭を塗り不美人にカムフラージュして屋根裏に隠れてゐたものだ が平和の光りと共にやつとこの頃ぽつぽつ表に顔を出すやうになつた。

美しかるべき娘達が顔に鍋炭を塗らなければならなかつたはなしは哀れである、併しももうそんな必要はなくなつた南京に於る美人の数は南京平和のバロメーターだ


(十一面、四段見出し)


大阪朝日新聞 1938.2.27付

皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行
不逞支那人一味捕る


【同盟南京二十六日発】
皇軍の南京入城以来わが将兵が種々の暴行を行つてゐるとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わつてゐるので 在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところこのほど漸くその根源を突き止めることが出来た。

右は皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いてゐた憎むべき支那人一味であるが憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。

この不逞極まる支那人はかつて京城において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で皇軍入城後日本人を装ひわが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、 南京玉■村五〇号、上海路十四号、幹河路一〇六号の三ヶ所を根城に皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し強盗の被害は総額五万元、 暴行にいたつては無数で襲はれた無辜の支那人らはいづれも一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れたものであるが憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである。

一味は主魁呉堯邦のほか・・・の十名でいづれも皇軍の入城まで巡警を務めてゐた。(ゆう注.氏名は一部判読困難、また書き写すのが大変なので省略しました)


(2009.8.1)


HOME