◇勝者の蛮行
《タイムズ》 一九三七年十二月十八日、土曜日
特派員より 上海、十二月十七日
記者(注 パナィ号に乗船していた《ロンドン・タイムズ》記者コーリン・M・マクドナルド)が南京を通過する際にインタビューした外国人目撃者は、南京の略奪と陥落の模様を次のように語った。
十二月十日(金)、日本軍機による爆撃と機銃掃射が開始された。城壁の防衛のため市内を駆けまわる中国兵をめがけて投下されたもので、城壁の部分がとくに激しかった。爆撃は夜を徹して続き、砲弾の炸裂はたびたび全市を震撼させた。
日本軍は城壁の破壊を試みたものの、不成功に終わった。
爆撃は土曜日になると、さらに激しくなり、安全区内に投下された一〇発の爆弾で、三〇名の市民が命を落とした。安全区には市のいたるところから難民が避難し始めていた。この日、中国軍の略奪が始まった。
土曜日の夜は比較的静かに推移したが、日曜午後になると、砲撃は熾烈となった。中国軍の砲台や他の陣地が砲撃を受けたが、これは日本軍の繋留気球により指示されたものであった。しかし、安全区内に投下された爆弾は僅かであった。
パニック状態の中国軍
日曜日夕、中国軍崩壊の兆しが現れ始めた。つまり、一個師団がそっくり長江沿いの城門に殺到したのだ。ここをめがけて発砲が止まず、中国兵は立ち往生となった。
後に判明したのは、総退却命令が中国軍に出されたのは午前九時であった。(注 南京防衛軍司令長官唐生智が撤退命令を下命したのは午後五時頃)
下関に通ずる城門だけが、唯一退却可能なルートであり、退却の始まりは整然と通過できていたが、それも束の間であった。南門(中華門)の防衛が突破され、日本軍が北上してくるのが判明した。
日本軍接近の騒音が頂点に達したのは夕刻で、このとき市の最南部はすでに猛火に包まれていた。
中国軍は長江を渡河する手段が皆無に等しいと分かるなり、パニック状態となり、武器をかなぐり棄て、退却は大敗走と化した。多くが気でも狂わんばかりに城内に逆戻りして安全区に逃避する者もあった。(P503)
中国軍は退却の途上、交通部に放火した。ここは南京でいちばん立派な建物で、二五万ポンドの建築費を要したという。
またここには軍需物資が満載されていたため、轟音を伴う爆発を引き起こした。この轟音により退却中の中国部隊は大混乱となったが、さらに渡河用のボートが見当たらないと分かるや、長江岸の混乱にいっそうの追い打ちをかけることになった。
交通部は焼失したが、他の政府関係の重要な建物は破壊を免れた。大使館はいずれも被害を受けていない。
残酷な捜索
月曜日朝、日本軍は何ら抵抗を受けることなく、ゆっくり北上を続けた。しかし、組織的な掃討はすでに開始されていた。中国兵がかたまって市内を徘徊していたものの、事態は収拾したものと外国人は考えていた。
安全区に逃げ込む者には武器を棄てるよう伝えてあるので、放棄された軍服や武器が、燻り続ける交通部の前に堆く積み上げられた。
膨大な中国人の群衆と、一握りの外国人たちは、日本軍の到着により混乱は収まるものと期待していたが、侵入者による猛烈な掃討作戦が開始され、その期待は打ち砕かれた。
中国兵は恐怖にかられて逃げ回り、負傷者が救助を求めて地面を這う様は、いっそう戦慄を深めた。
月曜日夜、日本軍は中山門を開き、勝利の入城を行ったが、軍馬の不足から、牛、ロバ、ねこ車を使い、はては壊れた馬車まで調達していた。
その後、日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した。
火曜日、日本軍は中国兵と全く関係のない者を組織的に捜索し始めた。そして兵隊の嫌疑をかけられた人を難民キャンプから連行し、また路上を徘徊している中国兵を残らず捕らえた。
日本軍に進んで投降したであろうこのような兵士を、見せしめとして処刑したのである。
看護婦からの強奪
慈悲などというものは、微塵もない。中国人の期待は不安となり、さらには恐怖へと変わっていった。
日本兵は住宅を軒並み捜索し、目抜き通りに面する家からは、根こそぎ略奪を犯し、商店に押し入り、腕時計、柱時計、銀食器など持てるものは一切持ち出し、この略奪品の運搬を苦力に強制した。
さらに、大学病院に来ては、看護婦から腕時計、万年筆、懐中電灯を奪い、建物を隈なく荒らし、そして車についているアメリカ国旗を剥ぎ取って車を奪っていった。外国人の住宅にも侵入し、ドイツ人経営の店も略奪にあっている。
武装解除した中国兵に同情すれば、日本兵を怒らせるだけで、何の益にもならない。
兵士だったと思われる若者や多数の警官が一堂に集められて処刑されたのが、後に死体の山となって確認された。通りにも死骸が転がっており、そのなかには罪もない老人の死体があった。
しかし、婦人のそれは見当たらなかった。(P504-P505)
下関門には人馬の死骸が四フィートの厚さに積もり、その上を自動車や貨物が往来して門を通行している。
掃討作戦は水曜日一杯も続き、記者を含むパナイ号の生存者が南京市内を通過した時は、依然、恐怖を押し殺しているような状況であった。
安全区国際委員会が最も信用できた。爆撃中は少しも臆せず、己の安全は顧みずに、休戦の交渉には骨身を惜しまなかった。
中国の行政機関が崩壊してからは、南京の安定に寄与できるものは委員会だけであった。委員会の存在がなかったならば、破壊、処刑はいっそう大きなものとなっていたであろう。(P505)
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